文化に優劣ってある?

こんにちは。イデオロギーコオロギーです。
2月24日からロシアのウクライナ侵攻が始まりました。
これは初めは元KGB所属の独裁者が過去の栄光を取り戻そうと徒に起こした出来事にすぎなかったかもしれませんが既に様々な思惑の縮図となってしまったと思います。
そこで縮図として示されたものの中から1つ僕の考えることを書こうと思います。
現在、このウクライナ侵攻の様子が毎日は当然のこと、毎時間、毎分、毎秒おきにリアルタイムで共有されています。それは恐らくみなさんも今僕のこのつまらない文章を読むのに使っているであろうスマートフォンやpcなどのデバイスを通じた、携帯可能かつ即時的にインターネットに接続できる環境においてのみ可能といえるでしょう。
この環境の実現こそ情報化と言われる現象だと思っています。
この情報化において私たちは前例にないほど多くの人々を認識するようになりました。先史時代からつい最近まで大して変化しなかった、生涯に私たち個人が認識する他人の数はインターネットサービス、主にSNSの普及によって爆発的に増加したと言えるでしょう。私たちは小学生時代から教育課程に組み込まれた英語という道具を使ってSNSを通じて海の向こうの人の手元に忍び込みます。そこには私たちの先代は到底知りえなかった文化や人種の差異が当然存在しています。
では、その差異に優劣は存在するでしょうか。
答えは否、皆さんも当然だと思われるでしょう。
一方でこれは80年前のヨーロッパでは肯定されたでしょうし、気味の悪い平等主義が均質に流布した現代では否定されるに違いありません。
ですが、平等という考えは優劣に限りなく近いのではないでしょうか。優劣という価値体系の中でただ単純にどちらにも振れていないと言うだけではないのでしょうか。1が優、-1が劣だとしたら平等というのは全てがただ±0であるのに過ぎないのではないのでしょうか。
私たちが平等という、優劣の範囲内のただ一つの±0の値に固執して、全てをそこに収斂させようとするからこそ、悲しいことではありますが、その集合から外れて優劣を生み出そうとする動きが生まれてしまうのではないでしょうか。
異文化共生が叫ばれる世の中で私たちに必要なのは優劣という価値観の枠組みの中に差異を組み込もうとするのではなく、その差異がその差異としてのみ存在しているということをそのままに認識することだと思います。
この時に、その差異が優劣や平等のいずれにも分類されないことに違和感を感じたなら、まさにそこに現代の記号化、その奥にある合理化のしわ寄せが現れているに違いない。というのはまたいずれ。
長々とつまらない文章を読んでいただきありがとうございました。よろしければまたよろしくお願いします。

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