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雑記:10_モノとしてのコロナー公衆衛生ファシズムについてー(2)

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精神科医の松本先生は、歴史学者のウィリアム・マクニールの言葉を借りてインドのカースト制度について次のように述べている。

 「ヒンドゥー教のカースト制は、もともとは感染症の拡大を回避するための方策だったのではないか」

 「実際、カースト制度には、階級を超えて身体的接触を持つことに対するタブーや、そのタブーをうっかり犯してしまった場合の身体の清め方に関して、実に念入りな規定があるそうです」

とても興味深い指摘だと思う。というのも、カースト制度はウィルスを社会化したことによって生まれたと言えるからである。繰り返しになるが、ウィルスはモノであり社会化されるべきではない。あくまでも汚れたイスのように社会の一部である。

私はウィルスが差別を助長する役割を果たすべきではないと考える。今度は実際に私の身の回りでおきた出来事を紹介したい。地方から上京していた後輩の話である。

彼は、私と一緒にとあるスクールで勉強していた。3月末頃だったと思う。その頃のコロナ報道は今よりも過剰で危機を煽るようなものが多かった。彼は、そういった状況もあり地元の家族のもとへ帰っていった。その後、彼の様子を伺った時驚いた。東京にいたという理由だけで、実家の離れに半ば幽閉されているというのである。朝昼晩の食事が部屋の前に置かれ、家の外にはほとんど出してもらえない状況だったらしい。もちろん、彼は家族と話し合った結果同意の上で自ら引きこもったのしれない。しかし、そうでないとしたらどうだろうか。明確な分断と差別的な意識がみて取れる。さらに、私はこういう状況は差別的であり危機感を持たねばらならないとtwitterで発言した。すると、別の後輩が次のようなコメントを返してきた。

「もしコロナだったらどうするのか(感染していないという確証はあるのか)」

この発言にも危機感を抱いた。つまり、確証が得られなければ隔離は仕方がないということである。しかし、このような考えに至る前に、本当に不安であるのならば所定の医療機関に連れて行き、ウィルスを保持しているかどうかを検査してもらうことが重要ではないだろうか。科学的な対処の前に、「東京からきたから」という理由だけで幽閉されていたとしたらこれは明確な差別である。感染しているかもしれないからというのは理由にはならない。観光地における「中国人お断り」やヨーロッパ人によるアジア人差別も同じような構造で起きている。

繰り返しになるが、あくまでもウィルスはモノでしかない。そして単なる社会の一部でしかない。もし汚れたイスに座ったらちゃんと洗えばいいだけのことだし、釘で怪我をしてしまえばそれは適切な方法で治せばいいだけのことである。そして、もう座らないように注意して生活すればいいだけなのだ。間違っても、イスに座ったからということだけであたかもその人間自身が汚れているかのような発想に陥るのは避けなければならない。私たちは、決して汚れたイスやウィルスとコミュニケーションを取っているのではないということを強く意識しなければならないのである。

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