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東海道NOW&THEN 27 「掛川」

日坂から掛川まで1里29町。約7.1㎞。

 日坂の西のはずれ、事任八幡宮を出て進み国道1号線を横切ると伊達方の一里塚。さらに進み、葛川の一里塚を過ぎると掛川宿の江戸口、「七曲り」だ。八幡宮から約1時間半。

 広重が描いたのは掛川宿の京口を出た先にある大池橋。右上に見えるのは、火伏の神として信仰の篤い秋葉権現(現在は秋葉神社)のある秋葉山。橋の手前にあるのは、秋葉山の常夜灯と思われる。広重が絵の枠を突き破るほど高くあがった凧を描いているのは、戦国時代に武田と徳川の高天神の戦いの際、凧が通信手段として使われて以来、遠州では凧あげが盛んなのだそうだ。掛川では、現在も凧あげ祭りを行っていると聞く。
 写真は現在の大池橋。右上、森の枝葉に隠れているが、その上に絵に描かれたのとよく似た秋葉山の頂きがちらりと見える。残念ながら、常夜灯はない。もちろん、凧もない。

 桝形をご存じだろうか。城の門をくぐると、その多くは必ず左右のどちらかにほぼ直角に曲がっている。敵を迎え討つために、その侵攻の勢いをそぐ工夫だ。城下町の宿場にある桝形は、城の門と同じ役割を持っている。掛川の江戸口は「七曲り」と呼ばれ、この桝形が右に左にといくつも連続している。だがこの「七曲り」、江戸口のみで京口にはない。東からの侵攻にのみ備えていた。豊臣秀吉から掛川を与えられた山内一豊は、城下を整備するとき、関東に転封させられた徳川家康を意識していたということらしい。秀吉の死後、関ヶ原の戦いに関東勢の中でいち早く徳川方についたのが、その山内一豊だったことはいかにも戦国時代。

「七曲り」を通り抜け、掛川城を右に見るあたりに本陣跡。そこは現在「本陣通り」と称して、居酒屋が並ぶ横丁だ。さらに行くと、街道沿いに掛川城主だった山内一豊と内助の功で知られるその妻・千代のほぼ等身大に近いレリーフがある。
 宿場の京口を出て少し行くと、電柱の町名表示が「十九首町」とある。変わった名前だと思って進むと「十九首塚」の案内表示。好奇心に引きずられて脇道に入る。そこには五輪塔を中心に、18の石碑がそれを囲むように並んでいる。五輪塔は平将門の首塚。それを囲んでいるのは、家臣18名の首塚。謀反人として、藤原秀郷に討たれた将門たちの首実検がここで行われ、秀郷はこの地に彼らを埋めた。初めはバラバラに埋められたらしいが、後に家臣たちの塚は将門の塚を取り囲むように移され、さらに近代になって家臣たちの塚は新しくされた。それ故に、この地を十九首と呼び、十九首町が町名になったという。
 その首実検のとき、川に架かる橋に19の首が掛けられたことが「掛川」地名発祥の起源とする説もあるらしい。

 十九首塚から大池橋を渡り、原川の松並木を経て次の宿場・袋井の東木戸までは約8km。

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