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雑記

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雑記。ZAKKI。ザッキ。
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2020年6月の記事一覧

雑記:17_展覧会カタログ完成

今年の1月に終了した展覧会「Artの地産地消」のカタログがようやく完成しました。 展覧会企画、ファシリテーション、カタログ作成、レイアウト、執筆、校正、印刷所手配など幅広く関わりました。 もしご興味あれば、どうぞ。ご意見ご感想などもよろしくお願いします。 無断転載はお控えくださいませ(しないと思うけど)

雑記:16_本の終わり

本の終わり、とかくと紙媒体か電子書籍かという話になりがちだけれども、最近考えたことは少し違う。本を読んでいる時、本はどのようにして終わるのかということである。 どういうことか。例えば、どんな本でもどういう風に読み始めたかは多分覚えているはずである。表紙、見返し、扉、目次、本文、といったように本に触れ始めると思う。では、本が手から離れていく時はどうだろうか。あとがきを読んで、終わりだろうか。 何をいいたいのかというと、本が終わる瞬間というのは奥付に目をやった時ではないだろう

雑記:15

なんとなく始めた詩の投稿。どれも全てに思い入れがあるし、その一方でどれも全てなんだこんなものと思ったりもしている。30本以上詩を投稿してきて、よく閲覧されているものとそうでないものがあらわれるようになってきた。 よく閲覧といいつつも、それは大した数字じゃなくて、閲覧されていないものに比べればまあよくみられているなという程度のもの。 そこで、一番読まれているものと、一番読まれていないものを紹介してみる。 2020、6、25現在で一番読まれているもの この詩は会社員時代(

雑記:14_future funk

最近future funkというジャンルの音楽にハマっている。その中でも特にオススメのものを紹介。既存の曲をリミックスしたものが多いためか、sound cloudで発表されているものが多い気がする。 どういうジャンルなのか詳しいことは知らない。だけれども、驚くのは日本の歌謡曲やポップスをディスコ風にアレンジしたり、ファンク風にアレンジしたりしているアーティストに外国人が多いということ。 もちろん中には日本人のアーティストもいるが、外国人たちとユニットを結成していることもあ

雑記:13_当事者とは誰なのか

以前から注目していた問題。 2014年頃に初めてオープンダイアローグに出会ってから様々な関係領域についての知識が増えた。その中でも興味を持ったのが当事者研究というものである。あくまでも、言葉を知っている程度のことで専門知を持っているわけではない。 今回、それが悪用されているという記事に出会った。まさに、私自身は当該事件の当事者ではないため、なんとも言えないが、このなんとも言えないモヤモヤ感や不快感の当事者ではある。そこで、考えたのは当事者とは誰なのかということである。

雑記:12_幸せについて

幸せについて。幸せとは一体なんだろうか。最近考えることが多い。それは、欲しいものが身の回りにある状況だろうか、あるいは何事も快適な状況だろうか。これらの問いから幸せについて類推すると、つまり幸せとはモノではなく、状態である。幸せを追い求めるということは、そういう状態に身を置くということである。では、幸せというラベリングがされた状態がどこかにあるのだろうか。まるで天国のような。 それも疑わしい。どんな人々も幸せになれる状態がとてもあるとは思えない。例えば、動物好きの人がいたと

雑記:11_マスクと文化について

以前コロナ・ピューリタニズムに関する記事を紹介した際に、次のような言葉でしめた。  「手洗い、うがい、入浴の習慣、土足禁止、おしぼりの文化などはもしかしたら、先祖たちが獲得した倫理観として半ば無意識的に我々は受け入れているのかもしれません」 コロナ・ピューリタニズムとは、自分自身が感染しているつもりで、相手と触れ合いなさい、という倫理観のことだった。この倫理観が未来に継承されてしまうことを斎藤先生は危惧していた。それに対して私は、この倫理観は時代とともにアップデートされる

雑記:10_モノとしてのコロナー公衆衛生ファシズムについてー(2)

前回の記事はこちら 精神科医の松本先生は、歴史学者のウィリアム・マクニールの言葉を借りてインドのカースト制度について次のように述べている。  「ヒンドゥー教のカースト制は、もともとは感染症の拡大を回避するための方策だったのではないか」  「実際、カースト制度には、階級を超えて身体的接触を持つことに対するタブーや、そのタブーをうっかり犯してしまった場合の身体の清め方に関して、実に念入りな規定があるそうです」 とても興味深い指摘だと思う。というのも、カースト制度はウィルス

雑記:9_モノとしてのコロナー公衆衛生ファシズムについてー(1)

前回「共生」について考えた。今回は、その中で触れた内容をもう少し深めて考えてみたい。 withコロナという言葉について考える際に私は、ウィルスをモノとして捉えようとしている。モノとして捉えるとはどういうことか。ウィルスは生物かどうか非常に曖昧な存在であるからである。したがって仮に無生物とした場合、それはモノだからである。 私の中でとてもしっくりきている例え話を紹介してみたい。例えば、イスについて。めちゃくちゃに汚れていて、釘が所々から飛び出していたり、どうみても足が腐って

雑記:8_共生(symbiosis)について

withコロナという言葉が生まれたため、4月に考えたことを再度検討してみたい。共生について。 最近、「共に」という概念について深く考えることが多い。先日、哲学者がコロナとの「共生(symbiosis)」についてコメントをしていた。 当初私は、納得したもののしばらく考えてみると違和感を感じるようになった。その違和感は、なぜウイルスに人称を与えてしまうのか、ということである。とりわけ、「あなた」に近い二人称を与えていることが不思議である。 敵とか共生という言葉には私とあなた

雑記:7_テレプレゼンス技術について

テレプレゼンス技術について。最近興味深い論文を読んだ。 「テレプレゼンス技術は人間関係を貧困にするか」というテーマの論文である。呉羽真さんによる論文である。テレプレゼンスとは、ミンスキーによる造語で、距離があるにもかかわらずまるでそこにいるような感覚を起こさせる状態を指すようである。zoomやwherebyなどのようなコミュニケーションツールがピンとくるだろう。 この論文では、身体的接触を欠いたコミュニケーションは人間関係を貧困するのではないかという批判に対抗するものであ

雑記:6

縦軸と横軸について。 昨日、市議会議員のおじいさんと話をしていた。彼は、どうやら市政に不満があるらしかった。コロナ騒ぎの中、地元ならではの対策を講じるべきではないかということだった。 国から都、都から市のように様々な要請が降ってきて、それをただ実行しているだけでは不十分である。都全体では、必要とされるような施策かもしれないが、地元では必要ないこともある。そういう画一的な施策に補助金が使われるのはいかがなものだろうか。市民の代表として、市長や市議会議員たちは地元ならではの施

雑記:5

SMプレイについて。 学生の時にとても面白い話を聞いた。心理学の授業だった。究極のSMプレイとは一体なんだと思うか?という問いだった。はっきり言ってよくわからなかった。 先生は次のようなことを言っていた。 「Sの人はMをいじめたい。MはSの人からいじめられたい。Mの人は暴力的な何かを求めている。そして、Sの人はその望みを叶えている。こういう関係性があるはずだけれども、これは本当にSMプレイと言えるのだろうか。つまり、Sは望みを叶えてしまっている。これはMからすれば思惑通

雑記:4_コロナピューリタリズム、そして失われた環状島について

前回、私がとても好きな精神科医斎藤環先生の文章を紹介しつつ、雑感を述べました。 失われた「環状島」|斎藤環(精神科医)|note 奇妙な健忘   歴史上もっとも奇妙な健忘状態、その一つとして「スペイン風邪」を挙げたとしても異論は少ないだろう。鳥インフルエンザに起因するこのA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)は、全世界でパンデミックを引き起こし、最も多い推定で1億人が死んだとされている。 「環状島」とは何か、については是非先生の文章を読んでいただければと思います。