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雑記:2

はんこ文化について最近考えている。

文化というほど、なぜ浸透しているのだろうか。浸透、の前に文化はなぜ文化たりうるのだろうか。そこには反復が関係していると思う。簡単な話で、なんらかの動作なり主義主張が反復されなければ浸透もしないし、それは文化になり得ないということである。

はんこを押す動作は反復である。ペタペタと押す作業はなんともリズミカルでともすれば快感になるかもしれない。しかし、必ずしも快感ばかりがあるわけではない。業務上仕方なくやる場合もあれば、なんども訂正しなければいけないような場面ではんこをペタペタすることもある。

私は、文化とは一種の強迫性に支えられているように感じる。なんども手を洗わないと気が済まないような人たちは強迫的な状況にあり、日常生活が脅かされるレベルになればそれは病となってしまう。そういう意味で、文化には病的な側面がある。

ある中国人の記者が日本のはんこ文化についてこのような記事を書いている。

そもそも、はんこが好きなのである、と。確かに、御朱印帳にはじまりアニメキャラに因んだスタンプラリーの流行など、大人から子供まではんこを押し、収集することは確かに好きなのかもしれない。

全ての日本人に言えることだとは到底思えないが、しかしどこか強迫的な性質が我々にあるのではないかと疑わずにはいられない。この性質がはんこ文化を醸成していったきっかけではないだろうか。

性質といえば、日本人には主体性がないとよく言われてきた。欧米の個人主義に比べたらいくらかそうかもしれない。そういう主体性のなさを象徴するアイテムとしてはんこがあるような気もする。例えば、仕事の場面においてはんこを押す場面は主体的だろうか。仕方なくやっているのではないだろうか。少なくとも私はそうだった。主体性は当人の意思と切り離せない。意思がないところに主体は現れないと思う。

こうした主体性のなさを象徴するものがはんこではないだろうか。はんこはコピーを量産するものである。何度押しても同じ名字がプリントされる。そして、誰が押しても同じである。ここに主体性の乏しさを感じるのである。なぜ、自筆の署名ではダメなのだろうか。自筆の方がその人の主体性を読み取ることができそうである。ああ、この人がやった仕事なんだな、と一眼でわかる。しかし、そうはせずにはんこをひたすら押してきた。不思議である。

私は、はんことは虚像であると思う。嘘とか偽りとかいうつもりはないが、何か実体のないものであると思う。この実体のないものを利用して社会を成り立たせてきたという事実がとても不思議なのだ。したがってはんこ文化とは日本人の強迫的で主体性のない特徴を存分に反映した文化なのだと考えている。

強迫的で主体性がない、といえばマスク文化もそうかもしれない。何か科学的な効能について考える前にとにかくマスクをつける。もちろん、風邪やインフルエンザの時期が過ぎればすぐに花粉シーズンが到来するため、マスクを手放さずにはいられないというのはよくわかる。しかし、今回のコロナ騒ぎでのマスクはやはり強迫的である。していないとなんだか落ち着かないし、とにかくしていれば”わかっている”人として市民の仲間入りをさせてもらえる。だから、とにかくつける。そして、なんども洗う。それが結果としてウィルスの拡大を防止しているのかもしれない。そして、だんだんとそれが浸透し始めるのではないかと思う。そして気づけば文化になってしまうかもしれない。だから実際にお洒落なマスク、フェイスシールドがで始めているではないか。

はんこ文化とマスク文化(!)の成立過程には相違があるだろうが、私はそれぞれに根深い関係性があるような気がしてならない

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