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【県外逃亡】吃音症で障害者手帳を取得することを決意するまでの記録④(15~18歳)

②の最後に、「高校生になってもいじめが続くのか、と絶望し、県外への脱出を図ります。」と記載した。

そのとおりで、今回は【高校生活】と【初めての病院受診】について、記載していこうと思う。

まずは【高校生活】について。

中学を卒業後、県外の高校に進学した。

大人になって俯瞰で見てみると、「環境が全てを解決してくれるわけじゃないよ」と冷静に指摘したくなるものだが、何度も書くけれども、小・中学生の世界はとてつもなく狭い。
そして、彼らは非常に冷淡で残酷である。
それが私の主観であった。
今でもそう思っている。


私の地元は田舎であったから、通える範囲の高校に進学した場合、小・中学校の同級生のうち、数人とは必ず被ることが目に見えていた。

小・中学校、男子のサッカー、女子のサッカーというすべてのコミュニティでいじめのような仕打ちを受けてきた人間からしてみれば、高校に進学したとて事態が良い方向に変わるとは到底思えなかった。

たとえ、いじめの加害者と離れたとしても、である。

私の経験上、いじめの加害者は交代制である。

例えば、グループのうち、リーダーXがいないときはYが取り仕切る。YがいないときはZが取り仕切る、といった具合だ。

また、リーダーXが率いる当該グループが全員いなくなったとしても、それを見て笑っていた「私たちは加害者ではありません軍団」のうち誰かが必ず「あいつ前の学校でこんなことがあったんだよ」といった話を誰かにし、新たないじめグループが誕生するのである。

はたまた、直接的ないじめが起こらなかったとしても、「音読」という文化に再度苦労するであろうことは容易に想像できたし、「サッカーを辞める」という選択は生き甲斐を奪われるようで苦しかったため、「名前が言えない」ことに伴う「イジり」という地獄を今後も味わう、ということはわかっていた。

幸い、この場合、「田舎」という点が功を奏したのだが、女子サッカー部がある高校は地元にはなかった。

そのため、先生や親としても、「県外」という選択肢が大いにあったのである。


だが、私の本音はサッカーのためではなかった。

もう、疲弊していたのだ。
狭すぎるコミュニティに。
吃りという小さな失敗が全コミュニティに伝わることに。
吃りのせいで奇異な視線を浴び続けることに。


この頃の私の疲弊具合を端的に伝えるためのエピソードが一つある。

学校の宿題で
「駅にある七夕飾りに短冊を掲げてくること」というものがあった。

恐らく、日本文化を浸透させるためのたわいもない宿題だったのであろう。
しかし、人生に躓き始めていることに気が付いていた私は、こう書いた。

「ふつうのひとみたいになりたいです。」

当時の私は、いたって真剣にそう書いた。

親は、困ったような悲しいような、そんな顔をしていたことを覚えている。

当時まだ吃音症が「障害」と判断されていなかった日本において、親も親で苦しかっただろうと思う。

私は発達性吃音であり、保育園の頃から吃りがある。
だが、遺伝ではなく、親に吃りはない。親戚もない。私だけである。

私は、一人っ子であるのに優秀でない自分、普通の子でない自分、に負い目を感じていたのだろう。


話を戻そう。

知り合いがいない高校に進学し、改めて新しい人間関係を築きたい。
そう願い、女子サッカー部のある県外のマンモス校に進学した。

吃音が露呈しないことは不可能に近いと分かっていたため、なるべく人間関係が希薄そうな学校を、と考えたところ「自分で時間割を決める単位制のマンモス校」という所に行き着いたのである。

振り返ってみると、通信制の高校など、もっと選択肢はあったように思うが、「高校サッカー」という「普通のキラキラした高校生活への憧れ」も当時は大きかったのだろうと思う。

そして、その憧れを「捨てる」という選択をするほどにまでは、当時は吃音症であることに絶望を抱いてはいなかったのだと思う。
人生まだまだ取り返せる、そう思っていた。と記憶する。


さて、いざ高校生活が始まってみると、以前のようないじめは起こらなかった。
あれ?と呆気なく感じるほどだった。

環境を変えたことが功を奏したのか、周囲の精神面が成長したおかげか、道具的学習と言い換え(過去note「【症状の整理】吃音症で障害者手帳を取得することを決意するまでの記録③」https://note.com/ienaikarakaku/n/n1ec316593cf6)」のおかげかは定かではないが、ともかくいじめは起こらなかった。

しかし、全く平穏とも言えなかった。

上記のとおり、己で時間割を決める単位制のマンモス校に進学したため、人間関係は他の高校と比較すると恐らく薄かったと思われるが、やはりどうしても部活のメンツとは過ごす時間が長くなる。

同級生に1人、モノマネが得意な子がいた。

ある日、「びじゅ(私)ってこんな感じだよね」と言い、皆の前でモノマネを披露した。
それは、過去note「【症状の整理】吃音症で障害者手帳を取得することを決意するまでの記録③(https://note.com/ienaikarakaku/n/n1ec316593cf6)」で記載した、「右手で体側をトントンと叩きながら「今!」と思ったときに発語する」私をマネしたものであった。

皆が一瞬笑い、それから同意する。
「たしかに!!」
「わかるわかる」
「やるよね~!」
「さすが○○ちゃんだわ」
といった具合である。

勿論、そこにいじめの意図は無い。
あるのは軽い「イジリ」程度であろう。

だが、久しく心平穏に過ごしていた私にとっては、なかなか衝撃的な出来事であり、「あぁ、やはり気が付かれていたか…」と痛感する出来事であった。

そう、高校生くらい年代が上がると「気が付いていても指摘しない」といった精神的な成長がみられるのであろう。
小・中学校の時とは異なる、露呈の仕方であった。

そして、これ以降現在に至るまで「いじめ」ではなく「イジり」によって、心に傷が付くようになった。
やはり「いじめ」の原因は、コミュニティや世界の狭さにも一因があるのであろう、中学校卒業以後、幸いにもいじめには遭わなくなった。

代わりに出現したのが、この「イジり」である。

「笑わなくては」と思えば思うほど、涙が溢れそうになった。
笑ってやり過ごしたつもりでも、数日間は必ず引きずった。確実に傷付いている証拠である。

その時の私は結局どうすることにしたかというと、その子に対し「吃ること」をカミングアウトし、イジらないでほしい旨を伝えた。

親以外に初めて伝えた瞬間であった。

さすがは高校生である、その子はきちんと約束を守ってくれたため、同じようなことは起こらなかった。


また、予め想定していた、授業での「音読」や自己紹介での吃り以外に、キツイな、と思ったことが一つある。

それは、自分の名前も吃るが「他人の名前も吃ること」である。

何を今更、と感じるかもしれないが、個人的には大きな出来事であり、現在でも悔やんでも悔やみきれない出来事として記憶に刻まれている。

部活中、「〇〇!!」や「〇〇先輩!!」など他人の名前を声に出す場面が必ずある。しかも大きな声で。

私は、入学当初はサイドハーフを担うことが多かったため、名前を呼ぶことよりも呼ばれることの方が多かった。

しかし、2年生、3年生と進んでいくにつれ、センターバックやボランチ、サイドバックなど、味方に指示を飛ばすポジションも担うようになっていった。

ゲームメイクの一環として指示を行うのだが、当然無言でプレーをしていれば怒られ、試合で使ってもらえなくなる。

そのため、当時の私は「言える人の名前を中心に言う」ことが精一杯だった。

完全に「サイテー」である。
そう、最低な対処法だった。

これは、謝罪である。
懺悔でもある。

特に、後輩の〇〇に対しては、試合中に何度も名指しで指示や注意を行なってしまった。
他にも言うべき人はいるにも関わらず、だ。
これまでの記事で散々被害者面をしていたくせに、だ。

この件に関しては完全に加害者である。

許されるとは思っていないが、その後輩にいつか会う機会があれば、必ず謝りたいと思っている。

このことは、大人になった現在でも忘れることができず、記憶に残っている。
指示をしている映像が、そのまま脳に保管されているのである。

本当に申し訳が立たない思い出である。

この一件があってから、私の中で変化があった。
これまでうやむやにしてきた吃音にきちんと向き合おうと思ったのである。
障害とも個人の特性ともつかない苦しさの根源をいいかげん認め、ともに生きていくことを受け入れなければいけない。そう思った。

いや、正確に記載するのであれば「こんな奴が将来まともに働いていけるのだろうか」という不安も大きかった。


そこからは早かった。
病院を探し、先生と部活のメンツに週に一度こういう理由で部活を休むので認めてほしい旨を伝え、親と診察にいくことに決めた。

早かったが、その分苦しかった。
毎日お風呂の中で泣いていた。

自分で決めたことなのだから、泣くんじゃない!と己を叱る自分もいれば、なぜ自分だけがこんな不安に苛まれなければならないのか!と神様に八つ当たりしたくなる自分もいた。

そんな自分を全て抱えて毎日泣いていた。


さて、そんな経緯があり、【初めての病院受診】となったのである。

初めての病院受診は、
①主治医の診察
②言語聴覚士とのリハビリ
という流れであった。

①主治医の診察は、2時間程であったが、そのほとんどの時間は泣いていた。

過去のこと、受診に至った経緯、将来への不安…ともかく吃音について何か話そうとするだけで涙が止まらなかった。

とにかく全てを吐露した。
泣きながら。
吃りながら。

吐けるだけの気持ちを吐いた。
言葉にできるだけの言葉を絞り出した。

吃っても大丈夫、と分かっている人の前で心のまま話せる、という体験は初めてであった。

そして、正式に「吃音症である」と診断された。


②言語聴覚士とのリハビリは、初回ということで、症状の確認(言える文字と言えない文字の確認)とストレステストを行った。

ストレステストの結果は、強度の社交不安と対人恐怖アリ、というものであった。

その時初めて、「人前に立つ前後30分は震えが止まらない」、「心臓の鼓動が聞こえる」、「周囲の視線が気になる」、「呼吸が浅い」等の特性に名前が付いた気がした。

受け入れる覚悟ができた瞬間であった。

その後、私はこの病院で「就活を突破すること」を最終目標として、約6年間のリハビリに取り組むことになる。

その様子は次回、記載させていただくこととし、今回は締めようと思う。

読んでくださった方、ありがとうございました。

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