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ほんとうは。

 寂しい気持ちを誰にも共有できなかった夜を幾度となく超えて、人は自室にお守りの御札を貼るようになる。ぺたりと裏側に両面テープを貼って。御札にこんなに強力な糊をはっつけてバチがあたらないのだろうかといつもおもう。わからないけれど貼る。きっと救われるような気がする。自分の頭よりも上の位置に御札を貼って、貼ってからコンパスで向きを確認する。御札をどちらの方角に向けてよいかは元から決まっているらしい。調べたくせに調べたことを貼り終わるまで忘れたりしている。
 洗い物をしていて少し飛び跳ねた水が床に雫になっていて、それを面倒だから靴下で、履いたまんま、ちゃっちゃと足で拭き取ってやる。どうせあとで洗濯するからいいじゃん。そういう選択。わたしは一から十まで教えてもらわなくちゃわからない。一から十まで教えてもらっても、うまくいかないことも多い。一人で暮らすことが増えすぎると人はダメになる。人と一緒にいてもわたしはだめになる。遥かむかしからずっと相反しているような自分の魂。遥かむかしって、わたしの魂が巡ってくるそのずっとまえから存在しているようなこうした性質だけが肉体から離れて自室を漂っているのだ。
 いつか犬を飼うと決めてからも生活にメリハリがでることはなかったが、そのだらだらとした生活のなかで想像するのは犬そのもののことよりも、犬の周辺で起こりうるであろうさまざまな社会的な心の動きたち。物質的な何かや誰かとの関係性を軸に希望を見出そうとすると、決まってカウンターをくらう。リードを首のまわりに結んでやる。しっぽを振る。もふもふとした毛を震わせながらその下にある表皮の暖かさを想う。でもそれ以上さきのことはわからない。イメージはすぐに崩れる。代わりに誰かからの架空の批判に傷ついては、繰り返す。「犬を飼うことを慎重に検討いたします」。そしてその時はこない。
 仲睦まじく遊んでいた時のことも忘れて。ずっと一緒にいたことを信じられないくらいに。遠くにいってしまうたびに感じていた喪失感でしたが。信頼できる言葉は御札の上を滑るその文字だけのようにおもえてくる。それで、もういちど神社を訪れることにした。駅のホームを出て警察署を超えればすぐに木々で鬱蒼とした、いや鬱蒼としているように感じてしまう、皮膚からすみずみにまでわたってやがて心まで清廉になるようなきがする。それはたぶん道中にコンビニがないから。買わなくてもいいカップラーメンなんて買わないし。いつか食べる夜食のためのカップ焼きそばもいらない。そもそも家にそんなものなければ夜食なんて食べる必要ない。で、だいたいがコンビニさえなければ。わたしのこころは鎮まる。細い道を左手に入って鳥居のなかにも続いている家屋を超えて神社で拝む。わたしはほんとうにこの神社に心から敬意を持っており、もっとも愛を感じる。無宗教と言い張っても、寂しければきっと見える。帰路で結局コンビニには寄る。
 不安定に誰かからの加護を望んでも、わたし自身を支える物理的なものがなければ加護を受けられないのかもしれない。その可能性には目をつむって、御札を貼っている時間で、ひとりぼっちなのを再確認したりする。ひとりじゃないとかいう言説は蹴っ飛ばす。飛ばせるだけの思念を飛ばして、苦しいくせに生きることに固執している人々のなかを縫うようにわたしもわたしを守るために、ここではないどこかを目指すために。手を合わせている。頭のなかで。死ぬときは事故で死ぬと決めた。最大限に事故で死ぬ可能性を減らしたうえで。ほんとうはね。

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