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義務に対する自由な感覚

少し前から、腕時計が不調です。どんなに時間を合わせても、気づいたら5分ほどズレてしまいます。

また、あの夏の超大作・ボロ折り畳み自転車も、とうとうチェーンが外れて乗れなくなってしまいました。

毎日使っているアイテムが、同時にこうなるなんて・・・!なんだか、見直しを促されているような気がしてなりません。

今日は、そんな心当たりを探ってみるnoteです。

修理をすれば、また使えるようになるのに。それをしないのはどうしてでしょう?

自転車に関しては、「修理に出す」よりも「時間をかけて歩く」ことを選びました。朝の澄んだ空気は気持ちいいですし、歩くと、インスピレーションがたくさん湧いてきます。もちろん、わずらわしいときもありますが、結果的には心地よい負荷です。

「noteでほぼ毎日更新を目指す」も、わたしにとっては心地よい負荷。

時計に関しては、少し前に「時間崇拝」という考え方を知ったのが影響しているかもしれません。すごく納得したわけでもないのですが、これを期に腕時計を卒業してみたくなりました。

不便を楽しむというのが、基本姿勢だったりもする!

注目したいのは、「5分ズレる」という意味深な壊れ方です。

心当たりとして感じるのは、日々の勤めに向かうときの姿勢。

わたしは、時間通りに行動するのがとても苦手です。もっというと、外側の基準に合わせて行動することはだいたい苦手。

いつも心の中に「あ〜行かなきゃ〜」「やらなきゃ〜」という声が鳴り響いています。

それって、なんて不自由なのでしょう。

でも、苦手苦手と言っておきながら、この仕事をすると選んだのは他ならぬわたし自身です。

「あ〜行かなきゃな」「やらなきゃ」と思ってするのか、「よし、行くぞ!」「やるぞ!」と思ってするのか。

同じ”する”でも、全然違ったものになってしまいます。

こういうとき、何度も心に蘇ってくるのが、次ことばです。

”わたしがわたしを司る”

シュタイナー教育の教員養成講座で、オイリュトミーの先生が授けてくださったことば(姿勢)です。

物事へ向かうときの姿勢はどうか。

たとえそれが外から与えられた義務だったとしても、そこへ向かうときの気持ちの仕切り直しや動機付けをする余地が、わたしの中に残されています。

言い換えると、他人には強制できないこと。わたしにのみ可能なこと。

それって、なんて自由なのでしょう!

働かなきゃいけないことは、どうあがいても変わりません。ていうか、そもそもは働きたいのだし。だったら前のめりで片をつけていくほうが、すっきりしますね。

心と頭と行動を一致させていくこと、とも言えるかな。その一致している状態が、自由の正体なのかもしれません。

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