放浪記序章
序章
父との夜の散歩が怖かった。
生まれ育った伊勢市二見町にある二見浦。土曜日の夜、夕食を食べ終わった後に、父と二人でこの二見浦に来るのが習慣になっていた。幼い僕は父に手を引かれ、海岸沿いに植えられた松並木の中を歩いている。松並木は、夫婦岩で有名な興玉神社へと続いていた。神社に近づくと、街灯の色がオレンジ色に変わる。大人になった今なら、ロマンティックな明かりと思えなくもないが、子供だった僕にとっては、まるで異世界に連れて来られたようで、ただただ怖かった。父の手を力いっぱい握りながらそのオレンジ色の世界を抜けると、次に現われるのが白くて大きな鳥居。父は鳥居の前でお辞儀をする。誰もいないのにお辞儀をする父が、やはり僕には怖かった。父には異世界の人が見えている。僕は本気でそう思っていた。それでも頼るべくは父しかいない。僕はより一層握る手に力を込めた。
鳥居を過ぎたあたりから人が増えていくのも怖かった。参道の照明が上方向から照らされるせいで、小さい僕にはどの人の顔も真っ暗に見えた。皆表情がない。ここでは表情を出してはいけない。僕はそう思っていたかもしれない。そもそもなぜ人がここに集まるかも、不思議でたまらなかった。右手は崖で、左手はすぐ海。崖と海の間のわずかな隙間に、なぜ人が、しかも無表情の人が集まるのか? やはりここは異世界なのだ。
拝殿でお参りを済ませた父は、さらに脇の細い参道へと進む。小さな砂利が敷き詰められた道をジャッジャッと音を立てて歩くと、砂利の中に自分がのめり込んでいくような恐怖感にかられた。怖くて泣き出しそうだったが、父に助けは求めなかった。見上げる父の顔はやはり真っ暗で、この人に声をかけると僕の顔まで真っ暗になると思ったからだ。やはり僕は、ただ父の手をギュッと握る事しかできなかった。父の真っ暗な顔と違い、父の手はしっかりと見る事ができ、その上温かく、なんとも頼もしかった。
砂利の参道を過ぎると、視界に飛び込んでくるのが大きな蛙の置物だった。この蛙を見ると、僕はようやく生きた心地を取り戻す事ができた。蛙の奥には夫婦岩が見える。夫婦岩は煌々とした明かりに照らされ、はっきりとした姿を僕に見せてくれる。そして、その夫婦岩周辺では、今まで真っ暗だった大人たちの表情もはっきりと見る事ができた。もちろん父の表情も。安心した僕は、ようやく父の手を離すことができた。
「ここに来ると笑うんやな、健介は」
父は、毎回そう言っていたような気がする。それまでどんな表情をしていたのかはよく分からないが、そう、確かに僕は、ライトアップされた夫婦岩を見て笑っていたと思う。
だがここでも、一つだけ僕を不安にさせるものがあった。星空だ。松並木を歩いている時にはたくさんあった夜空の星が、ここ夫婦岩周辺では途端に少なくなるのだ。大人になった今では、目に入ってくる光量の関係のせいで星が見えにくくなるというのは理解できる。しかし子供の頃の僕は、どこか喪失感を覚えていた。明るい夫婦岩や人の表情を見る事の代償として、僕は星を奪い取られたような気がしていたのだ。
これは僕の思い出せる最も古い記憶でもあり、いわば原風景だった。
高校生までは二見町で暮らしていたが、名古屋の大学へ進学すると同時に、僕は一人暮らしを始めた。都会だから当然と言えば当然だが、そこでの生活でも、やはりライトアップされたものを見る機会が多かった。都会の光は騒々しく、夫婦岩の時と違って、明るいからといって安堵できるものではなかった。夫婦岩と同じなのは星の少ない夜空だけで、つまり名古屋に来てからというもの、僕の心は何一つ満たされる事がなかった。
大学ではバスケットボール部に入っていた。それまで体育の授業でしかやった事がなかったが、見よう見まねでやっていたらどんどん上達して、二年生の春にレギュラーになれた。いつもこうだった。少し努力をしただけで、何でも人並み以上にできてしまう。だが、なのか、だからなのか、のめり込むという事は全くなかった。三年生最後の秋季大会、勝てば二部リーグ優勝という大一番で、僅か二点差で負けてしまった時もそうだ。タイムアップの笛が鳴ると、チームメイトやマネージャーたちは声をあげて泣き出した。僕は一人だけ、黙ってその光景を眺めていた。そんな僕に、マネージャーの一人で僕の彼女でもある美由紀が、顔を真っ赤にして、わなわなと震えながらこう叫んだ。
「なに笑ってるのよ!」
全く笑っているつもりはなかった。僕は、泣いているみんなが眩しく見えただけだった。もしかすると、ライトアップされた夫婦岩を見ているような気分になって、僕は笑っていたのかもしれない。
それからひと月くらい、美由紀は口を聞いてくれなかった。大会が終わった後に二人で旅行へ行く予定を立てていたが、それもお流れになった。すっぽりと空いた予定を分かっていたかのように、母から連絡が入った。父と二人で名古屋で開催される八代亜紀のコンサートへ行く予定だったが、父が急用で行けなくなったので代わりに来ないか? との事だった。興味は砂粒ほどもなかったが、断るのも気の毒なので、仕方なく一緒について行った。
「寝てればいいか」と思って、浅めに客席に座ったが、開演して、八代亜紀がひと声発した途端、全身に鳥肌がたった。囁くようで、それでいて腹の底から湧き上がってくるような歌声。優しくもあり力強くもあり、それでいて儚げでもあった。
スポットライトを浴びる八代亜紀は、幻想そのものだった。幻想を具現化すると八代亜紀になるのではないだろうか。僕はコンサートが終わるまでの一時間半、幻想という名の蜘蛛の巣にからめとられた虫のようだった。終わる頃には、全身に八代亜紀という名の毒が行き渡り、しびれて動けなかった。母に頭を小突かれて我に返ったが、それがなければ死ぬまであの会場にいたかもしれない。そう思ってしまうほど衝撃的なコンサートだった。
後日、母から小包が届いた。中にはCDが数枚。七十年代から八十年代にかけての歌謡曲だった。もちろん演歌も入っている。おそらく、母が青春時代に聞いた曲ばかりなのだろう。八代亜紀のファンになった僕を、さらに自分色に染めようという母の企みだという事はすぐに分かった。母は昔からそうだった。息子である僕に自分の趣味を押し付けてくる。僕はそれを快く思わなかったが、態度には出さずに淡々と無視してきた。以前なら、母が勧めるCDなど絶対に聴かなかっただろう。だが、八代亜紀という蜜とも毒ともとれる極上の演歌歌手を知ってしまった以上、聴かないという選択はあり得なかった。そして見事に母の企み通り、年の暮れには、すっかり懐メロファンになっていた。
それまでの僕は、好きな歌のジャンルというものがなかった。流行りのJポップはカラオケで歌える程度には覚えるが、かといってコンサートに行ったりグッズを集めたりという事はなかった。ジャズが好きな美由紀の影響で、ジャズの定番楽曲はよく聴いていたが、それもただBGMとして流す程度のものだった。そんな僕が、生まれる十年も二十年も前の歌謡曲にはまるとは、自分でも驚きだった。
今までの人生、ただなんとなく生きてきた。高校も大学も、自分の成績に合ったものをなんとなく選んできた。部活も、勧誘されてなんとなく入った。恋愛も、相手に告白されてなんとなく付き合ってきた。別れる時も同じだ。振り返ってみると、なんら自主性のない人生だった。そんな僕が今、昔の歌謡曲に目を輝かせている。なんと言うか、今までモノクロだった自分の心に、初めて色がついたような、そんな気持ちだった。
このおかげで、決めかねていた卒業論文のテーマは決まった。タイトルは「バブル期とその前後十年の流行曲の構成要素の推移及び相関関係の調査」。バブルと言われた一九八六年十二月から一九九一年二月までの四年三カ月間と、その前後十年。その間のヒット曲の、歌詞に出てくる単語、歌の舞台、男唄か女唄か、作詞家、作曲家などの構成要素を調査し、その推移を調べる事によって、バブル期前後の日本人の心情を可視化し、それがバブルを挟んだ約四半世紀の経済の盛衰にどのような影響を与えたのか、また与えられたのかを結論づける内容だった。言葉にすると難しいが、僕にとっては単に昔の歌謡曲を何度も何度も聴いているだけの事だった。
この論文は、学内の優秀卒業論文賞に選ばれた。歌謡曲を聴きながら適当な文章を書いただけで賞が獲れるとは、やはり僕は何をやっても人並み以上の事ができてしまうようだ。ただ、この事によって、以前から薄々思っていたある事に気がついた。
僕は、自分が欠陥品だと強く認識するようになったのだ。
大学時代には色々な思い出があった。部活、学園祭、飲み会、美由紀との交際。並べ立てると、「ああ、充実していたんだな」と、なんとなくは思う。だが、心底楽しかったのかというと、そうでもなかった。バスケットボールの試合で負けた時のように、何もかもがどこか他人事だった。僕の大学生活は、次々とライトアップされていくものを、ただ傍観していただけだったような気がする。
だが、卒業論文だけは違った。自分が初めて積極的に興味を持った懐メロ。それを聴きながら構成要素を調査していき、まとめ上げる。それだけの事が心から楽しく思えた。この論文作成だけが僕の大学生活のような気さえした。
だが、この事は誰にも言えない。言えば、おかしいヤツと思われる。美由紀にもまた白い目で見られる。そういった事が分かる程度には僕は正常だったかもしれないが、それは機械で言えば「エラーコードが出ているけど直し方が分からない」ようなものだった。僕が欠陥品である事には変わりがない。もしかすると、それをはっきりと認識できたのが、大学での最大の成果だったのかもしれない。
そして欠陥品は、欠陥品のまま社会人になった。
第一章
入社三年目。飲料関係を製造する会社の、顧客対応部門に僕はいた。全国規模で商品を展開しているので、各地の支店から名古屋の本社に顧客からの“ご意見”が上がって来る。ほとんどがデータで送られてくるが、それでも僕や同僚たちの机には、山のような書類が積み上げられていた。年度末まであとひと月半。それまでにこれらの“ご意見”を全てまとめ上げなければならない。まとめ上げた書類は、冊子となって会社内の全ての部署に配られる。顧客と全社員をつなぐ重要な仕事である事は分かっていたが、やりがいは全くなかった。これで自分も商品開発に関わる事ができるのなら、また話は違ってくるのだが、人の意見をまとめるだけの仕事に面白みなどあろうはずもない。それに、欠陥品である僕が、商品の欠陥をまとめ上げるというのも、何か申し訳ないような気持ちだった。
何かやりがいを見つけようと周りの人間を見回したが、目標になるような人物はあまりいなかった。係長も、課長も、部長も、どこかいつも苦しそうだった。詳しくは知らないし、知りたくもないが、毎月何かしらのノルマがあるらしい。わりとフランクな社風ではあったが、うちの部署内だけは少し淀んだ空気が流れていた。なんというか、大鍋の中の煮豆の一粒にでもなったような、そんな逃げだしようのない閉塞感を、僕はいつも感じていた。
昼休み。「おう!」と、元気よく声をかけてきたのは、同期入社の東郷だった。
「あれ、東郷、今日は外回りじゃないの?」
「そーなんだわ! 今日は残念ながら、一日中デスクワーク」
「残念ながらか、ハハ。疲れない? 外回りって」
「オレ、根っからの体育会系だでよ、いっぱい動き回って、取引先の人たちと会話するのが大好きなんだよなあ。みんな嫌がるんだけどな、ハッハッハ! なあ、昼メシまだだろ? トンカツ食いに行こーぜ!」
大学時代にラグビーをやっていたという大柄な東郷は、見た目も行動も社内で一番といっていいほどパワフルだった。性格的に僕とは正反対だが、それがかえって良かったのか、同期で最も仲が良くなり、東郷の前だけでは心を無防備にする事ができた。部署が違うため会社内ではほとんど会う事はなかったが、月に数回は一緒に飲むのが習慣になっていた。
社内で一緒に歩いていると、至る所から東郷に声がかかる。
「おう、東郷! 久しぶり!」
「東郷! 仕事サボってんじゃねーぞ」
「東郷さん、こんにちはー」
男女の区別なく人気がある。「どーも、どーも!」と元気よく笑顔で応える東郷。彼が歩くとそこが花道になるようだった。そして僕は、相変わらずライトアップされたものを見る立場だった。
会社のすぐ近くにある個人経営のトンカツ専門店。味は最高なのだが、店の狭さが難点だった。天井が異常に低く、身長百八十センチの僕が手を上げると、手の平が天井にぺったりと付いてしまう。また、店舗の面積に対して客席が多すぎるので、四方八方から抑えつけられているような感覚に陥る。少し大げさに言えば、満員電車の中で食事をしているような感覚だ。二人掛けのテーブルに座り、「相変わらず狭いね」と小声で東郷に言うと、「うみゃーで、えーが」と大袈裟な名古屋弁で返された。美味しいからいいじゃないかという意味の「うみゃーで、えーが」。名古屋弁のアクセントを抜いてフラットに「ウミャーデエーガ」と発音すると、なんとなくインドの叙事詩のタイトルのようでもある。だからという訳ではないが、僕はその日カツカレーを注文した。
「何か嫌なことでもあったか?」
赤味噌ダレのかかった分厚いトンカツをガチガチと齧りながら、東郷は僕に問いかけてきた。僕は、スプーンで掬い上げようとしていたカツを、皿のすぐ上で止めた。
「ああ、まあ、今一番忙しい時期だからな。あんまり寝て……」
「そーじゃなくってよー」
「え?」
「仕事で悩んでる顔じゃないよーな気がするんだけどなあ」
鈍感なようで、なかなか鋭い男だ。僕は止めていたカツを口に運び、咀嚼し、飲み込んでから応えた。
「……分かる?」
「顔がドス黒いオーラに覆われとるわ」
僕はしばらく何も言えなかった。その間も東郷は、こちらをチラチラ見ながら、ガチガチとトンカツを頬張っている。
「絶対、誰にも言うなよ」
僕が東郷の目を見据えて釘を刺すと、東郷は咀嚼しながら大きく二度頷いた。
「あのな、先週、初めて彼女の両親に会ったんだよ」
ブホっと、吹き出しそうになるのを手で抑えて、咳き込みながら口を開く東郷。
「ゲホ、よかったじゃねーかよ! 前に会わせてくれた美由紀ちゃんだろ? なんだよ、ついにゴールインか? 良かったじゃん! そりゃあめでたい話……でも、ないの、か?」
「んー、美由紀の父親が会社の社長さんでな、美由紀って二人姉妹の長女なんだよ。つまり、婿養子って考えが向こうにはあるみたいで……」
「未来のシャチョーさん! 逆玉じゃーん。何か問題あんのか?」
「問題もなにも。結婚にしても、社長にしても、ぜんぜん実感なくってさ。今まで何も考えずに流されて生きてきたけど、今度ばかりは遡りたい気分だよ」
「ハハハ、鮭かて!」
「なあ、今日、飲みに行かないか?」
「お! いいねえ! オレも誘おうと思っとったんだわ。行こう行こう! 他のメンツは……今日は誘わない方が良さそうだな」
「悪いな、人気者」
心なしか、店の低い天井が、少しだけ高くなったような気がした。
今宵は目一杯毒を吐き出せそうだと思っていたが、東郷が営業先から急遽お誘いを受けたため、このサシ飲みはお流れとなってしまった。義理堅い東郷は本当に申し訳なさそうな顔をして、腰がぽっきり折れてしまいそうなぐらい深いお辞儀で謝ってくれた。約束を破る事が彼にとってどれほど耐えられない事か、僕とのサシ飲みをどれだけ楽しみにしていたか、それが伝わってきただけでも、僕は十分嬉しかったし、それだけで、自分の中の毒が緩和された気がした。と同時に、こういう男が会社を引っ張っていくんだなと、少し嫉妬も覚えた。
金曜日という事もあり、他の同僚からもお誘いを受けたが、この日は東郷以外とは飲む気になれず、大人しく帰ることにした。
会社近くの黒川公園。ここは敷地内に美術館と科学館がある大きな公園だ。この公園を斜めにショートカットするのが僕の通勤ルートだった。公園の一辺を仮に一〇〇メートルとして、公園の角から反対の角に行くには通常二〇〇メートル歩かなければならい。しかし、対角線を通ればルート2、つまり一四一メートルで済む。朝晩一日二回のこのショートカットが、僕の秘かな楽しみだった。
僕の育った伊勢市二見町は、伊勢湾に面している。海辺からは、対岸の知多半島がよく見えた。幼い頃、「行ってみたい」と父親にねだったことがある。当然すぐに連れて行ってくれるものだと思っていたが、返ってきた答えは違っていた。
「遠いからなあ、また今度な」
そんな事が何度かあった。山へ行きたいと言えば山へ、川へ行きたいと言えば川へ。たいていの所は連れて行ってくれた父が、対岸の知多半島だけは嫌がった。今思えば当然だ。伊勢市から知多半島へは、伊勢湾をぐるりと周る必要がある。おいそれと行ける距離ではないのだ。だが、幼い僕にはそれが分からず、父が連れて行ってくれない事が不思議でたまらなかった。
「見えているのに……」
子供の頃に感じたもどかしさは、大人になった今でも心の奥底に澱のようになって残っている。黒川公園を斜めにショートカットしている時は、その澱がきれいに掬われたような気分になるのだった。
ショートカットし終わって歩道に合流しようとする時だった。ふと見た科学館の入り口に、小さな垂れ幕が下がっていた。
「プラネタリウム夜間投影」
夜にやるプラネタリウムだから「夜間投影」と表現しているのはもちろん理解できるのだが、そもそもプラネタリウムというものは“夜”という設定が大前提。プラネタリウム=夜、と言ってもいい。つまり垂れ幕の文言は「夜の夜間投影」と言い換えることもできる。なんだか馬から落馬的な言葉の面白さに興味を惹かれ、僕は科学館の入り口に吸い寄せられてしまった。
『夜間投影、開演六時三〇分』
腕時計を見ると六時二十五分。僕は何かに引っ張られるように、プラネタリウムのある六階へと急いだ。
少し息を切らして一番後ろの席に着くと、じきにブザーが鳴った。夕焼け色を演出していたオレンジ色の照明が、ゆっくり、ゆっくりと色を落としていく。微かにざわついていた館内も、照明に同調するかのように静まっていく。見上げると、宵の明星、金星が見えた。それと同時に、自分の口がポカーンと開くのが分かった。僕は、あっという間にプラネタリウムの世界に入り込んでしまった。
暗くなるに従い、星が浮かび上がってくる。十が百、百が千、千が万……みるみる増えていく数えきれないほどの星。
「さあ皆さん、日が落ちて、夜の世界が訪れました。都会にいると気がつきませんが、皆さんの頭上には、本当はこんなにもたくさんの星が瞬いているのですよ」
柔らかいエコーのかかったナレーションが、星空の世界に誘ってくれる。そうだ。夜空には、本当はこんなにもたくさんの星があるのだ。知ってはいる。見たこともある。だが、僕が夜空と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、ライトアップされた夫婦岩の奥に広がる霞んだ空間だった。その空間には、星はほとんど存在しない。ところが実際の夜空には、ナレーションが言う通り「こんなにもたくさんの星が瞬いている」のだ。
僕は呆然と星空を見ていた。ナレーションも聞こえてはいるが、あまり内容は入ってこない。この時、僕はもしかしたら本当の宇宙空間にいたのかもしれない。そう思ってしまうほど、僕はプラネタリウムが作り出す空間に溶け込んでいた。オリオン座からアンドロメダ座へ、そこから北極星を経由して北斗七星、おおぐま座へ……。僕は星空を自由自在に飛び回っていた。……夢のような時間はあっという間に過ぎ、気がつくと終了間際だった。
「さあ皆さん、今日から夜空を見る目が変わるのではありませんか? ……おや、東の空が白み始めてきましたね。さあ、新しい一日が始まりますよ」
プラネタリウムの地平線が白み始め、少しずつ明るくなっていく。星もそれに従って、波が引いていくように消えて行った。
僕はプラネタリウムの天井を見上げたまま、涙を零していた。泣いたのはいつ以来だろう? 八代亜紀のコンサートでは感動に打ち震えはしたものの、涙が零れるような事はなかった。大学、高校、中学、小学校……思い返して驚いた。僕は泣いた記憶というものがほとんどない。やはり筋金入りの欠陥品だったのだろうか。しかし今、僕は確かに泣いている。そして、それと同時に、今まで使われていなかった心の部品が微かに動いたような気がした。
「お客さん、閉館の時間です」
係員の声で、僕は我に返った。ナレーションを思い返す。
『さあ、新しい一日が始まりますよ』
本当に、僕の新しい人生が始まるような気がした。
科学館を出て、振り返り、建物を仰ぎ見た。プラネタリウムの部分と思しき巨大な丸い玉が今にも転がってきそうだ。なんだろう、この巨大な球が自分のように思えてきた。転がってどこにでも行けるポテンシャルを持っているかもしれないのに、繋がれて身動きを取ることができない。二十五歳。まだこんなに若いのに、僕は何かに両足を縛られている。だがきっと、多くの人はそうなのだろう。縛られたまま歳を重ね、結婚して子供ができ、孫ができ、退職して、庭いじりでもして、そして皆に囲まれて死んでいく。縛られているという事は、幸せになる条件なのかもしれない。……そう思わないと生きてはいけない。
プラネタリウムの余韻が覚めない僕は、ベンチに座って公園の噴水をぼんやりと眺めていた。様々な色にライトアップされ、光の変化に合わせて噴水が形を変える。高く伸びたかと思えば、横に広がったり、ウェーブをしたり……。
「あかりはぼんやり、灯りゃいい……か」
白い息と共に、八代亜紀の「舟歌」のワンフレーズが口から出てきた。ぼんやり。なんとも、そのものの状態を見事に表現した言葉だ。今まで僕は、ただぼんやりと生きてきただけなのかもしれない。そして、ぼんやりと死んでいくのだろうか。
「しみじみー飲めばー、しみじみとーおーおーってか?」
舟歌の続きが背後から聞こえてきた。驚いて振り返ると、中年男性が立っていた。羽織っているダウンコートの裾からエプロンのような物が見える。料理人だろうか? 暗くてよく見えないが、口元から顎にかけて生え揃った髭が、噴水から放たれるライトで怪しく浮かび上がっていた。なんだか気味が悪い。
「ああ、はい」と生返事をして立ち去ろうとすると、男性はゆっくりと近づいてきた。
「お兄さん、八代亜紀好きなのか? 若いのに珍しいな」
「あ、はい。一番好きな歌手です」
腰を浮かせたまま返事をした。
「おほー! そりゃ素晴らしい! 俺も大好きでな、去年暮れのコンサートにも行ってきたんだぜ!」
「え? 市民会館のですか? 僕も行きましたよ」
立ち上がって、男性の方に体を向けた。
「マジかよ! 俺、前から五列目だったんだぜ!」
「あっ、ごめんなさい。僕二列目でした」
「ぐああ、負けたー!」
警戒心は完全に消えてしまった。男性はこの近くにある居酒屋の大将だった。足りないものがあって買い物に出かけ、その帰りに僕を見かけたのだそうだ。
「なんか噴水眺めながらニコニコ笑ってる兄ちゃんがいるからよ、ついつい引き寄せられちまって、そしたら『舟歌』を歌いやがるからよ、思わず続きを歌っちまったってわけよ。ガハハハハ」
という事らしい。そうか、僕は笑っていたのか。
「俺は池村。若い頃からヒゲ生やしてて、周りからはヒゲとかヒゲ村って呼ばれてる。えーっと、お兄さん、名前うかがってもいいか?」
「あっ、田中です。田中健介です」
「ケンスケ! 健康なスケルトンでケンスケだな! いい名前だ」
「ハハ、そんな風に言われたの初めてです」
「ガハハ、なあケンスケ、良かったら店に来ないか? 八代亜紀仲間って事で、ビールご馳走してやるよ」
僕は喜んでヒゲさんの後についた。初対面の人とこんな風に打ち解けるのは、生まれて初めてだった。
公園から五分ほど歩くと、車が一台ギリギリ通れるくらいの路地に、暖色系の柔らかな明かりに包まれた一軒のお店があった。大きな木製の看板には、勢いのある毛筆書体で「居酒屋 ヒゲ村」と書かれている。
「すごい。今にも飛び出してきそうな看板ですね!」
「いい字だろ! 俺が書いた字を型取りしてもらったんだ」
「え? ヒゲさんが書かれたんですか? プロ並みにお上手ですね」
「へっへっへ、まあジェントルマンの嗜みってヤツよ、ガハハハ」
そう言ってガラガラと引き戸を開け、暖簾をくぐるヒゲさん。「お客様のおなーりー」とお道化ている。僕も後に続いて店内に入る。寒さで強張っていた頬が、店内の温もりで一気に緩み、少しチクチクした。
「ちょっと遅いわよ。どこほっつき歩いてたのよ! ……あら、本当にお客さんだわ。いらっしゃいませー」
険しい表情をしていた奥さんと思しき女性が、僕を見るなり満面の笑みを投げかけてくれた。電球にパッと明かりが点いたような、周りまで明るくなるような笑顔だった。
「おいおい、ケンスケ。俺の自慢のカミさんに、ボーっと見惚れるんじゃないよ」
ヒゲさんはそう言って、ニヤニヤしながら厨房へと入って行く。「いえ、そんなつもりじゃ……」と言葉を濁すと、「まーまー、どーぞどーぞ」と座るように促してくれた。ニヤニヤしながら。
店内は左側に厨房があり、それに沿うようにカウンター席が奥へと伸びている。一番奥では常連の雰囲気を漂わせる六十代くらいの男性。二つ椅子を空けて中年のご夫婦。僕はそこからさらに一つ椅子を空けた席に腰かけた。店の奥にはお座敷席が見える。大繁盛のようで、話し声や笑い声が店内に飛び交っている。その喧噪を掻い潜るように、奥さんが小走りで飲み物を運んだり、お皿を下げたりしていた。
「かなり忙しそうですね」
頭巾をかぶって仕事モードになったヒゲさんに声をかけた。
「なーに、主な料理はもう全部出したからな、あとは飲み物をつつがなくご提供して、気持ちよく飲んでもらう。それだけ」
「それだけ、じゃないわよ。ホラ、これ追加の料理よ」
「よっしゃ! 真心込めて作らせてもらいますよー! あっ、ケンスケ、何飲む?」
「あっ、じゃあ、生ビールをお願いします」
「あら、珍しいわね。最近の若い子は、最初からサワー系かソフト系に行っちゃう子が多いのにね」
奥さんはそう言って、サーバーからビールを注ぎ始めた。ピンと伸びた背筋が、白い割烹着の造形をより一層美しく際立たせていた。何か一流の彫刻品のような、存在としての美しさがこの奥さんにはあった。
「おい、ケンスケ」
再び、ハッと我に返る。ヒゲさんがニヤニヤ笑って僕を見ている。
「見・す・ぎ。金取るぞ! ガッハッハ!」
「ご、ごめんなさい。いや、その、立ち姿がとってもおきれいで…」
「あら、立ち姿だけ?」
そう言ってコトンとカウンターにジョッキを置く奥さん。
「いえ、その、なんというか、その……」
しどろもどろになってしまった僕を、ヒゲさんの「ガハハ」という笑いが救った。
「ガハハ! 美人に見惚れるのは悪い事じゃないぞ! さあケンスケ、それよりも乾杯だ! 八代亜紀に乾杯だ!」
「なによ、八代亜紀って?」
「ま、それはあとで説明するわ。とりあえず乾杯!」
僕は生ビールで、ヒゲさんは仕事中という事でウーロン茶で乾杯をした。本来なら東郷と飲んでいたはずなのに、プラネタリウムに行ってからこんな流れになるとは……。未来というのは、いくつもの枝葉を持っているのだろうか。
居酒屋ヒゲ村は、二十二年前、ヒゲさんが三十歳の時に開いたそうだ。腕によりをかけた料理を出したいという思いから、基本的には予約制にしているという。
「でもな、カウンター席は別。ここは見知らぬ客同士が触れ合う場にしておきたいんだよ。やっぱ人は人と出会ってなんぼだからな」
満面の笑みでそう語るヒゲさんが、素直にかっこいいと思えた。
ヒゲさんは若い頃に日本料理店で働いていたが、二十代前半で仕事に嫌気がさして、放浪の旅に出たという。……旅。今までの僕の人生で全く縁のなかった言葉だ。
「旅って……どんなことをするんですか?」
「どんなことをするかってか……」
ヒゲさんが片手をついて宙を見つめていると、奥のお座敷からガヤガヤとお客さんたちが出てきた。
「大将、ごちそうさま! 今日のタラ鍋、最高だったよ!」
「ロシアから密輸したからね! 内緒だよ」
どっと湧きかえる店内。楽しさが充満している。その中にいると楽しさが伝わってくる反面、どこか取り残されているようでもあった。僕は奥さんに、身振りだけで生ビールのおかわりを頼んだ。
お座敷には二組の団体さんがいたようで、彼らが帰って行くと店内は一気に静かになった。腕時計に目をやると十時半。カウンターにいた夫婦も勘定を澄ませ、客は僕と常連風の男性だけになった。ヒゲさんと奥さんはお座敷で後片付けをしている。カチャカチャという音と共に、時折笑い声が聞こえてくる。なんとも仲の良いご夫婦だ。
「青年! ホレ、飲め」
そろそろ帰ろうかと思っていると、カウンター奥の男性が僕の方を向いてぐい飲みを差し出してきた。普段の僕ならこういう誘いには絶対に乗らないが、長い時間同じ空間を共有したせいか、仲間のような気分になってしまい、僕は男性から一つ椅子を空けた席に移動した。ぐい飲みを手に取り、男性から日本酒を継いでもらう。伊勢市という日本の中でも特別に神社の多い場所で育ったせいか、子供の頃から御神酒、つまり日本酒に接する機会は多かった。この日本酒の豊潤な香りには郷愁さえ覚える。
並々に注がれたぐい飲みをひとまず置き、男性から徳利を受け取って、お酌を返す。この一連の儀式のような行為、会社の飲み会では仕方なくやっていたが、今こうして初対面の男性とやってみると、コミュニケーションを取る手段としてはなかなか理にかなったものだという事に気がついた。同じお酒を、同じように注いで、同じように飲む。錯覚かもしれないが、少し心が通じ合ったような気がした。確か、心理学の授業で習った気がする。ミラーリング効果と。
「青年、ママきれいじゃろ?」
「あ、はい。おきれいですよね」
「ママは女優だったんじゃぞ。名古屋の演劇界で一番の売れっ子でな」「え? 本当ですか? いや、そうですよね。そんな雰囲気ありますよね」「もー、トッチさん、昔話はやめてくださいよぉ」
片づけをしているお座敷の方から、ママさんの声がする。重なるようにガハハハとヒゲさんの笑い声。
「わしゃ若い頃、ママのファンでな、何度もママの芝居を観に行ったもんじゃよ」
意に介さず喋り続ける男性、トッチさん。トッチさんが言うには、ママさんは舞台のみならず、東海ローカルのテレビCMにも頻繁に出ていたそうだ。だが東京進出が噂され始めた頃、急に芸能活動をやめてしまったという。
「それもこれも全てこのヒゲのせいじゃ。こいつがママをたぶらかしたばっかりに……」
カウンター内に戻ってきたヒゲさんを憎々しげに睨みつけながら刺々しい言葉をぶつけるトッチさん。
「ガッハッハ、トッチさん、人聞き悪いわ。まあ、なんつーか、運命の赤い糸ってヤツよ。ガハハハ」
「ちょっと待って下さい。ママさんが女優で、ヒゲさんは、旅を、していたんですよね? 一体どうやって知り合ったんですか?」
「ああ、旅な。そういえばそんな話してたな。なんだか話がこんがらがっちまったな」
「お二人の過去の話、興味があります」
「そっかあ、そんな大したもんじゃないぞ」
「よろしければ、聞かせて頂けないでしょうか?」
「ああ、わしゃ帰る。聞きたくないわい、そんなのろけ話。ヒゲの大将さん、つけといてくれ」
ぐい飲みを呷って席を立つトッチさん。
「はいよ。倍にしてつけておきますね」
「おう、倍でも十倍でも」
トッチさんが出て行くと、店内は僕とヒゲさんとママさんの三人だけになった。静まり返った店内で、製氷機がガチャコンガラガラと音をたてる。それを合図にするかのようにヒゲさんが口を開いた。
「そうだなあ、何から話そうかなあ」
「初めて会ったのは、夏の終わりだったわね」
ああ、と応えながらヒゲさんが目配せすると、ママさんは暖簾を店内に引き込んだ。冷えて曇ったジョッキに自分用のビールを注ぎながら、ヒゲさんはポツリポツリと話し始めた。
「俺が二十七の時かな。アラスカの川をな、カヌーで旅したんだよ、ふた月くらいかけて。で、久しぶりに日本に帰って来たら、名古屋の味が恋しくなってな、一番仲のいいダチ、タカシってヤツがいるんだけど、そいつに電話したんだよ。『手羽先でも食おみゃあ』ってな。二人でしっぽり飲むつもりだったんだけど、そいつの妹がついてきたんだよ。……それがコレ」
「なによ、コレって。人をモノみたいに」
「あーゴメンゴメン、このお姫様な。いや、この通りべっぴんさんだから一緒に飲めるってなったらそりゃもちろん嬉しかったんだけど、俺としてはやっぱりタカシとサシで飲みたかったんだよ。俺がジローって冷めた目をしたのがタカシには分かったみたいで、申し訳なさそうに言い訳してたっけなあ」
「アンタの迷惑そうな顔、今でもはっきり覚えとるわ。私も女優っていうプライドがあったからね、あの表情は腹がたったわよー」
「ガハハ、ま、それでな、タカシが言うには、妹、ママがな、小さい頃から児童劇団に入ってて、芸能以外のことを全く知らないから、俺が旅先で見てきたことや感じたことを教えてやって欲しいって、こう言うんだよ」
「何よ迷惑そうに。私だって兄貴に無理矢理連れて行かれたんだからね」
「まあ、そんな感じで最初は二人とも乗り気じゃなかったんだけどな、俺がとりあえず、行ってきたばかりのアラスカの話をしたんだよ。そしたら最初はふくれっ面だったママがだんだんと俺の話に食いついてきてな、しまいには目ん玉キラッキラさせて聞き入ってくれたんだよな」
「だって、たった一人で千キロ以上も川下りしてんのよ。熊が出てもいいように、現地でショットガン買ったりして。テレビか映画の話みたいだったもん」
「まあ、そんなかっこいいもんじゃないけどな」
「でもね、私一番スゴイと思ったのは、あんたが最初に旅に出た話」
「ああ、ヒッチハイクな」
「ケンスケさん、この人ね、ヒッチハイクで日本一周してんのよ」
「一周じゃないっての、なんだかんだで二周半」
「いいのよ、そんなこと。それより私が驚いたのはね、この人ったら旅に出る時に、アパート引き払ってんのよ。何もかも処分して」
「当たり前だろ、放浪の旅なんだからよ」
「しかもね、旅に出る時の所持金いくらだったと思う?」
全く見当がつかない。十万、では少なすぎるか?
「五十万くらいですか?」
「普通それくらいって思うわよね。あんた、いくらだったっけ?」
「一万……二千円だったかな」
「一万二千円で、何もかも捨てて旅に出ちゃうのよ! なんて頭の悪い人かしらって思ったわよ」
「え? 一万二千円で、旅に出て、日本を二周半……ですか?」
「まあ、あくまで旅立った時点でな。行く先々でわりと季節仕事があるからな。北海道なら魚の加工場とか、沖縄なら製糖工場とか」
大学時代、ワンダーフォーゲル部に所属していた友人から、そういう話は聞いたことがある。夏は北海道、冬は沖縄で働く、そんな生活を確かこんな風に言っていた。
「渡り鳥、ってやつですか?」
「おお、よく知ってるな。まあ、そんなようなもんだ。とにかく、ママにとっちゃそういう話が新鮮だったんだろうな。それから二人で頻繁に会うようになったんだよ」
そう言ってヒゲさんは、茶目っ気たっぷりにママさんにウィンクを投げつけた。ママさんはそれをフンと鼻であしらうが、顔は満面の笑みだった。
「それで、ご結婚ですか?」
「ところがぎっちょん、もうひと山場あるんだよなあ」
「あったわねえ」
二人ともとても楽しそうだ。何かロマンティックな出来事でもあったのだろうか。
「山場ってのはどんなことで?」
「ああ、すっかり俺に感化されたママが『旅に出る』って言い出してな。俺としちゃあ、ママと恋仲にはなったけどさ、どうせそのうち東京でデビューするんだろうなって思ってたんだわ。まあ、その時になったら、俺もまた旅に出るかなんて、適当に考えてたから、ママの『旅人宣言』には正直ビビったなぁ」
「うん、もうね、旅に出たくて出たくて、女優どころじゃなくなっちゃったの」
「でな、俺以上にビビったのが兄貴のタカシ。旅を諦めさせてくれって、俺に頼み込んできてな。ああ、言い忘れたけど、このタカシがママのマネージメントもしてたんだわ。まあでも、どうしようもねーんだよ。俺も旅人だからさ、『旅に出たい』って気持ちなんて収まるもんじゃないってのはよーく分かるんだよ。ただ、タカシの気持ちもわかる。これから東京進出させようって時に、旅なんかさせて、万が一事件にでも巻き込まれたら大ごとだからな。そこで折衷案として、俺と二人で旅をすることになったんだよな」
「北海道の自転車旅でね、函館から北上して稚内がゴール。この人の旅に比べたらスケールダウンするけど、楽しかったわぁ。雨の日が多くてね、レインコート着て自転車漕いで、しんどくってしんどくって、この人とも何度も何度も喧嘩したけど、終わってみたら本当に楽しかったの」
「そうだよなあ。二人旅、しかも女となんて俺のポリシーに反してたけど、終わってみたら、本当に満足感しかなかったな。ま、こうして二人の愛が深まって結婚…」
「でね、ゴールの宗谷岬に着いた時に、私『北海道サイコー! 旅サイコー!』って大声で叫んだの」
「あ、それ言っちゃうの?」
「うん、ここからが私のクライマックスよ」
何か二人の空気が変わったように感じた。
「私が叫んだのを見て、この人、なんて言ったと思う?」
「え? 何かひどいことでも言ったんですか?」
ヒゲさんは、バツ悪そうにトイレへ行ってしまった。
「そうなの! あのね、『俺の中では、これは旅じゃない』なんて言い出したのよ」
トイレから大きな鼻歌が聞こえてくる。
「意味が分からなくってね、私、しばらくあの人の顔をじっと見つめてたの。そしたらね、続けてこんなこと言うのよ。『旅ってのは自分で思い立って、自分で計画して、自分一人で行動することだ。俺達がしたのは、単なる自転車旅行だ』って、そんなこと言うのよ」
「ごめんなさいごめんなさい!」
ヒゲさんが大声で叫んでいる。
「私がキョトンとしてると、さらに追い打ちをかけてきたのよ。『バイクや自転車の旅は、何百キロ何千キロ走ったとしてもバカはバカのままだ。しかし歩きやヒッチハイク、カヌーの旅ってのは、旅立った瞬間に賢者になれる』ってね。まだ一言一句覚えているくらいだから、どれくらい私が腹立ったか分かるでしょ?」
ヒゲさんが頭を掻きながらトイレから出てきた。
「いや、そのね、俺も若かったからね。その言葉、俺が好きなアウトドア作家の言葉なんだけど、偉そうに受け売りで言っちゃったわけ。それで、もうその場でママが大激怒!」
「じゃあいいわよ。私、今度は一人で旅に出る。あなたが行ったアラスカの川、一人で下ってやるわよって、私、本気で思った。この人が行ってない場所にも一人で行ってやるってね」
「で、どうなったんですか?」
「その日は仕方なく稚内で一泊して、翌日飛行機で名古屋に帰ったんだけどね、私ひと言も口きかなかったの。この人も自分がいかにバカなことを言ったか理解したみたいで、何度も何度も謝ってきたわ。でも私、絶対に許さなかった。ああ、思い出すだけでも腹立つわ、アハハハハ」
今は完全に思い出話になっているようだが、その当時のママの怒りは怖いくらいに伝わってきた。
「俺も本当に反省したんだよ。なんつーんだろうな、アレなんだよ。ママとの旅が本当に楽しすぎてな、『こんなの旅じゃない』ってのは旅人としての自分を戒めるために言っちゃったんだよな。名古屋に着いて、別れ際、そのことをもう一度丁寧に説明したんだけどな……」
「あの時のあんたの泣きそうな顔ったらなかったわよ」
「『言いたいことは分かったけど、私一人で旅するから』って冷たく言い放たれてな、俺、ヤバイって思ったんだわ」
「ヤバイ?」
「うん、このままコイツを帰したら、一生後悔するってな」
「そこからのあんたのセリフ、くさかったよね。アハハ」
「おいおい、俺の魂の叫びがくさいってか?」
ママは伸びている背筋をさらにキリっと伸ばし、芝居がかった口調でこう言った。
「待ってくれ。俺の体験は全てお前の体験だ! 二人で一人! 夫婦ってそういうもんだろ? だから、だから俺と結婚してくれ! そうすればお前もひとりで旅をしたことになるからよ!」
ガッハッハとヒゲさんが大袈裟に笑っている。ママも笑って、涙目になっている。僕は、とても貴重な場面に立ち会えているような気がした。
「セリフの内容としては支離滅裂なんだけどね、私、なんだかジーンときちゃって。北海道での出来事が色々と頭をよぎってね。『ああ、この人と一緒の人生がいいな』なんて思っちゃったわけ。まあね、今にして思うと、ひと月近くずっと一緒にいたから、情が移っちゃっただけなんだけどね。アハハハハ」
「で、めでたくプロポーズは大成功したんだけど、タカシにはこっぴどく叱られたなあ。何度も何度も思いなおすように説得されたけど、もうどうにもならんわな。ガハハハ」
「東京進出は断念。名古屋での芸能活動もだんだん仕事を減らして、フェイドアウト気味に引退」
「で、結婚して、この店開いて、今に至る、とまあそんな感じだな」
生き生きとした二人の表情が眩しかった。こんなドラマのような恋愛が現実にあるとは。何の変哲もない自分の恋愛が、なんともつまらないものに思えてしまった。
「おっと、もう十二時回っちまった! 終電過ぎたけど帰れるか? お座敷で寝てってもいいんだぞ」
「歩いて帰れる距離なんで、大丈夫です。あの、お勘定を……」
僕がスマホを取り出すと、ヒゲさんが手で制した。
「ケンスケ、今日は俺がお前を誘ったから、お金はもらわない」
「え、でも」
「いいから! 八代亜紀に感謝しろよ」
「いや、そんな訳には」
「いいから! その代わり、これからもちょくちょく来いよ。一人暮らしなんだろ? 晩飯作るのが面倒な時とかあるだろ? 定食みたいなの、安く作ってやるからよ」
「ケンスケさん、今日は私たちの話ばかりしちゃったから、今度はケンスケさんの話も聞かせてね」
僕は何度も何度もお礼を言って、店をあとにした。
帰り道。冷えた空気が火照った身体に気持ち良い。楽しい。とても楽しい気持ちだ。心躍るとはこの事だ。東郷との約束が流れたのはもちろん残念だったが、プラネタリウムで涙を流し、ヒゲ村で目一杯笑い、素敵な話まで聞かせてもらった。デトックスというと軽々しく聞こえるが、生まれてから今まで自分の中に溜まっていた毒素が、今日一日ですっかり洗い流されたような気がした。
その日を境に、僕は会社帰りにヒゲ村に通うようになった。「話を聞かせて」とママに言われてはいたものの、僕には人に話すような特別な経験がほとんどなかった。なので、やはり話題はヒゲさんの旅の話になる。ヒッチハイクやカヌーの話。もともと料理人だけあって、旅をしながら各地の料理を勉強していた話など。話題は全く尽きる事がなく、僕は続き物のテレビドラマでも見に行くような感覚でヒゲ村に通っていた。
月に数度の東郷とのサシ飲みも、ヒゲ村を利用することが多くなった。東郷も、あっという間にヒゲ村の虜になったようだった。気さくで明るく、誰からも好かれる。ヒゲさんと東郷はどことなく似た匂いを発していた。僕にとっては二人とも少し眩しいような存在だが、彼らのサラリとした人柄のおかげで卑屈にならずに済んでいた。
ある日、僕は予てより考えていた事を、東郷に聞いてみた。
「なあ東郷。旅って、してみたいと思う?」
「まあ、興味なくはないし、機会があったらやってみたいなあとは思うけどよぉ、どう考えてもそんな時間ないよな」
「……ああ」
「もう二十六だでなあ。せめて学生時代にヒゲさんと出会ってれば、話は違ったのかな? ああでも、ラグビーやっとったで旅どころじゃないか。まあ、なんにせよ普通の人間には縁のない世界だわなあ」
「……ほんと、そうだよな」
本当にそうなのかなと思いながら、そう返事をした。
ヒゲさんと出会ってからというもの、僕は旅について色々と調べるようになっていた。
一九六〇年代のアメリカ。堅苦しいキリスト教の教えに疑問を持った若者たちを中心に、自由や自己実現を求めて新しい文化を築こうとする活動が見られるようになった。彼らはヒッピーと呼ばれ、その一部の間でヨーロッパから南アジアへ陸路で旅をする事が流行るようになった。お金のなかった彼らは、安宿に泊まったり、ヒッチハイクで移動したりと、独自の旅のスタイルを確立させていく。彼らの多くはバックパックを背負っていた事から、「バックパッカー」と呼ばれるようになった。この文化は同時期に日本にも伝わり、若者たちが日本中を旅して回っていたという。しかし近年では、生活習慣の変化や少子化の影響で、旅をする若者は大きく減っているという。ヒゲさんは、よくこんな事を言っていた。
「自由を求める旅なんて、もう流行らねーんだろうな」
僕は何不自由なく育った。言い換えれば不自由を知らない。では、不自由を知らない僕が自由を知っているのかというと、おそらく辞書に書いてある以上の事は知らないと思う。つまり僕は、自由も不自由も知らないのだ。しかしなのか、だからなのか、僕は今、「自由」というものに強く惹かれている。自由とは一体何なのだろうか? 自由を求めていた旅人たちは、果たして自由になれたのだろうか? 僕の頭の中はいつしか「自由」そして「旅」が支配するようになっていた。
ヒゲさんと出会った日から半年が過ぎたある平日。終業後にスマホを確認すると、着信履歴にヒゲさんの名前があった。ヒゲさんから電話がかかってきたのは初めてだったので、嬉しくなってすぐに掛け直した。
第二章
「おお! ケンスケ! 仕事中悪いな!」
「いえ、今終わったところです」
「今日、店に来る予定あるか?」
「ああ、はい、行くつもりですけど」
「おお、良かった良かった。まあ、詳しくは来たら話すから! 待ってるぞ!」
そう言って切られてしまった。ヒゲさんが店に来るように催促してくるような事は今までになかった。一体何の用事なのだろうか? 僕は同僚や上司に呼び止められないよう、逃げるように会社をあとにし、ヒゲ村へと向かった。
「こんばんは」と暖簾をくぐる。既に奥の座敷にはお客さんがいっぱいのようで、店内には笑い声が充満していた。
「おう、ケンスケいらっしゃいいらっしゃい!」
カウンターの中のヒゲさんが、仕事の手を止めて僕を迎えた。カウンターの中央には白髪の男性が座っており、ヒゲさんの声と同時に僕の方を振り向いた。顔に浮かんだ皺の多さを見るに、年の頃は七十過ぎぐらいだろうか。中肉中背で、見たところお腹の弛みなども感じられない。現役のアスリートのような雰囲気さえ感じ取れた。
「ケンスケ、前に尊敬するアウトドア作家のこと話したよな?」
「え? ああ、あの『バカはバカのままだ』って仰った方ですよね?」
「そうそう! それがこの方。野口友介さん」
「ええ? あの!」
「こんな機会めったにないから、隣に座らせてもらえ」
僕は床から数センチ浮いたような感覚で、隣の席に座った。自己紹介をすると、ニッコリと笑って「野口です」と応えてくれた。
この野口さんの本は、僕も何冊か読んでいた。カヌーやヒッチハイクで世界中を旅していて、気に入った村があるとしばらくそこに住み着いてしまうという、僕のような常識人からすると、漫画の主人公のような人だった。ヒゲさん自身もそうらしいが、この野口さんに影響を受けて旅をするようになった人が、日本には数多くいるという。しかし、まさかヒゲさんと知り合いだったとは。今までそんな話は、ヒゲさんの口から聞いた事がなかった。「ヒゲさん、野口さんとお知り合いだったんですか?」
「お知り合いだなんて厚かましい。俺にとっては神様!」
「池村君、どんな馴れ初めだったか、教えてあげたらどうだい」
「はっ! かしこまりました!」
ヒゲさんは、珍しく緊張した面持ちで語り始めた。野口さんの影響で旅を始めたヒゲさんは、行く先々で野口さんに手紙を出していたという。ただ、住所が分からなかったので、当時野口さんがエッセイを連載していた雑誌の編集部宛に送っていたそうだ。ヒゲさんの話を受けて、野口さんがゆったりとした口調で続きを語ってくれた。
「そうだった、そうだった。ある日編集部から連絡があってね。同じ人から何通も手紙が届いているけど読みますかって。なんだか気持ち悪かったけど、読んでみると、とってもまっすぐな人だってことが分かってね、それからは手紙が届くたびに転送してもらうようにしたんだよ。いつか返事を出してあげたいなあと思ってたんだけど、いつも住所が書いてないからね、送れないんだよ。そんなある日、名古屋で居酒屋を開くって手紙が届いて、ちょうど日本にいる時だったし、住所も書いてあったからね、顔を出したってわけなんだよ。あれがもう二十年以上前になるのかな。早いもんだね。……ああ、ママ、スコッチ、おかわり下さい」
世界中の色々な人と会話をしてきたからだろうか、野口さんの話す言葉は、一言一言がとても聞きやすい。
「野口さん、今も徳島県にお住まいで?」
ママさんが、グラスに琥珀色のお酒を注ぎながら野口さんに尋ねた。
「ああ、もう十五年くらい経つかな、徳島のド田舎に家を建てて。川も海も山も近いから言うことなしだね。ママも池村君に愛想が尽きたら、いつでも来ていいからね」
「ちょっとちょっと野口さん!」
店内に爆ぜるような笑いが生じた。ヒゲさんとママさん、この二人だけでも絵になるというのに、そこに野口さんが加わると、まるで映画のワンシーンのようだった。こんな貴重な場面に同席できて感動しきりだが、反面、僕みたいな若僧がこの場にいてもいいものなのか、恐縮しきりでもあった。
そんな僕の心情を察してくれたのか、野口さんが声をかけてくれた。
「ケンスケ君、だったね。君、なんで今日呼ばれたと思う?」
「あっ、あの、よくここに来るので、たまたまというか……」
「池村君、君に電話していたよね?」
「あ、はい」
「池村君には池村君の想いがあるんだと思うよ」
ヒゲさんを見ると、大袈裟なウィンクをしてくれた。
「縁ってのがあってね。この縁はあちこちに転がっているんだ。その縁を生かすも、殺すも、全ては自分次第。僕も歳をくって色々なことが億劫に思えてきたけど、縁だけは大事にしたいと、常々思っているよ」
「縁、ですか……」
「ああ、すまない。なんだか説教臭くなってしまったね。ママ、ケンスケ君にも同じスコッチを。うん、トワイスアップで」
薄い麦茶のような色のお酒が、ダルマのようなグラスに入って出てきた。氷は入っていない。
「さあ、飲もう」
乾杯をして、野口さんの手に釘付けになった。いくつもの深い皺が刻まれた赤銅色の逞しい手。まるで芸術品のように美しい。この手が世界を掻き分けてきた手だと思うと、自分のツルツルした手がやけに恥ずかしく思えた。その頼りない手で、グラスを口に運ぶ。初めて飲むスコッチは、なんだか薬品のような香りと味わいだった。
「お口に合うかな?」
「あ、ク、クセが強いですね」
「ははは、ちょっときつかったかな。これはね、トワイスアップという飲み方でね、スコッチを同じ量の水で割るんだよ。氷を入れないから、香りが立つし、味も最後まで変わらない。旅に出るとね、よく川の水でトワイスアップを作ったものだよ。スコッチに一番合う川の水は北海道の……」
勉強にせよスポーツにせよ仕事にせよ、僕は人よりもコツを掴むのが早いようで、何をやっても人並み以上にこなす事ができた。感情の薄い欠陥品である事は自覚していたが、社会生活を送るという意味では、自分はそこそこ優秀だと思っていた。だが野口さんの話を聞いていると、その自信がどんどん崩れていく。僕の知らない事、経験していない事が、野口さんの口からどんどん出てくる。野口さんの経験してきた事に比べて、僕の経験のなんと薄っぺらな事か。野口さんの前では、僕も生まれたての赤ちゃんもそれほど違いがないように思えた。そして何より、あのゴツゴツとした美しい手。あの手こそ、人間が本来携えるべき手なのではないだろうか。僕は何から何まで野口さんに遠く及ばない。だが、ここまで差があると、かえって清々しくもあった。僕は、この野口友介という人間に、全てを曝け出したくなった。自分がまるで腹を見せて尻尾を振る犬のように思えたが、この人の前ならそれも悪くない。
僕は半年前から湧き上がっていた疑問を、恐る恐るぶつけてみた。
「野口さん、青臭い質問なんですが、……自由って何でしょうか?」
野口さんはグラスを持ったまま宙を見つめた。微かな緊張感が店内に漂った。
「僕は自分がよく分かりません。今の仕事を続けるべきなのか、それとも、もっと自由に、自分のやりたいことをやった方がいいのか」
静まり返るカウンター。奥から聞こえるお座敷の笑い声が、まるで異次元の声のように感じられた。ヒゲさんとママさんは黙ってそれぞれの仕事をしているが、耳だけはこちらに向いているようだった。野口さんは、宙を見つめたまま口を開いた。
「僕はね、よく人に聞くんだよ」
「……はい」
「死ぬ時にね、『この世でやりたいことは全部やった。さよなら現世』とスッキリ旅立つのか、『ああ、結局自分のやりたいことは何一つできなかったなあ』と文句を言いながら死んでいくのか、どっちを選ぶかってね」
「……」
「全員が全員、前者だって答えるんだよ。でも実際はどうかというと、ほとんどの人が後者、つまり自分のやりたいことをやらずに死んでいくんだよ。一度きりの人生、本当にそれでいいのかねえ」
言葉が出なかった。
「当たり前のことを言おうか」
「……はい」
「人間はね、どんな生き方をしてもいいんだよ」
野口さんのこの言葉を聞いた途端、全身にブワッと鳥肌が立ち、目頭がジワッと熱くなった。『どんな生き方をしてもいい』その通りだ。当たり前の事なのだ。当たり前の事なのに、僕は、ずっとこの言葉を探していたのかもしれない。プラネタリウムで涙を流した時に微かに動いた心の部品は今、カタリと音を立てて動き出した。僕はこの瞬間、それまで迷っていた事を実行する決意を固めた。
「ケンスケ、いい言葉もらったみたいだな。野口さんの言葉ってのは冷酒みたいなもんでな、あとからジワジワ効いてくるぞぉ」
「ああ、マリファナも仕込んであるから気をつけるようにね。ハッハッハ」
二人の言葉のおかげで、店内は元の明るい空気に戻った。
その後は、野口さんとヒゲさんの旅談議が始まった。談議と言っても、ヒゲさんは仕事をしている事もあり、喋っているのは主に野口さんだった。イヌイットの村で暮らした話。アマゾン川をカヌーで下った話。ヨーロッパをヒッチハイクで回った話。尽きる事のない世界各国の冒険話は、まるで一つ一つが飛び出す絵本のようだった。ヒゲさんはヒゲさんで、野口さんの語りに上手く合いの手を入れ、話をさらに盛り上げていき、僕の様子を見ては補足説明をしてくれた。この『ヒゲさんプロデュース、野口友介劇場』とでもいうような素晴らしいトークショーは、まるで今飲んでいるトワイスアップのようだった。野口さんというスコッチが、ヒゲさんという水によって、見事に引き立てられていた。スコッチのトワイスアップの良さはまだ僕には分からないが、この二人のトワイスアップは掛け値なしに最高だった。
時計が十二時を回った頃、店の真ん前に大きめの車が止まったのが、入口のすりガラス越しに分かった。「こんばんは!」と勢いよく入ってきたのは五十代前半くらいの女性で、ヒゲさんとママさんと親しそうにあいさつを交わした。半分酔いつぶれている野口さんを、乗ってきたランドローバーの後部座席に寝かせ、「またゆっくり来ますね」と笑顔で去って行った。しかしどうした事か、すぐに車は停止した。しばらくして運転席のドアが開き、女性が何か紙切れのようなものを持って駆けてきた。
「えーっと、ケンスケさん? 野口がいつでも遊びに来いって言ってます。これどうぞ」
紙切れには徳島の住所と電話番号が書かれていた。僕は咄嗟に名刺を渡そうとしたが、すぐに思いとどまった。僕なんかは、まだまだ野口さんに名刺を渡せる人間ではない。瞬間的にそう思ってしまったのだ。
「それじゃあ、また!」
女性は、大きく手を振って去って行った。勢いよく現われて、颯爽と立ち去る。まるで小さなつむじ風が通り過ぎたような余韻が残った。
「娘さん、ですか?」
「奥さんよ。わたしと同じ歳の」
「野口さんは若い頃に一度結婚してんだけど、すぐに別れてな、十年くらい前だったかな、ずっと助手を務めてた、あの美代子さんと結婚したんだよ」
野口さんは人間としても魅力的だったが、男としての魅力もムンムンと漂っていた。比べるのも烏滸がましいが、僕は野口さんに敵う事が、やはり何一つないようだ。
「あー、来週には秋分の日だってのに、まだまだ暑いわねえ」
ママさんが手で顔をパタパタと仰ぎながら言った。気候そのものの事のようでもあり、野口さん夫婦の事のようでもあった。
僕は「俺が誘ったんだから」と断るヒゲさんを何とか制して勘定を払い、丁寧にお礼を言って家路についた。歩きながら、僕は自分の決意を何度も呟いた。すれ違う人に不審な目で見られたが、それでも僕は、何度も何度も呟いた。
朝、鴉のけたたましい鳴き声で目が覚めた。いつもより深酒をしてしまったが、目覚めは爽快だった。半身を起こして、昨晩の事を思い返す。うん、決意は微塵も揺るいでいない。起き上がり、カーテンを開いて、僕は力強く呟いた。
「旅に、出よう」
鴉が一羽、ビルやマンションが立ち並ぶ窮屈な空間から、朝焼けの空へと飛び立っていくのが見えた。
その週の金曜日、僕と東郷はヒゲ村ではなく、個室のある居酒屋に来ていた。
「……というわけで、俺、今年度で会社を辞めることにした」
東郷は無言だった。無言のまま生ビールを呷り、味噌おでんのスジ肉をクチャクチャと噛んでいた。僕は半分残っていた生ビールを飲み干し、東郷の分も合わせておかわりを二杯頼んだ。
「……お前さあ」
東郷はしっかりと僕を見据えて口を開いた。
「辞めることないがや。お盆休みに有給くっつけてひと月くらい休めばいいだろぉ? ひと月あればあちこち行けると思うんだけどなあ……」
「東郷、あのな、あちこち行くことが目的じゃないんだよ」
「いや、分かるんだけどよぉ、会社辞めずにできねーのかよ?」
「うん、できない」
「はあ……、お前、美由紀ちゃんはどうすんだよ?」
「美由紀とは、別れようと思う」
「はあ? 別れるって、ずいぶん一方的だな。婚約しとんだろぉ?」
「まだ、正式にはしていない」
「正式もクソもあるかよ。向こうは結婚する気満々なんだろ?」
「う、うん」
「お前、それ、自分勝手が過ぎるんじゃないか?」
「自分勝手なのは分かってる。でも、だからと言って、旅が終わるまで待っててくれなんて言えるわけないし、第一、いつになったら旅が終わるかなんて、俺にも分からないんだから」
「本人に言ったんかよ?」
「……まだ言ってない。明日会うから、その時に……」
「大学二年の時からって言ってたよな? つき合い始めたの」
「うん」
「……六年もつき合って、ポイか」
「ポイって……」
「ポイだよ。いいか? お前がどんな崇高な理屈つけたって、美由紀ちゃんにしてみりゃ事実は一つ。ポイ捨てされました。それだけのことだわ」
「……うん、分かってる」
「ハハ、何が分かってんだか。まあ、こんな男に惚れた美由紀ちゃんに見る目がなかったってことだな。自業自得か。ハハハ」
「ちょ、東郷、それ言い過ぎだ……」
「本当のことだろうがよ」
「……でもな、さっきも言ったろ? もう、この『旅に出たい』って気持ちはどうにもならないんだよ」
東郷は蔑んだような目で僕を見ている。僕は、悪い事をしているのだろうか? コンコンとノックの音が聞こえ、すぐに扉が開いた。
「お待たせしましたー! 生二つどうぞー! 空いたジョッキ、下げさせてもらいまーす!」
学生のアルバイトだろうか? 弾けるように元気のいい女の子だ。ふと美由紀の学生時代を思い出して、急に申し訳ない気持ちが広がってきた。
突然、東郷が残っている料理をガツガツともの凄い勢いで食べ出した。おでん、刺身、串カツ、焼き鳥……。そして最後に生ビールを一気に流し込んだ。その動作の端々には、はっきりと怒りが見て取れた。僕は、何も言えずに呆然と眺める事しかできなかった。
東郷はビールを飲み干すと、すっくと立ちあがってゲェェェェと大きくゲップをし、テーブルに一万円札をバシンと叩きつけてこう言った。
「自分勝手。お前がやろうとしてることは、単なる自分勝手。そんな人間だったんだな、お前って」
何も言い返せない。
「もう顔も見たくねーよ! あーあ、こんなまずい酒、初めてだわ」
乱暴に扉を開けて、東郷は出て行ってしまった。
自分勝手。そう。そう言われてしまえば、全く反論できない。でも、東郷は分かってくれると思っていた。心の奥底から湧き上がってくる熱い想いを。その想いに従って動き出したくなるこの衝動を。僕が今まで感じた事のないこの魂の叫びというような感情を、東郷なら分かってくれると思っていた。
明日は美由紀が僕の部屋に来る事になっている。東郷に勢いづけてもらって美由紀と別れようとした僕の卑怯で浅はかな計画は、見事に砕け散った。
チビリと生ビールを啜った。美味しくもなんともない。一人で個室にいると、周りの話し声がはっきりと聞こえてくる。
「ホラホラ、これ聞いてみ」と若い男性の声。しばし間を置き「うん、いい曲だね」と若い女性の声。
「だろ? じゃあ、次これ」
「……うん、いいね」
「だっろー! ホラ、これもヤバイから」
「……うんうん、ヤバいね」
スマホで曲を聞かされているのだろうか? 男性の盛り上がり方に対して、女性はどこか冷めた声だった。おそらく恋人同士だろうが、こんな独りよがりな男はいずれ捨てられるに違いない。
捨てられる。何か過失があるから、捨てられる。美由紀は、何か悪い事をしたのか? 学生の時からバスケットボール部のマネージャーとして僕やチームメイトを支えてくれて、社会人になって環境が変わっても、変わらず僕を好きでいてくれている。お互いの両親にも紹介し合い、来年の春には結納も予定していた。幸せな結婚生活が来るのを指折り数えている美由紀を、僕は奈落の底に突き落とそうとしている。東郷に愛想をつかされ、美由紀を不幸にして、そこまでして僕は旅に出なければならないのか?
「ホラホラ、これ、ちょーヤバいって」
「……ほんとだねー」
代り映えのない会話が急に羨ましく思えた。僕はすっかり自信がなくなってしまった。本当に旅をするのが正しい事なのだろうか?
そして、翌日を迎えた。
土曜日の朝、いつもより人の少ない地下鉄の改札。エスカレーターで上がってくる美由紀が見えた。美由紀はその場にいる誰よりもきれいだった。淡いベージュのワンピースに、ツバ広帽子。いかにもお嬢様といった出で立ちで、ドラマの撮影でも始まるような、そんな雰囲気さえ漂わせていた。男女を問わず、通り過ぎる人が横目でチラチラと眺めている。母親に手を引かれた子供などは、夢の国でお姫様にでも会ったかのように口をポカーンと開けて見惚れていた。
『今日、僕はこの素敵な女性と別れるのか』
そう考えると、やはり旅をする事が間違っているように思えてきた。
美由紀は、僕を見つけると小走りで近づいてきて、そして抱きついてきた。春の花畑のような香りが、一瞬にして僕を包み込んだ。どちらかと言うと控え目な彼女が、人前でこんな大胆な事をするのは初めてだった。僕は肩をそっと抱きしめながらも、ゆっくりと美由紀を引き離した。
「ちょ、美由紀、どうしたの?」
「三週間ぶりだね。会いたかった」
そう言って、美由紀は僕の右腕に絡みついた。優しさにあふれた膨らみが、僕の決意を鈍らせる。
「ねえねえ、プラネタリウム見たらさ、スーパーで買い物しよ。ケンの好きなハンバーグとポテトサラダ作ってあげるね。今日は泊って来るって言ってあるから、ゆっくりできるよ。美味しい赤ワインで乾杯しようね」
そうだった、昨晩そんなメッセージが届いていた。読んではいたが、完全に忘れていた。
プラネタリウムでは、美由紀の甘えっぷりに輪がかかった。僕の右肩に頬をくっつけ、彼女の左手が僕の右手を絡めとり、彼女の右手は僕の太腿に置かれた。まるで添い寝をしているようだ。このまま美由紀と二人だけの世界に入り込んでしまいたい。そんな欲望に終始襲われていた。ただ、それでもかろうじて理性を保つことができたのは、このプラネタリウムという場所が、僕にとっては特別な場所だったからだ。あの日流した涙。そう、ここは僕にとっての新しい人生の始まりの場所なのだ。
投影終了間際、何の反応も示さない僕への罰なのか、美由紀は僕の肩口をガブリと噛んできた。美由紀の表情を見るのが恐ろしく、僕はごまかすように左手で髪を撫でた。
スーパーで買い物を終え、二人で僕の部屋へと向かう。相変わらず美由紀はべったりと僕の右腕に絡みついている。左手に買い物袋を持っているのでバランスがとりづらく、極めて歩きにくい。しかし、これから美由紀に対して酷い仕打ちをしなければならない僕には、まだまだ全然足らないくらいの苦しさだ。もっと、いっそのこと、この右腕をもぎ取られるくらいの罰が僕に下されればとさえ思う。
五階にある僕の部屋へ向かうために、エレベーターに乗った。ドアが閉まると同時に、美由紀は僕の顎を両手で掴み、半開きの唇を押し当ててきた。「ちょ、人が来るよ」
「いいの!」
こんな事をする女性ではなかった。もしかしたら、美由紀は僕の心の変化を感じ取っているのだろうか? 必死に僕の心を繋ぎ止めようとしているのだろうか? だとしたら、僕はなんて最低な男なのだろう。清楚を絵に描いたような美由紀に、こんな真似をさせてしまうなんて。
エレベーターが五階で止まり扉が開く。僕の体に両手を回して離れない美由紀を、抱えるようにしてなんとか部屋まで辿り着いた。玄関の中に入った美由紀は、僕から買い物袋を奪うと、それを乱暴に廊下に置き、すぐさま飛びつくように僕の首に手を回した。
「ちょっと、みゆ…」
全て言い切らないうちに、美由紀の唇が僕の唇を塞ぐ。僕の口の中で忙しなく動く美由紀の小さな舌。……これは、美由紀じゃない。バスケットボールの試合後に薄笑いを浮かべた僕を厳しく𠮟りつけた、あの美由紀じゃない。僕は、僕は美由紀を、こんな風にさせてしまった。
涙が出てきた。口がわなわなと震える。異変を感じた美由紀が唇を離し、両手で僕の顔を優しく包んだ。
「ケン、どうしたの?」
「ごめん、美由紀、ごめん……」
言葉にならなかった。
大学二年、バスケットボール部の夏合宿。最終日に皆でやった花火。僕が手持ち花火をしていたら美由紀が隣に来てくれた。僕の花火で美由紀の花火に火をつける。白い光が美由紀の顔を照らした。真っ白で滑らかな肌。少しふっくらとした唇。花火を見てキラキラと輝く黒目がちな瞳。
「ああ、天女ってのは、こういう子のことを言うんだろうなあ」
そう思ったのを覚えている。それから僕たちは急接近するようになった。最終的には美由紀から告白されてつき合うようになったのだが、そうだ、僕もあの瞬間、確かに恋に落ちていたのだ。
「……美由紀、好きだよ」
僕は今、心からそう思えた。
「私だって好きだよ、ケン、なんでそんなに泣いてるの?」
幼子をあやすように僕の頭を撫でる美由紀。
「美由紀、あのね、俺、美由紀とは、結婚、で、できない」
美由紀は僕の顔を自分の胸に引き寄せた。柔らかく、温かい。美由紀の愛がそのまま詰まっているような、なんとも言えない優しい膨らみだった。
「わかるよ、ケン、不安だよね。私も不安だよ。結婚なんて初めてだから、怖くてしょうがないよ」
『違う、そうじゃない』
「でもね、私、ケンとならどんな困難も乗り越えられると思う」
『そういうことじゃないんだ』
「会社の跡取りのことなんか考えなくていいからね。ケンの好きなようにすればいいんだから」
美由紀は、涙にまみれた僕の右目に唇を当てた。柔らかかった。僕は、この唇の柔らかさを一生忘れない。
「美由紀、違うんだ」
僕は、美由紀の肩を掴み、そっと引き離した。美由紀は不思議そうな表情を浮かべつつも、満面の笑みで僕を見つめている。好きだった美由紀のこの笑顔が、今は、重い。
「美由紀、俺な、思うところあって、会社を辞めるんだよ」
「え! じゃあ、うちの会社に来てくれるんだよね?」
僕は首を横に振った。
「俺な、旅に出るんだ」
「え? 旅? それって私もついて行っていいんだよね?」
「そういう、旅行的なもんじゃないんだよ」
「どこに、どこに行くの?」
「どこか目的地があるわけじゃないんだ」
「いつ帰って来るの? 私、待ってるよ」
「気持ちは嬉しいけど、そうじゃないんだ。一人になって、この部屋も引き払って、何もかも捨てて、旅に出るんだ」
「……は? あははは、はあ? 何言ってるの? 映画の話?」
「映画でもテレビでもない。俺の話なんだ」
「はは、あははははははははは、噓でしょ? バカじゃないの? ケン、いつからそんなキャラになったの? しっかりしてよ。私たち、もう二十六よ。そんな子供みたいな考え、世の中に通用する訳ないじゃない」
「美由紀、俺ってさ、よくクールだって言われてたじゃん。小さい頃からそうでさ、泣いたことなんてないし、みんなみたいに大笑いしたこともない。だからなのかな、夢中になって何かをしたことって、ほとんどなかったんだよ。何をやるにしても適当にやってれば人並み以上にできちゃってさ。熱くなれなかったんだよ」
「……ケン」
「もしかしたら精神的にどこか欠陥があるんじゃないかって考えたりもした。……でもな、そんなことなかった。ほら見て。俺、今泣いてんだよ。熱くなって泣いてんだよ」
「だから何よ!」
天からまっすぐ落ちる雷のように、美由紀が絶叫した。
「泣くことと旅に出ることと、何の関係があるのよ! 適当なこと言って。本当は他に好きな人ができたんでしょ? 会社の人なんでしょ! ふざけんな、ふざけんな、この、バカヤロー!」
美由紀は、買い物袋に入っていたものを手あたり次第僕に投げつけてきた。挽き肉、タマネギ、キャベツ、ジャガイモ、ニンジン。僕は下を向いて、無抵抗に受け止めた。そして最後に飛んできた赤ワインは僕に当たらず、背後の掃き出し窓にぶつかり、大きな音を立てて窓ガラスと一緒に割れてしまった。赤ワインの少し尖った香りが漂ってきた。
「返せ! 私の六年間を返せ! 返せ返せ返せー!」
美由紀は立ちすくんだまま、両手で顔を覆い、声を上げて泣き始めた。美しい栗毛色の髪も、高級そうなワンピースも、すっかり乱れている。ふと、抱きしめたい衝動にかられた。抱きしめて「ごめん、泣かないで」と言ってやりたかった。でも、本当にごめん、美由紀。僕にはもう、そんな資格はない。
割れたガラス窓から爽やかな秋の風が入ってきた。ピクニックにでも出かけたくなるような陽気が、今の僕たちの惨状を際立たせていた。もう、戻れない。
美由紀はひとしきり泣くとフラフラと台所へと行き、置いてあった料理用ライターに手を伸ばした。そして、再びフラフラとリビングに進み、木製ラックの下段に置いてあった新聞の束に、子犬でも撫でるような感じでスッと手を伸ばし、カチッと火をつけた。
「あっ」
僕は小さく呟いたかもしれない。だが次の瞬間、『ああ、これでいいかもな』そう思い、棒立ちになった。炎は少しずつ大きくなっていく。
『うん、いいかもな。美由紀のことは心から愛していた。それは今なら自信を持って言える。その愛した女性がつけた火で殺される。旅には出られなくなったけど、これも自分の蒔いた種だ。仕方がない。でも、美由紀だけは逃げて欲しい』
そう思って美由紀に近づこうとすると、「早く消して!」と美由紀が叫んだ。僕はハッと我に返り、服を脱いで新聞の束を包むと、それを急いで流しへと運び、すぐさま水を流した。
割れた窓。零れた赤ワイン。散乱した食材。煤の臭いが漂う部屋には、水の流れる音が間断なく響いている。何もかもがメチャクチャだ。美由紀はしゃがみ込み、再び大声で泣き出した。
風だけが、相変わらず爽やかだった。
僕のしようとしている事は、本当に正しいのだろうか。美由紀をこんな目にあわせてまで、僕は旅に出る必要があるのだろうか。自分でも分からなくなってしまったが、もう後戻りできない事だけははっきりと自覚できた。
鱗雲が少しずつ赤みを帯び始めた頃、美由紀はようやく落ち着きを取り戻した。さすがに、このまま地下鉄で帰す事はできなかったので、タクシーを呼んで二人で美由紀の自宅へと向かった。後部座席に離れて座った僕と美由紀は、終始窓の外を眺めていた。それぞれ、反対側の景色を。
一時間かけて美由紀の自宅に到着した。名古屋のベッドタウンであるこの辺りには高い建物がほとんどなく、そのおかげで空が広かった。軽く見上げると、西の空は真っ赤に染まっているが、東の空はもうすぐ夜が始まろうとしていた。その薄暗い東の空をバックに夕陽を浴びて赤く染まる美由紀の自宅。三階建てで、一階部分には車四台分の駐車場がある。その豪邸が、怒りで顔を真っ赤にしているように、僕には見えた。
タクシーから降りると、「ウォンウォン」と犬の吠える声が聞こえてきた。動物保護団体から譲り受けたというラブラドルレトリバーのジョイだ。駐車場の隅にある広い柵の中で飼われている。人懐っこい子で、僕とも初対面で仲良くなったが、もう二度と撫でたりする事はないだろう。
「もういいから帰って」
「お父さん、お母さんに謝らせて欲しい」
「いいってば、もうこれ以上関わらなくていいから」
「そういう訳には……」
門の前で押し問答していると、中から美由紀のお母さんが出てきた。
「あら、健介さん、いらっしゃ……美由紀? どうしたの? 髪もお洋服も乱れて……、あっ、美由紀」
美由紀はそのまま小走りで家の中に入って行った。
「お母さん、申し訳ありません。お父さんはいらっしゃいますか?」
「あっ、ちょ、ちょっと待ってね」
一度門の中に引っ込んだお母さんは、しばらくすると門から顔だけを出して、僕を手招きした。意を決して中に入ると、美由紀のお父さんが仁王立ちしていた。
「どういうことだ?」
マグマが沸き立っているようだった。全身から怒りが放散されている。
「申し訳ありません。あの、美由紀さんとの結婚の話、なかったことにして下さい」
深く頭を下げると同時に、左側頭部に強い衝撃が走った。「ああ、殴られたのか」と、意外と冷静に思いながら、僕は回転するように尻もちをついた。視界には星がチカチカと瞬いている。朦朧として両手をつくと、図らずも土下座する格好となった。ジョイがけたたましく吠え出した。
「本当に申し訳ありませんでした」
「お父さん、やめてあげて」
お母さんが必死で引き止めている。
「おい、お前」
お父さんが全身を震わせながら僕に言った。
「慰謝料、三百万円だ」
「あなた、それはあんまりじゃ」
「お前は黙っとれ!」
「そんな大金、健介さんに払えるはず……」
「おい、若僧! お前はなあ、美由紀を傷物にしたんだぞ。今も、自分の部屋で泣いとるがや。お前、責任感じんのかて!」
「……すみません」
「ええわ、別に金が欲しいわけじゃないからな。払えんだったら払わんでええわ。婚約前だで、払う義務もないでな。でもな、払わんかったら、俺は一生お前をバカにするからな。お前が社会的に成功して、ノーベル賞とか国民栄誉賞とか取っても、世界中で俺だけはお前をバカにし続けるからな」
「ちょっと、お父さん」
「まあ、こんなオッサン一人にバカにされたところで、お前みたいな恥知らずは何とも思わんだろうけどな!」
「言い過ぎよ、あなた……何か事情があるんじゃないの? 健介さん、どういうことか説明して……」
「説明なんかいらんわ! 美由紀が泣いて帰ってきたんだぞ! 言い訳なんか聞きたくねーわ! もうええ! 帰れ! 二度と俺に顔を見せるな!」
門から吐き出された僕は、亡霊のようにヨロヨロとその場を離れた。ジョイはいつまでも吠えていた。「かえれ、かえれ」と吠えていた。
僕は、何かとんでもない罪を犯してしまったのだろうか。立ち止まり、救いを求めるように空を見上げた。すっかり暗くなっていたが、西の空だけはまだわずかに赤い。しかし、それもすぐに真っ暗になるだろう。溜め息をついて、ふと反対側の空を見た。『どれくらい闇が深くなっているだろうか?』そんな気持ちで見遣った空には、まん丸の大きな月が浮かんでいた。赤みを帯びて怪しく光る満月は、心が吸い込まれるのではないかと思うほど美しかった。……しかし、色が悪かった。
『月でも誰かがワインを割ったのだろうか』
そう連想してしまった。僕は、地面に潜り込んでしまうくらいに項垂れながら、最寄りの地下鉄の駅へと向かった。
小刻みに乱暴な揺れ方をする地下鉄車両。その扉近くの手すりに力なく掴まりながら、僕はぼんやりと考えた。とにもかくにも、これで最大の壁は乗り越えた。慰謝料三百万円。お父さんの言う通り、払う義務はないが、払わない訳にもいかない。自分でもある程度の金額を払う事は覚悟していた。思ったよりも高かったが、一人の女性の大事な時間を奪った代償と考えれば、まだまだ足りないのかもしれない。貯金に、冬のボーナスを合わせて何とか工面しよう。二見町の両親には、今は電話をする気にはなれない。かといってSNSで伝える案件でもない。とりあえず後回しにしよう。……あとは、会社への辞表。まずは主任に伝えるのか? 係長の方がいいのか? ああ、なんだかまだまだやる事があるな。旅に出る前にくたばりそうだ……。
ふと、扉の横にある鏡を見て驚いた。髪はボサボサに乱れ、顔には煤がついている。燃えた新聞を消した時についたものだろう。よく見ると、顔以外にも体のあちこちが汚れている。駅構内や車内で何となく他人の視線を感じていたが、その理由が今分かった。
鏡を見ながら手櫛で髪を整えた。殴られた辺りは、手が髪に触れただけでもズキンとした痛みが走り、僕の表情を歪ませた。その無様な顔を見て思った。このまるで生気のない顔。これは、何かの抜け殻か? 子供の頃、ミノムシを捕まえては、中の虫だけをそーっと抜き取って遊んでいたが、今の僕は、虫を抜き取られたミノのようだった。もしかしたら、魂をどこかに落としてきているのかもしれない。
『ヒゲ村に行きたいな』
ヒゲさん、ママさん、常連さん、気が置けない人たちに会いに行きたい衝動が湧き上がってきた。しかしすぐに思い直した。ヒゲさんたちには、まだ旅に出る事さえ伝えていない。事の経緯を一から話す気力が、今の僕には残っていなかった。
『明後日だ。月曜日に退職の話が片付いたら、ヒゲ村に行こう』
そうだ。その方がいい。今の混乱した状態で行ったとしても、ヒゲさんたちに迷惑をかけてしまうだけだ。もう少し自分の精神状態をスッキリさせてからに行く事にしよう。
婚約破談、退職、そして旅。何もかもが初めての事ばかりで、まるで暗闇の中を手探りで彷徨っているようだった。光は、見えているのかどうかさえ分からなかった。
「山崎係長、少しお時間よろしいでしょうか」
月曜日の昼休み、社員食堂から出てきた山崎係長に声をかけた。四十代後半。わりと男前だが、社内でも一二位を争うくらい腰が低い人物だった。気が弱いと言った方が的確かも知れない。
「ああ、田中君、いいよいいよ、なんだい?」
何を言っても断らない山崎係長。ややもすると頼りないと思われがちだが、仕事に関して彼ほど相談しやすい上司はいない。
昨夜、退職の仕方について検索してみて驚いた。退職なんてものは、ただ単に辞表を出せば成立すると思っていたが、どうやらそう簡単な事ではないらしい。
退職を希望する場合、まず口頭または文章で、退職する意思を伝えなければならず、これを『退職願い』と言うそうだ。これを受けて、会社側は退職を承認するか否かを決定し、決定されれば『退職届け』を出す事ができるらしい。まずは『退職願い』で意思表示する訳だが、この相手が直属の上司だという。しかし、直属の上司という言葉の解釈ほど難しいものはない。直接仕事のノウハウを教えてくれる主任や係長なのか、それとも僕の所属する顧客対応部の部長なのか、どのサイトを見ても、その辺りは曖昧にしか書かれていなかった。退職に関してはなるべく手数をかけずに済まそうと思っていたが、どうもそう簡単に事は進まないようだ。そこで、僕はとりあえず、上司の中で最も話しかけやすい山崎係長に声をかけたのだ。
「実は、折り入って相談したいことがあるのですが」
そう伝えると、山崎係長は大きな目を瞬かせた後、「うん分かった、うん分かった」と二度言って、空いている会議室に案内してくれた。二十人程度で使うそれほど大きくない会議室だが、二人しかいないとさすがにだだっ広く感じる。口の字状に並べられた長机の一つに並んで腰かけた。なんだかレストランの四人がけのテーブル席に、わざわざ横へ並んで座るカップルのようで、妙に恥ずかしい。
「何かあったの?」
僕の方に正対してしっかりと問いかけてくれる。気弱ではあるものの、こういうところはさすが係長だと感心した。僕も山崎係長の方を向き、はっきりとした口調で伝えた。
「来年三月で、会社をやめようと思っています。その、それで、退職願いを誰に提出すればいいのか分からず、山崎係長に相談させて頂いた次第です」
主任の大きな目が、さらにピンポン玉のように大きくなり、口を小さくパクパクさせ始めた。不謹慎ながら、僕は出目金を連想した。
「え? 田中君、キミ、辞めちゃうの? 同期の中でもトップテンに入るくらい仕事のできるキミが? はっ! もしかして引き抜きとか? あっ、それは個人情報だね。ごめんごめん、答えなくていいよ。えーっと、しかし、いやあ、そっかあ、うーん」
山崎係長はあきらかに狼狽していた。
「退職するには、まず退職願いを出すんですよね? これはどなたに提出すればよろしいのでしょうか?」
「あっ、そうだね、えーっとね、うちの会社の場合は、うん、私でいいよ、私で。……それよりね、田中君、会社を辞めるってのは、もう完璧に間違いないことなの?」
完璧。この山崎係長がよく使う言葉だ。気が弱いのに、「完璧」という言葉を使う瞬間だけは、妙に自信に溢れた表情になる。このギャップが僕は嫌いではなかった。
「はい! 私の中ではもう完璧に決定しています」
しばしの沈黙後、山崎係長は少しくだけた口調で問いかけてきた。
「あのさあ、いや、あの、嫌だったらもちろん答えなくていいんだけどね、退職する理由を教えてくれないかな? あ、無理だったらいいんだけど」
山崎係長の大きな瞳が好奇心でキラキラと輝いている。僕は少し身を屈め、内緒話のように答えた。
「皆さんには折を見て自分から伝えたいので、それまで内緒にしてもらえますか?」
「うんうん」と頷きながら、係長も前屈みになった。
「私、旅に出ます」
「……旅って、どこか旅行にでも行くの?」
「旅行というか、荷物一つ背負って、とりあえず日本を周ってきます」
「え? ああ! バックパッカーってヤツ?」
「そうですそうです」
「ええ! 本当に? ええええ! すごいね、すごいじゃん! いやあ、そんなことをする人が身近にいるなんて、すごいよ! すごいすごい!」
山崎係長は興奮気味に立ち上がって、「すごいすごい」と連呼しながら会議室を歩き回り始めた。こんな反応をしてくれるとは思っていなかったので、なんだか僕までソワソワしてしまう。
「いやあ、私が若い頃にね、テレビでね、ヒッチハイクで旅をする企画が流行っていたんだよ。香港からシルクロードを辿ってロンドンまで行ったり、南米大陸を縦断したり、ロシアを横断したりね。毎週夢中になって見てたなあ。僕の周りにそんな旅をする人はいなかったけど、まさか僕の部下がそうなるなんて! あっ、今のうちにサインもらっちゃおうかなあ」
いつの間にか一人称が「僕」に変わっていた。こんなお道化た山崎係長を見るのは初めてだった。社内のレクリエーションでも、お酒の席でも、いつも皆より二歩も三歩も引いていた係長が、今、前のめりで自分の思い出を語ってくれている。東郷、そして美由紀とのやりとりで自信を無くしかけていただけに、この反応は本当に嬉しかった。
「いやあ、ホントにスゴイよ! ああ誰かに言いたい、でもダメなんだよね。うん、我慢我慢。いやあ、でもすごいなあ! あっ……」
突然、山崎係長は我に返った。
「あ、ああ、あー、そっかあ。どうしようかなあ」
「どうされました?」
「うーん、これはね、まだ正式に決まったことじゃないんだけど、うーん、言わない方がいいかなあ」
「そ、そこまで言ったら教えて頂けないでしょうか」
「そうだね。辞めるんなら、まあいっか。あのね、商品開発部から打診があったみたいなんだよ、来年度からキミが欲しいって。うちの部長が渋ってるから、まだ何とも言えないんだけど……」
今度は、僕の目玉がピンポン玉のようになった。商品開発部は、僕の憧れの部署だった。
美由紀と別れ、退職の道筋をつけ、すっきりした気分でヒゲ村に行くつもりだったが、僕は禁を破った。秘かに憧れていた商品開発部からの引き抜きの話で、僕の心は大きく揺れてしまったのだ。まさかの展開に自分の処理能力が追い付かず、僕は助けを求めるべくヒゲ村に転がり込んだ。
「おいおいおい、なんだよ、そのドラマみたいな展開は!」
ここ最近の出来事を伝えると、ヒゲさんは半笑いの表情でそう言って、焼けたばかりの秋刀魚を出してくれた。
「ケンスケさん、お店に来ない間に、濃い日々を過ごしたのね、フフフフ」
ママさんもどこか楽しそうだ。半分チャカされているような対応だったが、全く嫌な気持ちはしない。むしろ心が解れていく。やはりここに来て正解だった。月曜日という事で店は落ち着いており、お客さんはお座敷にサラリーマンの四人組、そしてカウンターに常連のトッチさんだけだった。そのトッチさんが口を開く。
「青年よ、初心忘るべからず。旅はどうするんじゃ?」
そう、問題はそこなのだ。
「はい。旅は、もちろん今でも行きたい気持ちでいっぱいです。でも、まさか商品開発部への異動話で、こんなにも心が動くとは思っていませんでした」
秋刀魚の身を箸でほぐし、身とはらわたと大根おろしを同じ分量にして頬張る。いつからだろうか、父親と同じ食べ方をしている。
「あら、彼女のところへ転がり込んでれば社長になれたのに。それには心動かなかったの?」
ママさんの意見はもっともだが、役職が偉ければいいというものではない。モグモグと秋刀魚を頬張る僕に代わって、ヒゲさんがそれを代弁してくれた。
「わかってねえなあ、お前は。逆玉で社長になってもな、仕事を評価されたわけじゃないから、それほど嬉しくないんだよ。今回の引き抜きはよ、自分の仕事が認められたって訳なんだよ。自分がしっかりやってきたことを、ちゃーんと見てくれていた人がいる。男ってのはな、そういうのが一番嬉しいんだよ。なあ、ケンスケ」
全くその通りだった。入社してから三年間、僕は顧客対応部門で色々な“ご意見”をまとめてきた。年度末の総まとめは冊子となって全部署に配られるが、ここに「編集所感」というレポートを載せる事を僕は提案した。課長からは「個人の感想は必要ない」と言われたが、僕は「お客様からの意見を全て見た我々の意見は、会社にとって有益な情報ではないでしょうか」と説得し、見事にその案が採用される事となった。今思うと、卒業論文で表彰されて調子に乗っていたからできた事で、少し恥ずかしくもある。ただ、この「編集所感」はそこそこ良い評判を得て、翌年以降も続く事となった。商品開発部長はそれをしっかり評価してくれていたそうだ。
よく噛んだ秋刀魚をゴクンと胃袋に落とし、僕は答えた。
「はい。正直嬉しかったです」
「うんうん、いーんだよ、男は結局仕事に生きる生き物だからな。何も間違ってないよ」
調理場をダスターで拭きながら、ヒゲさんは満足げに頷いている。
「おい! ヒゲ! 甘やかすな! 青年に捨てられた彼女の立場はどうなる!」
トッチさんの言う通りでもある。これで旅に出ずに会社に残ったら、美由紀に申し訳が立たない。
「まあ、そりゃそうだけどなあ。……おい、ケンスケ、それで、係長にはなんて返事したんだ?」
「ええ、恥ずかしいんですけど、何も言えませんでした。あわわわって感じで……」
ヒゲさんは優しく微笑んで、続きを待っている。
「この件は、ちょっと保留にしておこうかって係長が言ってくれて……」
僕は言葉尻を濁して、ビールを呷った。
「で、モヤモヤしたまま、ここに来たって訳だな?」
僕は「はい」と小さく頷いた。ママさんがコップを拭くキュキュという音だけがよく聞こえていた。
「ケンスケ、今の正直な気持ち、言ってみろ。どうしたいんだ?」
「正直な気持ち……。旅に出て、商品開発して、彼女と復縁したい、ですね」
一瞬の間があり、僕以外の三人が目を合わせ、次の瞬間、大爆笑が起きた。
「ダーハッハ! おいおいケンスケ、欲張り過ぎだわ」
「ワッハッハッハ! 青年、バカも休み休みに言え!」
「ケンスケさん、サイテー! アハハハハハ」
笑わせるつもりは全くなかったが、皆がこんなにも笑ってくれる事が、今の僕には心底ありがたかった。
「あー、笑い過ぎた。ゴメンな、ケンスケ」
「ハハハ、最低ですね、僕」
「ハッハッハ、青年よ。欲望や心を抑え切れないことを『意馬心猿』と言うが、今のお主がまさにそれじゃな」
「……いばしんえん、ですか?」
「うむ、欲望を馬、心を猿に喩えておる。馬が走り回るのを抑えられるか? 猿が騒ぎ立てるのを抑えられるか? 無理じゃろ。そういうことじゃ」
なんとも今の僕の心の状態を上手く言い表した言葉だ。
「ケンスケ、お前さあ、ちょっと気分転換でもした方がいいんじゃないか?」
「気分転換……ですか」
「あのよ、もしもよかったらな、俺のダチが伊良湖で民宿やってんだけど、そこ行ってみないか? 石垣島出身の陽気な男でな。気分転換にいいと思うぞ」
「いらご。ああ、伊良湖岬ですか!」
伊良湖岬は、伊勢からもかすかに見える渥美半島の岬だ。伊勢の隣、鳥羽から伊良湖岬までフェリーが出ているが、僕はまだ行った事がなかった。
「ああ、名古屋からなら一泊旅行にちょうどいい場所だからよ、何も考えずに行って、頭の中まっさらにしてこいよ」
「あら、伊良湖ってことはサンちゃんの所?」
「そう。『民宿てぃだ』ってとこだから、あとで検索してみろ」
「みんしゅく、てぃ、てぃだ、ですか?」
「『てぃだ』ってのはな、沖縄の言葉で太陽って意味なんだよ。サンちゃんが経営する『民宿てぃだ』。覚えやすいだろ?」
「サンちゃんさんの『民宿てぃだ』ですね」
「サンって名前、カタカナで本名なんだぞ」
「へーえ、珍しいですね」
「太陽のように明るく育ちますようにって、そう願いを込めてつけられたって言ってたっけな」
「もうね、看板にも名前にも偽りなし! 底抜けに明るい宿よ。気分転換できることだけは保証できるわね、あそこは」
「だよな」
「うん。いいアドバイスね。珍しく」
「ひと言よけい」
再び笑いに包まれる店内。今日ヒゲ村に来て本当に良かった。ヒゲさん、ママさん、トッチさん、三人の笑い顔が僕を前向きな気持ちにしてくれた。僕は残っていたビールをゴクゴクと全て飲み干し、天井を見上げて宣言した。
「伊良湖、行ってきます。馬と猿を静めてきます!」
店内の笑い声に、拍手が加わった。
第三章
その週の土曜日、僕は高速船に乗って伊良湖岬へ向かっていた。船室が低い位置にあるせいで、窓からは波がほぼ真横に見える。遊園地のアトラクションにでも乗っているような感覚だ。少し波があるせいか、小さな高速船は時折ガタンとつっかえるようにして進んでいた。
名鉄名古屋駅から電車で南下し、知多半島にある河和駅へ。そこから高速船で伊良湖岬まで行けるという事を、僕はヒゲさんに教えてもらうまで知らなかった。陸路なら三河湾をぐるりと大回りしなければならないものを、高速船でショートカットできるという事に、僕は軽い興奮を覚えていた。
河和港から出た高速船は日間賀島、篠島を経由して、一時間程度で伊良湖岬に到着した。堤防では釣り人が何人も竿を垂らしている。港のすぐ近くには道の駅とフェリーターミナルを兼ねた大きな建物「クリスタルポルト」があり、観光客と思しき人たちが出入りしている。少し離れた場所には洒落たリゾートホテルが、そしてさらに遠くには海上保安庁の巨大なレーダーが見えた。それなりに旅情を感じられなくもない景色だったが、薄暗い雲が空一面を覆っているせいで、どこかの流刑地にでも来たような気分だった。
時間を確認すると十一時を過ぎたばかりだった。民宿てぃだは港から歩いて十分程度の場所にあるそうだが、チェックインまでにはまだかなり時間がある。僕は、クリスタルポルト内の食堂で少し早めの昼食をとり、意図的に“何も考えずに”散歩する事にした。以前、ヒゲさんが“歩く”という事について、こんな話をしてくれた。
「何も考えずに歩いているとな、色んなことを考えられるんだぜ」
そんな禅問答のような言葉から始まった。
「人間ってのはな、会社に行くためだったり、恋人に会うためだったり、ダイエットするためだったり、何かをするための手段として歩くだろ? それはそれで当たり前のことなんだけど、もしも機会があったらな、ちょっと長い時間、そうだな半日くらい、何の目的も持たず、ボーっと頭をスッカラカンにして歩いてみろよ。人間ってのは不思議なもんでな、ボーっとしてても色々なことを考えちまうんだよな。んでまた、そういう時に考えることって、普段思ってもいないようなことがポッと浮かび上がってきたりするんだよ。なんつーか、自分の脳内を再発見してるような、そんな気分になれるんだよなあ」
何かを懐かしむように微笑むヒゲさんの顔を思い浮かべながら、僕は歩き始めた。
程なくして僕の目に飛び込んできたのは、目が覚めるような美しい砂浜だった。曇天の下でも、キラキラと輝いている。僕は引き寄せられるように足を向けたがすぐに後悔した。砂浜の手前に、教会のベルのようなお洒落な鐘があり、それをカップルが楽しそうに鳴らしていたのだ。カップルの女性に美由紀が重なる。先週土曜日の出来事が蘇ってきた。左側頭部に手を当て、少し強く押してみた。まだシクシクした痛みが走る。僕は自分の中の罪悪感を打ち消すために、何度も側頭部を押してみた。しかし思いとは裏腹に、押せば押すだけ罪悪感も増していった。
人に殴られたのはあれが初めてだったが、痛みよりも「殴られた」という精神的ショックの方が大きかった。人を殴ってしまうほどの怒りとはどんなものだろうか? 年をとって僕が同じ立場になったら、やはり殴ってしまうのだろうか? いや、僕の事なんかはどうでもいい。美由紀はあの後、どうしたのだろう? 部屋に閉じこもって、泣いて、泣いて……まさか自殺を図るとか。いや、タクシーから降りた時には、わりと正気に戻っていた。そんな事はしないだろう。……しないでいて欲しい。美由紀には幸せになって欲しい。不幸の元凶である僕がそんな事を願うのは筋違いだというのは分かっているが、本当に幸せになって欲しい。しかし同時にこうも考える。美由紀の幸せを願う気持ちというのは、僕がこれ以上精神的負担を負いたくないが故の、身勝手な願いなのかもしれない、と。
気がつくと、僕は真下を向いて歩いていた。何も考えずに歩こうとしているのに、いきなり目一杯考えている。気分が一気に沈んだ。僕は無理やり背筋を伸ばし、顔を上げた。見渡すと、僕の心を投影しているかのように、空はどこまでも淀んでいた。
アップダウンの多い道を進むと、「椰子の実・記念碑」、という標識が見えた。案内に従って細道を行くと、小さな公園があった。ずいぶん坂を登ってきたようで、その公園の下は断崖絶壁となっていた。公園には大きな石碑があり、「椰子の実 島崎藤村」と彫られ、続いてあの有名な歌詞も彫られていた。
名も知らぬ遠き島より
流れ寄る
椰子の実一つ
浜辺に流れ着いた椰子の実に自分を重ね、遠くにある我が故郷を思う。そんな内容の歌詞だ。僕は伊勢市二見町で生まれ育ち、十八歳からは名古屋で過ごしている。そして今、伊勢湾をぐるりと周って、渥美半島の先端、伊良湖岬まで来た。あいにくの曇天で見通しは良くないが、晴れていれば伊良湖岬から伊勢方面が見えるはずだ。
南のどこかの島から、何か月も太平洋を旅してこの浜に辿り着いた椰子の実。一方、目と鼻の先の対岸から、わざわざ遠回りをして二十六年かけてこの浜に辿り着いた僕。なぜだか、自分がとてもつまらない存在に思えてきた。いっそ、この断崖絶壁から身を投じてしまおうか。
「俺、正しいのかな」
そう呟いて、僕は公園をあとにした。崖に打ちつける波の音が、いつまでも小さく聞こえていた。
行く場所行く場所で気分が落ち込む。それに呼応するかのように空は刻一刻と暗さを増していた。いつ降り出してもおかしくない。少し早いが、民宿てぃだへ向かうことにした。だが、来た道をそのまま引き返すのは、何かもったいないような気がする。僕は海岸沿いの遊歩道から、民家の見える方向に舵を切った。このまま集落を突き抜ければ、渥美半島北側の国道に出られるはずだ。さらにそこから西へ向かえば港に戻る事ができる。
少し急ぎ気味に歩いていると、冷たいものがポツリと頬に当たり始めた。僕は急いで背負っていたデイバッグを下ろした。持って来ていた大きなビニール袋に全ての荷物を詰め込み、それを再びデイバッグに戻す。こうしておけば、デイバッグは濡れても中の荷物は濡れる事はない。「アウトドアテクニック」というほど大袈裟なものではないが、突然の雨に臨機応変に対応できたような気がして、僕は少し誇らしい気分になった。そして、僕の準備を待っていたかのように、雨は徐々に強くなっていった。集落にいくつもあるビニールハウスから発せられていたプツプツという小さな雨音は、いつしかバチバチと叩きつける様な音に代わり、そのバチバチもさらに勢いを増して、風景全体がゴオオオと咆哮を上げているような、恐怖感さえ覚えるほどの轟音に変わった。
十月を間近に迎える激しい秋雨は、凍えるほど寒いという訳ではなかったが、それでも少し身震いする程度には体が冷えた。折り畳み傘をさしてはいるが、ほとんど用をなしていない。それでもしないよりはましなので、傘をすぼめ気味にさして、小走りで宿へと急いだ。
集落を過ぎると、少し大きな道路に出た。国道だ。ここを左折してまっすぐ行けば「民宿てぃだ」に行き着くはずだ。それにしても、この道路は基幹道路のはずだが、車が全く走っていない。この悪天候で、人も車もピタリと活動を止めてしまったのだろうか? 動いているのは、相変わらずやかましく降る雨と、その中を走る僕だけだった。猛烈な雨音はその他の音を全てかき消してしまう。自分が走る足音さえもよく分からない。まるで無声映画の登場人物にでもなったかのような気分だった。と、その時、雨音に混じってビッビーと安っぽい警笛音が聞こえた。慌てて音のした方に目をやると、軽トラが僕と並走していた。視覚と聴覚を雨に支配され、軽トラの存在に全く気がつかなかった。見ると助手席の窓が少しだけ開いた。僕が顔を近づけると「うーしーろーに、のーってください」と、助手席にいる男の子が大声で叫んだ。僕は言われるがままに軽トラの荷台に乗り込み、キャビンにしがみつくように身を寄せた。すると今度は運転席の方から男性の大声が聞こえた。
「シート! シートかぶって! シートシート!」
僕は荷台の隅に寄せられていた緑色のシートを広げた。その中に潜り込むと、僅かではあるが自分の周りに雨の当たらない空間が出来上がった。シートはバチバチと激しい音をたてているが、自分だけのこの空間が生きた心地を取り戻させてくれた。
「ふーーー」
大きく溜め息をつき終わるのと同時に、軽トラがガクンガクンとつんのめり気味に走り出した。僕はもう一度、自分の存在を確かめるように、はーーーーーっと大きく声に出して溜め息をついた。
十分ほど走っただろうか、軽トラはスピードを落とし、ガタガタと砂利道のような所に入り、すぐに停止した。バタンバタンとドアの音がすると、シートの端がめくられ、再び男性の大声がした。
「オニーサン! 降りて! 家に行って! ダッシュダッシュ!」
シートを捲って荷台から降りると、滝のような大雨の中を男性が民家の玄関へ駆け込んで行く姿が見えた。僕も急いで男性の後を追って民家へと逃げ込んだ。
玄関に一歩足を踏み入れて驚いた。土間が広い。大人が二人並んでラジオ体操でもできそうなくらいに広い。その土間では、既に先に入っていた男の子が、母親と思しき女性にバスタオルでもみくちゃにされてはしゃいでいた。男の子は僕に気づくと指をさして、「みんなべちょべちょー」と言ってケタケタと笑った。
「リエちゃん、このオニーサン拾っちゃったから、もう一枚タオル持って来てくれる? ホラ、オニーサンはこれで体拭きなさい」
男性はそう言って、玄関に置いてあったバスタオルを僕に渡した。
「あら、お兄さん、観光客の方? 大変だったわねー、こんな大雨にあって。遠慮しなくていいから、そのタオル使いなさいね。お金はいらないわよ、アハハハハ」
女性はそう言いながら、スッポンポンになった男の子と一緒に奥へと引っ込んでいった。体格がよく、いかにも肝っ玉母ちゃんといった風体だ。
少しだけ落ち着いた僕は、家の中を遠慮がちに見回してみた。土間にあわせて廊下も広い。廊下と言うよりも玄関ホールと言った方がしっくりくるような広さだ。そのホールの片隅にはテカテカと光るかなり古いタイプのソファが、低いテーブルを挟んで二つ置いてある。どうも、普通の民家ではないようだ。
「オニーサン、この辺の人じゃないよね? どこに行くつもりだったの?」
着ていたシャツで髪をワシャワシャと拭きながら、男性が僕に問いかけてきた。
「あ、はい。民宿てぃだってご存知ですか?」
「はいはい、もちろん知ってるよ。有名だからね」
「ああ、そうなんですか。今日はそこに泊まる予定なんです」
「じゃあ、民宿てぃだに行く途中で、ぼくに拾われたんだね」
「はい。本当に助かりました。あっ、まだお礼も言ってなかったですね、すみません。乗せてくれてありがとうございました」
「ハハハ、困ってる人を助けるのは当たり前だからね、お礼なんていらないよ」
「いやあ、もう、なんて言ったらいいのか」
「ハハハ。気にしない気にしない! あなたが今度困っている人を見たら、助けてあげればいいだけだよ」
何気ない会話にハッとした。困っている人を助ける。この、いわば当たり前の事を、どれだけの人ができているだろうか? 数日前だった。通勤時に黒川公園をショートカットした時、ベンチでうなだれる様に下を向いて座っている壮年のサラリーマンがいた。「大丈夫かな?」とは思ったが、結局声をかけずに通り過ぎてしまった。「よほど具合が悪ければ、自分で救急車を呼ぶだろう」勝手にそう思い込んで、僕は通り過ぎた。苦しんでいる人に「大丈夫ですか」のひと言も言えない人間なのだ、僕は。
「おとー! バスタオルだよ!」
パンツだけを穿いた男の子がバタバタバタと元気よく戻ってきた。男性はそれを受け取ると男の子の髪をクシャクシャにした。
「ありがとー、銀ちゃーん! ご褒美にコチョコチョだぞー!」
ギャハハハと弾けるように笑う男の子、銀ちゃん。
「お兄さーん、ある程度拭いたら、シャワー浴びなさい。そんなんじゃ風邪ひくわよ!」
そう言いながら、肝っ玉母ちゃんが奥の部屋から顔を出した。
「いえ、そこまで甘える訳には。民宿に予約を取ってあるので、シャワーはそこで浴びます」
「あらそう。それじゃあサンちゃん、その民宿まで送ってってあげなよ」
サンちゃん?
「お兄さん、なんて民宿なの?」
「あ、その、えっと、民宿てぃだってところです」
その途端に男性が「アーハッハッハ」と笑いだした。
「なによ。うちじゃないの! じゃあ、もしかして、あなたがケンスケくん? ヒゲさんの紹介の」
男性は一層大きな声で笑いだした。
「ちょ、ちょっとひどいですよ。なんで黙ってたんですか?」
「アーハッハ! だって『知ってるか?』って聞くから、『知ってる』って答えただけだよ。アーハッハ」
「ちょっと、サンちゃん! またいたずらしたんでしょ! どーしよーもない男だね、ホントに」
なんということか。ここが「民宿てぃだ」で、この大笑いしている男性がサンちゃんだったのだ。
「あー、楽しいねえ!」
サンちゃんは、大きな目を三日月のように曲げて、僕を覗き込むようにしてそう言った。
「楽しいねえ!」
銀ちゃんも続く。
「楽しいねえ」
テンポに釣られて、僕も続いた。より一層大きな笑い声が、民宿てぃだに広がった。
晴れて堂々とシャワーを浴び、持って来ていたジャージに着替えた。ビニール袋に入れていたので全く濡れていない。自分の対処法に、少し誇らしくなった。これがもしも何も対処をしていなかったら、今頃着るものがなくて困っていたはずだ。「状況を把握し、対策を立てる」最近読んだアウトドア関連の本で覚えた事が実行できて、それが思いのほか僕の心を躍らせた。「オニーサン! 着替えたら部屋に案内するからねー!」
脱衣所の外からサンちゃんの声がした。ちょうど支度をし終えた僕は脱衣所を出て、サンちゃんと一緒に二階へと続く階段を上がった。上がり切って驚いた。少し古びた感のある一階に対し、二階は住宅雑誌の表紙にでもなりそうなくらいお洒落な作りとなっていた。まず、建物の真ん中を、キャラメル色の廊下がまっすぐに走る。壁は腰の位置までは板張りで、そこから上は真っ白な漆喰。廊下の手前と突き当りは、それぞれ大きなガラス窓になっている。そこから入ってきた光が白い壁を照らすので、今日のように天候が悪くても、それほど暗くは感じない。部屋は廊下を挟んで左右に三つずつ、合わせて六つあり、深みのある焦げ茶色の引き戸が、空間全体に程よいアクセントをつけていた。
「ちょっと見ててよ」
そう言うと、サンちゃんは照明のスイッチをいくつかカチカチっと入れた。その途端、暖色系のやわらかい明かりが天井のダウンライトから、ふわりと落ちるように広がり、廊下全体が柔らかく浮かび上がった。それはまるで落ち葉でできたトンネルに夕陽が差し込んだような、幻想的ともいえるような光景だった。
「うわあ」
僕は思わず感嘆の声をあげてしまった。
「きれいでしょ?! ホラホラ、部屋も見てよ!」
スーッと部屋の戸を開けるサンちゃん。促されて覗き込んでまた驚いた。木で作られた頑丈そうな二段ベッドが左右に一つずつ。そして正面には廊下と同じような大きな窓。シンプルでありながらもなんともお洒落な空間だった。
「このベッドね、全部大工の友達に作ってもらったの。ね、ホラ、触ってみて。杉なんだけど、なんか柔らかい感じしない?」
そう言われて、右手をベッドの柱に当ててみた。柔らかい。堅い物には違いないが、サンちゃんの言う通り、なんとなく柔らかい感じがする。このままずっと手を当てていたら、このベッドと一体化してしまうような、そんな錯覚すら覚えた。
「こんなの初めてです」
そう言うと、サンちゃんはまた両目を三日月のようにして、満足そうに頷いた。このサンちゃん、歳は僕よりもずっと上だが、しぐさや表情がなんとも可愛らしい。それに、一緒にいるだけで、なんだかこちらまで陽気な気分になってくる。まさしく“サン”ちゃんだ。ヒゲさんが僕にこの宿を勧めた理由がよく分かった。
「……じゃあ、以上でドミトリーの注意点と設備の説明は完了! あとは晩ご飯までゆっくりしてるといいさ。……あっ、雨、だいぶ小降りになったんじゃない?」
そう言うや否や、サンちゃんはバタバタと廊下へと出て行った。
「オニーサン、ホラホラあっち、西の空! 青空も少し見えてるよ」
大窓の外を指さしながら、子供のように僕を手招きするサンちゃん。言われた通りに見てみると、遠くの空が光り輝いているのがはっきりと見て取れた。伊良湖岬から見て西の空という事は、あの光は二見浦にも降り注いでいるのかもしれない。雨がやみ、どこからともなく観光客が出てきて、今頃夫婦岩周辺は人で溢れているのだろうか。そんな事をぼんやりと考えている間にも西の空はだんだんと明るさを増していった。突然、サンちゃんが僕の肩をバンバンバンと叩いた。
「オニーサン、ホラホラ、山の方見て!」
窓の端からかすかに見える伊良湖岬先端の山を見ると、山から海に向かってきれいな虹がかかっていた。まだ厚い雲に覆われた伊良湖の空にかかる、虹色の橋。「さあ、渡りなさい」と言わんばかりにくっきりと浮かび上がっている。なんだろう。この虹は二見浦から届けられた何かのメッセージのように思えた。
夕食前、揚げ物や煮つけの香りが漂う玄関ホールには、既に数人の泊まり客が集まっていた。皆とても社交的で、目が合うと声をかけて来てくれる。
有給を使ってバイクで旅をしている郵便局員の井口さん。
週末毎に路線バスで旅をしている佐賀さん夫婦。
鳥羽からのフェリーでやってきた、三重の旅好き主婦二人組。
定年を迎え、長年の夢だった全国釣り巡りをしている仙頭さん。
自転車で旅をしているアメリカ人と日本人のカップル。
ここに来なければ絶対に出会わなかったような人たちとの出会いに、僕は少し浮き足立った。進学して、初めて教室に入った時のような、そんな新鮮な気持ちだった。
「はーい、お待たせしましたー! みなさん、順番に並んで、ご飯とお味噌汁、好きなだけよそって下さいねー!」
リエさんの大きな声が響いた。皆に続いて、僕も食堂へと入って行く。既にテーブルには、人数分の大皿が置かれていた。大皿には、鶏のから揚げ、魚の煮つけ、刺身、サラダなどが彩り良く盛り付けられている。まるで小さな皿鉢料理のようだ。
ご飯とみそ汁をよそい、どの席に座ろうかキョロキョロしていると、「お兄さん、こっち空いてるわよ」と声がかかった。見ると三重の女性二人組だった。同郷という事もあり、僕は遠慮なく同じ席についた。軽く自己紹介を交わすと、話題はすぐに「なぜこの宿に、旅人っぽくない男が一人で?」という方向に進んだ。周りにいた人たちも、この宿の雰囲気から少し浮いている僕に興味を持ったのか、あからさまに僕の方に体を向け出した。
名古屋でサラリーマンをしている事。会社を辞めて旅に出る決意をしたものの、憧れの部署からの勧誘で心が動いている事。そして、元旅人である居酒屋の大将に勧められてこの宿に来た事。僕の身の上などその程度のものなので、五分もあれば全て説明できたとは思うが、そこは旅人の集まる宿、随所随所でご意見が挟まり、結局最後まで説明するのに一時間近くかかってしまった。その頃には、ほとんどの人が食事を済ませ、石垣島産の泡盛やトロピカル風のカクテルを銘々が楽しんでいた。旅に出ようかどうか悩んでいる僕の話は、その場にいた人たちの旅魂に火をつけたようで、食堂のあちらこちらで旅話の花が咲いている。三重の女性二人も、自分たちの話で盛り上がっていた。僕はひとりぼっちになってしまったが、それでもこの場を盛り上げる火付け役になれた事に、少なからず満足感を得ていた。
自分の役目を終え、所在なげにチビチビとビールを飲んでいると、調理場から「やっと皿洗い終わったよー」と言いながらサンちゃんが出てきた。手には沖縄の弦楽器、三線を持っている。楽器本体には蛇の皮が張ってあると聞いた事があるが、なるほど、いかにもそれらしい模様が艶々と光っている。旅人たちはサンちゃんの登場を待っていたようで、拍手をしたり、指笛を鳴らしたりして、一段とボルテージが上がっている。
「ここの大将の三線、その筋じゃ結構な評判なのよ」
女性二人組の一人が、大きな声で、それでいて内緒話っぽい口調で教えてくれる。サンちゃんはお座敷の一角にドッカと腰を下ろし、ポンポンと数回試し弾きをしたあと、おもむろにメロディーを奏で始めた。
散歩をしているように優しく、太陽が降り注ぐように温かく、昼寝をしたくなるように心地良い、そんな音色だ。一度も行った事はないが、沖縄の風に包まれているような、そんな気分になる。その音色にサンちゃんが歌声を重ねる。
サー 君は野中の いばらの花か
暮れて帰れば やれほんに引き止める
マターハーリヌ ツンダラカヌシャマヨ
歌詞の意味はよく分からないが、見かけによらないサンちゃんの美声に、僕は瞬く間に心を奪われた。この歌声は、そう、大海原を飛ぶ海鳥のようだ。やさしく、フワフワとしているようで、絶対的に力強い。芯だ。人間という皮を剥いていくと、この声が最後に残るのではないかと思うような“芯”が、サンちゃんの歌声にはあった。僕はなぜだか、世界中の人と抱きしめ合いたいような、そんな優しい気持ちになっていた。
一曲歌い終わり、サンちゃんは皆に向かって語り始めた。
「みなさん、本日はようこそ民宿てぃだにお越しくださいました。ありがとね。サンキューベリーマッチね。何度も見た顔、初めての顔、色々あるけど、ほとんどの人が旅の達人だよね。そんな中、今日はね、まだ旅をした事がないんだけど、旅をするために会社を辞めようかどうか悩んでいるオニーサンが来てるの」
僕の事だ。
「ケンスケくんっていう、そこの青年だけどね。みなさん、よってたかって話を聞いてたから、だいたいのことは分かってるよね?」
笑いながら皆、うんうんと頷いている。
「彼が旅に出るか、それともやっぱり出ないのか、それはぼくには分からない。でもね、これだけは強く思うな。どうか悔いのない決断をしますように、ってね。みなさんもそう思いませんか?」
ワッと拍手が沸き起こる。
「まあ、難しい話はさておき、一時間ほど演奏させてもらうね。あっ、お話してても全然構わないからね。玄関ホールで飲んでてもいいし、BGMみたいな感じで聞いててね。ああそうそう、大事なこと! お酒はたくさん飲んで下さいね。民宿の経営苦しいから」
皆の笑い声とともに、ゆったりと演奏が始まった。今まであまり聞いた事のない沖縄民謡。軽快な三線の音色が伊良湖の空気をガラリと変える。一曲目と同じように、沖縄の風がやさしく流れ始めた。まるでどこか遠く、南の島に来たかのような錯覚さえ覚える。……そうなると、僕はやはり椰子の実か。二見浦から伊良湖岬に流れ着き、そしてまた、どこか別の場所に向かうのだろうか。そんな事を考えながら演奏を聞いていていると、誰かが僕の隣に座った。振り向くと、僕と同年代の男性がにっこりと笑っていた。肩幅の張ったガッシリとした体形と、極太マジックで描いたような眉毛が印象的だった。確か、旅話で皆が盛り上がっている時に、遅れて食堂に入ってきた人だ。男性は張りのある声を発した。
「初めまして! 俺、中山真一。旅仲間からはヤマシンって呼ばれてる。よろしく!」
そう言って、ズイッと手を差し出してきた。慌てて僕も手を差し出す。ガッチリと力強い握手だった。どこか、ヒゲさんや東郷に似た雰囲気を感じた。
ヤマシンさんは、僕より二つ年上の二十八歳。渡り鳥生活三年目。北海道で鮭の加工場のバイト、通称シャケバイを終え、二日前にフェリーで名古屋に着いたという。「民宿てぃだ」には、年に一回は必ず来て一週間くらい滞在していくという。冬は沖縄のサトウキビ農家で働く予定だが、それまでの二カ月ほどの間、紀伊半島南部を集中的に回るそうだ。
「俺もひと通り日本を旅したんだけどさ、まだまだ行ってない場所っていっぱいあるんだよね。特に紀伊半島って今まであまり眼中になくってさ。だって、そうじゃん。本州最南端とか言うけど、四国だって九州だってもっと南だしさ、インパクト弱いんだよね、言葉的に」
言われてみれば確かにそうだ。僕は伊勢市で生まれ育ったこともあり、紀伊半島という名称自体は馴染み深くはある。だが、実際にどれだけ紀伊半島の事を知っているかと言うと、言葉に詰まってしまう。幼い頃に一度だけ紀伊半島を一周する家族旅行をしているが、ほとんど記憶に残っていない。その事をヤマシンさんに伝えると目を丸くして大きく頷いた。
「そっかそっか。伊勢の人にとってもそうなんだね。いやさ、旅してると日本全国色々な人に出会うんだけど、紀伊半島の南、南紀って言うのかな? 南紀出身の人って出会った事ないんだよね。行ったことある人に話聞いてもさ、熊野古道とか白浜とか、有名どころしか行ってなくってさ、なんだか俺にとってはラストフロンティアみたいな感じなんだよね!」
自分の故郷周辺に興味を持ってもらえて嬉しくもあったが、それよりも南紀の事を全く知らない自分が恥ずかしかった。
「だからさ、一応冬は沖縄で働く予定なんだけど、どこか南紀で住み込みで働ける所があったら、沖縄はキャンセルして、しばらくそこで暮らそうかとも思ってんだよ。ってか、絶対そうしたいんだよなあ! いやあ、もうワクワクが止まんねー!」
自分の住む場所の予定を、自分で思い描き、それを実行しようとしている。会社人間である僕からすると、その行動の自由さにただただ驚かされるばかりだった。話はさらに盛り上がり、僕たちは食堂から玄関ホールに場所を移した。サンちゃんの演奏が程よい音量になり、会話が弾む。会話と言ってもほとんどヤマシンさんの旅話で、僕はそれを、読み聞かせを楽しむ子供のように、ただ夢中になって聞くだけだった。
「ああ、いっぱい喋った。ケンちゃん、聴き上手だなぁ」
いつの間にかちゃんづけで呼ばれているが、それが素直に嬉しかった。
「ヤマシンさん、一つ伺っていいですか?」
「ハハハ、堅苦しい言い方だな、ケンちゃんは。いいよいいよ、何でも聞いて!」
「ヤマシンさんは、なぜ旅を始めたんですか?」
笑っていたヤマシンさんの表情が少し曇ったように感じた。
「うーん、何から話していいやら」
「きっかけは?」
「きっかけかあ。……まあ、ちょっと暗い話になっちゃってもいいかな?」
「……ヤ、ヤマシンさんさえよろしければ、是非」
「うん。大学卒業して入った会社が、ちょ~ブラックでさ……」
ヤマシンさんは、自身の暗い過去を、努めて明るい口調で語ってくれた。東京の名のある広告代理店に勤めていたというヤマシンさんだが、その勤務実態は酷いものだったという。朝早くから終電ギリギリ、時には泊まり込みで働かされ、土日も取引先との接待が優先され、自分の時間を全く持てなかったそうだ。その上、上司との折り合いが悪く、事あるごとに罵詈雑言を浴びていたという。入社数カ月で睡眠障害や帯状疱疹に悩まされるようになり、一年経つ頃には円形脱毛が五か所もできていたそうだ。二年目のある日、いつものように上司から暴言を吐かれた時に、無意識に殴ってしまったという。殴った事は全く覚えておらず、それどころか今でもその事件の前後数日間の記憶は全くないそうだ。結局それが原因で退社し、実家で療養する事になったという。
「身も心もほんとーにボロボロでさ。朝起きてもそのままの格好で、ポカーって口開けて天井見てるだけ。そのうちまた眠くなって、寝て、ちょっとしたらまた起きて、ポカー。三カ月ぐらいはそんな状態だったかな。大げさじゃなくて、植物人間だったわ。ハハハ」
悲惨な過去が、乾いた笑いによって悲しく浮かび上がる。
「会社辞めて半年くらいした頃かな、ようやく外出できるようになったのは。それでもなんだか人の顔を見るのが怖くってさ、キャップ被って、サングラスしてたっけな。そんな怪しい格好で近所の運動公園を散歩してたらさ、反対側から歩いてきた人に声かけられたんだよ。『あれ? もしかして、中山?』って」
ああ、眉毛で分かったんだろうなと思ったが、それは言わないでおいた。
「それが、高校で同じクラスだったシゲ。高校時代は大人しいヤツだったのに、なんだかスッゲー生き生きとしててさ、話聞いてみたら、バックパッカーになって国内外を旅しまくってたんだよ。『お金はどうしてんだ?』って聞いたら、『そんなもん行った先で稼げばなんとかなるよ』って言うんだよ。いやさ、今なら驚かないけど、その時は、ビックリしたわ。そんな生活の方法があるなんて思いもしなかったからね。しかも、クラスで一番大人しかったシゲがだよ。ホント衝撃だったわ。シゲと喋ってたら、ああ、俺もいつまでも引きこもってらんねーなって思って、とりあえずシゲに色々教わって、そんで旅してみることになったってわけ」
ヒゲさんや東郷と同じように豪快な雰囲気を身にまとっているこのヤマシンさんが、過去にそんなひどい目に遭っていた事に僕は驚いた。と同時に、ただ単に憧れだけで旅をしようとしている自分の軽薄さが、少し恥ずかしくなった。…と、そこへサンちゃんがやってきた。いつの間にか演奏会は終わり、食堂では、バイク旅の井口さんと釣り旅の仙頭さんが静かに語り合っているだけだった。
「オニーサン、えーっと、もう“ケンちゃん”でいいかな?」
「あ、もちろん」
普段の生活では、ちゃんづけで呼ばれる事はまずない。立て続けに「ケンちゃん」と呼ばれて、子供の頃に戻ったような気分になった。
「ケンちゃん、明日は快晴みたいだから、灯台へ行って日の出を見せてあげたいんだけど、四時半に起きれる?」
「あ、はい! もちろんです」
「ヤマシンはどうーする?」
「明日はゆっくり寝たいからパスしまーす!」
「お前、お寝坊さんだからな。アハハハ」
二人はすっかり気心の知れた仲のようだ。
「そんじゃ、ケンちゃん、四時半までに降りて来てね。ぼくが起きて来なかったら、起こしに来てね。アハハ」
そう言ってサンちゃんは廊下の奥にある主屋へと引っ込んで行った。ロビーの掛け時計を見ると、十時の消灯時間まで、あと十五分を切っていた。
「ヤマシンさん、部屋はどこですか?」
ヤマシンさんと同部屋で、他に誰もいなければもう少し話ができるかもしれない。そんな希望をこめて質問すると、思わぬ答えが返ってきた。
「ああ、俺、庭でテント。これだと一泊八百円で済むんだわ。もちろんメシは別だけどね」
民宿の前でテント泊。そんな宿泊方法がある事を、僕は初めて知った。
「ええ! ちょっと見させてもらっていいですか?」
僕は好奇心を抑え切れなかった。
「ははは、そんな大したもんじゃないけど、いいよいいよ」
民宿の外に出ると庭の隅に小さなテントが張ってあった。それほど大きい物ではなく、高さは腰ぐらいまでしかない。
「意外と小さいんですね」
「寝るだけだからね。あんまり大きくてもかさばるだけだし」
テント。これさえあれば、地球上のどんな場所も自分の部屋にできてしまう。僕は、原始人が初めて火を見るかのように、テントを凝視していた。
「ハハハ。ケンちゃん、そんなに見られると穴が開いちゃうよ」
「あっ、ごめんなさい」
「んじゃ、もう寝支度するから、俺はテントに入るね」
身を屈めてモゾモゾとテントの中に潜り込んでいくヤマシンさんが、なんとも羨ましく思えた。テントの中に明かりが灯ると、ヤマシンさんの影が浮かび上がった。
「ヤマシンさん、おやすみなさい」
そう言うと、おどけた口調でこんな言葉が返ってきた。
「いやんケンちゃん、まだいたの? えっち」
僕は笑いながら自分の部屋へと向かった。
ドミトリーの部屋は僕一人だけだった。知らない人と同じ部屋で寝た事など今までなかったので少しホッとしたが、せっかくの機会を逸したようでもあり、ほんの少し残念でもあった。
根が生えたようにズッシリとした杉の二段ベッドの下段。常夜灯で薄っすらと浮かび上がるベッドの木目を見つめながら、今日一日を振り返った。伊良湖岬に着いて、散歩中に大雨に遭い、偶然サンちゃんの軽トラに拾われ、民宿てぃだに辿り着いた。リエさんに銀ちゃん、たくさんのお客さん、そしてヤマシンさん。皆、それぞれが太陽のような笑顔だった。仕事で会う人も笑顔は多いが、彼らは一枚皮を剥がすと鋭い目つきで僕に何か過失がないか見定めているように感じる。同じ笑顔なのに、印象が全く違う。人間が本来あるべき笑顔はどちらなのだろう?
それにしても、僕は本当に旅に出るのだろうか? 旅好きな人たちに囲まれ、今までよりも旅をしたいという気持ちは、確かに強くなった。だが、それは本当に、憧れの部署である商品開発部の誘いを断ってまでする事なのだろうか? 先週、美由紀に言われた言葉を思い出した。
「私たち、今年で二十六よ。そんな子供みたいな考え、世の中に通用する訳ないじゃない」
そう。常識で考えればそうなのだ。東郷も言っていたように、お盆休みに有給をつけてひと月くらい旅をすれば済む事なのかもしれない。
「でも、そうじゃないんだよ」
僕は小さく呟いた。そうじゃない。旅をする、それ自体ももちろん大事な目的ではあるが、僕は、一度何もかも捨てる事にも意義があるように感じるのだ。
「はーーーーー」
口を開けて、大きく息を吐いた。部屋の窓からはきれいな星空が見えた。ふと、今日の雨上がりの光景を思い出した。雲が切れ、キラキラと光る海の向こう。その下にあるであろう故郷の二見浦。
二見浦という名称は、五十鈴川が二手に分かれ、二つの水、つまり二水になる事から名付けられたという。そういえば、五十鈴川は今日の大雨でどうなっているのだろうか? 増水して水が濁ってもすぐに元の清流に戻ると言われる五十鈴川。今頃は、キラキラと瞬く星空を、その水面に写しているのだろうか。
「ん?」
僕は二見浦の地名の由来が、もう一つある事を思い出した。ガバッと半身を起こして思い返す。第十一代垂仁天皇の皇女に倭姫命という方がいた。この倭姫命が二見浦を訪れた際、海辺のあまりの美しさに二回見返したことが地名の由来と言われる事もある。そして、その倭姫命といえば天照大神を伊勢に招いた事で有名だが、それ以前のエピソードを、まさに今思い出した。
『倭姫命は、天照大神を鎮座させる場所を探すために、諸国を旅して回っていた』
子供の頃に教えられた伝説だ。二見浦に縁の深い倭姫命が、諸国を回る旅をしていたのだ。
旅を。
全身に鳥肌が立ち、体がブルブルと細かく震える。これが虹のメッセージだったのだろうか。
その夜、僕は興奮で一睡もできず、そのままサンちゃんと約束した四時半を迎えた。
約束の時間よりも少し早く玄関ホールで待っていると、階段から誰かがパタリパタリと下りてきた。
「あら、お兄さん、おはよー。灯台行くんでしょ? 私たちもついていきまーす」
「いきまーす」
小声でそう言ったのは、三重の女性二人組だった。
「お姉さんたちも一緒なんですね。よろしくお願いします」
「やだ、お姉さんって! 嬉しいわあ」
「バカね、お世辞に決まってんじゃないの。ねえお兄さん」
そんな挨拶を交わしていると、廊下の奥からガチャリと扉の開く音が聞こえ、ジャージ姿のサンちゃんが現われた。
「おっはよー! じゃあ、早速行こうか!」
少しトーンを落としてはいるが、朝から元気なサンちゃんの声。一気に気持ちがシャキっとした。
外に出て周りを見回す。東の空はまだ白みかけてもいない。周りは畑ばかりなので明かりも少なく、チカチカと瞬く星空がよく見えた。まだ完全に夜の世界だ。
「岬の灯台まで歩いて二十分ちょっとだから、皆さんお喋りしながら行きましょー! えーっと、自己紹介はもう済んでるのかな? このオニーサンはケンちゃん。こちらのマダムがアミさんとミヤさん。はい、みなさんよろしくお願いしまーす!」
子供を引率するようなサンちゃんの言葉につられて、僕は珍しく自分から女性二人に声をかけた。
「あの、昨日聞きそびれてしまったのですが、アミさんとミヤさんはご姉妹なのでしょうか?」
「ちょっとちょっと、ケンちゃん、言葉、かたすぎない?」
「うんうん、なんか添乗員さんみたいやん、アハハ」
「あ、すみませんでした」
「ホラ、それがかたいの!」
「アミさんミヤさん、ケンちゃんは若いの。かたくて当たり前よ」
ギャハハハと星空に向かって笑う三人。僕一人だけ下を向いて照れ笑いをした。話を聞くと、このアミさんとミヤさんは三重県津市の生まれで、幼稚園から短大までずっと同じ。しかも職場も、部署こそ違うものの同じ津市役所に務めているそうだ。
「もう、ずっと一緒やから、いい加減飽きてきたんやけどね」
「腐れ縁ってヤツやわ。だいぶ腐り過ぎたけど。アハハ」
そう言いながらも、年に二度はこうして一緒に旅をしているらしい。
「何か、旅の目的というのはあるのですか?」
相変わらずかたい言葉遣いの僕。クスリと少し笑ってからアミさんが答えてくれた。
「目的は息抜きだわ。普段さあ、仕事しながら旦那と子供の世話で大忙しやから、たまにはこうやって、い・き・ぬ・き。プハー!」
「あとはね、もちろん食事よね! サンさん、昨日のミニ皿鉢、美味しかったわあ、写真映えもサイコー!」
「そうそう! インスタにあげたら『いいね』が二百超えちゃった」
「それは嬉しいねえ! あれね、お皿少なくて済むから、後片付けがラクなのさ。ハハハハ」
息抜きと食事が旅の目的。同じ“旅”と言っても、僕の求める旅とは、やはり随分違う。
「ああ、そう言えばお二人さん、パワースポットがどうのこうのって言ってなかったっけ?」
「そーなんですよ、サンさん! 仕事からも旦那からもパワー吸い取られてるからね、パワースポットでエネルギー充填するの!」
「今日のパワースポット第一弾目が、今から行く灯台なんですぅ!」
「そこでね、思いっきり日の出パワー注入するの!」
「そんでもって、そこから先の恋路が浜もパワースポットなんよ!」
「今日はね、伊良湖周辺のパワースポット行きまくるの!」
パワースポットにかける二人の情熱は並々ならぬものがあった。
「お二人とも、パワースポットに行く必要がないくらいパワフルですね」
僕がそう言うと、一瞬間をおいた後に、爆発するように三人が大笑いした。
「アハハハ! アミさんミヤさん、言われちゃったね」
「うーーー! 当たってるだけに言い返せないわ」
「あー、おかしい。ケンちゃん、面白いこと言えるやん。アハハハ」
真面目な事を言ったつもりだったが、思わぬ爆笑に僕は再び照れ笑いをした。
「あっ、フェリーだ」
笑っていたミヤさんが突然声を上げた。薄暗い港にフェリーが停泊している。釣り人だろうか、フェリーの周りには人影と細長い影がいくつか見えた。彼らを尻目に歩みを進めると、石畳の遊歩道が現われた。
「みなさん、もうすぐ灯台だよ。空が、少し明るくなってるね」
見ると、水平線が闇を切り裂くように、薄っすらと白くなっていた。今まさに朝が始まろうとしているのだ。
五分ほど歩くと、海岸縁に突然灯台が現われた。ニョキッとそびえ立つ姿は、巨大なキノコのようだ。規則正しいリズムで海上へ光を届けている姿は実に頼もしく、「この海域の船舶は俺が守る!」そういう強い意志が感じられた。
「きゃー、灯台! かわいい」
「ばえるやん、めっちゃばえるやん!」
女性陣とは、意見が違ったようだ。
そうこうしている間にも、東の空は少しずつ明るさを増していく。
「日の出までまだ少し時間があるけど、ぼくはね、日が出るまでの、空の色の移り変わりが好きなのさ。お喋りしながら、それを楽しみましょう!」
「はーい!」
女性陣はすっかり童心に帰っている。そういう僕も、胸の高鳴りを抑えられなくなって、「あの……」と皆に話しかけた。三人が一斉に僕の方を向いた。
「あの、自分のことで申し訳ないんですが、ちょっと聞いてもらっていいですか?」
「おや、ケンちゃん積極的だね! いいこと、いいこと!」
「え? なになに? 告白してくれるの?」
「バカミヤ。真面目に聞きなさいよ。ケンちゃん、どうぞ」
僕は昨夜思いついた事を、三人の前で披露した。その間にも空はどんどん変化していく。最初は水平線に沿った単なる光の筋だったものが、徐々に赤みを帯び、時間が経つごとにその赤みに濃淡が生まれ、そしてゆっくりと広がって行く。
「……というわけで、二見の人間にとっては特になじみ深い倭姫命が、諸国を旅していたってことを思い出したんです」
東の空は、今、真っ赤に燃え、水平線全体が一際明るくなっているように見えた。もう、太陽はそこまで来ている。
「すごいわねえ、ケンちゃん、それ絶対お導きだよ」
「うんうん、私もそう思う。それに、ケンちゃん二見町の人なら、もちろん興玉神社は分かるよね?」
アミさんが問いかけてきた。
「はい。子供の頃はよく行きました」
「あそこに祀られている神様、知ってる?」
「あっ、はい。えーっと、猿田彦大神ですよね」
「うん。で、猿田彦といえば?」
そうだ! 猿田彦大神といえば……
「みちひらき!」
アミさんの問いに、僕とミヤさんが同時に答えた。猿田彦大神は“みちひらき”つまり、道開きの神様と言われており、新しい事を始める時には、ここにお参りするのが習わしとなっていた。「道開き」そして「新しい事」、まるで僕を旅に誘うかのような言葉だ。倭姫命のみならず、猿田彦大神にも今の僕を後押しするようないわれがあったとは。
「すごいすごい!」
「ひきよせよ! これ、絶対ひきよせよ!」
アミさんとミヤさんは僕以上に興奮していた。
「あっ、もうそろそろだよ!」
サンちゃんの声で、僕たちは東の空を向いた。程なく、水平線上にプツっと小さな赤い玉のようなものが現われた。女性陣が「わあ」と小さく声をあげる。赤い玉は少しずつその全貌を露わにしていき、水平線から昇り切った時には大きな赤い玉となっていた。まるでこの世の全てのエネルギーが、あの赤い玉に詰まっているようだ。力強く、そして優しく僕たちに光を注ぐ赤い玉、太陽。スポットライトは、誰にも等しく当てられていたのだ。なぜだろう、自然に涙が出てきた。女性陣の方からも鼻を啜る音が聞こえてくる。
『新しい一日の始まりです』
プラネタリウムの言葉を思い出した。日が昇り、日が沈み、真っ暗な世界で一度リセットして、また日が昇る。人も全てを捨ててゼロになれば、必然的に新しい自分の人生が始まるのではないだろうか? 僕が旅に出る意味は、もしかしたらそういう事なのかもしれない。
どれくらい眺めていただろうか、しばらくしてサンちゃんが口を開いた。
「日の出はいいもんだねえ! ケンちゃん、今のお気持ちはいかがですか?」
僕は光に満ち溢れた東の空を眺めながら、はっきりと答えた。
「はい。旅に……旅に出ます」
アミさんとミヤさんは「わあ!」と感嘆の声をあげ、小さく拍手をしてくれていた。
この日は朝食を食べてすぐにチェックアウトを済ませ、一人で散歩に出かけた。昨日の“何も考えない散歩”が大雨のせいで中途半端になってしまったので、そのやり直しという意味合いもあるが、それよりも「旅に出る気持ちが固まった」という事を自分一人で噛みしめたいという想いが強かった。
伊良湖岬の広い空の下、僕は、もう既に旅立ったかのような気持ちになっていた。自由だった。旅に出る前にまだまだ片付けなければならない事は山のようにあるが、雁字搦めだった僕の心は今解放され、この青空に放り出された。全てをゼロにしたかのような自由を、僕は身体全体で感じていた。
昼過ぎ、僕は別れの挨拶をするために、民宿てぃだに戻ってきた。そういえば、今日はまだ一度もヤマシンさんに会っていない。庭の隅に張られたテントに声をかけたが返事はなかった。どうやら出かけているようだった。
「おかえりー、ケンスケくん」
テントを窺っている僕に声をかけてくれたのはリエさんだった。
「ただいま帰りました。あのー、ヤマシンさんってどこに行ったかご存知ですか?」
「さあねえ、あの人は気まぐれだからねえ。その辺の木にでも登ってたりして。アハハハハ」
なんとなく本当に登っていそうで、僕は庭に生えている桜の木をまじまじと眺めてしまった。
「アハハ、やあねえ、真に受けて。それよりケンスケくん、日の出見に行って、良かったみたいね!」
「あ、はい! おかげさまで、旅に出る決心がつきました!」
「なんだか色んな偶然が重なったって、サンちゃんが興奮してたわよ」
「そうなんです。伊勢の神様のお導きみたいな感じで」
「へーえ、よく分かんないけど、良かったじゃない!」
「はい。なんだか、太陽のおかげのような気がします」
「太陽?」
「はい。伊良湖に来てから太陽に導かれているような感じがするんです。『民宿てぃだのサンさん』を筆頭に」
「あらそう……ケンスケくん、うちの名字って知ってたっけ?」
「え? あ、そういえば知りませんでした。すみません」
「ハハハ、謝らなくていいわよ。あのね、『東』に江戸の『江』で、『あがりえ』って言うの」
「あがりえ? ですか」
「そう。サンちゃんの、沖縄の方の名字なんだけどね。東を『あがり』って読むのよ。なんでか分かる?」
「いえ、さっぱり」
「東ってさ、太陽が上がって来るじゃない。だから『あがり』って読むの」
それを聞いた瞬間、もしかしたら僕の目は半分くらい飛び出ていたかもしれない。
「で、『江』ってのは昔は海そのもののことを言ったみたいだから、今朝あなたたちが見た景色が、まさに『あがりえ』ってこと」
僕は、口をパクパクさせるだけで、何も言葉が出なかった。「民宿てぃだの東江サンちゃんと見た日の出」は、何もかもが太陽尽くしだったのだ。
「ポッカーンだね! アハハハ! 口閉じなさい、口!」
「あぅ、す、すみません。それにしても素晴らしい名字ですね、『東江』なんて」
「まあ、かっこいいっちゃかっこいいんだけど、好きじゃないのよ、この名字」
「えっ、なぜですか?」
「だってさ、私の名前『リエ』だよ。続けたら『あがりえりえ』って、なんだか訳分かんないじゃない」
僕は声を出して笑ってしまった。リエさんも大口を開けて高らかに笑っている。彼女もまた、太陽のような人だった。
ひとしきり大笑いした後、僕は港へ向かう事をリエさんに告げた。
「あら、もう行っちゃうの? 高速船は確か三時でしょ? まだ二時間も早いじゃない」
「ええ、最後にゆっくりと伊良湖の風景を心に刻んでおきたくて」
「なにカッコつけちゃってんのよ!」
パシンと肩を叩かれ、僕は照れて頭を掻いた。
「サンさんにもくれぐれもよろしくお伝えください」
「うん、ごめんね。いつもならこの時間には買い出しから帰って来てるんだけど、今日に限って遅いわね。スマホを持ち歩かないから、連絡つかないのよ、あのバカ」
「ハハハ、サンさんらしいですね。必ずまたあの笑顔を見に来ます」
「今度はバックパッカーとして来るのね? 楽しみにしてるわ」
「はい。それまでどうかお元気でお過ごしください」
「それまで、もっとくだけた口調を覚えるように! アハハハハ」
こうして、僕は笑いながら「民宿てぃだ」を後にした。
港へ向かう道すがら、僕は伊良湖岬の景色を心に刻みながら、リエさんに言われた言葉を心の中で反芻していた。
「今度はバックパッカーとして来るのね」
そうだ。僕はバックパッカーになるのだ。だが、バックパッカーとはそもそも何なのだろう。バックパックを背負いさえすれば、バックパッカーなのだろうか。旅に出る事を決断できたのは良かったが、僕はどのようなスタイルで旅をするのかを全く決めていない。「仏つくって魂入れず」ではないが、もしかしたら僕はバックパッカーとしての大事な核が欠けているのかもしれない。欠陥品のまま社会人になった僕は、やはり何かが欠けたままバックパッカーになってしまうのだろうか。
「おーい」
どこからか呼び声が聞こえた。ハッと我に返ると、いつの間にかクリスタルポルト近くまで来ていた。
「おーいったらー」
声のする方を見ると、ヤマシンさんが駆け寄ってきていた。あの眉毛は遠くからでもよく分かるなあと感心しながら、僕も少し小走りになってヤマシンさんを迎えた。
「ヤマシンさん、探したんですよ。ここにいたんですか」
「今日出るって言ってたからさ、ここで待ってたんだよ」
「え? ずっとですか?」
「おい! 今『気持ち悪っ』って思ったろ! そうじゃないよ。これ読んでたんだよ」
そう言って、ヤマシンさんは手に持っていたジップロックを僕に渡した。ジップロックの中には、文庫本が入っている。
「えーっと、何から言ったらいいかな。……あのさ、俺、苫小牧から乗ったフェリーの中で、同じように旅してるヤツと友達になったんだよ。この本、そいつから渡されたの。そんで、そいつも、同じような感じで、仲良くなった旅人から渡されたんだって。つまり、なんつーか、旅人から旅人へと渡り歩く『旅をする本』ってヤツなんだよ、それ」
「……旅をする本。開けてもいいですか?」
「もちろん!」
その文庫本は、古びてあちこちシミだらけだった。カバーは当然ない。ページは茶色く変色し、あちこち破れかかっている。しかし、それでもそれなりに大切にはされてきたのか、所々セロテープやマスキングテープで補修されている。タイトルや著者名は、その補修テープに隠れて全く分からない。そして、驚いた事に、裏表紙にはビッシリと名前と年月日が書かれていた。どれも筆跡が違う所を見ると、読んだ人がそれぞれ書き込んだのだろうか?
「ちょ……す、すごいですね、この本」
「だろ! ちょっと表紙めくってみ」
表紙をめくると、表紙の裏にも名前が書きこまれていたが、ここはページの半分ほどまでしか埋まっていない。そしてその一番下には「中山真一」、ヤマシンさんの名前が書きこまれていた。
「これをさ、どうしてもケンちゃんに渡したくってさ、宿にいると色々と邪魔が入るから、朝からクリスタルポルトに閉じこもって、ついさっき、どうにか読み終えたんだよ」
「そんな、僕なんかのために無理して……というか、僕、まだ旅人じゃないですよ」
「いーのいーの、そんな細かいこと。それに、決めたんだよね? 旅に出るって」
「え、誰かから聞いたんですか?」
「聞いてないけど、なんとなくそんな顔になったなあって……」
「顔、ですか?」
「旅を長いこと続けてるとさ、だいたいそういうの分かるようになるんだよ」
本当かどうかは分からないが、なんだか早くもいっぱしの旅人と認められたようで嬉しかった。……いっぱしの旅人。そう、この本にはそんな旅人たちの名前が記されているのだ。改めてページを捲って行くと、本の前後にある白紙の部分や目次などにも名前がビッシリと書き込まれているのが分かった。
「あのね、何人いるか数えてみたんだけど、俺で二〇三人目」
手が震えた。二〇三人の旅人の想いがつまった本を、今、僕は手にしているのだ。
「それ面白いんだよ。ホラ、名前を書き始めたのが、この、後ろのページなんだけど、最初の頃の人たちはこんなに長く続くとは思わなかったんだろうね。ホラ、みんな字がデカいんだよ」
示されたページを見てみると、確かに最初の十人ぐらいまでは皆字が大きい。だがそれよりも、僕の目は一人目の名前に釘付けになっていた。
『池村英雄 1992年9月13日』
達筆な字でそう書かれていた。池村英雄とは、ヒゲさんの本名だ。そして、この勢いのある字はヒゲ村の看板に書かれてある字とよく似ている。間違いない。この『旅をする本』は、ヒゲさんから始まっていたのだ。僕は言葉を失った。
「……ケンちゃん? どしたの? おーい、ケンちゃーん」
そう言いながら、ヤマシンさんが僕の顔の前で手を振っている。僕は呆然としながら答えた。
「ヤマシンさん、僕、この池村って人に勧められて、民宿てぃだに来たんです」
「えええーーー! うそ? なにこの偶然? やべ、鳥肌立ってきた」
僕も全身に鳥肌が立っていた。
「すっげーなあ! やっぱ野口さんの本には引き付ける力があるんだろうなあ」
野口?
「え? ヤマシンさん、野口さんって何のことですか?」
「その本書いた人だよ。野口友介さんって言って、旅の本いっぱい書いてる人。旅人にとっては神様的な人。知らないかな」
慌てて、それでいて慎重にページをめくると、奥付けに野口友介と書かれていた。
「……その、あの、さっきの池村さん、僕らヒゲさんって呼んでるんですけど、ヒゲさんが名古屋で居酒屋をやっていて、そこで僕、野口さんとお会いして、それで旅に出ようと思ったんです」
「えええーーー! ちょ、ちょ、ちょっとケンちゃんって、もしかして凄い人? からみ方、半端ねーじゃんか!」
何が出来上がるのか考えもせずに組み立ててきたものが、今、はっきりと形を現わしたような気がした。僕はある時から、旅立つための準備をしていたのかもしれない。
「おーい、ケンちゃーん!」
ヤマシンさんと二人で呆然としているところに、軽トラに乗ったサンちゃんが現われた。昨日と同じように、助手席には銀ちゃんが乗っている。なんだか、昨日の二人がそのまま時空を飛び越えて現われたみたいだ。
「サンちゃん、スゲーんすよ、このケンちゃん! あのね……」
ヤマシンさんは僕を差し置いて、この奇跡のような偶然をサンちゃんに話し始めた。サンちゃんはその全てに大袈裟に驚いてくれ、最後に満面の笑みを湛えながら、僕に向かってこう言った。
「ケンちゃん。旅は、もう始まってるのさ」
僕も同じ事を考えていた。
「そんなケンちゃんに、この歌を捧げます」
話に夢中で気がつかなかったが、ふと見ると、銀ちゃんが大事そうに三線を抱えていた。サンちゃんはそれを受け取ると、揺れるように演奏を始めた。カラッと晴れた日の陽光のような、なんとも心地良い三線の音色。僕はサンちゃんのおかげで、この音色が大好きになっていた。その音色に、南国の海のように澄み切ったサンちゃんの歌声が交わる。
天からの恵み 受けてこのほしに
生まれたる我が子 祈り込め育て
イラヨーヘイ イラヨーホイ
イラヨー かなしうみなしぐわ
泣くなよーや ヘイヨー ヘイヨー
てぃだの光受けて
ゆーいりよーや ヘイヨー ヘイヨー
健やかに育て
歌い終わる頃には、いつの間にか人の輪ができていた。大きな拍手にサンちゃんが両手を上げて応えている。銀ちゃんも真似をして両手をあげて喜んでいる。
この歌の題名は「童神」と書いて「わらびがみ」。愛しい我が子の成長を願った歌だそうだ。
「子供は宝。子供はね、大人が温かく見守らなきゃいけないの。ヤマシンもケンちゃんも、もちろんぼくもそうやって大人たちに見守られて大きくなったんだよ。今度は、ぼくたちの番。ぼくたちが太陽になって、子供たちを見守るのさ」
サンちゃんはそう語りながら、自分の足に絡みつく銀ちゃんの頭を優しく撫でていた。その光景はとても神々しく、まさに「童神」そのものだった。
ベタ凪の海を勢いよく走る高速船。その二階デッキから、ゆっくりと小さくなっていく伊良湖岬を眺めていた。潮風を体いっぱいに感じながら、歌い終わったサンちゃんが最後にかけてくれた言葉を、僕は思い返していた。
「ぼくたちが太陽になる」
自分に光が当たるかどうかばかり考えていた僕にとっては、かなり衝撃的な言葉だった。「自分が他者に対してどうあるべきなのか」これは、旅立つ僕へ、サンちゃんから出された宿題のような気がした。
「はーーーーー」
大きく息を吐くと、途端に眠気がやってきた。考えてみれば、昨晩は一睡もしていないのだ。僕は風の当たらない一階の船室へ行き、空いていた席に座るなり、すぐに寝入ってしまった。
係員さんに肩を叩かれて目を覚ますと、そこはもう河和港だった。まるで夢のような伊良湖岬の旅は、こうして終わりを告げた。
第四章
旅を終えた翌日の昼休み、僕は先週と同じ会議室にいた。もちろん山崎係長も一緒だ。僕は立ったまま、頭を深く下げた。
「係長、申し訳ございません。一週間考えましたが、やはり会社を辞めて、旅に出ることに決めました」
僕が決意を伝えると、驚いた事に、係長は静かに拍手をしだした。そしてニッコリと笑って「まあ、座りましょう」と促し、窓の外を見ながら話し始めた。
「先週、君に退職の相談をされてね、僕も考えたんだよ。人生ってものを。今の仕事が本当に自分のやりたかったことかってね」
今日は最初から一人称が「僕」だった。
「あのね、笑わないで聞いて下さいよ。僕はね、若い頃、小説家になりたかったの」
ああ、なるほどと思った。係長は句読点の使い方や、てにをはに関しては誰よりも厳しく、そして的確に指摘してくれていた。
「子供の頃から本を読むのが大好きでね、そのうち自分でも書くようになってね、自分の書いた小説を自分で読んでみたら面白くってね、ああ、僕って才能あるなあ、なんて思っちゃったりして」
係長の口調が完全に仕事モードから脱していた。なぜだか、僕は泣きそうなくらい、それが嬉しかった。
「大学では文芸サークルに入ってね、短編中編合わせて、年間二十本くらい書いてたっけなあ。色々な賞に応募したけど、結局大学四年間で、一度だけ、小さな出版社の主催する文学賞で佳作に入っただけ。それが唯一の成果」
僕は身を乗り出した。
「佳作でもすごいじゃないですか」
そう言うと、係長は笑いながら首を横に振った。
「佳作になりましたって出版社から連絡があってね、当然喜ぶよね。もしかしたら授賞式に呼ばれたりするのかな? なんて浮き足立っちゃってさ。でもね、よくよく話を聞いてみたら、『自費出版しませんか?』っていう勧誘だったんだよ。後から知ったんだけど、そういうパターン多いんだってさ。要は、文学賞をエサにしたビジネスってこと」
遥か昔の、しかも他人に起きた出来事なのに、僕は心がざわつくくらいに悲しい気持ちになってしまった。
「その後ももちろん書いてはいたし、小説家になろうとも思ってはいたんだけど、四年生になったら自然に就職活動してたね。まあ、全国的に名の知れた企業に入れた訳だから、大学生としては万々歳だし、両親にも恩返しできた訳なんだけど、なんとなく全体的にブルーな感じがするね、僕の学生時代って」
この、いつも及び腰な山崎係長が、かつて熱い夢を持って青年時代を過ごしていたとは。人というのは蓋を開けてみないと中身は分からないものだ。
「それでね、僕は思うんだよ。僕だって、小説家になるのを諦めず、夢に向かって突き進むという選択もできた訳だよ。……でもしなかった。できなかったね。怖くて。それで無難な道を選択した。多分ね、世の中の九割以上の人がそんな感じだと思うよ。でも、君は、旅に出るという自分の夢を叶えるために、今のこの恵まれた環境を捨ててしまう」
それまで窓の外を見ていた係長が、キッと僕の方を向いた。
「これはね、才能だよ。これだけで一つの才能。完璧に才能だよ。僕には絶対できない」
係長の自信に満ち溢れた褒め言葉が嬉しかったが、少々恥ずかしくもあった。
「僕はね、君の決断を支持するよ。そして、君を心から尊敬する。握手、してもらっていいかな」
驚いたことに、係長は目を真っ赤にして両手を差し出してきた。若かりし頃の自分を、僕に重ねてくれているのだろうか。僕もすぐに両手を差し出し、ガッチリと握手を交わした。見ると、係長の大きな目には、今にも零れそうなくらい涙が溜まっていた。思いっ切り眉間にしわを寄せているのは、必死で涙を堪えているからだろうか。見ている僕まで、つられて涙ぐんでしまった。この山崎係長の元で働く事ができて本当に良かったと、遅ればせながらそう思った。
この日は仕事が長引き、会社を出た時には夜の八時を過ぎていた。僕は急ぎ足でヒゲ村に向かった。今日、店に行く事はショートメールで伝えていたが、旅立つ決心がついた事はまだ言っていない。一刻も早くヒゲさんたちに会って、直接報告をしたかった。急ぎ足は、いつの間にか小走りに変わっていた。
「こんばんはー」
息を弾ませながらヒゲ村の暖簾をくぐると、まずカウンターの奥にいたトッチさんと目が合った。
「おっ、青年! 待ちわびたぞ。馬も猿も抑えられたようじゃな」
「……え? ・・・・・・ご存知、なんですか?」
「ああ、今、ヒゲの大将から全部聞いたところだ。それより、座りなさい座りなさい」
促されて、トッチさんの隣に座った。
「よお、ケンスケ、お帰り。いい旅だったみたいだな。サンちゃんが全部教えてくれたぞ。太陽に導かれて旅に出る決意をしたってな! 伊勢の神様のこともスゲー偶然じゃん。なんだっけ、そのヤマトとかサルとか」
「倭姫命と猿田彦大神です」
「そうそう、それそれ! んで、俺の本、持って来てくれたんだよな。早く見せてくれよ」
どうやら、僕が話す事は何もないようだ。
「ケンスケさん、お帰りなさい。生ビールでいい? まずは乾杯しなくちゃね!」
おしぼりを僕に手渡し、嬉しそうにビールを注ぎに行くママさん。なんだか自分が、流れ作業で運ばれてきた何かの食材のような気がしてきた。三人に完全に主導権を握られ、あとは料理されるだけなのだ。
「なんだなんだケンスケ。浮かない顔して?」
「いや、その、まさかサンさんが全部話してしまうとは思わなかったので。その、自分で話す楽しみがなくなったというか」
「まあな、それもサンちゃんだからな、得た情報は太陽みたいにパーッと撒き散らしちまうんだな、あいつは。ガッハッハ」
「青年! 覆水盆に返らずじゃ。その分掘り下げた話ができるかもしれんぞ。まずは、ホレ、そのヒゲの本とやらを見せてくれんか?」
三人の視線が一斉に僕の鞄へと注がれた。気を取り直してジップロックに入った文庫本を取り出し、まずは元の持ち主であるヒゲさんに渡した。
「きたねーし、包帯だらけだなぁ、オイ」
言葉とは裏腹に、おもちゃ箱を開ける子供のような表情でヒゲさんはページをパラパラと捲った。
「おっ! 本当だ『池村英雄 1992年9月13日』だってさ。俺、どこにいたんだっけ、この時?」
「え? ヒゲさん覚えていないんですか?」
「もう三十年も前だぞ。ほとんど覚えてないわ。……ただ、この二人目の菅沼、コイツに譲ったってのだけは、何となく覚えてるかな? そう! 北海道の白老だ! シーズンオフのキャンプ場で偶然出会って、妙に馬が合ったから一週間くらい一緒にいたんだよなあ、二人っきりで。懐かしいなあ。元気かなあ、菅沼」
三十年前、ヒゲさんと菅沼さんの出会いから始まった「旅をする本」。二百人以上の旅人と行動を共にし、今、里帰りを果たした。この貴重な瞬間に立ち会えた事がこの上なく嬉しかった。
「トッチさん、見てみます?」
ホイっといった感じで片手で渡すヒゲさん。慌てて両手で大事そうに受け取るトッチさん。
「おうおう、ヒゲよ。こんな大事なものを部外者が触ってもいいのか?」
「いいっすよ、いいっすよ。どうせ薄汚い奴らがラーメンでも啜りながら読んだ本なんだから」
「バカモン! お前は良くても、他の旅人たちに申し訳ないと言っておるんじゃ。わしは仕事柄古文書を扱うことがあるからよーく分かる。こういう先人たちの想いが詰まった物に対しては、最大の敬意を払わないかんのじゃ」
古文書を扱う? 僕の疑問を察知したのか、ママさんが続けて補足説明をしてくれた。
「ケンスケさん、まだ知らなかったかな? トッチさんね、博物館の学芸員でいらっしゃるのよ」
「まあ、定年退職して、今は嘱託なんじゃがな」
山崎係長もそうだったが、本当に人というのは蓋を開けてみないと何が詰まっているか分からない。
「諺とかをよくご存じなので、何か学術的なお仕事をされているのではと思っていましたが、博物館にお勤めだったのですね」
「わしのことはさておき、ここに連なった名前は全て書き留めておくことをお勧めするぞ。それくらい、貴重な資料じゃ、これは。旅の古文書と言ってもいい」
「ハハ、そんなもんすかねえ」
興味なさそうに薄ら笑いを浮かべるヒゲさん。
「ママ、悪いことは言わん。こんなバカとは、今すぐ別れなさい」
「そうですね。私、その本に名前書きたいんだけど、それはできないから、代わりに離婚届に名前書きますね」
「おいおいおい、そりゃないよ」
僕も含め、皆が一斉に大笑いした。どんな話題でも必ず最後は笑いに変えてしまうヒゲさんとママさん、そしてそれを生み出すこの店の空気感そのものが心底愛おしく思えた。
「ケンスケさんお待たせしました。餃子定食ですよ」
ヒゲ村の餃子は、注文があると一つ一つ包んでから焼いてくれる。そのせいなのか、焼き上がった餃子は艶々と透明感があり、まるでそれが一つの生き物のようにも見えた。その“生きのいい”餃子をパクリと頬張る。皮のツルツル感と焼けた部分のサクサク感、そこに挽き肉のプリプリ感が加わって、口の中で混ざり合う。「生きていて良かった」と思わずにはいられないくらい美味しい。続けて二つ目を頬張った時に、ヒゲさんが話しかけてきた。
「ところでよ、民宿は繁盛してたか?」
「はひ。ひほんは、はひひほは、ひはひは」
餃子を口に含んだ途端に話しかけられたので答えにならない。
「ハハハハ、何言ってんのか分かんねーよ」
「アンタの話しかけるタイミングがよくないのよ」
「ハハハ、すまんすまん」
「いえ、はい。色んな旅人がいました。本をくれた人はバックパッカーだったし、他にも、釣りをしながら旅をしている人や、自転車で旅をするカップルなんかも」
「そーだろそーだろ。料理もうまいし、サンちゃんの演奏会もあるから、あんな辺鄙な場所でも、かなりの人気宿みたいだからな」
「あの、ヒゲさん。ずっと疑問に思っていたんですが、以前『自転車やバイクの旅はどれだけ走ってもバカはバカのままだ』って、そんなこと仰っていましたよね」
「ああ、野口さんの本に書いてあったヤツな」
「はい。あれってどういう意味なんでしょうか? バイクや自転車で旅をしている人とも話をしたんですが、そんな風には思えなかったんですけど……」
「そうだなあ」
ヒゲさんは今使ったばかりの俎板をゴシゴシと洗いながら答え始めた。
「なかなか難しい問題なんだよな。お前も野口さんの本、何冊か読んだんだよな?」
「はい。十冊以上は読んでいます」
「じゃあ分かると思うんだけど、野口さんの旅の移動手段って、歩き、カヌー、ヒッチハイク、ほとんどこの三種類なんだよ。お前、この共通点分かるか?」
「……人力、って訳でもないですもんね。なんだろう」
「うん、人力でも間違いじゃないと思う。ヒッチハイクで車を捕まえるのは人力だからな」
「……はあ」
「でも、それよりもな、旅に対する没入感、これが共通してんじゃないかって思うんだわ、俺は」
「没入感ですか」
「仮にな、旅の目的ってのが“速さ”なら飛行機が一番ってなるけど、旅人が求めるのは速さじゃないだろ?」
「はい」
「これは俺の考えなんだけど、旅の醍醐味ってのは自然を感じたり人と触れ合ったりすることなんだよ。そういう意味では、バイクや自転車ってのはちょっと早すぎるんだよな。気になる風景があったとしても、興味を惹かれるような人がいたとしても、気をつけてないとピューって通り過ぎちまうからな」
「確かにそうですね」
「その点、まず歩きやカヌーな。この二つの場合、スピードが程よいんだよ。ボーっと何も考えずに進んでても、何か気になるものがあったらすぐに止まれるじゃん。自由なんだよ。スピードは遅いけど自由な分、どっぷりとその場に没入することができるんだよ」
素人考えではスピードが速い方が自由なように思えてしまうが、実際は逆な面もあるのか。
「んで、もう一つ、ヒッチハイクな。これはもう、人との触れ合いにかけては、これ以上の旅の手段はないんじゃないか。なんせ初対面の人と狭い空間で長時間一緒にいる訳だからな。自然を感じることはできないけど、その分、人を感じることに没入できるって訳だ」
「……そうか。つまり、自転車やバイクだと、ある意味スピードに没入してしまって、自然や人にまで気が回らないってことですね」
「ってことだな。あっ、でもな、だからと言ってそいつらがバカって訳じゃないぞ。実際、ライダーやチャリダーで最高なヤツは何人もいたし、逆に歩きやヒッチで旅してても、最低なヤツはいたからな。まあ、結局はどんな移動手段だろうと、そいつ次第なんじゃねーのかなぁ」
「稚内に着いた時のアンタは最低だったけどね」
ママさんが煮物の味見をしながら、視線も上げずに呟いた。
「ごめんなさいごめんなさい。仰る通り、私も最低でした」
ヒゲさんが両手を合わせて許しを請うと、その場がワッと笑いに包まれた。
「生中、三つくださーい」
お座敷から声がかる。「はい、ありがとうございます!」と元気よく答えるヒゲさん。素早くビールを注ぐママさん。なんだかんだ言って、この二人の息はピッタリだ。
「まあなぁ、野口さんもあの文章を書いた時は四十代で血気盛んな頃だったからな。今はもうそんな風には思ってないんじゃないかな」
野口さんの「バカはバカのままだ」というのは酷い表現ではある。だがヒゲさんの説明を聞いて、その真意は少しかもしれないが理解できた。と同時に、自分のするべき旅もぼんやりと見えてきたような気がした。
「でもほんと不思議ね」
ポソリとママが言った。
「たまたまプラネタリウムを見て、その後うちの大将と知り合ったんでしょ?」
「はい。今年の三月でした」
「あれから、何だか知らないけど、あれよあれよと話が進んで、会社辞めて旅に出ちゃうんでしょ?」
「はい。今日、上司に正式に伝えました」
「私もそうだったけど、ほんと人生って分かんないわね。居酒屋の女将になるなんて、夢にも思ってなかったもん」
「その通りじゃ! ヒゲさえおらんかったらママは大女優だったんじゃぞ!」
「ちょっとちょっとトッチさん、また俺を吊し上げるの?」
「いんや。お前さんのおかげでこうやってママにお酌をしてもらえるんじゃから、感謝しておるぞ、少しはな」
「少しかよ」
言い合いをしながらも、この二人はいつもとても楽しそうだ。
「なんか私考えるのよねえ、何かに導かれて今があるんじゃないかって。ケンスケさんは、今まさにその真っ只中なのかなって思う」
「そうですね。僕の中では、今思うと学生時代に八代亜紀のコンサートに行ったのが導かれるきっかけだったのかなって思います」
「え? そうなの?」
ママさんが素っ頓狂な声を出した。
「え、はい。お、おかしいですか?」
「だってさ、プラネタリウムがイコール夜空として、まあ、大自然なわけじゃない。伊良湖では太陽に導かれてさ、これも大自然よね。その上、伊勢の神様たちも出てきて、ものすごく壮大な訳じゃない。そこにポツンと八代亜紀って」
「おいおいおい、八代亜紀を馬鹿にしないでくれよ」
すかさず割り込むヒゲさん。
「馬鹿にしてないわよ。私だって好きよ。でもね、大自然と伊勢の神々。その始まりが八代亜紀ってのがちょっと面白いなと思って」
全てをきれいに繋げるつもりなど毛頭ないが、言われてみれば確かにそうだ。八代亜紀だけが浮いているような気はする。
「あいや待たれい、皆の衆」
唐突に、トッチさんが切り出した。
「青年、八代亜紀という、芸名の由来は、知っておるか?」
ひと言ひと言確認するように、トッチさんが天井を見上げながら問いかけてきた。
「はい。確か出身地の熊本県八代市からとった名前なんですよね」
「うむ。そうじゃ。して、その八代市じゃが……」
「じゃが」
ヒゲさんが身を乗り出す。ママさんも僕も、固唾を飲んでトッチさんを見つめる。
「地名の由来は、やしろ。神社の社だったはずじゃ」
「ええ!」
三人とも、声を出して驚いた。
「本当ですか?」
「うむ。確かじゃ。まだ続くぞ。えーっと、九州王朝説というのがあってじゃな。それによると、伊勢神宮が以前あった場所こそ、その社。八代市の地名の由来になった社と言われておる。確かそういう話じゃったぞ」
三人とも、声が出なかった。
「伊勢神宮の公式見解ではないんじゃが、それなりに説得力のある説でな、なかなか面白いぞ九州王朝説は。機会があったら読んでみなさい」
「ハハハ、な、なんだか揃い過ぎてしまいましたね」
「ケンスケさん、まさに“神ってる”ってやつじゃない?」
「スゲーな! 神さま越えて、“悪魔ってる”ぞ、コレ」
「これで万が一旅に出なかったら、祟られるんですかね、僕」
「いよいよあとにひけねーな」
オホンとトッチさんが咳払いをした。
「青年よ。菅原道真がこんな歌を残しておる」
「は、はい」
「心だに誠の道にかないなば 祈らずとても神や守らん」
「……」
「正しい行ないをしていれば、祈らなくても神様は守ってくれるということじゃ。……青年よ、おぬしの進んできた道は正しかった。そういう受け取り方をしたらどうじゃ?」
全くだ。祟られるなどと言った自分がひどく恥ずかしい。
「軽率な言葉でした。すみません。トッチさんの仰る通りです」
「さすがトッチさんだな。亀の甲より年の功ってヤツだ」
「バカモン! 元はと言えば、お前が悪魔だとか言うからじゃ!」
「ああ、ごめんなさいごめんなさい…‥って、俺今日、謝ってばっかだな、ハハハ……」
心だに誠の道にかないなば 祈らずとても神や守らん
トッチさんに教えてもらった菅原道真の歌は、野口友介さんから頂いた「人間はどんな生き方をしてもいい」という言葉と対になっているように僕は感じた。つまり、どんな生き方を選んでも、誠実に生きてさえいれば、神様が守ってくれる。
この言葉さえあればどんな困難も乗り越えられる。そう思わずにはいられなかった。
その日はその後も話が弾み、結局十二時近くまで長居してしまった。何もかもがスッキリした気分で店を出ようとすると「あー、そうそう」とヒゲさんに呼び止められた。
「先週、東郷くん来てたぞ」
東郷に愛想をつかされたことは、ヒゲさんたちには言っていない。
「え? 何か言っていましたか?」
「いや、何人かでお座敷に入っちゃったから、あまり話せなかったんだけど、お前によろしくってさ」
「……」
「同じ会社の奴ら同士に俺がよろしくって言うのもなんかおかしい話だけど、とにかくそう言ってたから」
「あ、ありがとうございます。また二人で来ます」
「おうよ!」
あれ以来、東郷とは顔を合わせていないし、連絡もしていない。合わせる顔がないというのが正直な所だ。だが、僕によろしくと言っていたという事は、もしかしたら許してくれているのだろうか。いや、東郷は筋の通った男だ。筋の通らない僕の事など許すはずがない。ヒゲさんにそう言ったのは、単なる社交辞令なのだろう。
店を出ると、風が頬を撫でた。九月末の風はまだ夏の思い出を引きずっているかのように、ほのかに暖かかった。秋が過ぎ、寒風吹きすさぶ冬を迎え、そして春が来る。風が再び暖かくなる頃に僕は旅に出るのだ。そう思うと、今感じているこの暖かい風が、まるで未来からやってきたかのように思えた。
期待に胸が膨らむような、でも少し怖いような、そんな何とも言えない複雑な気分が心の中で混ざり合った。
「青年、どっち方向じゃ?」
一緒に店を出たトッチさんが問いかけてきた。
「あ、路地を出て右の方です」
「そうか、同じじゃな、一緒に歩くか」
「はい」
僕たちは二人並んで歩き出した。ヒゲ村でよく会うトッチさんだが、こうして一緒に帰るのは初めてだった。店では座っているので気がつかなかったが、トッチさんは思いのほか背が低かった。百六十センチあるかないか、ママさんと同じくらいだった。なぜか「守らなければ」という使命感が芽生えてきた。
「青年よ、立ち入ったことを聞くが、ご両親はご健在か?」
「はい。二人とも現役で働いています」
「もう伝えたのか?」
両親には、結婚の話がなくなった事は伝えていたが、旅の話は何一つしていない。
「それがまだなんです。どうやって伝えようか、今思案しているところで……」
「余計なお世話かも知れんがの、下手の考え休むに似たりじゃ。あれこれ考えるよりもまず電話することをお勧めする」
「……はい」
「わしには息子が三人おってな、全員家を出て家庭を持っておる。古い考えかもしれん。もしかしたら間違っておるかもしれん。しかしな、親は子供に対しては安心していたいんじゃ」
「……はい」
「人生においての大きな決断をしたのなら、一刻も早くご両親に伝えて、まあ、決断が決断じゃから最初は驚くじゃろうが、青年の想いを丁寧に説明して、安心させてあげなさい」
トッチさんはまっすぐ前を見据えて歩いている。視線の先には、三人の息子さんとその家族がいるような気がした。
実は、僕は旅立つ事を両親に伝えずに、旅先で手紙でも出して済ませようとしていた。二十六歳の大人が決断した事を、わざわざ親に報告するのもみっともないような気がしたからだ。だが、大学を出て今の会社に入る事ができたのは、間違いなく両親のおかげだ。その、いわば両親から与えてもらった環境を捨てる決断をしたのだから、やはり報告しない訳にはいかないだろう。トッチさんの言葉を聞いて、僕はそう思い直した。
「トッチさん、ありがとうございます。早速明日にでも連絡してみます」
「うむ。年寄りの言うことと最近の入れ歯は、外れそうで外れないもんじゃ。後々わしに感謝することじゃろう。ハッハッハ」
トッチさんはそう言って、僕の背中をポンポンと優しく叩いてくれた。あきらかに、守られているのは僕の方だった。
翌日、仕事を終えた僕はまっすぐに自分の部屋へ帰った。部屋に入るとまだ微かに煤の臭いがして、美由紀に対しての罪悪感が蘇ってくる。掃き出し窓のガラスは、段ボールとテープで割れた箇所を塞いである。外で風が吹いたのか、パタパタと人を馬鹿にするように段ボールが音を立てた。
僕は着替えもせず、ソファに腰掛けながら二見町の実家に電話をかけた。夜の七時。中学校で数学教師をしている父の帰宅時間は、いつも八時過ぎだった。出るとすれば母だろう。母は看護師をしており、僕が高校生だった頃までは夜勤が多かったが、最近はほとんど日勤にしているようだった。
僕の記憶では、電話が鳴ると必ず母が受話器を取っていた。だがそれは、亭主関白の夫が妻にさせるような隷属的なものではなく、家庭内に入ってこようとする異物に対して、害を及ぼすような物なら積極的に駆逐しようとする番犬的な行動原理のように僕は感じていた。母にとって僕はもちろん異物ではないし、害があるわけでもない。だが、僕が伝えようとしている情報は、母にとって害である可能性が高い。できれば父に出て欲しかったが、そんな事を考えていてはいつまでも前に進めない。トッチさんの「下手の考え休むに似たり」という言葉を心の中で呟きながら、呼び出し音を聞いていた。
呼び出し音が消え、聞こえてきたのは「もしもし」という男性の声、父だった。
「あっ、父さん、健介だけど」
「ああ、表示されてるから分かるわ」
「いつもより早いんじゃない? 学校、もう終わったの」
「ああ、文化祭が終わって、中間テストが始まるまでの中休みやな。久しぶりに定時で帰ってきたわ」
「そっか、お疲れ様。……母さんは、いないの?」
「ああ、夜勤で欠員が出たみたいで、急遽駆り出されたそうだわ。なんや、お母さんに用事か?」
「あ、いや、そういう訳じゃないんやけど、ちょっと二人に伝えたいことがあって電話したんやわ」
すっかり話さなくなった伊勢の言葉だが、両親や古い友人と話すと、ポツリポツリと出て来る。
「なんや、破談以外にまだあるんか?」
「あ、うん、その、つまり、破談になった要因というのがあって……その……」
「……どうぞ」
話を促す時の父の口癖「どうぞ」。おそらく授業でも使っているに違いない。本人は合いの手くらいの気持ちで言っているのだろうが、妙な威圧感がある。
「結論から言うと、会社を辞めます。理由は日本を、そしてゆくゆくは世界を旅して回りたいからです」
「…………」
沈黙が続いた。遠くで救急車のサイレンの音が聞こえている。あるいは電話口から聞こえているのだろうか。それくらい小さな音だった。「んん」と咳払いをした後、父はようやく言葉を発した。
「旅……か……」
僕の突然の告白に、父の頭脳がフリーズしているようだった。
「ごめんなさい」
「……ああ、謝るのはいいから、訳を話してくれんか? お前さんの考えを聞かせてくれんか?」
この父の言葉で、心の中の堰が決壊した。長い間、自分のことを欠陥品だと思っていた事。八代亜紀のコンサートから始まった心の動き。プラネタリウムで感動の涙を流した事。ヒゲさんたちとの出会い。伊良湖岬の旅での様々な出来事。そしてバックパッカーになる決意をした事。僕は感情の赴くままに、全ての想いを吐き出した。
「そういう訳で、自分でもバカな決断だと思う。二十六歳にもなって何やってんやろうと思う。せっかく大学出させてもらったのに、父さんや母さんに申し訳ないって、心からそう思う。でもな、もう理屈やないんよ。体の奥底から旅をしたいっていう想いが溢れてきて、それを成し遂げんと、これから先の人生、生きていかれやんような気がするんよ」
僕が思いの全てを吐き切ると、父は再び押し黙った。そして、鼻を啜る音が聞こえた後に、こう言った。
「健介、鏡、あるか?」
突拍子もない問いかけに少し狼狽えた。近くに鏡はなかったが、カーテンが少し開いていて、そこに僕の顔が映っていた。
「鏡はないけど、窓ガラスに自分が移ってる。それじゃあダメかな」
「ああ、それでええ、それでええ。お前さん、今どんな表情しているか教えてくれんか」
改めて窓ガラスを見てみた。思いを吐き切ったせいで高揚した表情は、どこか笑っているようにも見えた。
「なんか、笑ってるね。……正直に言っちゃったけど……まずかったかな」
「ええやん。お前さんが自分で決めたことで、お前さんが笑顔になれるんなら、私は何も言うことはない」
幼い頃の記憶が蘇った。夫婦岩でいつも言われた言葉「ここに来ると笑うんやな、健介は」そう言っていた父の顔も、そういえば笑っていたような気がする。
「旅がどうのとかバックパッカーがどうのとかは、私はよー分からんから何も言えん。でもな、大学出させてもらったとか、育ててもらったとか、もしもそんなことが引っかかってるんなら、気にしたらいかん。そんなのは親として当たり前のことや。私もお母さんも、何のためにお前を育てたかと言ったら、大学出さすためでも、ええ会社に入らすためでもない。お前に幸せになって欲しくて、お前を育てたんや。それだけや。まあ、お母さんはちょっとは取り乱すかもしれんが心配せんでええ。私から言っておくから、安心しなさい」
「……はい。ありがとうございます」
もう少し説得しなければならないと思っていたが、あっさりと受け入れられて少し拍子抜けした気分になった。
「ああ、それと、正月には帰ってくるんやろ?」
「うん、三が日は避けるけどね」
「ああ、ああ、それがええ。アホみたいに混むからな。まあ、それまで元気で過ごしなさい」
「うん、父さんも」
「ああ、わざわざ報告してくれて、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
そして電話はあっさりと切れた。
父とこんなにも話をしたのは初めてだった。大学でバドミントン部だった父は、勤めている中学校でバドミントン部の顧問をしていた。授業と部活動の両立はかなり大変だったようで、同じ家に住んでいながら、父と顔を合わす時間は極端に少なかった。それが原因で父と不仲になったとか、非行に走ったとか、そういった事はなかったが、もしかしたら、父は父で僕に対して後ろめたさを感じていたのかもしれない。なんとなくではあるが、父の言葉の端々から、そんな感情が伝わってきた。そして、初めて聞いた父の想い。
「お前に幸せになって欲しくて、お前を育てたんや」
今まであまり考えた事もなかったが、僕は父と母に守られて生きてきたのだ。
「ありがとうございます」
僕は通話の切れたスマホに向かって、しばしの間頭を下げた。
第五章
月日が経ち、新しい年の一月下旬、夕方から翌朝未明にかけて東海地方を大雪が襲った。積雪二十五センチ。一九二二年以来、実に百年ぶりの大雪だったという。雪は朝には完全に収まり、ところどころ青空も見えていた。だが、地上は大騒ぎだった。至る所で車が立ち往生したり、スリップ事故を起こしたり、何人かで車を押したり。パトカーや救急車が回転灯をつけて喧しく走り回ったり……。不謹慎な言い方だが、まるでお祭りのような賑やかさだった。会社はというと、多くの人が来られなかったようで、社内は見た事がないくらい閑散としていた。
ちょうどその頃、僕はH・D・ソローの「森の生活」を読んでいた。この本は、行き過ぎた文明社会に疑問を持った著者ソローが、約二年にわたって森の中で生活をした、その回顧録だ。旅とは直接関係はないが、その精神性は、僕が憧れそして実行しようとしている旅のスタイルに通ずるものがあった。
大雪で混乱する街の風景を見て僕は思った。「ソローのように、やはり一度、文明がもたらす利便性と距離を取る必要があるのではないか?」と。そして、僕はある決断をした。
旅には、スマホを持って行かない。
天気予報や交通状況など、必要な情報はスマホがあればほぼ手に入る。持って行けば、旅先で大活躍してくれるに違いない。だが、そうなるともはや旅の主役が僕ではなくなってしまう。頼るべくはスマホではなく、自分自身にしたかった。そう思うに至ったのは、最初に接した旅人がヒゲさんや野口さんのような、言わばクラシカルな旅人だったという事もあるが、それ以上に、僕が求めているものが「どこそこまで行きたい」とか「旅をして有名になりたい」とかそういった外部に対しての欲求ではなく、あくまでも自分に対しての欲求しかなかったからだ。自分探し。使い古された言葉で少々恥ずかしくもあるが、やはり旅をする一番の目的は、自分を見つめ直す、その一言に尽きる。幼い頃から感じていた喪失感や欠落感はいったい何なのか。そして、ゼロになった自分に何ができて何ができないのか。旅をする事によって、そういった自分の原点となるものをしっかりと認識したかった。そのためには、スマホというとてつもなく便利なものは、かえって邪魔なような気がした。できるだけ旅の先人たちがしてきたのと同じような、そんなクラシカルな旅の中にこそ、僕の求めるものがあるような気がしたのだ。
そしてさらに月日が経ち、三月末。
最後の仕事を終えた。サラリーマンとしての僕は、一旦これで終わる。やりがいのない仕事だと思っていたが、これで最後だと思うと、それなりに思い出が蘇ってきた。忌憚がなく、時に攻撃的な“お客様の声”をまとめるのは精神的にまいる事が多かった。ただ、まとめ上げ、冊子となったものが社内に配られる時には、少なからず満足感を覚えていた。
その日、山崎係長が送別会を開いてくれた。最初は断っていたのだが、「キミの送別会を開かなかったら、僕が後悔するからどうか!」と頭を下げられ、断りきれなかった。「できるだけ少人数で」という僕の意向をくんでくれて、係長を含めて十名のみでの送別会となった。皆には辞める事は伝えていたが、旅に出る事は言えずにいた。
送別会の会場で、山崎係長に促されて挨拶をする事になった。僕は覚悟を決め「少し長くなります」と断ってから挨拶を始めた。
「皆さんに今まで黙っていましたが、私、旅に出ます」
それまでも僕を見ていたはずの皆の顔が、さらに僕を注視したのが瞬時に分かった。
「本当はもっと早くお伝えしようと思っていましたが、なんだか恥ずかしいというか、自分でも旅に出る現実味というものがなく、今まで言うことができませんでした。本当に申し訳ございません」
一気にざわつき始めたのを山崎係長が穏やかにジェスチャーで制した。
「なぜ旅に出るのか、実は自分でもよく分かっていません。ただ、ある時から旅に対して強く憧れるようになり、その想いは日増しに強くなって、旅立つ決意をするに至りました。移動手段は徒歩とヒッチハイクです。まずは北海道へ向かい、それから沖縄へ向かいます。今決めているのはそこまでで、そのあとは旅をしながら考えるつもりです。……皆様には、短い、間でしたが……」
自分でも驚いた。感極まってと言うのだろうか、胸に何かが込み上げて来て、言葉に詰まってしまった。
「ほ、本当に、お世話に、なりました」
拭いても拭いても追いつかない程、涙が零れてくる。啜っても啜っても鼻水が垂れてくる。隣にいた同僚がまだ使っていないおしぼりを渡してくれた。
「あれ? ご、ごめんなさい。私、こんな、泣くようなキャラじゃ、ないのですが……ハハ……い、今まで、ありがとうございました」
何とか最後まで言い切った。と同時に、大きな拍手の音が会場に響いた。涙目で見回すと、皆が僕をキラキラとした瞳で見ている。中には、貰い泣きをしている人までいる。皆の視線が、伊良湖岬で見た真っ赤な太陽のように眩しかった。拍手は、これも伊良湖岬で受けた豪雨のように注がれ、なかなか鳴りやまなかった。僕はその光景を、しっかりと心に焼き付けた。
夜十一時、部屋に着いた。
送別会では、皆からの質問攻めにあった。寝る所はどうするの? 食事は? お金が尽きたらどうするの? まだ旅をしていない僕がそういった質問に答えるのは少し烏滸がましい気もしたが、皆に全てを曝け出したい気持ちの方が上回り、聞かれた事にはできるだけ詳しく説明をした。だが、そのおかげで必要以上に酔っぱらう事がなく、この時間まで飲んでいたわりに、頭はスッキリしていた。
ピッと部屋の明かりをつける。もう、部屋の中には家財道具がほとんどない。ひと月前からこの状態だ。衣服も必要なもの以外はすべて処分している。明日にでも出発できるくらい片付いているが、まだ色々と必要な手続きが残っているので、出発は四月半ばを予定していた。
人が住んでいるとは思えないようなガランとした部屋の真ん中に、ポツンとテントがある。幅一メートル、長さ二メートルの一人用のテント。一週間前にベッドを処分してからは、夜はここで寝ている。テントの中には厚手の旅用マットと、ダウンの寝袋。これだけで十分温かく眠る事ができた。
シャワーを浴び、ジャージに着替えた。このジャージも旅に持って行くつもりだ。化学繊維は乾きが早いので、旅先でも重宝するだろう。
モゾモゾとテントの中に潜り込み、入口のジッパーを閉めると、自分だけの空間が出来上がった。外界とは薄皮一枚で隔たれているだけなのに、妙に安心できる。さらに、ゴソゴソと寝袋に入る。最初はひんやりとしていた寝袋だが、保温効果の高いダウンのおかげで、すぐに温かくなる。テントと寝袋、この組み合わせで寝るようになって、ミノムシがいかに快適な毎日を過ごしているのかが分かった。この自分だけの空間は誰にも侵される事はない。そんな絶対的な安心感が、テントと寝袋にはあった。そして同時にこうも思った。もしも過去に行く事ができるのならば、ミノムシをミノから取り出して遊んでいた幼い自分を厳しく叱りつけてやりたいと。
寝つく前にスマホをチェックすると、SNSに通知が届いていた。東郷からだった。
『まだいるんだよな? 明日の夜、会えるか?』
あの日、居酒屋で愛想をつかされて以来、初めてのメッセージだった。僕はすぐに『もちろん』と返事をした。東郷の事はずっと気になっていた。しかし、自分から謝るというのも違うような気がした。僕の勝手で美由紀と別れる事を決め、東郷はその事に対して怒っていた。美由紀と別れてしまった後に、こちらからどんな言葉をかければいいのか、僕には分からなかった。なので僕の中では、美由紀だけでなく、東郷という大切な友人も同時に切り捨ててしまった、いや、切り捨てられたという認識でいた。
『サンキュー! 明日また連絡するわ』
東郷からもすぐに返事が来た。ずっとつかえていた魚の小骨のような感情が、今ようやく消えたような気がした。僕は穏やかな気持ちで目を瞑った。
翌日の夕方、僕と東郷は、あの最後に会った居酒屋の個室にいた。僕は私服。東郷は会社帰りでスーツ姿。服装の違いが、社会と隔絶してしまった事を僕に認識させた。自分でも意外だったが、「ああ、もう戻れないんだな」と、軽い恐怖感のようなものを覚えた。
東郷とは半年ぶりの再会だった。会社で姿を見かけた事はあったが、どうしても声をかけられなかった。こうして久しぶりに顔を合わせると、なんだか照れくさい。東郷も同じなのだろうか、揉み上げ辺りを人差し指で掻きながら、差し障りのない話から切り出してきた。
「か、会社じゃお前の話で持ちきりだったぞ。会社辞めて旅に出るヤツなんて、そんなにいないもんな、ハハ」
「あ、そうだったんだ。ハハハ、話題を提供できて良かったよ」
「そうか。あ、あのよぉ……オレが、悪かった。申し訳ない!」
そう言って東郷は深々と頭を下げた。
「ちょ、ちょっと、何言ってんの。俺の方だよ、悪いのは。自分勝手な決断をした俺が悪いんだよ。頭上げてくれないか」
久しぶりに東郷と言葉を交わしてまず思ったのは、一人称を「俺」と躊躇わずに言えるのは、社会人になってからは東郷だけだったなあという事だった。
「いや、違うんだ、健介。確かに、お前が旅に出るために彼女を捨てるってことには腹がたった。でもな、それだけじゃないんだわ」
コンコンという音と共に個室のドアが開いた。
「お待たせしましたー! 生ビール二つ、お持ちしましたー!」
元気のいいアルバイトの女の子。この前来た時にいた子だ。なんだか「久しぶり」と声をかけたくなるような、そんな親しみを持てる子だ。彼女の笑顔に釣られて、僕も笑顔で「ありがとうございます」と応えた。
「東郷、まずはカンパイしない?」
「そーだな!」
半年ぶりの乾杯。ガツンと乱暴な東郷の乾杯を受け止めた。これだけで、今までのわだかまりが全て吹き飛んだような気がした。東郷は、グビグビと一気に半分ほど飲み干して話を続けた。
「オレなあ、お前が会社をやめるってことにも腹が立ったんだわ」
意外な言葉に少し驚いた。
「社長になるのがオレの夢なんだけど、その時にな、参謀としてお前がついてたらなあって、いつも思ってたんだわ」
「サラッと言ったね。東郷、社長目指してたんだ?」
「当たり前だがや。男ならトップを目指さんと! でもそのためには自分とは違うタイプの、冷静に物事を見られる参謀が必要なんだわ。本田宗一郎に藤沢武夫、井深大に盛田昭夫って感じでな」
「言うもんね、名経営者に名参謀ありって。それが俺なの? 嬉しいけど、俺はそんな柄じゃないよ」
「お前さあ、自分じゃ気づいてないかもしれないけど、物事を俯瞰で見る能力が高いような気がするんだわ」
「俯瞰……、うん、冷めてるだけかもね」
「お前、たまに言ってたよな。自分は欠陥品だって」
「あ、うん」
「欠陥ってよ、誰でもあるんだわ。でも普通気がつかんし、気がつこうともせん」
「……」
「オレの感覚的な言い方なんだけど、お前ってな、十センチくらい浮いてるような感じがするんだよ」
「ああ、それは昔から自分でも感じる。なんか、本当にみんなと同じ世界を生きてるんだろうかって思う時はある」
「だろー! それってな、多分本当に浮いてるんだよ。意識が」
「意識ねえ……」
「たとえばだけどな、広いグラウンドに白線で大きな輪っかが引いてあるとするぞ」
「うん」
「普通の人はな、そのグラウンドを見て『ああ、白線が引いてあるなあ』としか思わないんだけど、お前は大きな輪っかだってことが瞬時に分かるんだよ」
「……はあ」
「さらにな、輪っかに欠陥、つまりどこかが途切れていたりしたら、それも分かっちまうんだよ、お前は」
僕は伊勢湾を連想した。伊勢湾を形作る陸地を大きな輪っかに喩えるなら、伊勢湾口と呼ばれる鳥羽から伊良湖岬の海域は、輪っかが途切れていると言えるかもしれない。だが、東郷が言うように、それが瞬時に分かるのかと言われれば、間違いなく分からないと思う。
「東郷、さすがにそれは分からないよ」
「うーん、分からないにしても、そういうの意識したことないか?」
もしかすると、子供の頃に対岸の知多半島を意識したのがそうなのだろうか? 「見えているのに行けない」というもどかしさは皆誰もが持っていると思ったが、地元で同意してくれる友人は一人もいなかった。「そんな簡単に行けるわけないやん」と、皆そう言ってバカにした。
「そう言われてみれば、意識はしてたのかも……」
「だろー! だからよ、俯瞰能力が高いがゆえに、自分の欠陥も見え過ぎちまう。そういうことなんじゃねーのか?」
正直、今の僕には分からなかった。あるいはこれも、旅を通じて掘り下げるべき今後の宿題なのかもしれない。
「東郷、とても興味深い話ではあるんだけど、ちょっと話がズレすぎてない? お前が俺に腹を立てたって話だよね」
「おっ、さすが、俯瞰能力たっかー!」
僕は声を出して笑ってしまった。東郷も笑っている。東郷と仲違いしていた半年間が、本当にもったいなく感じた。
「まあ、つまりな、オレの思い描いた人生設計をぶち壊しやがってコノヤローメ! って、そんな感じ」
「ずいぶんザツにまとめたなあ。ハハハ、でも嬉しいよ。そんな風に思ってくれて」
「じゃあ、そういうことで、も一回乾杯するか!」
「どういうことか分かんないけど、カンパイ!」
再度、ガツンと乾杯をした。
その後、僕たちは時を忘れて語り合った。仕事のことはもちろん、自身の生い立ちや学生時代の思い出。そして好きな音楽や映画など、趣味について。時にバカ話風に、時に哲学風に、お互い思うところを語り合った。そして、話題が好きな文学作品に移った時だった。東郷は「帰り際に渡そうと思ったんだけど」と言いながら、鞄から一冊の文庫本を取り出した。タイトルは「かもめのジョナサン」。
「幼稚園の時の話なんだけどな、園長先生が自分で作った紙芝居を何度も読み聞かせてくれたんだわ。それがこれ」
かもめのジョナサン。ヒッピーのバイブルと呼ばれるこの本の事はもちろん知っていた。ヒッピーといえばバックパッカーのルーツでもあるので、僕も数カ月前に読んでいた。
「このジョナサンがな、なんかいいんだよなあ、まっすぐなヤツで。俺な、ジョナサンのセリフで特に記憶に残っとるのがあるんだわ」
僕は身を乗り出した。
「『自分がやれる事はなにか、やれない事はなにかを知りたいだけなんだ』っての。園長先生がな、このセリフ言う時だけ紙芝居の上から顔を出すんだわ。よっぽど思い入れがあったんだろうなあ。めちゃくちゃ真剣な顔だったのを今でも覚えとる。もしかしたら、俺が思い出せる一番古い記憶かもしれんな、園長先生の顔」
紙芝居を見る幼い頃の東郷が浮かんできた。きっと園長先生以上に真剣な表情をしていたに違いない。
「俺、ジョナサンになりたかったんだよ。誰に何を言われようと自分のやりたいことを追求する。そんな男になりたかったし、ある程度そんな風に生きてきた自負もある。これからも社長目指して突き進もうって思ってる。それは変わらない。でもな、俺はやっぱりジョナサンじゃないわ。どんなに夢を持っていようと、レールの上を進んでいるだけだからな。……本当のジョナサンは、お前みたいなヤツなんだろーな」
僕は何も言わず、ただ、東郷をじっと見つめた。
「で! 荷物になって迷惑かなって悩んだんだんだけど、旅立つお前にこの本を贈らせてくれ。邪魔だったら捨ててくれていいから、もらってくれるか?」
僕は両手でしっかりと「かもめのジョナサン」を受け取った。
「捨てるなんてとんでもない。お前の分身だと思って大事にするよ」
そう伝えてパラパラと捲って驚いた。この本はイメージカットのような感じでカモメの写真だけが載ったページが何枚もあるのだが、その余白部分が手書きの文字で埋め尽くされていたのだ。本と東郷を交互に見つめ、問いかけた。
「東郷、何これ?」
「あのよ、本を贈るだけじゃ芸がないと思って、最初捲ったところにメッセージ書いたんだよ。で、書いてるうちにお前に伝えたい言葉がいっぱい溢れてきてな、余白を見つけては書きまくったんだよ。そしたらそのうちだんだん余白を埋めることが目的になってきてな、俺の好きな名言とか格言なんかも書いてまったわ。ハハハハ」
もの凄い文字量だった。もしかしたら「かもめのジョナサン」そのものよりも多いのではないだろうか。
「こんなにたくさんよく書けたね」
「なんか書いてるうちにノッてきてな。先週の土日使って書き切ったったわ」
「東郷、その行動ジョナサンっぽいよ」
「お、嬉しいねえ! あっ、もうあんまり見ないでくれな。恥ずかしーでよー。旅先で見てちょ」
知らないどこかの土地で、ニコニコしながらこの本を読んでいる自分の姿が浮かんできた。何というか、絶対になくならないエネルギーをもらったような気分だった。
「ありがとう。……これ以上の言葉が見つからないけど、本当にありがとう」
そう伝えると、東郷は恥ずかしそうにこめかみ辺りを掻いていた。
その日は、二軒、三軒と梯子し、四軒目の大衆寿司屋を出た時には、すっかり夜が明けていた。記憶は断片的にしか残っていないが、こう思った事だけはしっかり覚えている。
「東郷と一緒に会社を盛り上げていく。そんな未来も悪くないな」
しかし、その未来を僕は、自ら閉ざす決断をした。そう考えると、少し息苦しい思いを感じた。
気がつくと、寝袋の中だった。時間を確認すると、昼の三時。酔っぱらって意識を失っても、しっかりとテントに入り、寝袋に潜り込んでいる事に驚いた。体がもうすっかりここを寝床だと認識しているのだろう。
もう少し寝ていたかったが、空腹感を覚えたので仕方なく起き上がった。熱めのシャワーを浴びると、ようやく頭がスッキリとした。髪をクシャクシャと拭きながら思った。……蛇口を捻るだけでお湯が出てくる。文明社会においては当たり前の事かもしれないが、改めて考えるとすごい事だ。この便利な道具とも、もうしばらくしたらお別れかと思うと、少し不思議な気分になった。これから続くテント生活では、当然シャワーは使えない。その事実が、今さらではあるがようやく実感として認識できた。
コンビニで弁当とお茶を買い、マンションへ戻ると、エントランスにある郵便受けに、何かが入っている事に気がついた。土曜日なのに……。ダイヤル式の鍵を開けると、「速達」と判の押された封筒が入っていた。宛先の字を見てすぐに分かった。美由紀からの手紙だ。鼓動が急激に早くなった。半年前の土曜日の出来事が蘇る。髪を振り乱して僕に食材を投げつけ、ワインボトルで窓ガラスを割り、新聞の束に火をつけ、そして声を上げて泣いた美由紀。素直で優しく、天女のように美しかった女性を豹変させ、そして目茶苦茶に傷つけてしまった。罪悪感が波のように何度も何度も押し寄せてきた。
僕は自分の部屋に戻るまで、封筒を直視する事が出来なかった。一体この中には何が書いてあるのだろう? 今頃。わざわざ速達で。……まさか遺書? 僕はハッと我に返り、慌てて封を開けた。中には便箋が二枚。一枚目を見て、僕は凍り付いた。
バカバカバカバカ 絶対許さない お前なんかに出会わなきゃよかった バカバカバカ ふざけんなバカ 二度と名古屋に帰ってくるな バカヤロー 何が旅だ! バカバカバカバカ……
便箋一面が罵詈雑言で埋め尽くされていた。血の気が一気に引いた。美由紀は、もしかしたら今大変な精神状態なのかもしれない。だとしたら、旅どころではない。僕は、これからの人生の全てを美由紀のために捧げなければならない。……ただ、去年の暮れに美由紀のお父さんの会社に慰謝料を持って行った時には、お父さんは何も言っていなかった。その時に美由紀に異変があったとしたら、僕はまた殴られていたに違いない。少なくとも、その時までは美由紀は正常なはずだ。一体どうなってしまったんだろう?
恐る恐る二枚目を見た。その途端、僕は床にへたり込んでしまった。そこには、こう書かれていた。
あー、スッキリした! 全部嘘だよ 笑
今までありがとう。さようなら。 美由紀
美由紀の満面の笑みが浮かんできた。この半年、美由紀はもしかしたら相当苦しんでいたのかもしれない。そして、最近になってようやく吹っ切れたのだろうか。……涙がとめどなく流れてきた。ここ一年、随分涙もろくなったが、それまでとは比較にならないくらい涙が溢れ出てきた。ポタポタと、涙の海が床に広がって行く。「ごめん、ごめん」僕は何度もそう言って、声をあげて泣いた。子供のようにしゃくり上げて泣いた。右の瞼に手を当てながら……。
泣いたまま寝てしまったようで、気がつくと周りは真っ暗だった。泣き過ぎたせいだろうか、思いのほか気分は落ち着いていた。
「もう、先に進むしかない」
そう、僕は自分の信じる道を選んだ。その結果、美由紀と別れ、会社も辞めた。しかし、それももはや過ぎた事だ。僕は自分を信じて進むしかない。……その事を、美由紀の手紙が教えてくれた。
美由紀がもたらしてくれた多くの涙が、僕の心を浄化してくれたような気がする。旅立つ前の禊とでも言おうか。そして、澄んだ心の中に、旅をする“覚悟”が生まれたのを、僕ははっきりと感じた。
美由紀、こちらこそ、ありがとう。そして、さようなら。
旅立ち前夜、僕はヒゲ村にいた。しばらくここに来られないと思うと、退職以上に寂しい気持ちになった。
ヒゲさんとママさんが働く姿を見ながら、一年前の事を思い返していた。プラネタリウムを見た後、ふと口ずさんだ八代亜紀の「舟歌」。それを偶然聞いていたヒゲさん。どちらかというと人見知りな僕だが、ヒゲさんとはあっという間に打ち解けた。ヒゲさんだけではない。ママさんや常連のトッチさんともだ。この素敵な人たちと、出会ってまだ一年しか経っていない事に自分でも驚く。もっと前から、もしかしたら生まれる前から知り合いだったのではないだろうか。そう思わずにはいられないほど、僕にとってヒゲ村は安心できる空間だった。原点と言っていいかもしれない。
思えば、野口友介さんを知ったのもヒゲ村のおかげだし、民宿てぃだでサンちゃんやリエさん、そしてヤマシンさんをはじめ、多くの旅人に出会えたのもヒゲ村のおかげだ。全ては、ここから始まったのだ。
僕が餃子定食を食べ終えると、それを待っていたかのようにトッチさんがグラスに日本酒を注いでくれた。
「青年! 大吟醸じゃ。わしからの餞別じゃ。辛いこと悲しいことがあったら、この酒を思い出すんじゃぞ」
「はい。トッチさんのことも同時に思い出しますね」
「ハッハッハ、なかなか世辞が上手になったのお」
普段は気難しい表情をする事の多いトッチさんが、今日は笑顔が多かった。その笑顔が、日本酒以上に心に沁みた。
「それにしてもヒゲの大将も冷たいもんじゃ! 送別会くらい盛大に開いてやらんか! だいたいこの男は…」
「ちょちょちょ、トッチさん」
ヒゲさんが慌てて遮った。
「俺もそのつもりだったんだよ。でも、ケンスケが嫌だって言うんですよ。なかなかに頑固なんですよ、コイツは」
そう。送別会の事は再三言われていた。
「嫌って訳じゃないんですよ。ヒゲさんのお気持ちは本当に嬉しかったんですけど、僕はまだ何も成し遂げていないので、気が引けると言うか……」
「いいのよ、ケンスケさん、気持ちはとっても分かるわ。その代わり、名古屋を通ることがあったら必ず寄ってってね」
「そうそう! 絶対寄れよ! うちに泊めてやるから、寝床は心配するな!」
「ありがとうございます。必ず寄りますし、手紙も出しますね」
「手紙じゃと? 最近の若いもんにしては珍しいのお。いいことじゃ」
「トッチさん聞いて下さいよ。この男、マジメそうな顔して実は変わりもんでね、スマホ持って行かないって言うんですよ。もう解約したんだよな?」
「解約というか、利用を一時中止できるんです。一定額を払って」
「青年よ、何か理由でもあるのか?」
「はい。スマホって便利すぎて、僕のやりたい旅にはかえって邪魔なような気がしたんです」
「かーーー! 素晴らしい! なかなかできる決断ではないぞ」
「いつも肌身離さず持っていたので正直不安ですけど、これが僕の『誠の道』じゃないかと思うんです。そうすれば『祈らずとても神や守らん』ですよね」
「しっかり覚えておったか! まったく抜かりのない青年じゃ! ハッハッハ」
褒められるのは苦手なので、少しこそばゆいが、なんだかとても柔らかい時間が流れているようで、この上なくいい気分だった。
「いいわねえ、ケンスケさん。トッチさんから素晴らしい言葉をいただいて。……ねえ、アンタ、旅の先輩として何かないの?」
「ん? 何が?」
「ホラ、アドバイスとかないの?」
「そんなもん、俺があれこれ言うことじゃないからな。旅人は全て自分で見つけるもんなんだよ。あれこれと失敗を繰り返しながらな」
「…言えるじゃない。そういうのでいいのよ」
「ん? 図らずもアドバイスになってたか? ガハハ」
旅人は全て自分で見つけるもの。失敗を繰り返しながら、か。ぞんざいなようで真実を突く、ヒゲさんらしい言葉だ。
「ヒゲさん、一つ質問していいですか?」
「おう、いいよ! 一つでもなんぼでも」
「旅をしていて、ヒゲさんが大事にしていたことってありますか?」
「大事にしていたこと、か」
仕事の手を止め、宙を見つめるヒゲさん。
「そうだなあ、色々あるけど、あんまり細かいこと言ってもしょうがねーから、一つだけ答えるな」
「はい」
「まあ、自分に嘘をつかないってことだな」
「……嘘を」
「ママ、なんだっけ? ホラ、ハムのトイレみたいな演劇にそんなセリフあるんだろ?」
「ハムレットよ。バカじゃないの!」
「そう、それそれ。なんかかっこいい言い回しあっただろ? ちょっとやってみてくれよ」
やれやれという表情をしながらも、即座に一歩前へ出て、まっすぐな背筋をグイッと伸ばし、芝居じみた口調でママが言った。
「一番大事なことは、おのれに忠実なれ。この一事を守れば、あとは夜が日に続く如く、万事自然に流れ出し、他人に対しても、いやでも忠実にならざるをえなくなる」
少し声を抑えてはいたが、さすが元女優。場の空気がガラリと変わってしまった。オホンと咳払いをすると、ママさんは元のママさんに戻った。
「ボローニアスっていう登場人物がね、旅立つ息子に贈った言葉なのよ。……あれ、なんか今のケンスケさんにピッタリの言葉なんじゃない?」
ママさんと僕は、揃ってヒゲさんに視線を向けた。
「お? そ、そうだろ! そうだと思ったんだよ。ちゃんとそういう言葉を選んだんだよ、俺は」
お道化ているのか本当にそうなのか判断しかねるが、この言葉は僕の心に深く突き刺さった。
『己に忠実なれ』
最後の最後に、ヒゲさんとママさんから素晴らしい言葉を頂いた。野口さんが言ってくれた「人間はどんな生き方をしてもいい」。トッチさんが教えてくれた菅原道真の歌。そして「己に忠実なれ」。 この三つの言葉が、僕の旅の核になるような気がした。
九時を少し回ったところで、僕は立ちあがった。
「では、明日は早くに出るつもりなので、この辺でお暇します」
そう伝えると、隣にいたトッチさんが立ち上がり、手を差し出してきた。僕は慌てて手を拭いて、トッチさんの手を握った。
「青年よ。無事に帰ってくるんじゃぞ。『無事かえる』、これは興玉神社の御利益でもあったんじゃないか?」
さすがトッチさん、よくご存知だ。二見浦の興玉神社には蛙の置物がいくつも飾ってあり、『無事かえる』という語呂から交通安全の御利益もあるとされているのだ。
「はい。必ずまたここに帰ってきます」
トッチさんは握手をしたまま、もう片方の手で僕の手をパンパンと二度叩いた。
「ケンスケさん、わたしも!」
ママさんとも握手を交わす。
「旅の話、いっぱい聞かせてちょーだいね!」
そう言って、トッチさんの真似をしてパンパンと僕の手を叩く。
「ホラ、アンタも!」
ママさんはカウンターの中にいるヒゲさんを促した。
「俺ぁ、こういうの苦手なんだよなあ」
「ブツブツ言ってないで早く!」
しぶしぶといった感じで出てきたヒゲさん。あの日、この人と出会わなければ、未来は全く変わっていた。そう思うと、胸が熱くなった。ヒゲさんがズイッと出してきた右手を握る。料理人の手らしく、指の付け根に包丁ダコがあった。働く人の手だ。なんとも逞しい。感触は全く違うが、僕にはヒゲさんの手が父の手のように思えた。……そういえば、僕はいつも父の手を握っていた。
「ヒゲさんのおかげです。ありがとうございます」
そう言い終わらないうちに、ヒゲさんが僕を抱きしめてきた。
「体だけは、大事にな」
そう言って、ヒゲさんは僕の背中を両手でボンボンと強く叩いた。僕は、涙を堪えるのに必死だった。
ヒゲ村を出ると、暖かい風が頬を撫でた。いよいよ僕は旅に出るのだ。
その夜、はたと目が覚めた。遠くから光を当てられているのか、テントの中がやけに明るい。恐る恐るテントから顔を出すと、光の正体が満月だという事が分かった。少し前にカーテンを処分したので、月明かりがまともに部屋の中に差し込んでいたのだ。
都会の狭い夜空に、ポンと浮かび上がっている満月。この月は、ふるさとの二見町にも明かりを届けているのだろうか。僕の原風景でもある興玉神社の夫婦岩。やわらかい曲線を描く二見浦。そして、その砂浜に沿って生える松並木。月明かりは伊勢を、そして対岸の知多半島や渥美半島も照らしているのだろうか。僕の意識は、空に浮かび上がって伊勢湾を見下ろしていた。青白く光る伊勢湾が見えた。空に浮かび上がった僕はそこから北へ向かう。日本アルプスの山々を抜け、日本海へ。さらに海岸沿いに北上すると、奥羽山脈、下北半島、そして北の大地・北海道が見えてきた。これから行く全ての場所に、この月明かりが照らされている光景が目に浮かんだ。ふいに、希望と恐怖が入り混じった何とも言えない感情が込み上げてきた。鼓動が急激に早くなるのが分かった。それに伴い、恐怖感がどんどん大きくなっていく。僕は本当に明日から旅立つのか。北海道へ向かうのか。一体、僕は何をしに行くのだろう。怖い。怖くてたまらない。逃げ出してしまいたい。
僕は目を閉じ、何度も何度も大きく深呼吸をした。やるしかない。怖かろうがなんだろうが、もうやるしかない。そう肚を決め、カッと目を開き、頭をあげて満月を望んだ。
「……ありがとうございます」
自然と感謝の言葉が出てきた。旅立つ事への恐怖感は消えてはいないが、それでも僕の心は、希望の光で満たされていた。
僕は再びテントに戻り、寝袋に潜り込んだ。瞼に月明かりを感じながら、僕は再び眠りについた。
終章(序章)
ギャアギャアと騒ぐ鴉の鳴き声で目が覚めた。あさぼらけと言うのだろうか、外はまだぼんやりとした明るさだった。僕は「舟歌」を口ずさみながらテントから這い出し、すぐに出発の準備に取り掛かった。もう、一刻も早く旅立ちたい気持ちだった。
身支度を整え、バックパックにテントや寝袋などを詰め込むと、部屋には僕の物が完全になくなった。四年前、それまで住んでいた大学近くのアパートからここに引越してきた。このマンションを出る時は美由紀と結婚する時だろうと思っていたが、全く違う未来になってしまった。部屋を見渡す。この部屋に来た事があるのは美由紀だけだ。必然的に美由紀の姿が浮かんでくる。あまり長くいると感傷に浸ってしまいそうだったので、僕は早々に部屋を出た。
鍵をかけ、不動産屋に言われた通り、鍵を郵便受けに落とした。カツンという小さな音が部屋に響く。これでもう、僕はこの部屋に入る事ができない。ついさっきまで自分の部屋だったのに、もう入る事が出来ない。なんとも寂しい気持ちになった。後ろ髪を引かれるとはこういう気持ちなのだろう。
気合いを入れるために「ハッ」と短く大きく息を吐いた。いつまでもしみったれた気分ではいられない。僕はバックパックを背負った。「よし!」と行こうとして、ふと、まさしく後ろ髪を引っ張られるように思い出した。名前も何も書いていないネームプレートの脇に、木札がかかっていた事を。僕は木札を外した。そこには毛筆でこう書かれている。
「蘇民将来子孫家門」
これは、神仏習合の神、牛頭天王にまつわる木札で、ふるさとの伊勢市では、ほとんどの家が注連縄とセットでこの木札を玄関に飾っている。名古屋にはそのような風習がないので飾るつもりはなかったが、信心深い父に「お前さんも伊勢の人間なら飾りなさい」と窘められ、仕方なく木札だけを飾っていたのだ。すっかりネームプレートの一部になっていて今まで忘れていたが、これも伊勢の神様が気づかせてくれたのだろうか。大事なお守りとして、共に旅をする事にしよう。
エレベーターで一階に降り、エントランスを抜け、扉の外へ出た。「ギーガチャ」とオートロックがかかる。今までの僕とはここでお別れだ。道路へ出てマンションの自分の部屋を見上げる。あの部屋には、今でもサラリーマンとして生きていく自分がいるような気がした。
「さようなら、今までの俺」
ここからは、全て僕の自由だ。右へ行くのも左へ行くのも、どこへ向かうかも、どこへ向かわないかも、全て僕の自由だ。そして自分の決断の全ての責任は僕にかかってくる。誰かの顔色を窺う事はない。誰かと比較する事もされる事もない。僕は、僕の人生の主役なのだ。スポットライトは、常に自分に向けられているのだ。
ビルの合間から見える柔らかな雲に、今、朝陽が差し込んだ。それとほぼ同時に、鴉が上空に飛び立った。まるで僕を誘うかのように。
「よし!」
僕は、歩き出した。
終
あとがき
2021年9月頃から2022年3月にかけて書いた、初めての長編小説です。プロットも何も立てず、行き当たりばったりで書きました。作中に出て来る野口友介という重要人物は、カヌーイストでエッセイストの野田知佑さんがモデルです。本当に不思議なことなのですが、この小説を「すばる文学賞」に送ったその日、野田知佑さんの訃報を聞きました。「これ、受賞する流れなんじゃね?」と思ってしまった私は、なんとも賤しい人間です。罵って下さい。まあ、結果は見事に落選でしたが(笑)
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