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雑記:9_モノとしてのコロナー公衆衛生ファシズムについてー(1)

前回「共生」について考えた。今回は、その中で触れた内容をもう少し深めて考えてみたい。

withコロナという言葉について考える際に私は、ウィルスをモノとして捉えようとしている。モノとして捉えるとはどういうことか。ウィルスは生物かどうか非常に曖昧な存在であるからである。したがって仮に無生物とした場合、それはモノだからである

私の中でとてもしっくりきている例え話を紹介してみたい。例えば、イスについて。めちゃくちゃに汚れていて、釘が所々から飛び出していたり、どうみても足が腐っているイスを見かけた際、あなたならどうするだろうか。進んで座りたいと思う人はいないと思う。あまりにも当然のことである。汚れたくないし、怪我もしたくないからである。これと同じことを、ウィルスにも当てはめて考えるのが良いと思う。

もちろん、イスのようにウィルスは目に見えない。しかし、だからと言ってウィルスを特別扱いする必要はない。そこにあると考えて提示されている対策をただ練ればいいだけのことである。手洗い、うがい、マスク、密を避ける、など。これらは汚いイスを避けるのと同じことである、

モノかそうではないか、という問いがなぜ生まれたか。その背景には、ウィルスに人称を与えるような態度に疑問を覚えたからである。例えば、「共生」や「敵対」のような態度は知らないうちに私たちの身近な存在として対象物を捉えてしまっている。ここでいう身近とは社会化された存在として認識するということである。どういうことだろうか。

再びイスの例に戻ると、私たちはイスと共生しているとか敵対しているとか普段考えることがあるだろうか。そんなことはないだろう。なぜだろうか。それは社会化されていないからである。では、社会化とはどういう状態を指すだろうか。仮に社会化の条件をあげるとすれば、コミュニケーションが可能かどうか、やコミュニティ形成に参加しているか、などがあげられるかもしれない。イスはいずれの条件にも当てはまらない。したがって、ウィルスも同じである。

しかし、イスはとても身近な存在ではある。日常生活を送る中でイスを見かけたことのない人はいないだろう。ここで感じる身近さとはどういうものだろうか。それこそが、withの考えと密接に結びつく。つまり、社会の一部として深く関わっているということである。日常生活と共にあるものがイスである。しかし、イスは社会化されてはいない。

一度考えをまとめてみよう。身近さを感じる要因にはそれが「社会化されている」か「社会の一部としてある」かいう捉え方があることを提示した。この二つを提示することにどのような意味があるのか。

そこで次に考えたいのは、ウィルスによる「差別」と「分断」の考えである。差別は社会的なものである。コミュニケーションやコミュニティ形成の中で発生してしまうからである。逆に、コミュニケーションやコミュニティが成立しないような場面では差別は生じ得ないはずである。

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