見出し画像

雑記:13_当事者とは誰なのか

以前から注目していた問題。

2014年頃に初めてオープンダイアローグに出会ってから様々な関係領域についての知識が増えた。その中でも興味を持ったのが当事者研究というものである。あくまでも、言葉を知っている程度のことで専門知を持っているわけではない。

今回、それが悪用されているという記事に出会った。まさに、私自身は当該事件の当事者ではないため、なんとも言えないが、このなんとも言えないモヤモヤ感や不快感の当事者ではある。そこで、考えたのは当事者とは誰なのかということである。

問題を抱えている人こそが当事者であるわけで、この記事を書いている人がそうである。しかし、何故当事者として正しく扱われないのだろうか。

当事者研究においてとても重要な考えに「当事者ではなく社会が変わるべきだ」というものがある。その通りだと思う一方で、逆に社会とはどこにあるのかと考えてしまう。そもそも、社会とはなんなのだろうか。辞書的な意味でいえば集まって生活を営む集団を指す。つまり、人が集まってしまえばそれは社会になってしまうのである。

では、当事者たちによって形成された社会はどうだろうか。問題は当事者ではなく、社会にあるという考えに依拠すればどこか矛盾を感じざるを得ない。私のモヤモヤの正体はここにある気がする。なんらかの共通言語によって形成された多数派の当事者(≒社会)の中に、共通言語を持たない少数派当事者が発生した場合、どうしたら良いのだろうか

あるいは、当事者はどこで誕生するのだろうか。私は、当事者であると他者が名付けることによって初めて生まれると考える。逆に、他者が当事者であると認めなければそこに当事者はいないことになってしまう。ある人が当事者であるかどうかの判断が取れなくなってしまった場合、それは判断のつかなくなった当事者がそこにいるということになる。今度は、その当事者に対して誰かが当事者であると認めなければならないのである。その適役がいない場合、本当はいるはずの当事者が秘匿されることになる。それが、共通言語を持たない少数派当事者ということになるのではないか。

この件をきっかけに出来たのかはわからないが、当事者研究ネットワークでは第三者機関による適切な組織修復に関する指導を受けるようである。判断のつかなくなった当事者が多数派の一部になっているとした場合、このような判断に至るのは当然のことだと思う。今後どのような経緯を経るか引き続き注視したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?