よわむし放浪記(中国ひとり旅)

  

旅立ち

 中国を一人で旅したい。高校生の頃から、私は強くそう思っていた。中国に行けば何かが見つかる。何かが変わる。そして自分自身も大きく成長する。漠然とそんな風に思っていた。なぜそんなにも中国に強く惹かれたのかというと、恥ずかしながら漫画に影響されたからだ。一九九〇年当時、少年雑誌で連載していたその「拳児」という漫画は、主人公・拳児が拳法の道を極めるため、そして行方不明の祖父を捜すため、一人で中国を旅するという内容だった。漫画自体が面白いのはもちろん、孔子や孟子などの、中国の古い思想家の言葉が随所に出てきて、若い私にとっては人生の指南書のような存在だった。いつしか私は拳児に自分を重ねるようになり、当然のように中国の旅に憧れるようになったのだ。
 大学入学と同時にバイトを始め、夏休み前には十万円程度貯めることができた。金銭感覚がまだ子供だった私は、十万円もあれば中国なんて余裕で行けるものだと思って、大いに興奮していた。
 旅の準備に取りかかる。パスポートやフェリーの往復チケットなど必要経費をさっぴくと、手元に残ったのは一万円札が二枚と、千円札が八枚程度だった。今考えるとかなり心許ない金額だが、当時の私はどこまでも脳天気で「これだけあれば十分だな」と、まだ見ぬ中国の地を夢見るばかりだった。

 いざ出発の日。この日は住んでいる名古屋から、まずは神戸まで行く。神戸では、上海行きのフェリー・鑑真号が待っている。出航は明後日だ。
 半袖、短パン、スニーカーに麦わら帽子と、プールに行く小学生のような格好に、荷物はナップサック一つ。この格好を見て、海外に行くとは誰も思わないだろう。海外旅行を舐めていると言われれば否定できないが、これが準備できた精一杯の装備なのだから仕方がない。
 全財産二万八千円のうち、一万円だけは首から下げたお守りに入れ、私は生まれ故郷の名古屋をあとにした。荷物は大学の授業に行くよりも軽かったが、夢と希望だけは山のように抱えていた。

 昼過ぎに神戸三宮駅に着いた。なんとなく海の方へ向かって歩いていたら、偶然フェリーターミナルに着いた。どこかに鑑真号がないかと探してみるが見当たらない。通りすぎる人に尋ねるが、「え? 何それ?」と、鑑真号そのものを知らない人ばかり。五人目くらいだったろうか「それやないかな?」と私の背後に目をやりながら、サラリーマンっぽいお兄さんが疑問形で答えてくれた。振り返るが、建物の壁しかない。納得いかない表情が顔に出たようで、その人は立ち去りながらこう言ってくれた。
「それ、フェリーやで」
 もう一度、今度は仰ぎ見た。大きすぎて全貌は確認できないが、よく見るとかすかに揺れているような気がした。確かにフェリーのようだ(そもそも、フェリーに乗るのも初めてだ)。
 よし! これでフェリーに乗りそびれることだけはなさそうだ。

  何の確認もしていなかったが、搭乗客は前日からフェリーに乗れるものだと勝手に思っていた。私はフェリーの入り口を探し、そこから出てきた人に泊まりたい旨を伝えてみた。
「ダメデス。乗ルハ、アスデス」
 素っ気ない返事だったが、それよりも中国なまりの日本語を聞けたことに私はとてつもなく興奮した。
「この人は明らかに中国人で、おそらく中国で生まれ育った。その人が日本に来て、今俺と接している」
 こんな当たり前の事実が、その時の私には大きな衝撃だった。
「ああ、『世界』ってのは本当にあるんだな」
 そんな想いを噛みしめながら、私は三宮の街に戻った。

新興宗教

 「どこで野宿しようかな?」
 そんなことを考えながら三宮の繁華街を歩いていた。名古屋からフェリーターミナルに来るだけで、既に五千円程度使ってしまったのだ。余計な出費は控えたい。
「お兄さん、どこ行かはるの?」
 そんな感じの関西弁で話しかけてきたのは、やけに目がパッチリとしたおばちゃんと、そのお供といった感じの小太りのおばちゃん。どちらも五十歳くらいだと思う。見知らぬ土地で心細くなっていたので、話しかけられたのが飛び上がるほど嬉しかった。尻尾があったらブンブンと全力で振っていたに違いない。どんな会話をしたのかは覚えていないが、かなり長い時間立ち話をした後、「泊まるところがないなら、この近くにうちらのグループの集会所があるから、そこに泊まればいい」とお誘いを受けた。渡りに船で、二人についていくことにした。

 そこは集会所と呼ぶにはあまりにも大きな、何かの施設のような建物だった。玄関の大きな引き戸を開けると、ホテルのロビーのようにだだっ広いスペースがある。促されるままに中に入っていくと、バンザイをしてゴロゴロと転がれるくらい広い廊下が続いていた。その廊下に沿うように広間があるのだが、そこでは大勢のお年寄りがベッドで寝ていた。廊下と広間はカーテンで仕切られているだけだったので、中の様子がよく見える。「大勢いますね」と話をふると、目パッチリおばちゃんはコクッと軽く頷き「そうやね」とだけ声を発した。小太りの方はもういなかった。

 廊下の突き当たりには階段があった。これも広い。等身大の雛飾りができるくらいに広い。階段を登り切ると、和室の広間があった。広間と言ってもそこに辿り着くまでに見てきたスケールからするとちょっと狭いような印象を受ける。“こぢんまりとした広間”とでも言おうか。
「あの、ここで寝かせてもらえるんですか?」
 恐縮気味に尋ねると、おばちゃんは大きな目をさらに見開いてこう答えた。
「ここは神聖な場所なんですよ」
 立ち話をしていたときとは、明らかに雰囲気が違っている。
「こちらの祭壇に向かって正座して頂けますか。この祭壇の裏に神聖な空間があって、そこに私たちの神様がおられるのです」
 なんのことはない。私に声をかけたのは、宗教に勧誘するためだったのだ。しかしまあ、乗りかかった船だし、今からここを出て寝場所を探すのも面倒だったので、仕方なくおばちゃんに付き合うことにした。

 この宗教を信じたおかげで病気が治ったといった類の話が始まった。話し終わると、「あなたも仲間になりませんか?」とお誘いの言葉。「いやあ、ちょっと・・・」と曖昧に断ると、二話目が始まる。そんな調子で三話目が終わったときに、足を崩してもいいかと尋ねた。おばちゃんはあからさまに不機嫌な顔になったが、返事を待たず足を崩した。それがおばちゃんの闘争心に火をつけたのか、四話五話と続けざまに奇跡を語る。掛け時計に目をやると十二時を回っていた。いい加減眠りたいが、そんなことは言い出せない空気が出来上がっている。六話目が終わったところで、私に限界が来た。
「すみません。宗教に入る気は全くないので帰りますね」
 そう伝えると、おばちゃんは、「いいからここで寝ていきなさい。でも最後にこの話だけは聞いてくれますか?」と、今度は自分の生い立ちを語り始めた。おばちゃんの雰囲気が少し柔らかくなったので、仕方なく聞いてやることにしたが、どうにも眠い。眠くて眠くて……いつの間にか私は座ったまま寝入ってしまった。

 ハッと目が覚めると、おばちゃんが黙って私を見ていた。時計は五時を過ぎていた。おばちゃんが口を開く。
 「あなたが寝ている間、私はずっとあなたのことを見ていましたよ」
 私は総毛立って、すぐに立ち上がった。ずっと同じ格好で座っていたせいで足が固まっているが、恐怖の方が先に立った。
「ごめんなさい、本当に興味ないんで帰ります。ありがとうございました、ありがとうございました、さようなら」
 おばちゃんは何か説教を始めたが、もはや知ったことではない。私はもつれる足をカクカクと動かしながら、元来た通路へ引き返す。階段を下り、老人たちが寝ている広間を横目にしながら玄関まで抜け、ガチャガチャと靴を履き、振り向きもせずに外へ出た。

 朝の空気の無条件な優しさが、私に生きた心地を取り戻させた。何度も何度も深呼吸をする。一晩かけて吸い込んでしまった邪悪な空気を、朝の新鮮な空気で洗い流すような気分だった。
 チラホラ見え始めた通勤通学の人影にさらに安堵感を覚えながら、私はやや早足でフェリーターミナルへ向かった。
「旅はもう始まっているんだな」
 そんな生意気なことを思っていた気がする。

フェリー鑑真号

 正直に告白する。それをフェリーというのかどうかは知らないが、フェリーというと白鳥の形をしたものぐらいしかイメージがなかった。そんなフェリー初心者の私にとって、鑑真号の大きさは想像を絶していた。私が予約した最低ランクの雑魚寝部屋は、天井こそそれほど高くはないが、ちょっとした体育館ぐらいの広さがあった。他にも色々なランクの部屋がいくつもあり、そこかしこで人が出入りしている。学校の校舎をイメージしてくれれば、そんなに遠くはないと思う。
 さらに、ちょっと席を離れるとすぐに迷子になってしまうような広いレストラン。麻雀などをする娯楽部屋。お土産屋。カラオケルーム。ラウンジ。ディスコなどなど。フェリーの中を探検するだけでもいい暇つぶしになった。
 ただ、私が最も気に入った場所はそういった施設ではなく、デッキだった。フェリー後部に広いデッキがあるのだが、そこから眺める海の景色は旅情を大いに盛り上げてくれた。航跡波(こうせきは)と言うそうだが、フェリーのスクリューが巻き起こした白い波が船尾からどんどんどんどん生み出され、そして遠くに遠くに離れていき、やがて消え去る。フェリーさえ通らなければ生まれることのなかったこの航跡波。何のために生まれ、何のために消えていくのか。航跡波に自分を重ね、これからの自分の未来に想いを馳せる。
「人間だって、最後は消えていくだけだよなあ」
 などと分った風なことを呟いていた気がする。

 デッキは出会いの場でもあった。見渡す限りの青い海と青い空。キラキラと降り注ぐ太陽。火照る体を程良く涼ませてくれる潮風。こんな環境下では、どんな人間も心を開かずにはいられない。
 私と同じように目を細めながら海を見ている男性に「こんにちは」と声をかけた。「コンニチハ」。流暢ではあるが、中国なまりの返事が返ってきた。名前は王さん。日本の大学で勉強をしていて、上海の実家に里帰りするそうだ。歳は二十代後半で、当時十八歳の私から見て、お兄さんとおじさんの中間のような印象だった。
 日本のIslandというバンドの「Stay with me」という曲が大好きだそうで、よく口ずさんでいた。
「Baby baby baby Stay with me あなたさえいれば」
 大人っぽいスローな曲調で、王さんによく似合っていた。

 王さんはとても気前が良く、初対面だというのにレストランで食事をご馳走してくれた。また、人間性も素晴らしかった。いつも笑顔を絶やさず、私がくだらない話をしても寄り添うように耳を傾けてくれる。そばにいるだけでなんだか幸せな気分になれた。王さんも私を弟のように気にかけてくれて、それ以後も行動を共にすることが多かった。
 ただ食事の時だけは、私は意図して王さんと離れるようにしていた。一緒に行けば驕ってくれるのは目に見えているので、私なりに気をつかったのだ。
 代わりに一緒にいたのが一つ年上の田倉さんという男子学生だった。彼とは妙に馬が合い、食事の時はいつも、どこで手に入れたか分らないようなお菓子や総菜を二人で分け合って食べていた。
 私のように貧乏旅行をする学生は思いのほか大勢いた。時間を重ねるごとに友達が増えていき、いつしかコミュニティーのようなものが出来上がっていた。フェリーは二泊三日で上海に着くのだが、その間、皆であれやこれやと協力し合い、食費は千円程度に抑えることができた。
「この仲間たちと、上海に着くと同時にお別れになるのか」
 中国の旅はもちろん楽しみではあったが、仲間たちとは別れたくないのが本音だった。

 到着日の朝。目が覚めてデッキに出ると、それほど遠くない所に陸地が見えていた。中国だ。生まれて初めて見る大陸。生まれて初めて見る日本以外の国。ここから見える風景の中には中国の人たちが何千何万といて、それぞれに生活を送っている。朝だから、皆で集まって公園で太極拳でもしているのか? それとも既に自転車で職場や学校へ向かっているのか? テレビでしか見たことのない中国の風景が、脳内で再生される。この大陸で、私は何をして、何に出会い、何を見つけるのだろうか? そう考えると浮き足だったような気分になって、今すぐにでも海に飛び込んで中国へ向かいたい衝動に駆られた。
 デッキには、早起きした人たちが既に何人も出て来ている。皆一様にソワソワと落ち着かない様子だ。今、このデッキの上は、世界で一番ウキウキワクワクの密度が高いに違いない。
 しばらくすると、王さんがニコニコしながらやって来た。ここはもう長江の河口で、もう少し遡るとフェリーの波止場があると教えてくれた。そうか、ここはもう完全に中国なんだな。

 王さんは「もしも良かったら」と言ったあと、こんなことを提案してくれた。上海の実家は裕福で家も広いので、みんなでうちに滞在しませんか? と。願ってもない申し出だ。王さんと一緒なら、普通の観光では味わえないディープな上海を知ることができるに違いない。それに何より、お金が浮く。
 あとからゾロゾロとデッキに出てきた仲間たちにも王さんは声をかけている。結局仲間になった人のほとんどが王さんのお宅へお邪魔することとなった。数にして十二人程度だったと思う。行かない決断をしたのは、一番仲の良かった田倉さんだけだった。理由を聞いたが、「俺、そういうのはちょっと……」と言葉を濁すだけだった。わりといつもフレンドリーな田倉さんが、その時だけ面倒くさそうな表情をしたのが印象深かった。

  そして、フェリーは上海に到着した。

決断

  数えきれないほどの乗客に交じって、私はフェリーを降りた。生まれて初めて大陸の地に足をおろす。言葉にならない感動だった。この一歩は、中国全土はおろか、インドやヨーロッパ、さらにはアフリカにまで行ける可能性を持っているのだ! 旅程は十日間なので、普通に考えればそれほど遠くに行けるわけはない。しかし一歩の持つ可能性を考えた時に、日本と中国とではこんなにも違うのかと、(あくまでも空想ではあるが)身をもって実感した。
 放っておかれたら一時間でも二時間でもその場で感動を噛みしめていたと思うが、そんなことは許されるはずもなく、入国審査をする建物へと誘導された。ガラーンとした空間に、X線検査機が数台置かれている。私は最初、それが何なのかが分らず、検査を受けずに出口まで来てしまった。荷物が少なすぎて、検査官も見過ごしてしまったのだ。そんな私を見て、その場の皆が笑っている。なんともほのぼのとした入国審査だ。一応形だけはということで、私は検査機にナップサックを通し、晴れて自由の身となった。

 王さん宅行きの仲間が、王さんを中心にしてひとところに固まっていた。田倉さんは私に「そんじゃまた」と軽い口調で別れを告げ、早々に上海の街へと消えていった。
 私はその時まだ、王さん宅へ行くかどうかを悩んでいた。王さんについていけば、色々な体験ができる。でも本当にそれでいいのか? せっかく一人で来たのに、安易な道を選んでしまっていいのか?
 いや違う。王さんとは旅の中で出会って仲良くなった。これは自分で切り開いた道だ。王さんの所へ行こう。
 皆の所に近づきながら、相反する意見が自分の中で闘っている。
 うん、行こう行こう! 王さんグループには、日本で英語教師をしているアメリカ出身の美女デイビーさんもいる。行かない方がどうかしている。
 私は皆の輪に溶け込み、口を開いた。しかし口から出たのは、自分でも信じられない言葉だった。
「このままみんなについていったら、俺の旅はつまらないものになってしまうから、俺はここで別れるよ」
 別れの挨拶もそこそこに、私は小走りでその場を後にした。とても正視できなかったが、なんとなく皆ポカーンとしていたような気がする。

 生ゴミと潮のにおいが混じった上海の路地を歩きながら、私は考えた。なぜあんな酷い言葉で別れを告げたのか。散々お世話になった王さんや、食べ物を分け合った仲間たちに対して、あまりにも失礼ではないか。
 なかなか言語化できなかったが、今なら分かる。私は、私の旅の、主役でありたかったのだ。王さん宅へ行ってしまうと、私は、その他大勢になってしまうような気がしたのだ。
 それならそれで、別れぐらいしっかりすれば良かったのではないか。あんな気分の悪くなるようなことを言わなくても良かったのではないか。……もちろんその通りだと思う。だが、根本的に甘ったれな私は、そんな風にきちんとした別れをしてしまうと、激しい後悔に襲われ、別れを惜しんでいるうちに「やっぱり俺も王さんの所へ行くよ」と言い出しかねないのだ。
 自分が主役であり続けるために、フェリーの中で築き上げた関係を、私は自ら言葉の刃物で断ち切った。その決断が正しいかどうかは分からないし、皆に対して申し訳ない気持ちでいっぱいにもなった。だがそれでも、自分で決断できたという事にだけは誇りを持てた。
 私は立ち止まり、グイっと胸を張った。そして、もうすっかり見えなくなったが、皆がいるであろう方角を向き、「ありがとう、さようなら」と、改めて別れを告げた。
 さようなら、かけがえのない仲間たち。
 さようなら、そちらの方へ行っていたかもしれない俺。

チェンジマネー

  上海の外灘(ワイタン)、通称バンドへ来ていた。仲間たちと別れてから、賑やかな方へ賑やかな方へと足を向けていたら、この上海随一の観光地に辿り着いた。ここは黄浦江(ホワンプーチャン)という川に接した地域で、細長い広場になっている。大勢の人々が集い、写真を何枚も撮ったり、寝そべったり、恋人同士で愛を語り合ったり、各自好きなように楽しんでいる。物売りも大勢いて、地図や絵葉書、アイスクリームなどを売っていた。
 ざっと見渡すと、何人かの日本人がいた。なぜ日本人と分かるかというと、皆片手にガイドブック「地球の歩き方」を持っているからだ。「地球の歩き方」は事細かに現地の情報が載っている反面、大きくて重い。私は少しでも身軽でいたかったので、ガイドブックの類は持たず、薄い中国語会話の本だけを携帯していた。
 一人の日本人と目が合ったので、話しかけてみた。彼は大学四年生で、中国への旅は二回目だという。私がほとんど何の情報も持たずに中国へ来たことを知ると、得意になって役に立つ情報を教えてくれた。

・宿は浦江飯店(プーチャンホテル)のドミトリーが安い。
・中国の通貨・中国元には外貨兌換券(ワイピー)と人民幣(レンミンピー)の二種類がある。
・ワイピーは外国人用で、レンミンピーは中国人用。
・両替所で日本円を中国元に変えると、ワイピーでもらえる。
・外国人はワイピーしか使ってはいけないことになっているが、実際はおかまいなし。
・ワイピーの方がレンミンピーよりも約一・五倍の価値がある。
※外貨兌換券(ワイピー)は一九九五年に廃止。

  お金のことばかり言うので、私は心の中で彼のことを“カネゴン”と呼ぶことにした。
 お金に関する情報には続きがあって、非合法で日本円をレンミンピーに変えてくれる人がいるという。つまり一・五倍のレートで日本円を中国元に交換できるのだ。どこにそんな人がいるのかと尋ねると、「歩いていれば向こうから寄ってくる」という。カネゴンに促されてバンドを一緒に散歩することになった。歩き始めて五分もしないうちに人混みを縫うように目のギョロっとした二人組が私たちの方に向かってきた。まだ若い。私より年下かもしれない。よく見ると口をパクパク動かしている。近づいて聞き耳をたてると、「チェンジマネー、チェンジマネー」と囁いていた。カネゴンが現在のレートを尋ねると、一・三五とのことだった。
「まあ最近はそんなもんだから、とりあえず一万円替えてみなよ」
 カネゴンの言うとおりにしようとするが、緊張して手が震える。それをごまかすため、鼻歌をうたいながら体を揺すった。そんな私を簡単に初心者と見抜いたのだろう、チェンジマネーの青年たちはニヤニヤと不適に笑っている。そして、それをたしなめるようにカネゴンはこう釘を刺す。
「フェアトレード、フェアトレード(正しい取り引き)」
 闇取り引きでフェアトレードというのが妙におかしかったが、必死で強面を保つ。青年たちはニヤけた顔を直しもせず「OK、OK」と頷き、レンミンピーを渡してきた。手を震わせながら確認する。レート通りの金額だった。
 軽く握手を交して取り引き完了。去りながらも、彼らはこちらを見てニヤニヤしていた。最初から最後まで小馬鹿にされているようだ。
「簡単でしょ?」
 カネゴンの言葉に「楽勝ですね」と答えながらも、私はまだ手が震えていた。

ガイド

「じゃあ、あとは頑張ってね! イールーピンアン(一路平安)」
 役目が済んだといった感じで、カネゴンは行ってしまった。私は笑顔で手を振ったが、一人になって急に心細くなった。とりあえず初めて手に入れた中国元を使って上海の地図を購入し、それを見ながら当てもなく歩き始めた。
 不思議なもので、歩いていると不安が薄らぐ。それどころか楽しい気持ちにさえなる。もしかしたら、猿が木から下りて地上を歩くようになったのは、歩くこと自体が快楽だったからかもしれない。快楽に従って、人はアフリカから世界各地に広がっていったのだ。
 新しい学説を発見してちょっと嬉しくなったが、現状は何も変わっていない。
「このあと俺は何をすればいいんだ? どこへ行けばいいんだ? まずは宿か? カネゴンの言っていた安宿へ行くか? でも、どうせ日本人がいっぱいいるんだろうなあ。せっかく中国に来たのに、それももったいないなあ……」
 ブツブツ言っていたかどうかは分からないが、端から見てたいそう不安そうに見えたのだろう、中国人の男性が英語で話しかけてきた。年の頃は三十前後。気さくな感じで、悪い人ではなさそうだった。
「ジャパニーズ?」
「イエス」
「スチューデン?」
「イエス」
「ハウオールドアーユー?」
「エイティーン」
「ヴィズィトチャイナ ファーストタイム?」
「うん、ファーストタイム」
 生まれてこの方、まともに英語で会話をしたことがなかった私は、それでもなんとか格好をつけようと、言葉少なで対応した。つたないヒアリング能力で分かったことは、どうやら彼はガイドをしていて、私を助けたいと言っているようだ。一人旅でガイドをつけるという行為が私には堕落した行為に思えたので当然断ろうと思った。しかし安宿の情報だけは欲しかったので、その旨を尋ねた。すると彼は喜んで私の肩をポンポンと叩き、意気揚々とこう言った。
「カモン!」
 完全に勘違いされてしまったが、もう遅いようだ。仕方なく彼についていくことにした。
 この男性はどこからどう見てもアジア人だが、自らを「マーク」と名乗った。小っ恥ずかしかったが、言うとおりに「マーク」と呼んでみると、なんとなく外国に来た感じがして悪くはなかった。
 そのマークに連れられ、私はバスに乗った。通勤時間帯という訳でもないのに、やたらと混んでいた。バスは全ての窓が全開で風通しは良かったが、それでも人の熱気でむせ返りそうになる。周りの人とペタペタ素肌が触れ合うのが気持ち悪い。
 マークがバスの運賃を払えとジェスチャーしてきた。体の前でかかえたナップサックの中からようよう財布を引っ張り出したが、どこにいくら払うかがさっぱり分からない。見かねたマークが財布に目をやり、「この紙幣を出せ」と指をさす。言うとおりにするとマークが紙幣を取り上げ、すぐ前にいる乗客に渡した。「え?」と声を出して驚いたが、渡された人はさらに前の乗客に渡し、それが次々に引き継がれ、前にいる車掌さんと思しき女性の元に届けられた。すかさずマークが「リャンカレン、リャンカレン」と叫ぶ。車掌は頷き、切符らしき紙切れとお釣りを、同じルートを辿って私の元に届けてくれた。なるほど、合理的なシステムだ。
 ちなみに、だいぶ経ってから分かったのだが、マークが叫んだ「リャンカレン」は地名だとばかり思っていたが、実は中国語で「二人」という意味だった。バス代を二人分払わされていたのだ。

 なんとなくの感覚ではあるが、バスは上海の中心部から北の方に進んでいるようだった。中心部から離れるに従って、近代的な建物がどんどん減っていき、15分も経たないうちに、周りは全て木造のボロ家ばかりになった。道路も舗装ではなくなり、バスの中に土煙が入ってくるようになった。汗ばんだ肌に土煙がまとわり、ザラついた感触になる。
 ふいにマークがキョロキョロしだして、「次で降りよう」と目くばせをしてきた。どこに連れて行かれるのか不安もあったが、それよりも上海の庶民の暮らしに近づけていることに興奮した。
 バスを降りてすぐの角に、木造二階建ての、わりと大きな建物がある。周りがほとんど平屋なので、かなり目立っていた。木製の看板に、赤い文字で何か大きく書いてある。達筆すぎて判読できなかったが、マークがスタスタ入っていくところを見ると、どうやらここが宿のようで、赤い文字はホテルの名称なのだろう。
 マークは宿の従業員と何やら交渉をしている。従業員の女性は私の方をチラチラ見るが、あまりいい顔はしていない。「パスポート プリーズ」とマークに言われるままにパスポートを出す。従業員は旅券番号をメモしている。どうやら泊まれるようだ。本当かどうかは知らないが、マークが言うにはここは中国人専用の宿で、本来外国人は泊まれないという。なので、私のここでの身分は“マークの遠い親戚”ということになっているらしい。宿賃ははっきりと覚えていないが、安すぎて驚いたことだけは覚えている。「一万円あれば一年くらい滞在できるんじゃないか?」そんなことを思った記憶がある。
 ギシギシと軋む木製の階段を登って、二階の部屋に通された。ベッドは三つもあるが、部屋は一人で使って良いとのこと。角部屋なので、窓からは交差点の風景が一望できた。見渡す限り木造のボロ家ばかりだが、よく見ると商店らしきものが何軒かある。それに人通りも多く、ガヤガヤと賑やかだ。
 マークが下で待っているので、街の観察はほどほどにして部屋を出た。二階には私の他に、中国人の家族が滞在していた。父親は見当たらないが、母親一人と幼子が五人くらいいる。母親はなんとなくプリプリ怒りながら、廊下に洗濯物を干していた。「ニーハオ」と言ってみたが、面倒くさそうな表情で睨まれたので、慌てて視線を外した。
 階段を下りながら安物の懐中時計をナップサックから取り出す。海外旅行にまつわる当時の噂話で、腕時計をしていると強盗に手首を切られて持って行かれるという話があった。若い私はその怪情報に恐れおののき、わざわざ懐中時計を用意していたのだ。
 その懐中時計で時間を確認すると、昼までまだ小一時間あった。マークの提案で、もう一度上海の中心部まで戻って、彼お勧めの、安くてうまい食堂へ行くことにした。

ジャージャー麺

  上海の目抜き通り南京路(ナンチンルー)。そこから一本外れた路地にある食堂に私とマークはいた。上海での初めての食事だ。

 話は変わるが、高校三年の担任がシルベスター・スタローンにそっくりだった。あだ名はそのままにスタローン。そのスタローンは若い頃に中国を旅したことがあって、授業中によく旅の極意みたいな話をしてくれた。その中で、食事に関して興味深い話があった。
「いいか、旅先ではどうしても食欲が落ちる。それを防ぐために俺は毎食ビールを飲むようにしていた。ビールをガーっと飲めば、食欲がドワーっと出てくる。いいか、お前たちも旅に出たら、食事の時はビールを飲めよ」
 冷静に考えればメチャクチャなアドバイスだが、まだ若く、あまり疑うことを知らなかった私にとって、スタローンの言葉は金科玉条そのものだった。
 その教え通り、まずビールを注文した。店員が店の前に積んであるビールケースの中から一本取り出し、栓を抜いてぶっきらぼうにテーブルに置いた。それを、すり傷だらけで白くなったグラスに注ぐ。ビールは当然ぬるかった。だが、熱気溢れた上海の街には、むしろぬるいビールの方が似合うような気がした。
 一本飲み終わった頃にちょうど料理が出てきた。ラーメンのような麺の上に、挽き肉と味噌を絡めたようなものが乗っている。汁はない。小さなドンブリに無造作に盛られた謎の麺。恐る恐る口にすると、これが得も言われぬ旨さだった。麺は、日本のラーメンよりもやや白っぽく、味も淡泊。しかしこの麺が、濃厚な肉味噌とは相性抜群。瞬く間にズルズルと平らげ、私は「ハオチーハオチー(うまいうまい)」と連呼した。マークも美味しそうに食べている。値段を聞くとバカみたいに安い。日本円で二十円くらいだったので、迷わずお代わりを頼んだ。この麺は何かというと、その頃はまだ日本ではあまり目にすることがなかったジャージャー麺だった。
 二杯目のジャージャー麺を待っているときに、マークが紙を出して、何やら書き始めた。見ると「上午=五元 下午=五元」と書いてある。上午と下午の意味は勉強して知っていた。それぞれ午前と午後という意味だ。マークがゆっくりと英語で話し始めた。ガイド料の説明だった。
 私には悪い癖がある。それは何でも自分の都合の良いように解釈してしまうということだ。マークと出会ったとき、彼は私の事を助けたいと言った。彼の発した英語をそのまま表記すると「I want to help you」だ。私はそれを聞いて、無料ボランティアだと思い込んでいたのだ。
 説明を続けるマーク。午前と午後で五元ずつ、一日で十元。交通費や食事はお客もち。その代わり、上海の素晴らしい場所をいっぱい案内する。どうだい、安いもんだろ? と、こういうわけだ。冗談じゃない。フェリーで会った王さんから上海雑伎団の公演を見るのに十元かかると聞いていた。それと同じ値段ということは決して安くない。これでは何のために安宿を取ったのか分からない。
 私は彼の話を途中で遮り、「ノーノー、アイ ハブ ノーマネー、ノーサンキュー」と反論したが、彼も引かない。内容はほとんど分からないが、英語でまくし立てるように攻めてくる。意味が分からないのに説得されそうになっている。私の英語は本当に貧相で、ほぼ「ノーノー」しか言えなかった。しかし考えてみれば、マークに色々とお世話になったのは確かだし、何とか折り合いを見つけたかった。そこでまず、午後のガイドは必要ないということを伝えようと思ったが、的確な英語が出てこない。
「ジャスタモメント、プリーズ」
 興奮するマークを一度落ち着かせ、頭を絞って紙にこう書いた。
「No more you」
 この言葉を見るなり、マークの顔が真っ赤になった。彼は立ち上がり、怒りの言葉をぶちまけて出て行ってしまった。表現がストレート過ぎたのだろうか? お金も取らずに行ってしまうとは、相当腹が立ったに違いない。悪気があったわけではなかったが、私は猛烈な後悔に襲われた。

 ジャージャー麺が出てきた。空になったマークのドンブリを見るともなく見ながら、ズルズルと麺をすすった。
 美味しくもなんともなかった。

オアシス

  自己嫌悪に苛まれながら、私は上海の人混みの中を歩いていた。中国に来て初めてまともに接した中国人と、あんな破滅的な別れをするとは。私が中国に来なければ、マークも嫌な思いをすることがなかったろうに。申し訳ないと思うと同時に、自分の愚かさに腹が立ってしょうがなかった。

 どれくらい歩いただろうか。七月末の上海の日射しはなかなかに強烈で、いつの間にか喉がカラカラに乾いていた。近くにあった商店を覗くと、薄汚れたガラスケースの中にエビアンウォーターが置かれていた。見ると、ジャージャー麺が二十杯くらい食べられる金額だった。躊躇していると、エビアンの横の商品に目が行った。四角い瓶に入った水だった。金額はジャージャー麺二杯程度。迷わずそれを購入した。
 その場でフタをカシャリと開け、顎を上げてゴクゴクと飲み込もうとしたまさにその時、目を丸くして驚いている店主と視線が合った。そして次の瞬間、私は水を吹き出した。喉が焼けるように痛い。ゲホゲホと咳き込む。瓶に入っていたのは、水ではなく焼酎だったのだ。それもやたらと度数が高い。店主が心配して介抱してくれるかと思いきや、大口を開けてケタケタと笑っている。腹が立つが、それ以上に恥ずかしい。
 咳き込みながら、「ウォー ヤオ シュェイ(水が欲しい)」そう訴えると、店主はエビアンを指さした。すぐさま私は事前に覚えていった数少ない言葉の一つを発した。「タイ クェイ ラ(高すぎます)」と。それじゃあと店主は斜向かいの商店を指さして、「チーシュェイ、チーシュェイ」と言った。何のことか分からなかったが、「シュェイ」は水のことなので、そんなに間違ったものは出てこないだろう。
 私はほうほうの体でその商店に駆け寄った。見ると「可口可乐」と書かれた機械がある。前知識はなかったがロゴの形や色合いですぐに分かった。コカコーラだ。真水が欲しかったが贅沢は言っていられない。すぐに注文して、コップになみなみとコーラを注いでもらい、今度こそゴクゴクと飲み干した。一杯では足りないのでお代わりをしようと思ったが、よく見るとコーラの他にも違った飲み物があった。薄緑色の液体と薄赤色の液体が、大きなガラス容器の中でそれぞれ循環している。これもコップで販売しているようだ。値段を聞くと、コーラの十分の一程度だったので、迷わずその謎の液体を頼んだ。とりあえず体に良さそうな(わけはないが)薄緑色を選んだ。ひとくち含んでみる。うすら甘いだけの水だが、思ったよりも冷えていて、のどごしが気持ちよかった。
 この手の飲み物はわりとあちこちの商店に置いてあり、これ以後頻繁に利用することになる。水の入手手段が限られる旅人にとっては救いのような飲み物であり、いつしか私はこの謎の水を「オアシス」と呼ぶようになった。

 オアシスをさらにもう一杯頂き、腹をタポンタポンさせていると、いつの間にか焼酎の店主もこちらに来ていた。オアシスの店主と三人で、「どこから来た? どこへ行く?」そんなことを身振り手振りを交えながらやりとりをする。相手の言っていることが分かったり、逆に自分の意思を相手に伝えたり、取るに足らない内容なのに、とにかく楽しい。あんなハプニングのあった後だから余計に楽しさが増幅したのだろうか。やりとりをしながら、三人で大笑いをしていた。
 意思のやりとりをする。ただそれだけのことがこんなにも楽しいことだとは、私はその時まで知らなかったのかもしれない。
 そうこうしているうちに、なぜだか感極まって涙が滲んできた。二人に泣いていることを指摘されたので、「焼酎のせいでまだ喉が痛くて泣いている」そんな言い訳をすると、「大きな体のくせに泣きやがって」と茶化してくる。もちろんやりとりはジェスチャーだ。
 そんな私たちを見て、通行人たちが物珍しそうに立ち止まる。近くの住人も「なんだか楽しそうだな」といった感じでニヤニヤしながら近づいてくる。いつの間にかちょっとした人だかりになっていた。
「これ以上ここにいると大変なことになりそうだな」
 大勢の好奇の目に耐えきれず、私はその場を去ることにした。最後にもう一杯オアシスを注文すると、「これは俺のおごりだ」と目で言ってくれる。私はすぐに察して「シェシェ」と言って飲み干す。すっかり以心伝心の仲になっていた。

 焼酎の店主、オアシスの店主、誰だか分からない人たち・・・。皆が並んで見送ってくれている。何度も何度も「ツァイチェン(さようなら)」を繰り返しながら私は歩き始めた。
 お腹のタポンタポンが、妙に心地良かった。

国際旅行社

 なんだか愉快な気分になって足取りが軽い。上海の街全体が私を祝福してくれているような気持ちだった。さっきまで酷い自己嫌悪に陥っていたのに、ちょっと楽しいことがあるとそんなネガティブな気分は遠い昔の出来事になってしまうのだから、全く単純なものだ。

 歩きながら、高校の担任スタローンの、別の言葉を思い出していた。
「中国の都市には“国際旅行社”という所がある。困ったらそこへ行くんだ。日本人だと言うと、喜んで手助けしてくれるぞ」
 特に困っていることはないが、どんなところか気になるし、何か道が開けるかもしれない。地図で場所を確認するとそれほど離れていないことが分かったので、試しに行ってみることにした。
「国際旅行社はいいぞお! 汽車の切符がとれなかったから、ダメもとで国際旅行社に行ってみたんだ。そしたらそこの日本担当の人がものすごく親切で、電話一本かけて、すぐに切符を取ってくれたんだよ。明日には用意できてるから、明日もう一度来て下さいってな。しかもその晩、その人のお宅で食事までごちそうになってな。あれ以来、俺は国際旅行社の大ファンだ」
 スタローンはそんなことを言っていた。否が応でも期待が膨らむ。 

 入り組んだ路地の一角に国際旅行社はあった。
 周囲はあまり裕福な感じではないものの、かといって貧しい感じでもない。小ざっぱりとして、わりと清潔そうな住宅が多かった。
 「国際旅行社」という名称から、何かとてつもなく大きな会社を想像していたが、実際は地方の郵便局といった感じで、かなりこぢんまりとしていた。少々拍子抜けする。
 玄関の扉は開けっ放しだった。看板を確認して「チンウェン(すみません)」と声をかけた。しかし返事がない。二度三度と声をかけると、建物の奥から「うーん」と、いかにも今起きましたといった感じの呻き声が聞こえてきた。しばらく待っていたが、なかなか出てこない。もう一度声をかけると、怒鳴るような声で返事があった。意味は分からないが、少なくとも歓迎されていないことだけは言葉の尖り具合でよく分かった。おそらく「うるせーな! 今行くよ!」とでも言っているのだろう。

 ランニングシャツに膝までのズボン。サンダルをズズズっと引きずりながら出てきたおじさんは、頭と腹をボリボリかきながら、心底面倒くさそうにこちらに視線を放った。あまりのぶっきらぼう加減にかける言葉が見つからず、とりあえず「ウォー シー リーペンレン(私は日本人です)」と言ってみた。おじさんは表情一つ変えず「コンニチワ」と日本語で応えてくれた。しかし、あとが続かない。私も言葉が出ない。おじさんもさすがにこのままではいけないと思ったのか、「ドウシマシタカ?」と尋ねてくれた。しかし、表情は少しも変わっていない。正直、怖かった。逃げ出したい衝動に駆られたが、なんでもいいから何か一つだけでもここに来た証を残そうと思い、既に行ったことがあり知っていた場所だが、道を尋ねてみた。
「ナンチンルー ツァイ ナール?(南京路はどこですか?)」
 おじさんは私が持っていた地図をむしり取り、無言でナンチンルーを指さし、私の顔を覗き込んだ。私を睨む目の奥で、確かにこう言っているのが聞こえた。「もういいだろ? 寝かせてくれよ」と。
 私は「シェシェ」と頭を下げ、後ずさり気味におじさんから離れた。クマに出会ったときに背中を見せて逃げてはいけないというが、まさしくそれに近い対処法で、私は国際旅行社を後にした。
 スタローンのバカヤロー。

 懐中時計を見るともうすぐ5時だった。この当時、中国ではサマータイムを採用していたので、夏場は通常よりも1時間早くなる。そのせいもあって、日はまだ高かった。地図で現在地を確認する。宿までは5キロ程度。
 私は散策しながら、宿へ帰ることにした。

茶色の世界

  上海には二つの色があった。上海中心部が石やコンクリートの灰色だとすると、周辺部は土と木の茶色だった。私は今まさに、灰色の世界から茶色の世界へ飛び込んだ。舗装道路が突然途切れたのだ。それと同時に建物も茶色、つまり木造家屋の比率が増えていく。この道路の境目が、時代の境目のようでもあった。

 茶色の世界の住人は、やはり生活レベルが何段階も落ちているような印象を受ける。家は平屋ばかりで、屋根は木の板で葺いてある。トタン葺きの家も散見されるが、いずれも錆びていて、やはり茶色だ。
 時折見かける公衆便所などはひどいものだった。床は干からびた汚物やチリ紙が張り付いている。便器などは目も当てられない。汚物がこびりついて元の色が何色なのか判別がつかないのだ。壁も、何だか分からない汚い紙がそこかしこに張り付いている。まるで公衆便所そのものが汚物でできているようだった。
 だが、そんな環境でも、そこに住む人たちはとても生き生きとしていた。パンツ一丁、またはほとんど全裸で楽しそうに走り回る子供たち。ヒマワリか何かの種をつまみながら小難しい顔をして縁台で将棋を指すオヤジたち。ギャアギャアと騒ぎ立てながら家事や子供の世話をする奥様たち。喩えが悪いかもしれないが、泥沼に住む生きの良いナマズやドジョウみたいな印象を受ける。そう、彼らは実に逞しく見えるのだ。彼らに比べると、私なんかは生物として何段階も劣っているに違いない。もっと強くなりたい。自然とそう思えた。

 二階建ての大きな建物が見えてきた。宿だ。まるで自分の家に帰ってきたかのような気分になる。安堵感からか、急激に疲労感を覚えた。一刻も早く横になりたいが、その前に、力を振り絞って近くの商店を物色。文鎮になりそうなほどズッシリと重みのある硬いパンと、らくがんみたいな甘そうなお菓子、そしてリンゴを二つ買った。今は疲れて食欲はないが、夜中に空腹で目覚めるかもしれない。目覚めなければ朝食にしよう。
「トゥオシャオチエン?(いくら?)」
「イークァイ リャンマオ ウー(一快二毛五)」
買い物のやりとりもだいぶ慣れてきた。中国の通貨は「元」で、その下の単位は「角」だが、口語ではそれぞれ「クァイ(快)」と「マオ(毛)」を使う。さらに下の単位は「分」だが、これは省略されることが多かった。
「シェシェ」と、くたびれた笑顔で礼を言い、買い物を済ませた。ああ、もう疲れた。限界だ。

 宿に着く。
「ワンシャンハオ(晚上好)」
 カウンターにいる女性従業員に、中国語で「こんばんは」と声をかけると、冷たい笑顔と抑揚のない声で「ハオ」とだけ答えてくれた。心まで冷たくなる。二階へ上がると、朝と同じようにお母さんが洗濯物を干していた。一日中やっているわけではないだろうが、なんとなくそうしていても不思議ではないような雰囲気がある。もしかしたらこの家族はゲームの登場人物なのかもしれない。そう考えると無愛想なのも気にならない。私の方を見もしないので、私も黙って部屋へ入った。
 簡素なベッドに倒れ込む。だだっ広い部屋に夕陽がかすかに差し込んでいる。全ての色が闇に近づく一歩手前のこの幻想的な色合いが昔から好きだった。「逢魔が時」とはよく言ったもので、今にも魔物が出てきそうな空気感だ。だが、今の私は魔物が出てきてもおそらくこのまま寝入ってしまうだろう。それくらい疲れていた。
 宿の外の喧噪が、心地良い子守歌のようだった。

  上海到着。フェリーの仲間たちと最悪な言葉での別れ。チェンジマネー。ガイドのマーク。美味しくて、そして不味かったジャージャー麺。焼酎とオアシス。国際旅行社のクマ。そして、ようやく帰ってきた。
 色々とありすぎて、フェリーの仲間たちと別れたのが、遙か昔のようだ。今頃、王さんの家で晩餐会でもしているのだろうか? 楽しいだろうなあ。上海の家庭料理がいっぱいあって、王さんがひと品ひと品どんな料理か説明して、みんなで「ハオチーハオチー(うまいうまい)」って言いながら食べているんだろうなあ。
 それにひきかえ、部屋で一人の私……。
 ふと、王さんが好きだと言っていたIslandの「Stay with me」を思い出した。王さんに教えられて初めて知った歌だが、彼がいつも歌っていたのですっかり覚えてしまった。
「Baby baby baby Stay with me」
 自然と涙があふれ出てきた。
 闇に包まれ始めた茶色の街に、泥になって溶け込むように、私は眠りについた。
 中国一日目が終わる。

恐怖の切符売り場

  こんな話を聞いたことがある。
「英語で夢を見るようになったら、あなたの英語は一人前だ」
 英語は中高と六年間も勉強してきたが、もちろん英語で喋る夢など見たことがない。
 中国滞在初日、私はいきなり中国語で喋っている夢を見てしまった。それもかなり流暢に。街を歩いていると、中国の人が次から次へと私に話しかけてきて、私はそれら全てにジョークを交えて返答していくのだ。 

 けたたましいクラクションの音で目が覚めた。中国で迎える初めての朝。ボーッとした頭で、しばし夢を反芻する。もしかしたら本当に中国語がペラペラになっているのかもと期待をするが、もちろんそんな上手い話があるはずもない。試しに発してみた中国語のフレーズは十にも満たなかった。
 ほこりっぽい空気のせいか、喉がむず痒い。部屋の外に出て共同の洗面所に向かう。中国人家族の部屋の扉は閉まっていた。どうやらゲームのキャラではないようだ。安心したような、ちょっと残念なような。
 洗面所でうがいをする。生ぬるい水だが不味くはなかった。生水は飲まない方がよいことは分かっていたが、我慢できず二口ほど喉を通過させる。喉ごしが気持ちよく、さらに二口。ようやく目が覚めたような気がした。
 お風呂はもちろん、この宿にはシャワーも見当たらない。ないものはどうしようもないので、できる限りのことをしてみよう。
 着ていたTシャツを脱いで洗面器につける。軽く絞って体をなぞってみると、もともと薄汚れていたTシャツがさらに茶色くなった。続けて数か所なぞってみる。ピーナッツジャムでもすくっているかのようにTシャツが汚れていくのが面白く、ついつい夢中になって体全部を拭ききってしまった。タオルでやればよかったと後悔する。
 部屋に戻り、洗いはしたものの白ではなくなってしまったTシャツを椅子に干す。窓から外の風景を眺めると、街はもうとっくに動き出していた。人力の荷車が何台も通っている。それを追い払うように自動車がクラクションを鳴らす。人々は既にテンションマックスで、あっちでギャアギャアこっちでワアワア、実にやかましい。
「中国に来たんだなあ」
 改めて感慨に浸りながら、昨日買ったリンゴをかじった。固くてパサついているが、確かにリンゴの味だ。二口目をかじろうとして驚いた。最初にかじったところがもう茶色いのだ。観察してみると、かじった瞬間こそ白いものの、まばたきをする間もなく茶色に変わってしまう。一気に食欲が失せたが、捨てるわけにもいかないので、なんとか無理して二つを食べきった。真っ茶色になったリンゴの芯が、妙にこの町にマッチしていた。

 替えのTシャツを着て、街に繰り出す。
 昨日はただ漠然と歩いていたが、今日はやることを決めていた。南京行きの 汽車の切符を買いに行くのだ(中国では汽車のことを 火車と書くが、ここでは汽車に統一する)。上海から南京までの距離は約三百キロ。予算面でも日程面でも、ちょうど良い目的地だった。
 駅まで歩いて行こうかと思ったが、地図で確認すると宿から上海駅まで三時間くらいかかりそうだったので、大人しくバスで行くことにした。
「中国の切符売り場は、なかなかすごいですよ。とにかく人が多くて、買うのに丸一日かかったこともあります」
 フェリーの中で出会った一人がそんなことを言っていた。望むところだ。私はバスの中で闘志をみなぎらせていた。

 数時間後、海中を漂うワカメのように、私はフラフラと上海の街を歩いていた。結論から言うと、切符は買えなかった。 

 上海駅の切符売り場を見て、私は腰が砕けそうになった。学校の体育館くらいのスペースに、大勢の人がゴチャゴチャにひしめき合っているのだ。そしてその集団の一番奥に、切符売り場の窓口らしきものが十ほど見えていた。最後尾に並ぼうとしたが、どこが最後尾かさえも分からない。助け船を期待して、その場にいる何人かに「ショウピャオチューマ?(ここは切符売り場ですか?)」と確認してみた。しかし、皆一様にイライラした表情で頷くだけ。
「中国の切符売り場は、なかなかすごいですよ」
 まさかこれほどとは思いもよらなかった。それでもせっかく来たのだ。おめおめと引き下がるわけにはいかない。よく見ると、人混みを押しのけて強引に進んでいく人が何人かいた。意を決して私も真似てみる。しかし日本人と分かるからなのか、耳元で罵声を浴びせられるわ、顔を押しのけられるわ、襟元を引っ張られるわで、散々な目にあい、全く進むことができない。
 仕方がなく大人しく二時間ほど並んだが、ほとんど前に進まない。何度か前に行こうと試みたが、ことごとく跳ね返される。そうこうしているうちに精根尽き果ててしまい、とうとう切符売り場から逃げ出してきたのだ。

 あそこにいた人たちは、いつか切符が買えるのだろうか? あれが国際スタンダードなのか? 日本人の考えは甘すぎるのか?
「もうこのままずっと、帰国する日までどこにも行かずに、上海にいよう」
 そう思ってしまうぐらい強烈な出来事だった。

振り出し

  完全に戦意喪失してヨロヨロと歩く私の目に、ある看板が飛び込んできた。大きな文字で「友誼商店」と書いてある。さらにその下に「FRIENDSHIP STORE」とも書いてある。建物の雰囲気からして、どうやら百貨店のようだ。
 友誼(ゆうぎ)。フレンドシップ。私はその優しい響きに導かれ、フラフラとその中に吸い込まれていった。

 友誼商店は、その当時の中国としてはかなり近代的な内装で、全てがキラキラと輝いていた。四階建てぐらいだったろうか、それほど大きな百貨店というわけではないが、エスカレーターがあった。中国に来て初めて見るエスカレーターだ。しかし、その近代的な設備とは裏腹に、客が少ない。街で見かけるような一般的な中国人が全くいない。いるのは、裕福そうな観光客ばかり。売っている物もピカピカに磨かれた食器や仏像、高価そうな電化製品などなど、生活感の感じられない物ばかりだった。正直、面白みの欠ける百貨店だが、精神的に打ちのめされていたその時の私には、それが心地良かった。私は、嬉々としてあちこち見て回った。
 ふと私の耳に、聞き慣れた言葉が届いた。日本語だった。胸が高鳴る。慌てず、ゆっくりと、声のした方へ向かう。まだ若い夫婦と子供が二人。この家族が日本人に違いない。私は早足でその家族を追い越し、わざとらしく振り向いて「あれ? 日本の方ですか?」と声をかけた。
 どこから来て、どこへ向かう。何が美味しくて、何が不味い。中国に来てこんな出来事があった、などなど。そんなことをその人たちと話した。・・・いや、正直に言うと、その人たち「に」話したということになる。異国の地で同胞に出会えたことが嬉しくて、私は一方的に喋っていたのだ。夫婦はニコニコと笑ってくれている。だが、相づちこそ打ってくれるものの、視線を全く合わせてくれない。そのうちお父さんが「ちょっとトイレ行ってくる」と離れてしまった。その時、私はお母さんの眉間に皺が寄るのを見逃さなかった。
 迷惑がられている。
 鈍感な私も、さすがに自分が邪魔な存在だということに気がついた。急に恥ずかしくなり、「へへへ、それじゃ」と下卑た笑いを作りながら、私はその場から離れた。
 そして、友誼商店から吐き出されるように出てきた。

「みっともない。俺は何をやっているんだ? 切符が取れずおめおめと引き返して、近代的な匂いにつられて百貨店に入って、日本人の家族に迷惑をかけて・・・。ああ、みっともない、ああ本当にみっともない!」
 自分自身に怒りが込み上げてきた。何かに怒りをぶつけたく、ナップサックの中から昨日買ったパンとお菓子を取り出した。まずは、怒りにまかせてパンを食いちぎる。味も素っ気もないことで余計に腹が立ち、今度はお菓子を食いちぎった・・・が、これが甘い。砂糖よりも甘いんじゃないかと思うほど甘い。甘すぎて歯が痛くなってくる。お菓子を地面に叩きつけたい衝動に駆られたが、なんとかぐっと抑える。紙に包んでナップサックに戻すと、少し怒りが収まった気がした。
 しかし、口の中の甘さがなかなか抜けず、どうにも気持ちが悪い。近くの商店で、例のジュース・オアシスを買ってグチュグチュと口をすすぎ、ゴクンと飲み込む。これを何度か繰り返して、ようやく口の中が元通りになった。

 どうもやることなすことうまくいかない。歯車がずれている時計を無理矢理動かしているようだ。一度落ち着こう。地図で現在位置を確認すると、今いる場所からまっすぐ突き進めば、チェンジマネーをした公園・バンドに着く事が分かった。
 双六で言えば「振り出しに戻る」が出たような心持ちで、私はバンドに向かった。

服屋さん

 バンドでウロウロしていると、人混みの中にテンガロンハットが見えた。「暑苦しい帽子だな」そう思っていると、テンガロンハットは私の方に向かってきた。被っていたのは、小柄な青年だった。私を見るなり、関西弁で「アンタ、日本人やろ?」と尋ねてきた。答える間もなく喋り続ける。「そんな麦わら帽子被っとんのアンタだけやで。まあ、人のこと言えんけど。ダハハハハ」
 彼は名前を大西さんと言った。関西の大学に通う3年生。私の麦わら帽子を見て、同じカブリモノ仲間だと思って声をかけてくれたそうだ。飛行機で三日前に上海に着いて、明日から北京に向けて北上するという。
「北京で万里の長城見んねん。『万里の長城に行かんと男やない』ちゅう諺があんねんで。ほなマタな! あっ、俺まだこの辺にウロチョロおるから、用があったらこの帽子見つけてや! あ、それとな、アンタそのTシャツ、きたなすぎやで。ちゃんと洗濯しーやー!」
 大西さんは、自分のことだけを言い切って、カウボーイのように風に吹かれて消えていった。私は自分のTシャツに目を落とした。元は白いTシャツだったが今では黄色に近かった。名古屋を出て以来、二枚のTシャツをローテーションで着ている。頻繁に洗ってはいるが、洗剤などは使っていない。汚れていて当然だ。それに、切符売り場で引っ張られたせいで、所々だらしなく伸びている。
「出会う人に失礼になってはいけないから、せめてもう一枚Tシャツを用意しておこう」
 そんなことを考えながら公園を歩いていると、折良く通りの向こうに服屋さんが見えた。公園の通りを挟んだ向こう側には、清朝末期に建てられた西洋式の高層建築が並んでいる。その一角に服屋さんがあった。場違いな感じがするので、かなり目立つ。
 店の前まで来て、中の様子を見てみる。お店の間口がそのまま店の幅になっており奥に長い。いわゆるウナギの寝床だ。店内には所狭しと衣類が掛けられている。着飾った服はほとんどなく、実用的なシャツやズボン、婦人服、肌着などが目につく。かなり繁盛していて、お客さんだけでなく店員さんも多く見受けられた。店先にいた女性店員さんに声をかける。自分のTシャツを指さしながら「ウォーヤオ イーヤン(同じものが欲しい)」と頼むと、その辺のワゴンからTシャツを二、三枚引っ張り出し、私の体にあてがう。「これにしなさい!」といった感じで力強く押しつけてきたので、言われるままにそれを買った。
 勘定を終えると、その店員さんが何やら私に話しかけてきた。ひと言も理解できなかったので、「えーっと、えーっと」とまごまごしていると、「ジャパニーズ?」と英語で聞いてくれた。「トゥイ(はい)」と中国語で答えると、ちょっと待ってとジェスチャーをして、店の奥に引っ込んでしまった。取り残される私。ここに来る日本人は少ないのだろうか、他の店員さんや大勢のお客さんにジロジロと観察される。
 程なく、奥に行った店員さんは何やら楽しそうな感じでワアワアと叫びながら、一人の中年男性を連れてきた。中肉中背、髪が少し薄い他は、どこにでもいそうな風貌だった。その男性は興味深く私を見て、丁寧にこう言った。
「こんにちは。日本から来られたのですね」
 実に流暢な日本語だった。
「外に出ませんか?」と彼に誘われて、私たちは公園の方へ向かった。

 男性の名前はリン(林)さん。以前名古屋の大学に留学していたという。私が名古屋から来たというと、「今池、覚王山、東山公園・・・」と名古屋の地名を次から次へと出し、その度に懐かしそうな表情を浮かべていた。
「ピンチーリン、ピンチーリン、ピンチーリン・・・」
 アイスクリーム屋が早口で「ピンチーリン(アイスクリーム)」と連呼し、木箱をコンコン鳴らしながらやって来た。リンさんがご馳走してくれるというので、遠慮なく頂いた。
 アイスを食べながら、私は上海駅での出来事を話した。リンさんは「私は上海駅では切符を買いません」と苦笑する。聞けば、この近くの国際飯店というホテルで買えるということだった。多少値段が高いようだが、再びあの切符売り場へ行くことは考えられない。大人しくホテルで買うことにしよう。

 公園の椅子に腰かけてリンさんと話していると、「あれ? 何しとん?」とテンガロンハットの大西さんが声をかけてきた。リンさんと大西さんにそれぞれの紹介をする。大西さんはリンさんに対しても全力の関西弁で話しかける。リンさんは、やや理解に手こずってはいたが、嫌な顔一つせず丁寧に受け答えていた。私が「もっと標準語を使ってあげないと」と伝えるも、「関西弁は故郷の誇りや」とどこ吹く風。「故郷の誇りよりも、通じる通じないの方が大事だよ」と思ったが、面倒くさくなりそうなので言わないでおいた。

 久しぶりに日本語を話して気を良くしてくれたのか、リンさんは中国の政治経済、そして中国の将来について私たちに弁を振るってくれた。第一印象は大人しい人だと思っていたが、話しっぷりはとても熱かった。私も大西さんもリンさんのパワーに圧倒されてただただ聴き入るだけだった。
 結局その日、私たち二人はリンさん宅に招待され、晩ご飯までご馳走になった。別れ際、リンさんは諭すようにこんなことを言ってくれた。
「日本人は何に対しても熱意が感じられない。特に若いうちは、もっともっと感情を爆発させなさい」
 その言葉を何度も何度も噛みしめながら、私は宿への帰路についた。

  次の日、リンさんに教えられたとおり国際飯店へ行く。あっけないほど簡単に南京行きの切符が取れた。明日の十時頃出発だ。
 この日は無理のない範囲で上海を見て回り、早めに宿に帰って明日に備えた。
 南京。どんな所で、どんな出会いがあるのだろう。

出上海

  上海三日目の朝。今日も快晴。Tシャツ、半ズボン、麦わら帽子、そして容量の半分も入っていないナップサック。いつもの格好で部屋を出る。昨日から向いの部屋の気配がしない。出て行ったのか、それとも朝は遅いのか。向いの部屋にいるというのに全く交流がとれずちょっと残念な気持ちになった。一階へ行く。いつもカウンターにいる女性従業員さんに「マーファンニンラ(お世話になりました)」と声をかけた。いつものように冷めた返事をされるかと思ったが、私の言葉を聞いた途端、真っ暗だった部屋にパッと照明がついたように、従業員さんの表情が明るくなった。初めて見る優しい表情だ。おそらく今まで労いの言葉をかけられたことなどなかったのだろう。満面の笑みで、そしてなぜか英語で「グッバイ、グッバイ」と別れを告げてくれた。
 宿は寝るために帰るだけの場所だったし、あまり便利な立地でもなかった。それでも従業員さんの笑顔を見て、この宿にして良かったと心から思えた。小さく手を振りながら、晴れ晴れとした気持ちで宿を出た。

  二度目の上海駅。恐る恐る切符売り場を覗くと、すでに多くの人がひしめき合っていた。ここに並ぶ人は、一体どういう気持ちなのだろう? それに駅としても、もうちょっと順序正しく並ばせるとか考えないのだろうか? 蜘蛛の糸で無事に脱出してしまったような申し訳ない気持ちで、切符売り場を通り過ぎた。
 駅員さんに切符を見せ、どこへ行けばいいのかを尋ねる。駅員さんは駅構内を歩いている人を適当に選び、何か伝えている。伝えられた人が私を手招きする。促されるままについて行った。しばらく歩いて、「ここで待っていれば汽車が来る」みたいなジェスチャーをして、その人は去っていった。こんな方法の道案内をされたのは初めてで、軽く感動した。

 「海外の鉄道は時間がいい加減」という大雑把な情報を聞いていたが、私が乗る汽車は定刻より十分程度の遅れで収まっていた。汽車は深い緑色で、飾りっ気のないデザインだった。無骨という言葉がしっくりくるようなゴツゴツしたフォルムを見て、「ああ、俺は今中国にいるんだなあ」と、改めて実感した。
 切符売り場の印象から、とてつもなく大勢の人が汽車に乗って、もしかすると汽車の屋根にまで人が溢れるのかと期待していたが、座席以上の乗客が入ってくることはなかった。
 汽車が走り出すと、十分としないうちに田園地帯が現われ始めた。大都市上海でも、中心部以外は開発されていないようだ。小さく粗末な家が、ポツリポツリと点在している。この車窓から見える風景の中には、確かに人々が存在している。彼らの生活を間近で見たり、触れ合ったりすることは残念ながらできないが、それでも同時刻に近い場所に存在している。その事実を噛みしめるだけで、中国を旅しているということを実感できた。

 ふと、車内を見回すと、周りの人がなんだか落ち着きがなくソワソワしている。私もつられてソワソワしていると、隣のおじさんがニコニコしながら「リーペンレン?(日本人?)」と話しかけてきた。と同時に、他の人の視線が一斉に私に向けられた。何のことはない。皆がソワソワしていた原因は私だった。車内に一人だけいる外国人に、誰が話しかけるか探り合っていたのだ。「トゥイ、ウォーシー リーペンレン(はい、私は日本人です)」と答えると、そのおじさんは何か質問をしてきた。しかし全く理解できない。私が呆けた顔で適当に相づちを打っていると、どこからか「ティンプドン」という言葉が聞こえてきた。それを皮切りに皆が「ティンプドン、ティンプドン」と言い出した。私も同じように「ティンプドン」と言ってみると皆が大笑いした。意味は全く分からないが言葉のリズムがよいので、私は何度も「ティンプドン」と繰り返し、そのたびに車内は笑いに包まれた。笑いというのは最高のコミュニケーションだと実感する。
 皆で笑い合っていると、向いの人がゴソゴソと自分のカバンから紙とペンを取り出し、「日本 什么地方?」と書いて渡してきた。この言葉は知っていた。日本のどの場所ですかという意味だ。「名古屋」と書くと、その中国語読みである「ミンクーウー」を周りの人たちが連呼してくれる。皆のノリが良いので、続けて「南京、姉妹都市」と書いてみた。名古屋と南京は姉妹都市提携を結んでいるのだ。どういう意思表示なのか良く分からないが「おおーーー」とどよめきがおこる。なんだか楽しい。そして、やはり筆談は楽だ。
 私はこういう時のために仕入れておいたネタを披露した。同じ漢字でも日本と中国では意味が違うという鉄板ネタだ。
「中国でトイレットペーパーを意味する『手紙』は、日本ではレター」
「自動車を意味する『汽車』は、日本ではトレイン」
「歩くを意味する『走』は、ラン」
 筆談に英語を交えて説明すると、驚いたり、感心したり、「そうだよ、俺は知ってたよ」と威張ったり、大いに盛り上がってくれた。中でも一番面白かったのが、「中国語で妻を意味する『愛人』が、日本ではアナザーラバー」と伝えたときで、車内は爆発するような笑いに包まれた。しかし、女性の中にはなぜか怒り出す人も出てきて、ちょっとしたいざこざまで発生してしまった。嫌な過去を思い出させてしまったのだろうか。
 ともあれ、それも含めてとても楽しい時間だった。 

 上海を出て、蘇州、無錫と過ぎると、乗客もだいぶ入れ替わった。私も少々疲れたので大人しく車窓を眺めていたら、いつの間にか寝入ってしまった。
 汽車が止まる気配で目が覚めた。無錫の次の停車駅、常州だ。私の向いに二人組が乗り込んできた。三十代と五十代くらいの女性だった。汽車が走り出してしばらくして、若い方が「アナタハ、日本人デスカ?」と話しかけてくれた。大学で日本語を勉強していたそうで、多少たどたどしかったが、十分に聞き取れる日本語だった。彼女たちは職場の同僚で、二人とも南京に住んでいるという。私も南京へ行くことを伝えると、「ドコニ泊マリマスカ?」と尋ねてきた。宿は特に決めていなかったし、中国に来たら一度くらいは野宿をしたいと思っていたので、あらかじめ覚えておいた野宿を意味する言葉「ルースー」と伝えた。しかし、発音が悪いのか伝わらない。試しに「のじゅく」と日本語で言ってみたが、もっと伝わらない。紙に「露宿(ルースー)」と書いて見せると、二人して驚いた顔をする。「ダメダメ、絶対ダメ!」みたいなことを言った後に、こう提案してくれた。
「ワタシ、南京大学ノ職員デス。大学ニ宿舎アリマス。ワタシ、紹介スルシマス」
 私の返事を聞かず、彼女は紹介状を書き始めた。
 窓際に座る彼女と車窓の中間あたりをぼんやり眺めながら思った。
「書いてもらって申し訳ないけど、天気も良さそうだし、野宿しよっと」
 南京到着までは、あと一時間を切っていた。

かまど

  中国には「三大かまど」と呼ばれる都市がある。夏の気候が高温多湿になることからその名前がついたらしい。三大かまどに選ばれているのは、重慶、武漢、そして南京だ。ただ、どれだけ暑いといってもそこに人が住んでいる以上、人が住める環境であることは間違いない。真夏の南京、恐るるに足らず! と思ってやって来たのだが、汽車が南京駅に着いて、すぐに後悔した。汽車が走っている間は、開けた窓から風が入ってくるので特に気にならなかったが、汽車が止まると同時に風も止まり、熱気が体を締め上げるようにまとわりついてきた。
 このまま汽車に乗り続けて、再び風を感じたい衝動に駆られたが、そういうわけにもいかない。私は嫌々南京駅に降り立った。駅構内は日陰ではあったが、元々の気温と湿気、そして人々の熱気が混ざり合って、何か一つの大きな熱源の塊のようだった。吐き気さえ覚える。
「サヨ、ナラ」
「イールーピンアン(一路平安)」
 向いに座っていた女性たちが笑顔で手を振って去っていった。彼女たち、いや、他の乗客たちも平気で歩いているが、この暑さが気にならないのか? それとも私が軟弱なのか? 一刻も早く、どこか涼しい所で横になりたかった。
 駅構内を抜けると、一面何もない広場だった。日射しを遮るものも一切ない。なんなんだ、この無駄なスペースは? 太陽光も、地面からの反射光も、容赦なく私に襲いかかってくる。歩き始めると、重力が何倍にもなったかのように体が重い。汽車に乗っていたときは体調が万全だったのに、下車してわずか数分の間で、瞬間的に体力が奪われたようだ。
 どうにかこうにか広場を抜け、建物の庇の下に逃げ込んだ。南京駅を振り返る。平べったい駅舎がジリジリと太陽に炙られているその姿が、私にはかまどそのものに見えた。

  駅から少し離れると、並木道が続いていた。並木道の下は日陰になっていてかなり歩きやすい。ただ、最初にくらった暑さが原因なのか、頭がジクジク痛んで、倦怠感が抜けなかった。路上のスイカ売りが「買わないか」と目くばせをしてきたので、十二等分くらいに切られた一切れを買った。模様はスイカっぽいが、形は楕円形で冬瓜のようにも見えた。大口でがぶりつくと、「これだ! これを待っていた!」と体中の細胞が歓喜の声を上げた。あっと言う間に一切れ平らげ、返す刀でさらにもう一切れ平らげた。熱気で枯れかけていた体が、心が、息を吹き返した。まだ頭痛が消えたわけではなかったが、しばらく歩けるだけの体力は戻ったように感じた。
 駅で購入した南京の地図を確認すると、今いる場所から南京大学まではそれほど遠くないことが分かった。こんな状態でとても野宿などする気にはなれない。情けないが、南京大学へ行ってみよう。
「スーシュー ツァイ ナール?(宿舎在哪儿?)」
 私は宿舎の場所を尋ねる中国語を練習しながら、南京大学へ向かった。

南京大学宿舎

  「南京大学はとても広いので、大学に入る前に、この住所を誰かに見せて宿舎の場所を尋ねて下さい」
 汽車の中で出会った女性は、そんな主旨のことを言いながら、紹介状とは別に、宿舎の住所を書いた紙を渡してくれた。疲れていたので、できるだけ迷いたくなかった私は、言われたとおり早めに道を尋ねた。商店の軒先にいたおじさんに住所を見せ「チータオマ(知っていますか?)」と尋ねる。おじさんはうんうんと頷き、道行く別のおじさんを呼び止め、その住所を見せる。彼もまたうんうんと頷き、私についてくるよう手招きをする。上海駅でも経験したあの連係プレーだ。私は迷わずついていった。 
 そのおじさんは特にフレンドリーというわけでもなく、終始無言だった。大きな交差点に来ると、また違うおじさんに声をかけ、住所を書いた紙を見せる。さらなる連係プレーだった。そんな調子であと二人ほどが関わり、私は南京大学宿舎の受け付けまで辿り着いた。「スーシュー ツァイ ナール?(宿舎在哪儿?)」を使う間もなかった。

 大学の職員さんに案内された部屋にはベッドが四つ。それぞれのベッドが十分に離れており、そして天井が高い。なかなかに開放感のある四人部屋だった。この部屋に一人だと、ちょっと寂しいくらいだ。懐中時計を取り出す。四時を回っていたが、まだまだ全然日が高い。サマータイムのおかげだ。
 シャワー室が自由に使えるというので行ってみる。中国に来てから初めてのシャワーだ。たっぷりこびりついた汚れを落とそう・・・と期待したものの、水しか出ないし勢いも弱い。しかも石鹸がないので、汚れが落ち切らない。中途半端なスッキリ加減で部屋に戻った。ベッドに腰かけると猛烈な眠気に襲われ、そのまま寝てしまった。

 ガチャガチャとドアノブを回す音で目が覚めた。私を案内してくれた職員さんが、ガヤガヤ喋りながら入ってきた。見ると、職員さんの後ろに、明らかに旅の格好をした若い女性がいる。職員さんは私と彼女を交互に見ながら何やらギャアギャアと説明して出て行った。内容は何一つ分からなかった。分かったのは最後の「ミンパイラマ?(分かりましたか?)」だけだった。
 寝起きで今ひとつ状況が飲み込めない私に、「ごめんねー、もしかして寝てた? 私、浜本って言います」彼女はそう言って、三メートルくらい離れている隣のベッドに腰を下ろした。
 浜本さんは北海道生から来た大学四年生。学生最後の夏休みに、ゆっくり一人で中国を回っているという。中国旅行は三度目で、私よりもはるかに中国に詳しかった。色々と中国の情報を教えてくれたが、その中でショックだったのが、汽車の中で盛り上がった「ティンプドン」の意味だった。浜本さんはノートを取り出し、漢字で「听不懂」と書いて、こう教えてくれた。
「『聞いて分からない』って意味だから、『ああ、この兄ちゃん中国語分かんないだわ』って言われてるんだよ。アハハハ」
 調子に乗って「ティンプドン」を連発していた自分を思い出すと、顔がかまどになるくらい恥ずかしかった。しかしそれよりも、ケラケラ笑いながら話す浜本さんを見て、宿舎に来て本当に良かったと思っている自分がいた。

 晩ご飯を一緒にということで、身支度を済ませ、さあ出かけるぞという段になって、またさっきの職員さんが入ってきた。今度は若い男性を連れている。爽やかな笑顔で、やや控え目に「こんにちはー」と挨拶をしたのは、渡辺さんと言って、京都から来た大学三年生。小柄だが、精悍な顔つきで頼りがいのありそうな人だった。腹ぺこで死にそうだと言うので、早速三人で街へと繰り出した。
 たった今出会った旅人同士でワイワイ騒ぎながら食事へ出かける。私にとって今回の旅は、自分を成長させるための修行のような位置づけだった。それが、こんな楽しい気持ちになっていいものだろうか。そんな罪悪感を抱えながら、楽しい晩餐を過ごすのだった。

再会

  ジクジクとした頭痛で目が覚めた。昨日、暑さでやられた時のあの痛みだ。宿舎に着いてからは収まっていたのだが、やはり昨晩楽しい思いをしたバチが当たったに違いない。
 見回すと、渡辺さんはまだ寝ている。浜本さんのベッドは空。
 ヨイショッとベッドから出ようとすると、既に身支度を調えた浜本さんが部屋に戻ってきた。
「おはよー! 食堂見つけたから、みんなで行こーよ」
 私と渡辺さんは、取るものも取りあえず、浜本さんに連れられて食堂へと向かった。

 食堂は、十人も入れば満席になるような小さなものだった。壁や床は全てコンクリート。ひやっとした空気感が、どことなく豆腐屋のようでもあった。
 三人とも朝食セットのようなものを頼んだ、というか、食事メニューがそれしかなかった。席に座るなり渡辺さんが「ヨーグルトないかな?」と口を開いた。「スワンナイ(酸奶)でしょ? あれ美味しいよね」と浜本さんと盛り上がっている。蚊帳の外になるわけにはいかないので、「スワンナイ」の発音を二人に教わり、食堂を切り盛りしているおばあさんに、あるかどうか尋ねた。本当に幸運なことに、一本だけあるというので、迷わず食べてみることにした。
 おばあさんに牛乳瓶のようなものを渡される。軽く揺り動かしてみるが、中身はそれほど揺れない。席に戻ると「飲んでみなよ」と浜本さん。瓶に口をつけ、天を仰ぐ。ドロドロの液体が口の中に流れ込んできた。それほど甘くはない。まろやかでコクのある牛乳といった味わいだが、それでいてサッパリしている。程良く冷やされているのもいい。おばあさんに向かって「ハオフー(美味しい)」を連呼すると、「ハイハイ」といった表情で笑っていた。

  朝食を終え、「晩ご飯は、時間が合えば一緒に」というゆるい約束をして、それぞれがそれぞれの目的地へと散っていった。三人の滞在予定は、浜本さんと渡辺さんが三泊、私は四泊する予定だ。とりあえず今日は、中華民国の父・孫文のお墓・中山陵へ行くことにした。

 南京の街は上海よりもゆったりと、そして静かに時間が流れていた。道路は、車道、自転車道、歩道にしっかりと別れており、広々としていて開放感がある。それに並木道のおかげで余計な日射しを浴びることがない。そんな南京の街で、私はバスに揺られながら後悔していた。朝から続く頭痛に加え、倦怠感まで表れ始めたからだ。本当は、今日一日は宿舎でゆっくりして、周辺を散歩する程度にとどめておこうと思っていた。しかし、一日の終わりに三人で集まったときに、「どこへ行った、ここへ行った」と少しでも多く自慢したいがために、無理をして出発してしまったのだ。
 
 中山稜近くのバス停で降りた。街から外れているので並木道はなく、ギラギラとした直射日光が小魚の群れのように降り注いでいる。そんな中でもさすがに観光地というだけあって、物売りのおじさんおばさんたちは威勢良く声を張り上げている。アイスクリームを一つ、小柄で浅黒いおばさんから購入し、ついでに中山稜の詳しい場所を聞いてみた。
「チョンシャンリン ツァイ ナール?(中山稜はどこですか?)」
 おばちゃんは面倒くさそうな表情で山を何度も指さした。中山稜は山の中腹にあり、辿り着くには長い階段を登らなければならないということを、その時知った。
「ダメだ、とても体がもたない。帰ろう」
 宿舎に帰るつもりで反対車線のバス停へ向かおうとしたときだった。後ろから、「あっれー! 偶然だねえ!」と声をかけられた。驚いて振り返ると、フェリーで知り合った田倉さんだった。私は「ひゃああああ」と素っ頓狂な声を出して飛び上がった。
「ええ? 田倉さん、なんで南京にいるの?」
「南京に行くって言ったじゃん」
「あれえ、そうだったっけ?」
 そんなやりとりをしながら、大いに再会を喜び合った。
 私の一方的な想いかもしれないが、田倉さんとは妙に波長があい、一緒にいるだけで楽しかった。上海で簡単に別れてしまったのをずっと残念に思ってもいた。その田倉さんと、まさか南京で出会うとは夢にも思っていなかった。
 そしてこれは本当に不思議なことなのだが、彼と再開した途端に、頭痛と倦怠感が嘘のように消え去り、それ以後、体の不調に悩まされなくなったのだ。気分が体調に及ぼす影響の大きさを、そのとき初めて知った。
 ともあれ、心身共に元気になった私は、田倉さんと一緒に中山稜を見て回った。建物や風景など、それなりに見学したつもりだが、ここでは「田倉さんと喋った」という記憶しかない。それほど、彼と再会したことが嬉しかったのだ。

「田倉さん、近くに南京城ってとこがあるから見に行こうよ」
 うんうんと頷く田倉さん。なんだかすっかり遊び気分になってしまった。
『今晩は、田倉さんを二人に合わせよう。そうだ、ベッドも一つ空いてるから、田倉さんも宿舎に泊まればいい』
 そんなことを一人で考えながら、南京城方面へのバスを待つ。バス停には私たちの他に十人以上が待っていた。なかなかの混み具合だ。
 バスが来て、他の乗客と混ざり合うように乗り込んだ。ふぅと一息ついて振り返ると、田倉さんがいない。バスが出発する。外を見ると、田倉さんはそっぽを向いて立っていた。そして、どんどんどんどん小さくなっていった。

  田倉さんと離ればなれになった私は、急いで次のバス停で降り、走って引き返した。何が起きたか分からなかった。バスに乗りそびれたのか? もしかしたら、何かトラブルがあったのではないか?  走りながらつい先ほどの光景を思い返す。……田倉さんに慌てた様子はなかった。……それどころか、彼はバスの方を全く見ていなかった……。
 私は小走りをやめ、ゆっくりと歩きながら「みっともねー」とひとりごちた。早い話、私は田倉さんにフラれたのだ。思えば、彼と再会してから、私はずっとはしゃいでいた。はしゃぎすぎて一人で一方的に喋っていたと思う。そんな私が鬱陶しくなって、私を撒くためにバスに乗らなかったに違いない。そうだ、あの人はそういう人だ。
 田倉さんにそんな決断をさせてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 穴を自力で掘ってでも隠れたいほどの自己嫌悪に陥った私は、慌てて向きを変え、逃げるようにその場から離れた。
「ああ、みっともない、ああ、みっともない」
 そう何度も呟く。
 中国に来てからみっともない事ばかりしている。

救われた夜

  一体、私は何のために中国へ来たのだろうか?
 上海ではフェリーで知り合った仲間やガイドのマークに嫌な思いをさせ、ここ南京でも田倉さんに嫌な思いをさせ、もしかしたら私は、人に嫌な思いをさせるために中国へ来たのかもしれない。

 その日、私はひたすら歩いた。所々でジュース・オアシスを飲んで水分補給こそしたものの、全く食事を取らず、自分を痛めつけるようにひたすら歩いた。フラフラになって南京大学に帰り着いた頃には、街は逢魔が時に包まれ始めていた。おそらく六時間以上歩き続けたのではないだろうか。
 転位行動という現象がある。たとえば、猫が何か失敗行動を起こしたときに、本心を知られないために毛繕いなどをしてごまかすのがそれだ。私も失敗だらけの自分が嫌になって、その転位行動としてひたすら歩き続けたのかもしれない。

 宿舎の廊下をキシキシと軋ませながら部屋に戻ると、ベッドの上に置き手紙があった。「渡辺さんと四川料理店にいるよ」というメッセージと、店までの地図が書いてある。冷え切っていた私の心にとって、この手紙は暖炉のように温かかった。申し訳程度の身繕いをして、急いで二人が待つお店へ向かった。

 行き着いた四川料理店は、薄いスモークのかかった大きなガラス窓が特徴的で、どことなく高級そうな雰囲気が漂っていた。気後れしながらソーッと扉をあけると、中年の女性店員さんがスタスタと近づいてきて、ぶっきらぼうに「リーペンレン?(日本人?)」と尋ねてきた。「トゥイ、トゥイ(はい、はい)」と答えると、腕を捕まれて店内へ入れられた。「もう二人とも食べてるから、早く行ってあげなさいよ。ホラホラホラ」といった感じで、つつかれるように店の一角へ案内された。
「あー、来た来た!」
「お帰りー!」
 浜本さんと渡辺さんが立ち上がって迎えてくれる。「家族みたいだなあ」そう思うと胸が熱くなった。声を出すと涙が出そうだったので、私はヘラヘラと笑いながら席に着いた。
「なんか、朝よりやつれてない?」
 浜本さんがそう言うと、渡辺さんも私の顔を覗き込み、「うん、ほんとほんと、別人みたい」と同意している。どうやら自分の事が嫌いになりすぎて、人相まで変わってしまったようだ。『うん、そうだ。これを機に別人に生まれ変わろう』そう思って、こうおどけてみせた。
「はい。私、紅衛兵に捕まって自己批判させられて、別人に生まれ変わりました。チューヅー チエンミエン(はじめまして)」
 ギャハハと大口を開けて笑う二人を見て、私も一緒に笑った。心がむき出しになったようで、腹の底から笑いが込み上げてくる。笑っているうちに、今日のみっともない行ないが浄化されたような気がした。
 案内してくれた店員さんが「さっさと注文しなさいよ」といった感じで、割って入ってメニューを押しつけてくる。私は大声で、自信満々にこう答えた。
「ツェイ ピエンイ ダ!(一番安いものを)」
 店員さんは吹き出して失笑し、メニューで私を叩く。私たちはさらに大笑いした。
 二人に救われた夜だった。

再挑戦

 当たり前のことだが、別れがやってきた。
 南京滞在四日目の朝。飛行機で北京へ行くという浜本さんとは、南京大学の前で別れた。私たちと固い握手を交わした彼女は、「楽しかったね。手紙書くね」そう言って空港方面へのバスに乗り込んでいった。混雑するバスに涼しい顔で体をねじ込んでいく姿が逞しい。小柄な浜本さんはすぐに見えなくなった。彼女がこちらを見ていることを信じて、バスが見えなくなるまで手を振った。
「行きますか」
 口数少なに、私たちは反対車線のバスに乗り込んだ。渡辺さんは、今日、汽車で杭州まで向かうそうだ。私は明日、上海にほど近い蘇州へ行く予定なので、切符購入を兼ねて南京駅まで渡辺さんを見送りに行くことにした。浜本さんにしても渡辺さんにしても、朝と夜しか会うことがなかったので、昼間に行動を共にするというのがどうも照れくさい。渡辺さんは、乗客の隙間から無言で窓の外を眺めている。何か声をかけようかとも思ったが、結局南京駅に着くまで二人とも無言だった。
「お互い良い旅を!」
 握手した手に力を込めた渡辺さんはそう言い残して、駅のホームへと向かっていった。小柄だが、力強く歩く後ろ姿に見惚れる。浜本さんにしても渡辺さんにしても、後ろ姿のなんと格好の良いことか。あらゆる面で、この二人には遠く及ばないことを実感する。
 短い時間に二人と別れ、かなり寂しい気持ちになったが、感傷に浸る暇はない。今日は切符を買うという重大な仕事がある。上海駅の切符売り場で戦意喪失して逃げ出したことを、私はずっと後悔していた。南京でも駅以外で切符が買えるという情報は得ていたが、私にその選択肢はなかった。一度は自力で切符を買わなければ格好がつかない。「万里の長城に行かなければ男じゃない」ではないが、「駅で切符を買わなければ男じゃない」。私は秘かに闘志を燃やし続けていたのだ。

 南京駅の切符売り場は、広さは上海ほどではないが、混み具合は負けず劣らずの様相だった。
 まずは、少し離れたところから全体の状況を把握する。窓口は八つほどあるが、向かって右側の二つが閉まっている。そのせいで窓口の右半分は、見るからに混沌としていた。狙うなら左の方だ。さらに観察を続けると、左から二番目の窓口だけ、少し回転が速いことに気がついた。あの窓口には“デキる職員”がいるのかもしれない。狙いは決まった。
 最後尾につく。最後尾といっても、その場所が明確に決まっているわけではない。集団の最も後ろで、向かって左から二番目の窓口を正面に見据えられる位置という意味だ。その最後尾でさえも、熱気は凄まじかった。何を言っているのかは分からないが、誰も彼もが何か叫んでいるのだ。ただ闇雲に叫んでいる人もいれば、前後で罵りあっている人たちもいる。右を向いて叫んでいる人もいれば、左を向いて叫んでいる人もいる。ここは、何かの地獄なのかもしれない。
 だが、上海の時とは違い、今日は全て承知の上で来た。迷いはない。
 意を決して人混みの中に分け入ると、瞬く間にモミクチャにされた。それでもめげずに、手を目一杯前に伸ばし、そこにいた人の肩をつかみ、それを取っ掛かりにして体を前進させる。私の周囲の音量が一斉に上がった。意味は分からないが、たぶん「殺すぞ日本人!」くらいのことは言っているに違いない。何か言い返したいが、罵詈雑言の類の中国語は一つも知らない。仕方なく「トゥイプチー(ごめんなさい)」と大声で言ってみた。不思議なことに、大声を出すと勇気も湧いてくる。私は「トゥイプチー」を大声で連呼しながらジリジリと前に進んだ。
 十人はかき分けただろうか、私は集団の中程にまで進むことができた。疲れたので少し休もうとしたが、隣の人が「お前、横入りしただろ。出て行け」みたいなことを身振り手振りを交えて騒ぎ出してきた。もうこうなったら前に進むしかない。「トゥイプチー!」と大声で叫んでから、再び掻き分けるように前進する。言い訳するわけではないが、私と同じようにしている人は何人もいる。そして、多かれ少なかれそういう事をしないと窓口まで辿り着けないのだ。つまり私はただ、郷に従っているだけなのだ。
 こうして私は無事(でもないが)窓口に来ることができた。ところが驚いたことに、「ミンティエン、スーチョウ、イーカレン(明日、蘇州まで一人)」と窓口の女性職員に伝えると、「あなた割り込んでたでしょ、ダメダメ」みたいな感じのことを言って、手でシッシッとやるのだ。意味がよく分からないので、再度「スーチョウ、イーカレン」と大声で叫ぶも、「はい、次の人」といった感じで私の後ろの人を促している。これにはさすがに頭にきた。なり振り構わず、私は日本語で怒鳴りつけた。
「こんな切符の売り方しとるあんたらの方が悪いんだがや。俺はあんたらの真似しとるだけだがね。そんな冷たい対応せんといてよ。南京と名古屋は姉妹都市だがや。頼むわ。スーチョウ、イーカレン、ちょうだいよ! スーチョウ、スーチョウ!」
 名古屋弁丸出しになるほど激高した私の気持ちが通じたのか、女性職員は嫌々ではあるものの、蘇州までの切符を発行してくれた。やればデキるじゃないか。
 「絶対にこの国の切符の売り方は間違っとる」
 ブツブツと文句を言いながら、私は南京駅をあとにした。

決別

  だだっ広い部屋で一人、真っ暗になった窓を横目に、商店で買った少しも美味しくないパンを食べながら、私は日記をしたためていた。浜本さんと渡辺さんのことを思い返す。
 一体、何だったんだろう、この出会いは。偶然同じ日にこの宿舎に泊まりに来た日本人が三人。皆それぞれの目的を持って昼間はあちこち飛び回り、夜にはその日の土産話を披露しあう。家族みたいだった。そうだ。間違いなくこの数日間、私たちは家族としての温もりを感じ合っていた。しかし、今部屋にいるのは……
「俺一人かあ……」
 深い溜息をついた。浜本さんと渡辺さんのいたベッドを交互に眺める。二人の姿をはっきりと思い浮かべる事ができた。話し声や笑い声、シラミにくわれてボリボリと肌を掻いている音さえ聞こえてきそうだ。しかし現実は、私一人。
 ふいに立ち上がって、小さく「浜本さーん、渡辺さーん」と呼んでみた。当然、何の反応もない。今朝までいた人たちがもういない。そして、もう二度と会わないかもしれない。
「そうか、もう会えないのか……」
 そう呟くと、胸がざわざわと騒ぎ出し、後頭部が締め付けられるような感覚に襲われた。体中を掻きむしったが、その感覚は収まらない。二人がいないという現実を心も体も受け止められなかった。
 檻に閉じ込められてストレスのたまったライオンのように、何度も何度も部屋を往復する。呼吸をするのが苦しくなる。耐えきれず、私は部屋を飛び出した。

 南京大学の敷地内を当てもなく歩いた。暗闇が、大学の広い敷地をさらに広く感じさせる。しばらくすると何もない空間に出た。グラウンドだった。私は走り出した。力一杯走ればあの二人に追いつけるような気がした。もちろんそんなことはできるはずもないが、その時の私は、肉体的に自分を追い詰めることでしか、気持ちを落ち着けることができなかったのだ。

 どれくらい走っただろうか。足が痙攣しだして、私はグラウンドに寝転がった。土が冷やっとして気持ちいい。自然と、王さんが教えてくれたあの歌が出てきた。
「Baby baby baby Stay with me」
 悲しみを増幅してしまうようなこの歌を何度も何度も口ずさむ。涙が溢れ、目尻からドクドクとこぼれていく。
 人との別れがこんなにも辛いものだと知った、十八歳の夜だった。

 甲高い蚊の羽音で目が覚めた。泣きながらいつの間にか寝入ってしまったようだ。かすかに空が白み始めている。
 あちこち迷いながら宿舎に辿り着いた時には、周りはすっかり明るくなり、大学の職員さんがチラホラと出勤し始めていた。
 宿舎に入り、出の悪い冷たいシャワーを浴びる。真夏の南京でも朝は涼しく、全身鳥肌をたてながら体を擦った。小さく縮こまった陰茎と陰嚢が、今の自分自身そのもののようだった。
 ガタガタと震えながら体を拭く。相わらず中途半端にしかサッパリしないシャワーだが、それもこれで最後だと思うと、一抹の寂しさを覚えた。
 部屋に戻り身支度を整える。出発準備完了。最後に部屋を見渡す。まだ浜本さんと渡辺さんの余韻が残っているが、差し込む朝日のおかげで、悲しい気分になることはなかった。部屋の空気を大きく吸い込み、深々と礼をして、私は部屋を後にした。

 食堂を覗く。いつもより時間が早いので、おばあさんがちょっと驚いた表情を見せた。このおばあさんのふっくらとした体型、ギョロッとした目、割烹着のような服装、そして、全体から醸し出される温かい空気感が、八歳の時に他界した私の祖母にそっくりで、毎朝このおばあさんに会うのを秘かな楽しみにしていた。
 南京最後の朝食を食べ終わり、思い切って筆談で話しかけた。
「你 似 我的祖母」
 中国語として正しいかどうかは分からないが、「あなたは私の祖母に似ている」と伝えた。おばあさんは私の顔をじっと見つめる。そしてゆっくりと視線を落として、次の瞬間、鼻で笑った。そのあとは目も合わせてくれない。私は一気に恥ずかしくなり、頭をかきながら「ツァイチェン(さようなら)」と言って、足早に食堂を離れた。おばあさんは「冗談じゃないわよ」とでも思ったのだろうか。思いのほかひどい反応に、逆に笑いが込み上げてきた。
 いつも通った南京大学の通用門を過ぎ、振り返る。南京での様々な思い出が蘇る。
「ありがとうございました」
 腰が折れそうなくらいの礼をして、私は元気よく出発した。数日間しかいないのに、すっかりここの卒業生になったような気分だった。

蘇州

  旅なんてものはこうあるべきだというルールはないとは思うが、それにしても私はつくづく旅の仕方を知らない。蘇州に来て、改めてそう思った。駅に着いて、路上で街の地図を買う。それを見て、なんとなく興味をひかれたところに行く。ただそれだけなのだ。
 まず目にとまったのが駅からほど近い獅子林。ここは庭園なのだが、「獅子林」という字面がかっこいい、ただそれだけの理由で向かった。そして、近くに拙政園という庭園があったので、「せっかくだから」と、ついでに寄る。一事が万事、その調子で、ポリシーというものが欠片もない。そもそも蘇州に来たのも、なんとなく「そしゅう」という言葉の響きがきれいだったから、それだけなのだ。
 そういう内面的な薄っぺらさをごまかすために、私はとことん歩いて体を疲れさせているのかもしれない。一日中歩いてヘトヘトになると、なんとなく旅をした感じに浸れる。「こんなことではいけない!」と思いながら相変わらず歩いていると、レンタサイクルの店が見えてきた。気分を変えるために自転車にでも乗ってみることにしよう。
 「チンウェン(すみません)」と、建て付けの悪いガラス戸をこじ開けながら店内に声をかけると、ちょっとガラの悪そうなお兄さんが二人出てきた。値段を聞くと、ニヤニヤしながら「十元」と答えた。十元というと、私にとってはだいたい二日分の食費だ。
 「タイクェイラ(高すぎる)」と言って立ち去ろうとすると、「待て待て、俺たちが悪かった」といった感じで行く手を阻み、「八元」と伝えてきた。「プーヤオ(いらない)」と言うと、七元、六元、五元とどんどん下がっていき、最終的に一・五元にまで下がった。だが、どうにもこの二人が信用できず、結局自転車は借りなかった。二人は、立ち去る私を憎々しげに睨んで、何やらブツブツ文句を言っている。やはりこんな連中から借りなくて良かった。
 ただ、後で調べたら、レンタサイクルの相場は三元ぐらいだった。もしかしたら、それほど悪い人たちではなかったのかもしれない。トゥイプチー(ごめんなさい)。
 
 蘇州の街はその「そしゅう」という優しい響きと同じように、とても静かな雰囲気だった。発展していないわけではないが、どことなく田舎の空気感が漂っており、街全体が落ち着いている。お店もゴチャゴチャと乱立しているわけではなく、ポツリポツリと少しずつ離れている。昼食を買うために入ったパン屋さんも、そんな中の一軒だった。ちょっと小洒落た感じで、日本ではよくある個人経営のパン屋さんのような店構えだった。中国に来てからは初めて見るタイプの店舗だ。
 店のドアを開けると、店幅いっぱいのショーケースに、種類は多くないが美味しそうな総菜パンがいくつか並んでいる。そして驚くことに、ショーケースの奥には、可愛らしいお姉さんが三人も並んで、ニコニコと私を見ている。皆、きれいなワンピースを着ているが、制服という訳ではなく、それぞれが違う色合いだった。「ニーハオ」と挨拶すると、一人がはにかみながら「ジャパニーズ?」と聞いてきた。かわいい。ヘラヘラと「イエス」と答えると、キャッキャッと喜んで、「ハロー」、「ハロー」、「ハロー」とそれぞれ挨拶してくれる。どうやら天国に来たようだ。
 何か会話を繋げなくてはと思い、「ウォー ヤオ ミエンパオ(パンが欲しい)」と言ってみる。三人はコソコソと小声で相談し合って、「プリーズ」と言って両手を広げてくれる。「パンが欲しい」に対して「どうぞ」。それに、日本人の私が中国語で、中国人の彼女たちが英語。なんとも間抜けなやりとりだが、この上なく楽しい。
 そのあとも、自己紹介をしあったり、好きな食べ物を言い合ったりと、大いに盛り上がった。そして、盛り上がりすぎてパンを十個も買ってしまった。この日の昼食と夕食、さらに翌日の朝食もおそらくパンになるが、少しも後悔はなかった。

  街はずれの小さな川に来ていた。まだまだ開発途上のようで、川を挟んで街と田舎がくっきりと別れていた。街側の橋のたもとに腰かけて、地図を見ながら先ほど買ったパンを食べている。今まで食べた中国のパンとは全く違って、日本のものと同じくらい美味しかった。我ながら良いお店に入ったものだ。
 橋のたもとから通りを挟んで大きな雑貨店があった。ガレージを改築したようなその店には、ラジカセやテレビなどのオーディオ機器、壷や皿などの陶器類が無造作に置いてある。そして、街はずれの特権だと言わんばかりに大音量で音楽を流していた。近所の人にとっては迷惑だろうが、私にとっては中国の音楽が聴けるいい機会だった。
 ゆったりとして、ムードたっぷりで、「これぞ中国!」といった歌が流れてきた。蘇州の、この静かな川沿いで聴くにはぴったりの曲調だった。聴き入り始めて、思わず「あれ?」と声に出してしまった。日本語で歌っているのだ。花を見つけた蝶々のように、私はフラフラと雑貨店へ近づいていった。
 「涙ぐむよな、おぼろの月に、鐘が鳴ります、かんざんじ」という歌詞が聴き取れて、しばらくして次の曲に移ってしまった。それにしても心洗われるような素敵な歌だった。ボーッと余韻に浸っていると、店の奥から店主がワイワイ騒ぎながら出てきた。意味は分からないが、「うちの店に何か用か? 買うのか買わないのか? 買わないなら出て行け!」というアテレコがはまりそうな口調だった。
 「トゥイプチー(ごめんなさい)」と謝って店から離れようとしたら、「リーペンレン?(日本人か?)」と聞いてきた。コクリと頷くと、こっちへ来いと手招きをする。どうやら敵意はないようなので、ゆっくりと近づいた。店主は紙に何か書いて、私に見せてくれた。
「 苏州夜曲」
 蘇州夜曲。有名なこの歌を、私はこの蘇州で生まれて初めて聞いた。なんという僥倖。ちなみにこの蘇州夜曲、一九四〇年製作の映画「支那の夜」の劇中歌として作られ、日本のみならず、中国や台湾など、日本の支配下の国で人気を博した。しかし、戦後の中国では「日本軍が中国侵略に利用した忌まわしい歌」とされ、長い間禁歌扱いを受けていたという。私が尋ねた一九九〇年代初め頃から日中友好ムードが高まり、この曲も堂々と聞けるようになったらしい。

 「良い歌」という中国語が分からないので、「グッドミュージック、グッドミュージック」と主人に伝えると、カセットテープをキュルキュルと巻き戻してくれて、最初から聴かせてくれた。改めて蘇州夜曲の世界にどっぷりと浸かる。聴き終わると、店主は私の持っていた地図を取って、ある場所を指さした。「寒山寺」とある。そうか、歌詞の最後に出てくる「鐘が鳴りますかんざんじ」とは寒山寺のことで、それが実際にあるのか。私が目を輝かせて店主を見ると、店主はとても満足そうな笑みを浮かべていた。
 私は旅の仕方はよく知らないが、こうやって人の笑顔を見ると、心の底から喜びが湧き上がってくる。
笑顔。それを目的に旅をするのも悪くないと思った。

野宿

  蘇州に来た目的は特に何もなく、ただ地名の響きの良さにひかれて来たわけだが、実は一つだけ「絶対にこれはしよう」と決めていることがあった。それが野宿だ。
 明後日私は、帰国するために上海からフェリーに乗らなければならない。余裕をもって前日、つまり明日には上海に着いていたい。上海は悪い人が多そうなので、野宿できるかどうか分からない。となると、安全に野宿できるチャンスは蘇州にいる今日しかないのだ。
 蘇州に着いてからは、それとなく野宿する場所を探していた。庭園やお寺を回っている時も、「どこか隠れて寝られる場所はないか?」という下心を忍ばせていた。だが、そういった施設は、どこも夕方には門を閉じてしまうようだった。
 寝場所を探すのに疲れ、私はフラフラと、地図上のどこの場所かも分からないような川べりを歩いていた。川岸にミニショベルが見える。動いてはいない。作業の途中で放り出したような状態で、掘り起こされた土砂がだらしなく川に流れ込んでいた。テレビなどで見る「水の都・蘇州」の美しい風景とは程遠い。
 腰かけるのにちょうど良いコンクリートの塊があったので、そこに座ってボンヤリと川を眺めた。西日がキラキラと反射して、そこだけはきれいだった。
 そもそも、なぜこんなにも野宿にこだわるのか。正直自分でも分からない。変わった性癖と言ってしまえばそれまでかもしれない。ただ、一つ言えることがあるとすれば、外で寝ると、その土地を直に感じられるような気がするのだ。その土地の文化や歴史は、博物館や美術館へ行けば知ることができる。いや、誤解を恐れずに言えば、そんなことはその土地に来なくてもある程度は知ることができる。だが、その土地の空気に包まれながら、その土地の地面で寝ることは、その土地でしかできない。そう、私はその土地と一体になってみたいのだ。
 そんなことを考えているうちに、西日は夕日へと変わっていた。夕日が支配する赤と黒の世界では、工事中の汚い川でさえも美しい風景に見えた。ここでこのまま寝たらさぞかし気持ち良さそうだが、こんな水辺では蚊にたかられて大変なことになりそうだ。暗くなる前に、私は街の方へ向かうことにした。

 すっかり暗くなった蘇州の街。まだそれほど遅い時間ではないが、人通りはまばらだった。歩道だけがアーケードで覆われた商店街のような通りに、コンクリート造りのしっかりとした建物があった。看板を見ると、どうやら銀行のようだ。入り口は格子状のシャッターが閉まっていた。歩道から入り口までは三メートルほど奥まっている。奥まったスペースは三面が囲われた状態になっているので、ちょっとした部屋のようでもある。一目見て、ここを一晩の寝床にしようと決めた。
 わずかに届く街灯の明かりをたよりに、荷物のチェックをする。蘇州駅に着いたときに買っておいた上海までの切符(これは拍子抜けするほど簡単に買えた)、パスポート、財布、懐中時計、衣類、パンの残り四個。そして首から下げたお守りと、その中に入っている一万円札。旅に出る前の予定では、この一万円札は日本に着くまで使わないことになっている。そして実際、計画通りにいきそうだ。満足げに荷物をしまい直す。
 ふと、ナップサックの中に何か長細いものがあることに気がついた。取り出すと、歯ブラシだった。そういえば、歯ブラシを持ってきたものの、中国に来てからは一度も歯を磨いていない。歯磨きが嫌いなわけではないが、なんとなく磨きそびれていたのだ。せっかくだから、その場でゴシャゴシャと磨いてみた。すると面白いことに、南京で初日に食べた麻婆豆腐の味が出てきた。懐かしさと汚らしさを感じながら、しばらく歯を磨く。
 不思議なもので、一か所がきれいになると、他の部分の汚さが目立つようになる。髪の毛がゴワゴワしているのがどうにも気になってしょうがない。手ぐしでまとめようとしたが、まるでまとまらない。「櫛でもあればなあ」とあるはずもないものをキョロキョロ探すと、使ったばかりの歯ブラシが目にとまった。試しにそれで髪の毛を梳かしてみた。小さすぎて梳かしにくいが、できないことはない。しばらく梳かして、ふと歯ブラシを見ると、毛が真っ黒になっていた。髪がそれだけ汚れていたのだ。しかし、すすぐための水は手元にない。仕方がないので口の中に突っ込んで再度歯を磨くと、歯ブラシは白さを取り戻した。そしてまた髪を梳かす。何度かこれを繰り返すと、思いのほかスッキリとした気分になった。 

 寝床から離れて、街灯の下で日記を書いていると、自転車に乗ったおじさんが大声で歌をうたいながらフラフラと通り過ぎて行った。静まりかえった街が、余計に引き立つ。時計を見ると、九時を過ぎていた。程良い眠気が滲み出てきた。寝るにはいい頃合いだ。
 寝床に戻り、ナップサックを枕代わりにして、横になって丸まった。暑くも寒くもなく、快適に眠れそうだったが、心配していた敵が、やはり現われた。蚊だ。無視して無理矢理寝ようとするも、だんだん数が増えくる。血を吸われるのは何ともないが、なにせ羽音がうるさくて敵わない。私はナップサックからTシャツとタオルを取りだし、それを耳が隠れるようにグルグルと顔に巻き付けた。そのまま横になって丸くなると、羽音はほとんど気にならなくなった。
 途中、誰かが心配したような口調で肩を叩いてきて起こされたが、それ以外は問題なく一晩を過ごすことができた。

 ふくらはぎに冷たい何かが当たった感触に「ひええ」と驚いて目を覚ました。頭に巻いたタオルとTシャツを急いでほどくと、スタスタスタと逃げていく野良犬が見えた。どうやら犬ににおいを嗅がれて鼻が当たったようだ。こちらをたびたび振り返りながら、背中を丸めて逃げていく姿が、なんとも可愛らしかった。
 街は既に薄明るく、チチチと小鳥がさえずっている。キィキィと音を立てて荷車をひくおじさんが、私を怪訝な目で見て通り過ぎて行く。「ニーツァオ(おはよう)」と元気よく挨拶をすると、一瞬面食らった表情を見せた後、顔をしわくちゃにして笑ってくれた。やはり笑顔はいいものだ。
 大きなあくびをして、蘇州の朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。なんとも素晴らしい朝だ。ただ寝ていただけのことだが、「異国の地で野宿をした」という達成感があった。無事に朝を迎える、ただそれだけのことでこんなにも幸せな気分になるとは思ってもいなかった。やはり野宿をして正解だった。

 ちなみに、その晩はたっぷり蚊にくわれたはずだが、不思議と痒みは全くなかった。それどころか、蚊にくわれた跡さえなかった。後になって調べてみると、「蚊に最後まで血を吸わせると、痒み成分を蚊が回収していくので、痒くならない」ということだった。本当かどうかは知らない。

小悪党

  蘇州から乗った汽車はかなり混雑していた。行商のためだろうか、大きな籠を担いだり頭に乗せたりした人が何人かいて、混雑に拍車をかけている。たまたま座ることができたが、人が多すぎて息苦しさを覚える。ただ、上海までは二時間足らず。ほんの少しの辛抱だ。
 向いの座席に座っていた二人組の中年男性が話しかけてきた。言葉づかいがやや乱暴な感じで、笑顔が少しもない。一人が、持っていたお菓子を差し出してきた。上海で買ったことのあるらくがんのようなお菓子だ。これは歯が痛くなるほど甘くて、一つ食べるのに三日間を要した。もう二度と食べたくない。
 「タイ ティエン ラ(甘すぎます)」と言って笑顔で断ったが、「そんなこと言わずに食え」といった感じで、お菓子の入ったプラスチックのケースごと、グイグイ押しつけてきた。「プーヤオ、プーヤオ(いらない、いらない)」と顔をしかめて断ると、むっとした顔をして私を凝視する。殺意すら感じる視線だ。男は急に立ち上がり、ガチャガチャと汽車の窓を開け、外にお菓子を投げ捨て、ついでに他のゴミもポイポイと放り始めた。私まで捨てそうな勢いだったので、座席の肘掛けをしっかりと握った。
 二人はしばらく何かを相談し合うように、小声でボソボソ言い合っている。合間合間でチラチラと私を見ている。いかにも悪事の相談といった感じで、おかしさが込み上げてきた。一人が口を開いた。何を言っているかは分からないが、身振りから推測すると、「上海に着いたら、俺たちについてこい」と言っているようだった。さらに、「上海には俺たちの友達がいる」みたいな事も言っている。こんな怪しい二人組に関わりたくはなかったので、私はずっと黙っていた。

 上海について汽車から降りる。その間、二人は私を両側から挟むようにして離れない。駅から外に出ようとすると、「ちょっと待て、すぐに友達が来るから、ここで待ってろ」と必死で引き留めようとしてくる。これはもう、私をカモにしようとしていることは明かだ。私は、いざという時のために覚えておいた中国語を大声で叫んだ。
「チューミン! チューミン!(助けて! 助けて!)」
 周りの人たちが一斉にこちらを見る。と同時に、二人はもの凄い勢いで逃げていった。最初から最後まで、見事な小悪党ぶりだった。
 「シェシェ、シェシェ」と周りの人達に礼を言うと、逃げていった二人を指さして、何か得意気に語り出す人が何人もいたのが妙におかしかった。

 駅を出ると、ポツポツと雨が降り始めてきた。名古屋を発ってからずっと晴天だったので、雨という天気があることをすっかり忘れていた。私はあらかじめ用意しておいたビニール袋を取りだし、その中にパスポートや衣類など持ち物を全て入れて、ナップサックに収めた。これで持ち物が濡れることはない。
 雨は、汽車内で体内に蓄えられた熱気を冷ますにはちょうど良い程度の降り方で、心地良いくらいだった。私は歩いてバンド(外灘)へ向かうことにした。とりあえず、お世話になったリンさんに挨拶をしたかった。

おじさん

  上海駅を出た時には小降りだった雨は、秒刻みで強くなっていき、ものの十分程度でどしゃ降りに変わった。道路もあれよあれよという間に水かさが高くなり、ふくらはぎに迫るくらいの洪水になっていた。紙やプラスチックのゴミ、リンゴの芯やスイカの皮、衣類や小動物の死骸などもプカプカ浮かんでいる。雷鳴も頻繁に轟いている。洪水している所に雷が落ちたら感電してしまうのだろうか? いや、そもそもこの大雨はいつまで続くのだろうか? 不安でいっぱいになる。どこかに避難したかったが、店舗などは全て閉まっていて避難できない。仕方なくバシャバシャと洪水の中を歩いた。バンドまで行ってリンさんに会えば助けてくれる。そんな甘い考えを持ちながら……。

 バンドまで来る頃には、雷はかなり遠くへ行っていた。雨は相変わらず降っているが、一時期よりは収まっている。誰もいないバンドの広場でTシャツを脱いで思いっきり絞った。そのTシャツで髪をクシャクシャと拭き、再び絞る。手ぐしで髪を後ろに梳かすと、とてもサッパリした気分になった。中国に来て、今が一番サッパリしているかもしれない。
 リンさんの服屋さんをそーっと覗いた。大雨のせいだろう、客はほとんどおらず、店員さん達は暇そうにおしゃべりしている。以前に接客してくれた女性店員さんが私に気づいて、パァーッと目を見開いて笑顔になってくれた。しかし、その表情はすぐに曇り、リンさんが不在であることを申し訳なさそうに伝えてくれた。明日もいないという。せめてお礼だけは言いたかったので、本当に残念だ。
 私が覚えていた三番目に長い中国語「チンニー カオス ター シェシェ(彼にありがとうとお伝え下さい)」とたどたどしく店員さんに言うと、うんうんと何度も何度も頷いてくれた。「ツァイチェン(さようなら)」、努めて笑顔でそう言って、服屋さんを後にした。
 とりあえずどこかで雨宿りしよう。

 西洋建築が立ち並ぶその外れに、ちょっとランクの落ちる、それでもわりと立派な建物に目がとまった。この建物は、昨晩蘇州で野宿した建物に似ていて、入り口が奥まっている。雨が当たらない。人の出入りが少なかったので、雨宿りさせてもらうことにした。
 蘇州で買ったパンが一つだけ残っていた。十個買っておいて良かった。お姉さんたちを思い浮かべながら食べると、少しだけ心身が温かくなった。
 やることがないので、腰を下ろして日記を書いていると、建物の中からおじさんが一人出てきた。ニコニコと笑っている。どうやら私を追っ払いに来たわけではなさそうだ。しかし、仕事をしている人たちの邪魔になってはいけないと思い、出していた荷物をしまってその場を立ち去ろうとした。するとそのおじさんは「まあいいからちょっと待ちなさい」といった感じで私を制して、タバコを差し出してきた。「プーヤオ(いりません)」と無碍に断るのも悪いと思ったが、丁寧に断る言葉が分からない。そこで「ウォーシー ハイヅ(私は子供です)」と言ったら大笑いしてくれた。おじさんは「そうかそうか」といった感じでゆっくりと何度も頷き、自分でタバコを吸い始めた。その行為が私には、「敵意はないよ」という意味に思えた。
 最初はおじさん一人と筆談をしていたのだが、次から次へと建物からおじさんが出てきて、最終的に二十人くらいのおじさんが私を取り囲んでいる状況になってしまった。開襟シャツやランニングシャツのようなラフな格好をしているが、どうやら全員ここの会社に勤めているようだ。皆、ずぶ濡れになった日本人青年に興味津々のようで、私のパスポートや大学の学生証、日記などを回し見している。大雨で心身ともにしょげかえっていたので、皆の好奇の目が嬉しかった。私は筆談で、できる限り自分の情報を伝えた。
 「今日はどこに泊まるのか?」と尋ねてきたので、私は今いる場所を指さしてから、眠る仕草をして、「OK?」と聞いてみた。途端にワッと湧き上がるおじさんたち。どうやら「危ないからやめておけ」と言っているようだった。
 最初に声をかけてくれたおじさんが腕時計に目をやってから、皆に向かって何やら指示を出した。するとモジャモジャ頭で細身のおじさんが前に出てきて、私に手招きしながら「カモン、マイハウス、カモン」と言って歩き出した。他のおじさんたちは、私に手を振って、建物の中へ入っていく。流されるままに、私は「マイハウス」へと向かった。 

 クネクネとした狭い路地を、おじさんはスタスタと歩いて行く。かなりの早足で、うっかりすると置いていかれそうになる。三十分も歩いただろうか、コンクリート造りの長屋のような一室に案内された。おじさんは「マイハウス」と言いながら鍵を開ける。雨はもうすっかり上がっていた。
 部屋はひと部屋。床はコンクリート。小さな流しとガスコンロ、電話台のような小さなテーブルと小さな椅子、そしてベッドが置いてあるだけの質素すぎる部屋だった。「椅子に腰かけなさい」と促され、言うとおりにする。おじさんはベッドに座り、テーブルに自分の身分証明書を置いて、私に見せてくれた。名前は張さんだった。私ももう一度パスポートや学生証を出し、張さんに見せた。「インアル」。私の名前“英二”を中国語で読んでくれる。私を指さして、「インアル、インアル」と何度も確認する。私も真似て、「チャン シエンション、チャン シエンション(張さん、張さん)」と確認する。たったそれだけのことで、二人して大笑いした。
 小一時間、そんな感じでお互いの持ち物を頼りに楽しくやりとりをしていたが、突然「ちょっと待ってて」といった感じで、張さんは部屋を出て行ってしまった。しばらくは部屋で待っていたが、なかなか帰ってこないので、私も外に出てみる。建物が密集していて分からなかったが、夕日が射していた。明日は晴れそうだ。
 張さんがペタペタペタッと小走りで帰ってきた。何かお皿のようなものを両手に持っている。さらに、張さんの後ろに女の人がついてきていた。女性は衣類を私に渡して、そそくさと帰ってしまった。「アイレン?(奥さん?)」と聞いたが、首を横に振って笑うだけだった。
 衣類はシャツと短パンで、私に用意してくれたものだった。ご厚意に甘えて着替えさせてもらう。細身の張さんのものなのか、大柄な私が着るとピチピチだった。
 お皿には青菜の炒め物と、小エビの炒め物が盛ってある。どうやら、二人分の夕食を用意してくれているようだ。何度も何度もお礼を言うと、張さんは「食べろ食べろ」と箸で口にかきこむ真似をして笑っていた。
 「何も心配することはないよ」
 私は、洪水の街を心細く歩いていた私自身に声をかけてあげたい気分になった。

最高の観光案内

 目が覚めると、一瞬自分がどこにいるのか分からなかったが、隣に寝ているモジャモジャ頭を見て、「ああ、張さんの家だった」と思い出した。狭いベッドに二人で寝ていたのだ。身の危険を感じないこともなかったが、いざとなれば逃げ出せばいいと腹をくくって寝た。もちろん何もなかったが、少しでも張さんを疑ったことに罪悪感を覚えた。

 朝食は張さんが作ってくれた。お湯に玉子を落として固ゆでしたもの(ポーチドエッグと呼べる代物ではない)一つだけだった。料理する手際の悪さを見ると、普段自炊はしないのだろう。なのに、私のために自分ができる精一杯の料理を出してくれた。その気持ちが嬉しくて、固ゆで玉子を食べながら涙が出そうになる。張さんを見るとニコニコと玉子を食べていた。
 このような親切を受けながらも、張さんがなぜこんなにも人に親切にできるのか、私は不思議でたまらなかった。私が張さんの立場だとしたら、見ず知らずの外国人の若者にここまで世話を焼くことができるだろうか? できる、とは自信を持って言えなかった。

  張さんは、フェリー乗り場まで一緒に来てくれた。歩いている途中で、所々指をさしながら名称を教えてくれる。
 豫園(よえん)、上海クラブ、和平飯店、バンド(外灘)、上海マンションなどなど、名称だけを教えてくれては、また次の観光地や建物の名称を教えてくれる。説明などは一切ないが、張さんの、何とか私を退屈させまいとする優しい気持ちが十分過ぎるくらいに伝わってくる。なんとも胸が締め付けられる観光案内だった。
「チエンチュンハオ(鑑真号)」
 それが張さんの最後の観光案内だった。フェリー乗り場に着いたのだ。昨日の午後に会ったばかりなのに、もう随分長いこと一緒にいるような気がする。張さんはニコニコしながら何か中国語で言ってくれている。理解はできないが、一言一句漏らさずに聴いた。そして、張さんの笑顔を、脳裏に、心に、焼き付けた。一秒一秒がコマ送りで進んでいるようだった。私は何度も何度も「シェシェ(ありがとう)」、「ツァイチェン(さようなら)」を繰り返し、両手で固い握手をしてから、出国審査をする建物へ入った。
 無人駅の改札のようなザル審査を過ぎると、フェリーに乗るために一度建物の外へ出ることになる。周辺には、関係ない人が入らないよう、柵が張り巡らせてあった。その柵の外から、張さんがこちらを見ていた。手を振っている。私は思わず小走りで駆け寄った。もう一度握手をしたかった。ところがそれを見ていた警備員が数人、もの凄い勢いで走ってきて私の行方を遮った。どうやら、一度出国審査をしたら、もう柵の外の人とは接触できないようだ。張さんは最初は驚いた顔をしていたが、すぐに大笑いして、警備員の人たちに私の事を説明してくれた。皆、「仕方ないね、この子は」といった顔で失笑している。
「インアル ツァイチェン! イールーピンアン(英二、さようなら! 一路平安)」
 張さんは手を振りながら、そう叫んでくれた。
 私は目一杯の思いを込めて「シェシェ」と「ツァイチェン」を繰り返し叫び、そして鑑真号に乗り込んだ。

帰路にて

 昨日の大雨が何もかも洗い流したかのように、その日の上海は空気が澄み切っていた。水平線いっぱいに入道雲がもくもくと鎮座しているが、それ以外は吸い込まれそうな青い空が広がっている。きれいな空気のあおりを受けたのが長江の水で、来たときよりもかなり濁っているように見えた。
 その濁った水にできる航跡波を、私はフェリーの後方デッキから眺めていた。波の合間に今回の旅で出会った人たちの顔が浮かんでくる。 

新興宗教のおばちゃん
王さんや田倉さんを初めとしてフェリーで知り合った仲間たち
カネゴン
ガイドのマーク
焼酎とオアシスを買った商店のおじさんたち
国際旅行社のおじさん
リンさん、大西さん
汽車で乗り合わせた人たち
濱田さん
渡辺さん
食堂のおばあさん
パン屋のお姉さんたち
蘇州夜曲を教えてくれたおじさん
小悪党二人組
雨宿りした会社のおじさんたち
そして張さん

  彼らとの出会いは、過ぎてみれば前もって決められた必然のような気もするが、少しのタイミングの違いで出会えていなかったかもしれないと思うと、単なる偶然のような気もする。
 考えれば考えるほど面白い。あの時あの道を進んでいたら…、あの時別の選択をしていたら…、今とは全く別の思い出を私は懐かしんでいるのかもしれない。そんな堂々巡りなことを考えていると、後ろから「あー、やっぱり!」と声がした。振り返ると、なんと南京で別れ別れになった田倉さんがいた。状況が全く飲み込めない。
「え? 田倉さん、なんでここにいるの?」
「ええ? 帰りのフェリーも一緒だねって言ってたじゃん」
「あれ、そうだっけ?」
 どこかで交わしたような会話だ。
 私たちは南京の事には触れず、素直に再会を喜びあった。どうやら嫌われているわけではないようで、ホッと安堵する。

「旅での出会いって、偶然だと思う?」
 二人で航跡波を眺めながら、私は田倉さんに尋ねた。
「うーん、そればっかりは分かんないよね。でも出会ったっていう現実があるんだから、俺はどっちかって言うと、必然かな? まあ、旅に限ったことじゃないけど」
「必然かあ……」
「つーかさ、偶然はいつまでも偶然じゃなくって、自分次第で必然に変わるんじゃない? 分かるかな? 何言ってるか自分でも分かんないけど」
 そう言って田倉さんは自嘲気味に笑う。
「……そうか、ボーッとしてたら、偶然は偶然のままってこと?」
「そうそうそう!」
 二人で協力して、なんとか得心が行く。モヤモヤと考えていたことがスッキリすると、私は無性に田倉さんに何かしてあげたい気持ちになった。
「田倉さん、俺、田倉さんにお世話になったからさ、昼メシご馳走させてくれない?」
 行きのフェリーでケチに徹していた私を知っている田倉さんは、目を丸くして驚いている。もう一度促す。
「メシ、食わない? もうすぐお昼だし」
「……よっし! じゃあ、寿司でも食おうか!」
 ありもしないメニューを言って、田倉さんは嬉しそうに歩き出した。
 私も歩き出す。一万円札の入ったお守りをギュッと握って。

終わり


読んで頂き、ありがとうございました。
18歳のときにしたひとり旅を、30年以上経ってからまとめました。当時の日記などを見ながら書いたわけではなく、記憶を脳みその奥から引っ張り出して書き上げました。感想などございましたら、ツイッターの方にコメント頂けると嬉しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【あとがき】

 

 

この紀行文を読んでいただいた方によく「何十年も前のことをよく覚えてるね」と言われます。自分でもそう思います。記憶を引き出す大きなきっかけはグーグルマップでした。上海や南京の地図をできる限りアップにしてじーっと見ていると、当時の出来事がどんどん蘇ってきました。いま私は四十九歳なので、中国の旅は三十一年も前のことなのですが、地形や地名をきっかけにこんなにも記憶を呼び起こせるものなのかと驚いております。

 ただ、それでも当時のことを一から百まで完璧に思い出せるわけはありません。なので、物語を書く下準備として、まずは覚えている出来事を五十くらい箇条書きにして、その中から時系列に合わせて三十くらいピックアップして物語の筋を作りました。

 あとは記憶を頼りに書き進めていき、五十のうち残り二十の出来事は、話を膨らませる材料にしたり、場面のつなぎとして使用しました。どうしても上手くまとまらない部分は創作もしていますので、 イメージとしては、復元された恐竜の化石に近いかもしれません。

 なので、この作品は完全な紀行文ではなく、私小説か、なんならフィクションと思っていただいても構いません。ただ、決して「噓の話」ではないので、その点だけはご理解頂けたら嬉しいです。

 この作品は「中国編」とあることから分かるように、これで全てではありません。もう一つ「日本ヒッチハイク編」と二つでセットにする予定です。いつになるかは分かりませんが、必ず発表しますので首を目一杯伸ばしてお待ちください。

 

 タイトルですが、最初は「新・新放浪記」にしていました。私が多大な影響を受けた野田知佑さんの「新放浪記」にあやかってつけたのですが、初めて見た人にはなんのこっちゃ分からないので、とりあえず「放浪のススメ~感動は世界を変える~」というタイトルにしました。しかし、これもなんだか説教臭いように思えてきて、「放浪せずにはいられない」に変更。ただ、これはあまりにもインパクトがないので

 前述の「新放浪記」を二十四歳の時に読んで、私は大きく人生が変わりました。あの本に出会っていなかったら、私は今頃どこかの街の片隅で、ドブネズミのような生活を送っていたかもしれません。

本当におこがましいとは思うのですが、若い方にとって私の旅の記録が「新放浪記」のような役割になればと思い、執筆するに至りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十八歳の夏休み、青年は予てより夢描いていた中国一人旅を決行する。

時は1990年代初頭、スマホも携帯電話もない時代。旅の情報は現地調達。言葉もしきたりも何もかもが分からないことだらけの中国で、青年は大いに泣き、笑い、悲しみ、怒り、感情をむき出しにして旅を続ける。

期間は約二週間。名古屋から出発し、神戸からフェリーで上海へ。南京、蘇州と周り、再び上海へ。

青年は何を見つけるのか、見つけないのか。

 

中国の旅から6年後、大学を中退し、役者になるために大阪でストリートパフォーマンスしている青年。しかしその生活の実態は、バイトに明け暮れて遊び惚ける毎日。

 そんなある日、一つ上の先輩から「そろそろメチャクチャにやってみたら?」とアドバイスを受ける。この言葉で目を覚まし、大阪の有名劇団のオーディションを受ける……はずだったが、自分を磨くために勉強している中で「新・放浪記」という一風変わった本に出会い、これが原因で運命が大きく変わる。

「マジメに生きたいと思っているから就職しないで頑張っている」

自分が思っていたこと、そしてそれ以上のことを堂々と断言する著者の野田知佑に強く惹かれる。彼の思想に触れるうちに「役者なんかやってる場合じゃない」そう思い、ヒッチハイクの旅に出ることを決意する。

アパートを引き払い、退路を断って出発。所持金は一万五千円。できる限り自給自足をしながらヒッチハイクで日本を周る旅が始まった。

人の優しさと怖さ、大自然の深い愛と残酷さ。旅を続ける中で青年は様々なものに出会い、そして大いに泣き、笑い、怒る。六年前の中国の旅と同じく、いやそれ以上に感情をむき出しにして、青年はヒッチハイクを続ける。

期間一年、乗った車は二百台以上。旅の終わりに青年は何を見つけたのか?

 読むと恥ずかしくなるような、著者の私小説。

 

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