見出し画像

東海道NOW&THEN 29 「見付」

袋井から見付まで1里半。約5.9km。

 袋井の京口を出て木原の一里塚。江戸から61番目。その先、武田信玄と徳川家康の三方ヶ原の戦いの前哨戦があった古戦場を通る。そこから見付宿の東木戸までは約30分。

 広重は天竜川の渡しを描いている。絵を見ればわかるが、天竜川の渡しは舟で行く。ここまでの安倍川や大井川の渡しは人足の肩車や蓮台によるものだったが、ここは舟だ。天竜川は「暴れ天竜」といわれるほど氾濫が多かったそうで、そのため人ではなく舟での渡しとなる。天竜には中州があり、それを挟んで大天竜・小天竜のふたつの流れがあった。広重は、その中州を真ん中にして、手前と向こうのふたつの流れを描いている。
 写真は、中洲の気分が残る場所を探して土手道を歩いたのだが、大井川同様、河川敷は公園や駐車場などに利用されておりこれという絵にはならなかった。広重の絵の中洲の雰囲気がいくらかは出てると思うが、どうかな?

 木原の一里塚のすぐそばに「木原畷古戦場碑」がある。武田信玄が京を目指して進軍。遠州の徳川軍を蹴散らした「三方ヶ原の戦い」の前哨戦がここで行われたという。そこから15分ほど行くと「三ケ野の古道」。鎌倉・江戸・明治などそれぞれの時代の古道が丘の上まで分かれて続いている。上がった先に「大日堂」の祠。ここには徳川の家臣・本多平八郎が武田軍の様子を物見した「本多平八郎物見の松」があったそうだが、今はない。写真の石碑は、小さい方が「明治の古道」碑。その隣は「三箇野車井戸之跡」。この辺りは台地の上だったため、井戸を深く掘ることが難しく、この車井戸(釣瓶井戸)が集落にとって貴重だったと聞く。

 見付の手前に「行人坂」がある。行人坂といえば、東京目黒のを思い出すが、ここは井原西鶴が名付けた。山伏たちが多く住みつき、行に励み社会奉仕をしていた。ここを通りかかり、それを知った西鶴が「行人坂」と名付け、その著書『一目玉鉾』に書き残しているそうだ。
 行人坂を上りきると見付宿はすぐ。宿場内には「旧見付学校」がある。明治8年に建てられた、現存する日本最古の木造小学校校舎だ。見付宿は東から西まで500mほど。
 東海道は西木戸からJR磐田駅へ南に向かい、駅前を右折して西へ。しばらく行くと「くろんぼう様」の立て看板。「黒坊大権現」の祠がある。インド人の旅の僧が賊に襲われ、身ぐるみはがされ命を落とす。それを土地の人々が手厚く葬ったと言われる。今では、咳や熱病の神として親しまれ、毎年11月3日が縁日となっている。

 くろんぼう様から天竜川の渡しまでは約3km。そこから浜松宿の江戸口にあたる、外木戸東門跡まで約7km。道は平たん。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?