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ifのかくしべや #01:わたしはだれ

さて。主に音楽についてお喋りしているわたし、ifだが。
このマガジンではいち「人間」として喋りたいと思っている。だから言い回しもひとりで部屋にいるときの喋り方だ。

タイトルからわかるように、わたしはもう19歳なのに、今だに自分が「何」かわからない。わからないのが当然といえども、もう少し何かわかってもいいものだと思う。

物心ついたときから自分より他人に興味があった。自分の外を眺めるのが好きだったわたしは、ほかの子供には敬遠されるか怖がられることが多かった。結果として嫌なこと、良くないことも様々に経験した。

まあ怖がられることは減ったが「○○は変わってるよねえ」と言われることは今も多い。教室では教卓からみた自分、天井からみた自分、後ろの席からみた自分などを想像して遊んでいたし、なぜか人と仲良くなるのが得意だった(聞けばこれは普通じゃないと即座に言われてしまった、驚いた)。放っておいても人が近づいてくるのだ。きっとありがたいことなのだろうが、不思議なことだった。わたしの中には「わたし」より「みんな」のほうがたくさんある。そういう意味でわたしには「じぶん」がない、というか自分に対する比重がないのだ。

この感覚はなかなかわかってもらいにくい。
中高で軽音、イラスト、美術、文芸と創作の部活を粗方経験し、「個性が強いね」「変人」と言われたことを見ればよくわかる。みんな「わかりやすい個性」みたいなものが創作のフィールドにある、と思っている節があるのだ。たしかに表現欲はある。でもそれは別問題だ。「個性的」と言われても言われても、わたしはやっぱり自分が何かわからなかった。音楽も絵も文章も作れるけれど(クォリティはさておき)、ひとつのものに突出している子たちのほうがよっぽど素敵に思えて。対する自分はずっと無個性のように感じられた。全方位に棘が出ていても、それは遠くから見たらただの円だから。

こうやって夜になるたびにわたしは自分の皮膚と中身の肉の間について考えを巡らせてきた。たぶんそれがわたしの本質だと思っているからだ。

わたしは早く「自分」がほしい。この何かわからない得体のしれない状態がこわくて、抜け出したい。でもきっとわかってしまったらもっとこわくなるんじゃないか。そう考えてまたこわくなる。一生考え続けるのも疲れそうだけれど、これを何かの糧にできたらいいな、と薄っすら思っている。

一週間ぶりの投稿でした。

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