論理の魅力

こんばんは。イデオロギーコオロギーです。
今回は題名のその通り僕を虜にしてやまない論理の魅力について書かせて頂こうと思います。

みなさんも論理とかロジックという言葉を耳にすることはあると思います。
「論理抜きにして〜」であったり、「ロジックで考えないで〜」なんていうフレーズで聞くことが多いのではないでしょうか?

論理抜き!ロジックで考えない!う〜ん!なんて魅力的!
ちなみにロジック(英:logic)は論理の英語訳です。

これから論理についての僕の超傲慢解釈をお話しますが、論理の最も煩わしい特徴はなんと言っても頭を使うことでしょう。
だから僕は論理抜き!なんて言葉が大好きです。
頭を使うことって下手したら身体的な運動をすることよりも疲れますからね…。

でもそうやって頭を疲れ果てさせることがなにより楽しいんです。恐らく僕が尊敬し、いずれは僕もそうなりたいと思っている哲学者はほぼ全員その疲弊がたまらなく大好きなんでしょう。
いわゆる変態です。

そんな変態を変態たらしめる論理について早速書いていこうと思います。

結論から書きますと、論理とはなぜ?を追求する過程のことだと僕は考えています。

これは少し個人的な属性も含む例えですが、大学入試で出題される現代文や小説文の要旨の1つとして、論理的思考力を測るという特徴があると僕は考えます。
例えば小説文。
「このときの彼の心情を◯◯字以内で説明しなさい」
この文言を見ただけでノイローゼになりそうですが、この設問で答えるべきことは必ずその本文の心情描写や情景などから類推されなければなりません。
「彼は私の言葉を聞いて汗をかいたジョッキに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干した。」
この文章について、彼の心情や行動の理由を説明せよと言われた時、仮に「私」が「彼」を怒らせるようなことを言ったという文脈があったとしましょう。
しかしここで「彼はとても喉が渇いていたから。」とか「彼はビールが大好きだったから。」なんて答えてしまってはダメ。
間違いなく駿台予備校行きです。
ここではやはり「私の言葉に対して腹が立って早く席を立とうとしたから。」あたりの回答が妥当でしょう。

今の例で見られたような、言動という表面的な物事の背景にある様々な外的要因を考慮しそれらを組み合わせてそれぞれの要因に矛盾がない答えや結論(なぜ?)を導き出すこと、その過程が論理である、というわけです。

世の中のほぼ全ての物事の中に論理は存在します。
なぜ家を建てるのか?
それは雨風の当たらないところで体を休ませるためでしょう。
これも文字通り歴とした論理です。

電子回路だって捉えようによってはある種の論理です。
人の考えだって論理に則ってます。
彼はなんであんなことを言うんだろう。
そうやってあなたの身の回りの論理を探ってみると、もしかしたら僕たちが暮らすこの世界の真理にたどり着くことができるかもしれませんよ…!

そしてそうやって身の回りの論理を辿り始めたらもう、あなたは既に哲学者…
是非、是非哲学者の自分にうっとりして見惚れてください。

ですが1つ注意。先程も記した通りなぜ?を辿ることは本当に頭が疲れます。
なぜなら人間や人間を取り囲む環境の要因はほとんど1つでは無いからです。
たった1つの理由から僕たちが行動を起こすことはそれほど多くありません。1つの理由しか意識していないとしても、意識の外に多くの要因がある場合がほとんどです。
その1つ1つを掘り起こされて吟味されて繋ぎ合わされた結果が僕たちの行動であり言葉であるわけです。

行動や言葉という表面的な物から逆算的にその内部構造に迫るという営み。これが論理という訳ですね。

そして頭を使って論理を追求して頭が完全に疲弊したときこそ、冒頭の論理抜き!というフレーズが砂漠の中心のオアシスが如く極めて極めて魅力的になるんですね。

「ああだからああやって、こうだからこうやって、そうだからそうやって着たら楽しい!」けど何にも考えずに適当に論理抜き!で古着を着た時にオアシスのようなスタイリングが組めるのかもしれません。これからはそんなオアシススタイリングも組みたいなぁ。

古着の話に脱線しそうになったのでここらで締めさせていただきます。

今回も駄文に付き合っていただきありがとうございました。
みなさんの生活が論理少し照らされるようになるとうれしいです。

それでは。

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