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アイドルという存在について考えること

JO1のドキュメンタリー映画「未完成」を見て私も何か思考しなければという気持ちになり、久しぶりにブログに取り掛かっています。私情も交えながら、コロナ禍になってからぼんやりと感じていたことや推しを推すということに対するスタンスのことまで、自分の中で整理しながら書き連ねていこうと思います。私は読んだ本や歌詞などに思想が影響されやすいので読む方によっては既視感のある言葉も出てくるかもしれませんがご容赦ください。


まずは少し前置きを。推しを推すということは、純粋にエンターテイメントを楽しむこと、可愛いカッコいいと愛でることも勿論ですが、ひとりの人間を解釈していくということが真ん中にあると私は思っています。普段のふとした表情や仕草、放つ言葉の端々などの素材からこの人はこういう人なんだろうと考察して解釈して、答え合わせをして、また解釈し直す…ということの繰り返し(映画はこの答え合わせに当たる部分だったなあと私は思いました)。推しがくれる”素材”がカルピスの原液だとしたら、水で割る人、牛乳で割る人、かき氷にかける人がいるように、人それぞれに解釈して楽しんでいくと思います。これから書くことは私個人の主観的な解釈と考え方にすぎないということを頭に置いて頂けると幸いです。


それでは映画の感想から。ネタバレもありますので読みたくない方は★★★まで飛んで下さいね。一言でいうと、彼らの人間味を実感した二時間でした。「やっていける自信が無かった」「不安しか無かった。」「こんなんじゃ無かったのになあ」という言葉を聞いて、新しい環境に飛び込んだ時や未知のウイルスに晒された時に考えることは私もアイドルも同じなんだと感じて少し嬉しくなってしまった気持ちもありました。そんな中でたくさんの人の期待を背負ってめげずに活動し続けてくれたことに感謝と尊敬の言葉を送りたいです。豆原くんが「とにかく練習入れてください!」と言っていたのも印象的でしたね。アイドルをなんでも完璧にこなせる人だと思い込みがちだけど完璧に見せられるまで練習をしている人たちなのだと実感したし、瑠姫くんが純喜くんを「実はネガティブだけどポジティブな言葉を発して自分にも暗示をかけている」みたいに言っていたのもリアルな人間味を感じられて心に残りました。私はJO1のことを知ったばかりで、今回の映画は基礎知識をインプットするようなスタンスだったのですがこれからもっともっとJO1を知りたいなと思ったし、漠然とした感想ですがJO1を応援していたら幸せでいられそうだなと感じました。


★★★

コロナが流行り始めてから約2年が経ち、エンタメは色々な方向に形を変えながらかなり復活してきましたね。オンラインライブ、歓声禁止のライブ、アクリル板がありながらも近くでコミュニケーションを取れるイベントや、テレビ番組では違うスタジオから中継を繋いだり。2020年の今頃、訳も分からないまま家に籠りながらこのままじゃアイドルというエンタメごと無くなってしまうのではないかと不安に思っていた自分にそんなに心配しなくて大丈夫だよと伝えたいです。

私はコロナ禍になってから推しが増えました。むしろこのグループが好きです!というよりはアイドルというコンテンツ自体が好きという感じで、いわゆるDDになりました。この情勢じゃないとそうはならなかったんじゃないかなあ、と思います。コロナ禍になってから、純粋な期待や希望を持ち続けることが難しくなったように感じます。諦めることが上手くなったというか、諦めざるを得ないことが増えたというか。最初は「定期テスト無くなって休校だ!ラッキー!」くらいに思っていましたが、そこから合唱祭が無くなり、球技祭と体育祭、文化祭が無くなり、修学旅行が無くなりました。日常生活にも様々な制約が課されたり、仲良しの友達と顔をくっつけて同じ携帯を覗くことすら躊躇ったり。誰かのせいに出来ればいくらか楽だったかもしれないけど、先生たちが悪い訳ではなく、かといって自分たちが何かした訳でもなく、どうしようもない怒りや悔しさを抱えながら過ごす毎日でした。

そうやって「仕方ないよね」って諦めることが少しずつ上手になって、「どうせ無理だろうな」って期待すらしなくなって、うまくいかなかったことをコロナのせいにすり替えることすら躊躇わなくなっていきそうだった時に唯一の光をくれていたのがアイドルでした。

YouTubeやブログ、配信ライブなど”会えなくても繋がっているからね”と感じさせてくれるコンテンツがどれだけ頑張る理由になったことか。推しが「早く会いたいね、今は我慢しようね、絶対会おうね」と言い聞かせてくれることでいつか会えるという楽しみを信じ続けることができました。

しばらく経って、コロナ禍になってから初めて行った有観客のライブでは、推しが私の感情をこじ開けて引っ張り出してくれるような、初めての感覚を覚えました。本当はこうやって大好きな人が作り上げるステージをずっと生で見ていたい、前みたいに大好きな人の名前を叫びたい、大好きな人に大好きだと自分の声で伝えたい、会場いっぱいの歓声を浴びる推しが見たい。行きたい場所に行って会いたい人に会って好きなことをしていたあの時に、どうしたって戻りたい。「仕方ない」の一言で蓋をして物分かりのいいフリをしていた私に、もっと燃やせ、もっともっと、と感情を呼び起こしてくれるようでした。心が動くってこういうことか、って思いました。

僕らも会いたかったよ、大変な状況だけどめげずに頑張るからついてきてね、絶対また会おうねってたくさん言ってくれて、嬉しかったなあ。映画を見ても思いましたが、ファンが推しに会うことをモチベーションに毎日を生きているように、推しもファンに会うことを楽しみにしてくれているんだなあと分かって心温まりました。

こうやって現場に入る度に、何がかは分からないけど「全部この為だったんだ」という感情が涙と一緒に溢れ出します。推しがアイドルとしての魂を煌めかせる瞬間に立ち会うことに、私は自分の魂を燃やしたいと思えます。推しが放つ声や奏でる音が自分の心臓で震えるのを感じると「ああ、私ここにいるな」って確認できるし、推しがありがとうと言ってくれたら私は誰かに感謝される存在として自分を認めてあげることができる。推しを推すことは、生きづらい世の中で見つけた自分を保つ方法なのだとも思っています。

あんなにかわいくてカッコよくて最強に愛おしいアイドル達が生きるにはちょっと汚すぎる世の中かもしれないけどせめて彼らを取り巻く環境だけは優しく温かくあってほしいと思うし、好きなことを職業にするなんて難しいと言うけどアイドルだけは自分の職を好きでいてほしいとも思います。

アイドルは、単に歌やダンスのスキルだけでなく人間性や価値観、過去の功績まで見られるような職業だし、ひとを癒すことに自分を消耗できるのは本当に凄いと思います。そうやって幸せをくれる推し達がステージに立つことや自分の色のペンライトを見ることが幸せだと言うのなら、私は推しが幸せを感じられるその景色を作る一員になりたいです。

そうやって向こうからは”ファン”という集団として認識されていて、ひとりの人間として関わることは決して無いこともアイドルに夢中になれる一因だと思っています。深く関わって向こうからこちらへ好きとか嫌いとかの感情が向けられることは無くて、言ってしまえば表面的な関係。アイドルとファンの関係を人間関係と呼んでいいのかは分かりませんが、そういうプラトニックな愛情の交換における人間関係の中で私は一番楽に息ができます。


この世界にはアイドルがたくさんいて、私自身もどんどん変わっていくだろうから、これからも推しが増えたり減ったりすると思う。例えばオーディションでデビューを目指して切磋琢磨する練習生たちに受験期の自分を重ねたように、不完全ながらも必死に輝こうとするギラギラを欲するときもあれば、安定した完成形の輝きを遠くから見つめていたくなる時もある。そうやってアイドルから生気を分けてもらって私はこれからも図太く生きていくのだろうと思います。

長くなりましたが最後まで読んでくださりありがとうございました。


今夜も推しの健康と幸せを願って


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