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言葉

言葉は魔法だ。何かあったわけではないが特に最近そう思うようになった。中学校在学時、いつぞやの講話で校長先生が「言霊」の話をしたのを今ふっと思い出す。根底的に同じであろうその魅力は、人を一瞬で地獄に落とすことも、天にも昇る心地を与えることも叶え得る。人類は発達した。動物として高等か下等かの論議はひとまず置いておいて、紛れもない事実だろう。発達の過程で形成された社会における認められた意味を持つものとして言語も同様に発達してきた。その言語の中で、私達が文字や音声として意思疎通を図るものが言葉だ。「言葉を選ぶ」と言う表現がある。語彙の引き出しの多少はあるとはいえ、相手・状況・感情・思想・思考、これらを踏まえて、自身の“それ”に最もぴったりなものを取捨し伝えると言う過程を日頃から膨大に行っている。そしてそこに正解はない。故、複数の選択肢の中から主体的に選び取る、『心のゆとり』をもっていることが大切であり、果たしてその言葉でよかったかどうか謙虚に内省する人でもあらねばならないと思う。時はSNS時代。キーボードを鳴らし、硝子板を叩く。活字という、文字の持つ温度を画一化した「死字」によって埋め尽くされたその目には、文脈や背後にある要素に気づくことのできる機会が映らなくなった。更に、“らしい”言葉が機械的に予測され「言葉を選ぶ」過程が介在する余地を殺した。そこには理路も何もない。「心ない言葉」が自身を蝕み他者をも蝕む。決して昔が良かったと嘆いているわけではない。嘆くほど歳も重ねていない。ただタチの悪い点はこの心ない言葉は無意識的に蓄積されていることだ。例えば一対一のチャット上で第三者の悪口を軽い気持ち連ねるとしよう。悪口は盛り上がる。非常に。悲しいことに。これはある程度の人に当てはまるのではないか。憎悪の対象を共通で持つことは友好関係が発達しやすい。心理学の言葉を借りると、認知的バランス理論と云うらしい。ヒトラーのユダヤ人に対する歴史が最たる例だろう。話が逸れたが、最初は軽い気持ちであっても、プライベートチャットという名の一種の亜空間(笑)では感情が増幅され、実際の人間関係にも影響を及ぼす。些細な出来事が修復不可能に異常昇華する。少しでも他者に対する思いやりや配慮があれば鎮静化できるものであるのに悲しい結末だ。あくまで例だが、実際この程度のことは世界中で起きているだろうし、人間関係なんてねじ曲がりまくっていることだろう。経験者の言葉は重い(自分)。その時の話は以下。

悪口というのは感情が先走り理性は後からついてくると考えられる。言葉の中に悪意や意図が剥き出しとなるからだ。然し乍ら他者に話す時、意外にも話者は筋道立てた綺麗な文章構成を持つと思う。何故なら、他者に話すのは自分がいかに正当であるのか共感を得るためのプレゼンテーションだからであり、それを達成するために主観をベースに細かく心情を描写し、自身に非はなく相手が一方的悪であるということを論理づけることが手っ取り早いのを潜在的に理解していると考えられる。もし自分がそのような類の話を聞く場合は決して流されないよう、冷静に客観的であり続けることに留意しなければならない。話者に対して親身に寄り添うことはあっても、肯定も否定もしないのが吉。そこに自分の意見を介入させることは不毛であり、一方からの偏った情報で審判の真似事は余りにも傲慢で無責任に他ならない。飽く迄、自身と悪口被対象者は別の関係性の上に成り立っているのであって、各々が築いてきたものを話者の話一つ鵜呑みにして感情移入するなんことは愚の骨頂だ。話が逸れた。逸れ過ぎた。ともかく、どんな形であれ発した言葉は自分自身にも作用する。悪口は自他共に首を絞める。自分の中でこのトピックの落とし所が行方不明になってしまったので、ここらで締めたい。
ではまた。

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