東海道NOW&THEN 26 「日坂」
金谷から日坂まで1里24町。約6.5km。
間の宿・菊川の西のはずれ「⇦小夜の中山」の案内表示から5分ほどで、道は急な上りになる。峠の頂上にある久延寺まで、息を切らせながら約30分。東海道屈指の難所の一つ、「小夜の中山」だ。
広重の絵は、切り立った崖のような急坂を描いているが、これは相当に誇張した描写。うそだぁと言ってもいいくらいの誇張。こんな坂だったら、旅人は這って上らねばならない。下には道の真ん中に大きな石。「夜泣石」だ。石が置かれていることから、この坂は峠の西側・日坂宿からの上りと思われる。
写真は峠の日坂側「ニの曲がり」と呼ばれる場所。峠から日坂へ下りていく途中、最も急で曲がりくねった道。広重がかなり誇張して描いたせいか、絵のようなイメージで撮影することは難しかった。
菊川を出るとすぐに、ほぼ真っすぐの急な上り道。小夜の中山でいちばん急だと言われる「青木坂」だ。頂上の少し手前に『十六夜日記』を書いた阿仏尼の歌碑。小夜の中山が歌枕として名高いため、この後、峠を下りるまで多くの歌碑・句碑が並ぶ。頂上には「小夜の中山公園」があり、その前には西行の歌碑。
峠の頂上には久延寺。小夜の中山には、広重の絵に描かれた「夜泣石」の言い伝えがある。それは、久延寺に安産祈願に来た妊婦が、その帰途、盗賊に襲われ命を落とす。斬られた傷口から赤ん坊が生まれ、母親はその子を助けるためにかたわらにあった石にのり移り、毎夜泣いた。それを聞いた久延寺の住職が赤ん坊を助け、水飴で育てた。その子は成長してのち、偶然、母を殺した盗賊に出会い見事に仇を討ったという。「夜泣石」にまつわる言い伝え。
寺のすぐ脇に茶屋「扇屋」。水飴で作られた「子成長(こそだて)飴」を売っている。そこのおばさんと立ち話。広重が描いたのはこの先の「二の曲がり」だよとおばさんが指さしたのは、これから向かう方向。青木坂より急な坂道がこの先にあるのか…とショック。おばさんは私の気持ちを見透かしたように、この先はもう下りだけだから大丈夫と励ましてくれた。
歌碑・句碑を見ながら先へ進む。左右の両側斜面は遠くまで茶畑が広がる。やがて下りの坂道。芭蕉がその木陰で一休みした松の木があり「涼み松」と呼ばれている。そして「夜泣石跡」。夜泣石があった場所。茶屋のおばさんに聞いた「二の曲がり」はその先。くねくねと曲がり始めたとたんに道は狭く急坂になった。写真の坂だ。
坂を下り切ると、日坂の宿場。西のはずれにある相伝寺には数10体の古い馬頭観音群。明治初めの廃仏毀釈で捨てられた石仏を集めて供養したものらしい。
日坂宿の京口を出てしばらく行くと交通量の多い県道にぶつかる。そこにあるのが800年代に創建されたという「事任八幡宮」。「ことのまま」と読む。願い事ならなんでもそのまま叶うことから、この名で呼ばれるようになったとか。清少納言の『枕草子』にも、「ことのまま明神 いとたのもし」と書かれているそうで、平安の昔から人々に名が知られていたことがわかる。
事任八幡宮からは県道に沿って歩く。次の掛川宿までは約6km。1時間半。
追記:「小夜の中山」 写真をもう少し
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