よわむし放浪記~日本ヒッチハイクの旅~

きっかけ

「そろそろメチャクチャにやってみたら?」
 私が旅に出たきっかけは、この言葉に辿り着く。
 四年間通った名古屋の大学を中退し、長野県は野辺山の農家に住み込みで働いてお金を稼いだ後、私は役者を目指して大阪に住んでいた。東京ではなく大阪に住んだ理由は、なんとなく一度住んでみたかった。ただそれだけだった。いきなり東京へ行って成功してしまうと、大阪に住む機会がなくなると思い、まずは大阪に住んだのだ。
 大学生の時に演劇部に入っていたのだが、その頃から集団ではなく、自分の体一つで芝居をしたいと思っていた。なので、大阪では一人でストリートパフォーマンスのようなことをやっていた。ただ、一応やってはいたのだが、実際の生活はバイトに明け暮れて、休みの日はバイト仲間と遊び呆けたり、女に現を抜かしたりと、どうしようもない生活だった。それでも、「俺は絶対役者として成功する」と、根拠がなく薄っぺらい自信だけは持ち続けていた。
 大阪には、演劇部の先輩だったしんちゃんが住んでおり、私は彼を頼ってその近くに住んでいた。しんちゃんとはよく夜のファミリーレストランで語り合った。内容のほとんどは芝居に関してだった。今思うと、仕事があったにもかかわらず、よく私みたいな暇人につき合ってくれたと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 一年半ほど、そんな生活を続けて、なんとなく自分でもこの生活は間違っているのではないかと思い始めていた時だった。
「そろそろメチャクチャにやってみたら?」
 いつものファミリーレストランで、しんちゃんは私にそう言った。「メチャクチャねえ……」言葉を濁してその夜は別れた。
 アパートに帰った私は、何度もその言葉を反芻していた。
 なんとなく夢を持ったような生活しているが、実際はほとんどバイトをしているだけの生活。たまに思い出したようにストリートパフォーマンスをしても、何一つ手応えが掴めない。結局、ただ単に生きているだけで、何一つチャレンジしていない。そうか、メチャクチャが足りない。メチャクチャに必死でチャレンジしてみよう。
 一人でストリートパフォーマンスを続けることに限界を感じていた私は、大阪の有名劇団のオーディションを受けることにした。
 一次の書類審査に通り、二次の面接審査に進むことになった。しかし二次審査までは半年もの期間があった。時間を無駄にはしたくないと思い、私は独自に演劇の勉強をしたり、何か楽器ができた方がいいと思ってサックスを習ったりもした。色々なジャンルの本も貪るように読んだ。シェイクスピアや現代戯曲といった演劇関連に始まり、哲学、科学、ミステリー、エッセイなどなど、手当たり次第に読んだ。そして一冊の、やや風変わりな本に出会った。それこそが、野田知佑著「新・放浪記」だった。
 「新・放浪記」は、旅好きな友人から「価値観、絶対変わるから」と勧められた。「変わってたまるか」と斜に構えていたが、数ページ読んだだけで見事に変わってしまった。

「マジメに生きたいと思っているから就職しないで頑張っている」
「ある種の人間はネクタイにスーツという格好をしていない人間を『薄汚れた』という風に見る」
「われわれが世間に出る時、大人たちが決めてくれた道がいくつかある。その道を行って幸せになる人はそれでいい。しかし、そうでない者はどうすればいいのか。ケンカをして飛び出すしかない」

 こんなことを堂々と言う人に初めて出会った。「もっと野田知佑の思想に触れたい」そう思った私は、出版されている野田知佑の本十五冊ほどを全て注文し、半月もかからずに完読した。全て読み終えてこう確信した。
「役者なんかやってる場合じゃない」
 私は旅に出る準備に取りかかった。
 アウトドア用品は高価なものが多く、最低限必要なものを揃えるのに三ヶ月もかかってしまった。それが、とある年の三月末だった。十万円くらいは旅の資金を貯めたいとも思ったが、これ以上待つのはもう限界だった。
 四月のある晴れた日、私はスッカラカンになった部屋に別れを告げ、旅に出た。財布には全財産一万五千円。不安は多少あったが、希望がそれをはるかに上回っていた。

南へ

かもめのジョナサン

 生活するための道具を全て背負って歩く。それだけでもかなり大変だということが、出発して五分くらいで分かった。私の選んだザックの容量は、メーカー最大の百二十リットル。小柄な人なら、そのまますっぽり入りそうな大きさだった。その中に入れていたものを、ザックに詰め込む順に列挙する。
・寝袋
・テント
・タープ
・グランドシート
・お米
・炊事道具(飯盒や鍋、調味料も)
・釣り道具
・着替え類
・救急セットや裁縫道具など
・お米以外の食料
・地図や筆記道具
 その他書き切れないくらいの小道具と、ザックの右横には就寝用のマットと釣り竿、左側には水筒を取り付けていた。重さは三十五キロ程度あった。さらに、何をとち狂ったか、私は旅に出る寸前まで習っていたアルトサックスを持っていた。日本の色々な場所で吹いてみたいという、それっぽい理由もなくはなかったが、一番の決め手は、「これを持って旅をしたら、さぞかし腕力がつくに違いない」という、あまり頭の良くない理由だった。
 そして早くも後悔していたのだ。しかしもう後戻りはできない。私はとりあえず、車の通りが多い国道一号線まで向かった。

 ヒッチハイクには主に二つの方法がある。最もオーソドックスなやり方は、車の方を向いて、行き先を書いたスケッチブックを掲げて、親指を立てる方法。もう一つは、これはあまり知られていないのだが、歩きながら車道の方に少しだけ腕を開き、人差し指を伸ばすという方法。さらに、車を止めて休んでいる人に声をかけるという方法もあるが、これはあまりにも図々しいので、私は禁じ手にしていた。
 住んでいた野江という場所から国道一号線に出て、スケッチブックに「兵庫」と書き、一時間ほどヒッチハイクをしてみたが、誰も止まってくれない。止まってくれる気配さえない。それほどスピードも出ていないので止まろうと思えば止まれるだろうに、目も合わせてくれない。だんだん恥ずかしくなって、私はすごすごと歩き始めた。
 そのあとも車が止まりやすそうな場所を見つけては、ヒッチハイクをしてみたが、どうにも恥ずかしくて長続きしない。そもそも、大阪のど真ん中を大きなザックを背負って歩いているだけで、好奇の目にさらされる。私は人目をさけるように歩き続け、七時間かけてようやく淀川を越えた。所々でヒッチハイクをしたとはいえ、たかだか十キロ程度の距離にこんなにも時間がかかるとは。分かっていたことだが、やはり三十五キロの荷物とサックスはかなりの負担だ。予定など立てていたわけではないが、ここまで進まないとは思っていなかった。
「あと二時間もすれば日は暮れ始める。こんな街中でテントを張るのか?」
 焦りながら歩き続ける。
「どうしよう」
 不安のせいか、自分の汗が異常に冷たく感じた。
「アパートはもうない。引き返せない。前に進むしかない。それにしたってどこへ向かえばいい?」
 うだうだと考えながら歩いていると、国道沿いに公園のような場所が見えた。すぐそばに大きな建物があるので、コンサートホールか何かだろうか。私は吸い込まれるようにその公園へ入っていった。
 公園はそれほど大きいものではなかったが、道路とは垣根で区切られており、街の空間からは少し隔絶されていた。思いのほか落ち着ける。垣根に沿うように石製のベンチがあり、私はそこにへたり込んだ。

  暗くなると、他のベンチにチラホラとホームレスが寝転がり始めた。公園につきもののカップルなどはほとんど現われない。こんな街中で、こんなに野宿に適した場所があることに心から感謝した。
 その公園で、私は街灯の明かりを頼りに文庫本を読んでいた。いや、正確にいうと、本文には目もくれず、欄外のメッセージを読みふけっていた。
 旅立つ数日前、「暇な時に読んでくれ」と、しんちゃんが文庫本をくれた。タイトルは「かもめのジョナサン」。その場でペラペラとめくって驚いた。本の空白部分に、所狭しとしんちゃんがメッセージを書き込んでいたのだ。「旅先で読め」というので、その時はすぐに本を閉じ、じっくり読める日が来るのを楽しみにしていた。メッセージはどれも胸が熱くなるものばかりだった。 

大阪でのお前との思い出は俺の宝です。
何かを見つけるまで帰ってくるんじゃねえ。
困ったことがあったらいつでも電話しろ。
 その他、世界の偉人達の金言格言なども書き込まれている。大阪では、何のために生きているのかよく分からない生活を送っていたが、この本で全て救われたような気がした。そして、この本がある限り、中途半端な形で旅を終わらせられないという、責任感のようなものが生まれた。
 メッセージを全て読み終わると安堵感で胸が一杯になり、それに伴い眠気がやってきた。ザックから寝袋だけを取りだし、ザックとサックスを垣根とベンチの間に押し込んだ。寝袋の中に入るのが妙に恥ずかしく、体にはおってベンチに横になった。「カモメのジョナサン」をしっかりと抱きしめて。
 時折ホームレスの方から饐えた臭いが漂ってきたが、それがそばに仲間がいる証のようでもあり、かえって安心して眠ることができた。

ハンバーグのちシオマネキ

 私は兵庫県の高砂市に来ていた。都会のど真ん中でのヒッチハイクはかなり無理があることに気がつき、阪神電鉄に乗って高砂市まで来たのだ。ここに来たのには理由があった。高砂市に旅人を無料で泊めてくれる所があると人づてに聞いていたからだ。住所も入手していた。
 やや寂れた雰囲気の住宅地にその施設はあった。間口が広く、古い旅館のような趣がある。磨りガラスの入った引き戸をガラガラと開け、明るく元気よく「こんにちはー!」と声をかけた。少し間があって「ホイホイホイ」と言いながら出てきたのは、長い白髪を後ろで結んだおじさんだった。来訪した旨を伝えると、「ああ、はいはいはい、どうぞどうぞ」と二階の部屋に案内してくれた。家自体は古かったが、部屋はきれいに片付いている。部屋に荷物を下ろすと、気分まで軽くなった。
 一階へ降りてしばしおじさんと話をした。おじさんの名前は森さん。子供たち向けに自然学校のようなものを催しているそうだ。私もひと通り自己紹介をしてから、周辺の散歩に出かけた。
 平日の昼間だからなのか、散歩した地区がたまたまだったのか、とにかく高砂市はとっても静かな街だった。小一時間歩いて、ようやくお店らしきものを発見した。レストランだった。腕時計に目をやると、ちょうどお昼前。腹がぐるぐるぐると唸り声をあげる。悪魔がいとも簡単に天使を組み伏せ、私はレストランでハンバーグ定食を食べてしまった。
 電車賃とハンバーグ定食、この日だけで二千円の出費。全財産が一万三千円になってしまった。食事はできるだけ自給自足にしようと考えていたが、いきなりこんなにも贅沢してしまうとは。誘惑に弱い質だとは薄々分かっていたが、まさかこれほど弱いとは思ってもいなかった。腹は満たされたが後悔しかなかった。
「もう絶対無駄遣いはしない」
 薄っぺらい誓いをたてて、一度部屋に戻った。 

 軽く昼寝をして、違う地区を散歩しようと一階へ下りると、居間にいた十歳くらいの男の子と目が合った。「こんにちは」と挨拶をするも返事はない。よく見ると、黄色い動物のイラストが描かれた下敷きを持っていた。この頃に出始めていたポケモンのピカチューだ。
「おっ、ピカチューじゃん」と声をかけると、「え? なんでピカチュー知ってるの? おじさんピカチュー好き? ボク大好きだよ」と堰を切ったように喋りだした。「お兄さんがピカチューなんだよ」と冗談を言うと、目をキラキラと輝かせて「ほんとにーーー?」と近づいてきた。かわいらしいので、森さんに許可を得て、一緒に散歩へ出かけることにした。
 名前を聞くと「ノリアキ」と言うので、「ノリ」と呼ぶことにした。ノリは、散歩し始めてしばらくすると、学校での生活をペラペラと喋りだした。ずいぶん楽しそうに語るので、私は出会った時から持っていた疑問を問いかけてみた。
「今日、学校は?」
 校庭でポーンポーンと弾んでいたテニスボールが、砂場に落ちて止まってしまうように、ノリは急に無言になってしまった。何か事情があると思い、ポケモンの話題をふると、元気よくポケモンに出てくるモンスターの名前を一つ一つ上げていた。
 いつの間にか私たちは手をつないでいた。

 加古川の河口に来た。ちょうど干潮のようで、河口のいたる所に砂地が見えていた。シオマネキがあちこちでハサミを振っている。私にはそれがヒッチハイクをしているように見えて、ちょっと後ろめたい気分になる。
「おじさん、おなかすいた」
 ノリが唐突に訴えてきた。昼食はとったけれど、その時は腹が減っていなかったのでおかずだけしか食べなかったとのこと。
「よし分かった」
 私はノリに乾いた小枝を集めるように命じた。その間、私はなるべくきれいな空き缶を拾い、持っていたビクトリノックスのナイフで上の方を切り取った。そこに少しの海水と捕まえたシオマネキを三匹ほど入れ、あちらこちらに落ちているワカメのような海藻をギュッと詰めた。
 小枝でキャンプファイヤーのように小さなやぐらを組み、着火。火のそばにシオマネキの入った空き缶を置くと、ゴソゴソと空き缶の中から音がしたが、すぐに静かになり、やがてグツグツと煮えたぎる音がしてきた。
 十分ほど火にくべていると、プスプスと言い出した。火から少し離し、さらに十分ほど蒸らす。ノリはひと言も喋らずに、空き缶を真剣に見ている。
 小枝で海藻をほじくり返すと、もくもくと立ち上る湯気の中から、茹で上がって赤くなったシオマネキが顔を出した。ノリと二人でニヤーっと笑う。
 まずは私が毒味ということで、比較的柔らかそうなお尻の部分をかじった。「何だかよく分からない、塩味のジャリジャリしたもの」だった。食べられないことはないけれど、少しも美味しくない。
「ノリ、これ美味しくないから、お兄さんが全部食べるよ」
 と伝えると、ノリはとっても悲しそうな顔をした。
「じゃあ、ちょっとだけかじってみるか?」
 そう聞くと、「うん!」と大きく頷いた。シオマネキを口に近づけてやると、ノリは恐る恐る少しだけかじった。ジャクジャクと何度も噛んでいるが、なかなか飲み込まない。そのうちグチャグチャになった口の中を見せながらこう言った。
「まっずーーー」
 私が声を上げて笑うと、ノリもヘヘヘと笑っていた。

 結局、シオマネキは私が全部食べた。口がしょっぱくなりすぎて気持ち悪い。ノリはというと、どうやら空腹は紛れたようで、シオマネキの作った穴をほじくり返して遊んでいる。あまりにも平和なひとときで、私は自分が旅に出ていたことをすっかり忘れていた。

晴れのち雨のち神様

  朝の九時頃、私は森さんの住まいを発った。
 ノリはいないようだったので、「よろしくお伝え下さい」と森さんに言うと、「ありがとう、ありがとう」と顔をクシャクシャにしていた。どういう事情があるのかは最後まで分からなかった。素直なノリが、ただ素直に育ってくれることを願った。
 ノリのことはノリのこととして、それよりも私は自分のこの旅をしっかりやり遂げなければならない。まだ一度もヒッチハイクに成功していないのだ。
 国道二五〇号まで出て、「岡山」と大きくスケッチブックに書いてヒッチハイクをする。道路は広いが、車はそれほど多くない。
「これは車も停まりやすいかもよ? いけそうだ」
 程なく、路肩にセダンタイプの車が停まった。私のいる位置よりもだいぶ行き過ぎている。果たして私のために停まってくれたのだろうか? 様子を伺いながら近づくと、助手席から上品そうなおばあさんが顔を出し、手招きした。「ありがとーございます!」と礼を言いながら駆け寄る。運転手は、こちらも上品そうなおじいさん。おそらくご夫婦なのだろう。おじいさんの方がニコニコしながら尋ねてきた。
「ヒッチハイクってやつですか?」
「ハイ!」と私。
「ちょっと山の方へ行くんですけど、それでも構いませんかね?」
 山へ行こうと、海へ行こうと、初めて停まってくれた車だ。断るわけにはいかない。
「大丈夫です。よろしくお願いします!」
 トランクにザックとサックスを積み込み、私も後部座席に乗る。
「あんた、チンドン屋さん?」
 バックミラーで私に尋ねながら、おじいさんは車を出発させた。私は大袈裟に笑ってから、自己紹介を始めた。
 キラキラと輝く春の柔らかな日射しが車内に届く。初ヒッチハイクを祝福してくれているような美しさだった。

 国道二五〇号線を途中で右折した車は、おじいさんの言うとおり、明らかに山の方へ向かっていった。
「もうすぐ家だから、この辺で降りますか?」
 車を走らせて三十分くらい発った頃、おじいさんはニコニコしながら選択肢のない問いかけをしてきた。逆らうべくもなく、「ハイ、もちろん!」と元気に答える。
 「それじゃあ、お気をつけて」と手を振って老夫婦は行ってしまった。私は大きな声でお礼を言い、車が見えなくなるまで両手を振り続けた。
 辺りを見回すと、本当に山ばかりだった。道路こそ広いが、車はあまり通らない。人はもちろんいない。「まっすぐな道でさみしい」種田山頭火の句が浮かんだ。
 地図で場所を確認すると、兵庫県の福崎町という場所だった。今いる県道二十三号線は西の方へ続いている。当初の予定より遠回りすることになるが、それも面白そうだ。
 私は西へ向かって歩くことにした。

  歩きながら、後ろから車が来る度に親指を立てる。なかなか停まってくれないが、人目がないのでのびのびとヒッチハイクができる。それだけでも楽しかった。ところが、歩き始めて三十分もしないうちに、雨がポツポツと降り出した。見上げると、出発した時の晴天とはうって変わって、濃い雲が空を覆っていた。そうこうしているうちに雨はだんだんと強くなり、ついには本降りになってしまった。私は慌ててザックとサックスに雨除けのカバーをかけ、自分自身もレインコートを着た。

 雨の中を歩き始めてわりとすぐに、道路脇に狭い階段があるのを見つけた。階段の上には鳥居が見える。どうやら上に神社があるようだ。「雨宿りしていきなさい」そう言われているようで、私は足早に階段を登った。
 登り切った所に小さな社があった。ただ、小さいながらも本殿と拝殿があり、さらに拝殿からは舞殿(舞台)が繋がっていた。礼をして、靴を脱いで、舞殿で休ませてもらうことにした。 

 寝っ転がって地図を見ていたら、いつの間にか寝てしまい、起きて時計を見たら三時を過ぎていた。雨はやんでいたが、今日はここで泊まることにした。作法はよく知らないが信心深くはあるので、拝殿でお参りして、泊まらせてもらう許可を得た(つもりになった)。

 腹が減っていた。昼飯をとっていないので当たり前だ。ちょっと早いが夕食の準備に取りかかる。お米は五キロ持ってきていた。飯盒で炊ける目一杯の四合を炊くことにした。明日の夜までの分だ。
 飯盒炊さんで、やってみたい炊き方があった。野田知佑の本に「文庫本を一枚ずつ燃やしていけば、一冊でご飯ぐらいは十分に炊ける」と書いてあり、一度試してみようとそれ用の文庫本も持ってきていた。もちろん野田知佑の本だ。
 さすがに境内でやるわけにはいかず、少し離れた場所に石でかまどを作り、そこに飯盒を置いて挑戦した。結論から言うと炊けることは炊けたのだが、次から次へと本を破らなければならないのが面倒だし、やはり本を焼くのは気分が良くない。もう二度とやらないと誓った。

 ご飯にはまず塩をかけて食べ、次に醤油をかけて食べた。空腹のせいもあるだろうが、それだけで飛び上がるほど美味しく、私はウヒョウヒョと奇声を上げながら食べた。食べるのは一合ほどにしておこうと思ったが、あまりに美味しくて三合ほど食べてしまった。

 夕暮れ近くになって、おばあさんが一人、社への階段をヨタヨタと登ってきた。すぐ近くに住んでいて、毎日お参りに来ているそうだ。一晩泊まる旨を、お伺いをたてるように伝えてみると、「神様も喜ぶわね」と答えてくれた。なんともありがたい言葉だった。おばあさんはお参りをするとすぐに帰って行ったが、またしばらくするとヨタヨタとやって来た。手に何かを持っている。
「これ、今日の昼にもらったお弁当。手は付けてないから、お食べなさい」
 わざわざお弁当を渡すためだけに来てくれたのだ。
 何度も何度もお礼を言い、階段の下までおばあさんの手を引き、深くお礼をして見送った。おばあさんが神様の使いに見えた。

オセロ

  翌朝。
「お弁当、おいしかったです。ありがとうございました。旅人より」
 そう書き置きを残し、私は社を後にした。雨宿りをしたおかげでこんなにも素晴らしい思いをすることができ、つくづく偶然というものは面白く、そして尊いものだと実感する。次はどんな偶然が待っているのか楽しみでしょうがなかった。 

 私は一応、とりあえずの目的地を決めていた。熊本県だ。大阪でバイトをしていた喫茶店の主任が、熊本の山鹿市出身だった。今でもご両親が暮らしていると言うので、「行ってみようかな?」と冗談で言ってみると「おお、行け行け! 喜ぶぞ!」と勧めてくれたのだ。既にご両親には伝えてくれているそうだ。さらに、熊本県の最南端に人吉市という街があり、ここには大学の同級生が住んでいた。帰る場所のない私にとって、熊本にあるこの二つの目的地はなんとも心強い存在だった。出発してからなかなか上手く旅が進まなかったが、心のどこかに余裕を持っていられたのは、間違いなく熊本という目的地があったおかげだ。

 社を出てから、私は二台の車を乗り継いで、同じ兵庫県の山崎町まで来ていた。二台とも地元の人だったこともあり、距離としてはほとんど進んでいない。ただ、そんな進んだ距離のことよりも、乗せてくれる人が本当にいるということに感動していた。
「待ってろよ、熊本」
 私は確かな手応えを感じていた。 

 午前十時を過ぎた頃だったろうか、「岡山」のスケッチブックを持ってヒッチハイクをしていたら、大きなトラックがプシュープシューと言って路肩に停まった。道がそれほど広くないので後続車も停車している。慌てて近寄ると助手席の窓が開き、金髪の青年が顔を出した。
「岡山行くの? いいよ。乗って乗って」
 ザックとサックスを座席の後部スペースに置かせてもらい、挨拶もそこそこに私はトラックに乗り込んだ。
 運転手は私より一つ年上で、名前をタツヤさんと言った。ヒッチハイクで人を乗せるのは初めてだそうで、私に対して興味津々だった。
「旅して何日くらい経つの?」
「二週間くらいですね」
 いきなりくだらない見栄をはってしまった。
「へーえ、出発地点はどこ?」
「名古屋です」
 大阪から二週間だと不自然なので、思わず生まれ故郷を口にしてしまう。「車何台くらい乗ってきたの?」
「えーっと、タツヤさんで二十四台目、だったかな」
 二十台もさばを読んでしまった。最初に嘘をつくと、つじつまを合わせるためにとことん嘘をつかなければならなくなる。私はしばらくの間、ボロが出ないように細心の注意を払いながらタツヤさんの質問に答え続けた。自業自得だ。
 タツヤさんとは年が近いだけあって話が合った。小さいときに流行った漫画、歌謡曲、スポーツなどなど。あれが好きだった、これが好きだったと言い合うだけで、どんどん時間が過ぎていった。
 昼時、おにぎりなどを買うためにコンビニに寄った。タツヤさんが私の分も買おうとするので断ったが、知らないうちにおにぎりとお茶を買ってくれていた。申し訳ないと思ったが、ありがたく頂戴した。

 外を見ていると、大きなというか、横にうんと長い工場が見えた。何の気なしに見てみると、「ゴアテックス岡山工場」と見て取れた。会話が盛り上がりすぎて全く気がつかなかったが、いつの間にか岡山県に入っていた。それにゴアテックスというと、水は通さないが湿気は通すという素材で、レインコートなどのアウトドアグッズにも多くに使われている。野辺山での畑仕事ではよく使用したし、今持っている荷物の中にも、ゴアテックス製品はいくつもある。全てはここで作られていたのかと思うと、感慨深いものがあった。 

 福山市で荷を下ろし、尾道の会社に着いた時にはだいぶ薄暗くなっていた。運送の会社だけあって敷地が広い。ここの隅にでもテントを張らせてもらおうと思っていると、「もう暗いからうちに泊まったらどう? すぐそこの島だから」と、タツヤさん。そこまで迷惑はかけられないと思い、断るつもりでいた。だが、最後の言葉に興味をひかれた。すぐそこの島? 島があるのか? 行きたい。私はコロッと誘惑に負け、タツヤさんの自家用車に乗り込んだ。
 タツヤさんが言うには、この辺りは大小様々な島が集まっていて、それぞれの住人が頻繁に行き来しているという。そして現在、その島々を橋で繋げて、尾道から愛媛の今治まで車で行き来できるよう、瀬戸内海大橋(しまなみ海道)を作っている最中だという。「早くできるといいですね」と言うと、「尾道と今治に挟まれて、オセロみたいに島が豊かになったらええのー」と笑っていた。

 タツヤさんの家は、数ある島の中でも尾道に一番近い向島にあった。車を降りてから狭い路地を抜け、少し階段を登ったところが住まいだった。奥さんは突然の来客に驚いていたが、すぐに笑顔で対応してくれた。
 四日ぶりのお風呂を頂く。毎日体を拭いてはいたが、やはり汚れが落ちきっていないようで、洗い流したお湯が薄汚れている。湯船に入るのは遠慮した。
 ヒッチハイクで車に乗せてくれた方には、あとでお礼の手紙を書くために、住所と名前を手帳に書いてもらっていた。タツヤさんにもお願いすると、喜んで書いてくれたが、書き終わってこう指摘された。
「あれ? 俺入れてまだ四人しか書いてないよ」
「ああ、その、最初のうちは、書いてもらうの忘れてたんですよ」
 適当にごまかしたが、タツヤさんとの今日一日を嘘で挟んでしまい、深く反省した。

 かんぱい

  タツヤさんは尾道まで送ると言ってくれたが、向島を少しでも知りたいと思い、家から歩いて行くことにした。奥さんは食パンやら菓子パンやら缶詰やら果物やら、ありったけの食料を持たせてくれた。手を振ってくれる二人に何度も振り向いて礼を言う。昨晩は気づかなかったが奥さんは身重の体だった。大変な時にお邪魔して、申し訳なく思うと同時に、二人の優しさに改めて感謝した。

  向島からは尾道の街並みがはっきりと見えた。斜面に並ぶ家々の瓦が朝日を浴びてキラキラ輝いている。「とってもきれい」そんなシンプルな言葉が似合う光景だった。
 尾道へはフェリーで数分。料金は百円程度。大勢の学生たちが自転車と一緒に乗り込んでいる。名古屋の下町で生まれ育ち、海とは縁遠い生活を送ってきた私にとっては、なんとも新鮮な通学シーンだった。
 尾道に着いてすぐ目の前の道路が国道二号線だった。大阪の国道一号線でヒッチハイクに苦戦したことを思い出した。東京が起点の国道一号線は、大阪を境にそのまま国道二号線へと名前を変える。単なる数字上のことではあるが、あの一号線がここまで続いているのだと思うと、何やら込み上げてくるものがあった。地図で確認してみると、二号線は広島を越え、下関の方まで続いている。
「よし、しばらくは二号線を行こう」
 私はスケッチブックに「山口」と書き、ヒッチハイクを始めた。

  それから二日後、私は夕暮れ間近に山口県の岩国市に辿り着いた。
 実は旅を始めてから、まだ一度もテントを張っていない。人の家に泊まった時以外は、全て寝袋だけで済ましている。そろそろテントを張りたかった。そこで今日乗せてくれた最後の人に、「どこかテントを張りやすい、川があって橋があるような、そんな場所で下ろしてもらえたら嬉しいです」と伝えた。塾の講師をしているという運転手の男性は車を走らせながら思案し、そして私をここに下ろしたのだ。言われた方向に歩いて行くと、あきらかに観光客然とした人があちこちに現われだした。「ちょっとおかしいな」と思いつつ進んでいくと、なんとも立派な木造の橋が現われた。橋は連続したアーチで構成されており、その見事な造形美にしばし見惚れるほどだった。橋のたもとには石碑があり、こう彫られていた。
「錦帯橋」
 あの有名な錦帯橋だった。確かに川があって橋があるが、こんな観光地にテントを張れというのか? そう思いながら橋を渡ってみる。大きな荷物を背負って渡るアーチ橋は、後ろに倒れそうになったり、前につんのめりそうになったり、とてつもなく歩きにくかった。
 渡りきると、川原に下りられるようになっていたので、人目を気にしながらそーっと下りてみた。川原には誰もいない。これならいける。私は橋からできるだけ離れて、川原にテントを張った。旅先での初テントが嬉しく、私はペットボトルに入れて持ち歩いていたバーボンで一人乾杯をした。バーボンなど普段飲まないが、野田知佑の本によく出てくるので、真似をするために少しだけ持ってきていたのだ。
 薄暗くなって、街灯が映り始めた川を覗くと、石ではない、何か黒くてコロコロしたものがいくつも転がっていた。タニシだ。晩飯を見つけた。
 小さな焚き火をおこし、鍋いっぱいのタニシを煮る。殻から取りだしたタニシに醤油をかけ、チマチマと口に入れる。それだけで十分にうまかった。半分だけ食べ、あとは明日の朝食べることにした。
 錦帯橋を照らす暖色系のライトがかすかに届く。起きていても寝ていてもちょうど良い明るさだった。

 夜中にふと目が覚めた。どうにも目が冴えてしまい、再び寝付くことができない。私はノートとペンを持ってテントの外に出た。錦帯橋のライトアップは終わっており、街灯の明かりがほんのわずか届くだけだった。ヘッドライトを取りだして、私は川原の上に行った。近くにあった自動販売機まで行く。虫が数匹飛んでいたがそれほど多くはないので、そこに腰かけた。執筆作業をするには十分な環境だ。
 今回の旅で一つ決めていたことがあった。それはカメラを持って行かないということだ。「全国を旅するのにもったいない」と多くの知人に言われたが、私は逆だと思った。大切な旅先の情景を、写真を撮るだけで満足したくはなかったのだ。写真は確かに思い出を残す方法としては便利だが、同時に安易でもある。安易な方法で得たものが自分のためになるとはどうしても思えなかった。なので、私は旅先の情景を文章や絵で残しておくことにした。その方が、この旅が自分の血肉になるような気がした。
 筆が乗ってきて、夢中になって書いていると、誰かが自転車に乗ってやってきた。
「お前か? 不審者は?」
 警察官だった。誰かが通報でもしたのだろう。迷惑をかけて悪かったとは思うが、それにしてもなんというストレートな物言いだろうか。
「おい、身分証明あるだろ? 免許、ホラ出せ?」
 追い打ちをかけるように責め立ててくる。私は、実はこのシチュエーションを楽しみにしていた。野田知佑も、旅をしていて何度も職務質問を受けたことがあるそうだ。そういう場合は「任意か? 強制か?」と問いただすと警察は大人しくなる、そう彼の著書に書いてあったのだ。私は得意満面で言ってやった。
「それは任意ですか? 強制ですか?」
 これで警察官は尻尾を巻いて帰るだろうと思いきや、さにあらず。ほんの一瞬ひるんだ表情を見せたものの、すぐに顔をしかめてこう言い切った。
「ああ? 何言ってんだ。任意だよ、任意。ホラ、早く見せろ」
 こんな切り返しをされるとは想像もしていなかった。「あうあう」と狼狽する。
「なんだ、出さないのか? 本署に応援呼ぶぞ。いいのか?」
 私は事情を説明し、身分証明として持っていたパスポートをテントまで取りに行き、警察官に提示した。聞かれたことにも全て素直に答えた。
「旅もいいけど、人様に迷惑かけるんじゃないぞ」
 そう言い残して、警察官は去っていった。
 私はすごすごとテントに戻り、寝袋に潜り込んだ。悔しささえ湧いてこないほどの完全な敗北だった。

熊本流歓迎

  福岡県に入ったものの、連日の大雨のせいでもう三日も足止めをくらっていた。とある大きな公園のトイレの横。芝生の上にテントを張り続けている。管理の行き届いたきれいな公園で、野球場やテニスコートもある。晴れていればおそらく多くの人が訪れるのだろうが、三日間ここにいて、見かけた人は十人にも満たなかった。それくらいひどい雨だった。
 足止め四日目の朝、目覚めると、いつもは雨がテントに当たる音がするが、その日は全くしなかった。テントから顔を出すと、晴れてこそいないが雨は完全にやんでいるようだった。外に出ると、犬の散歩をしているおばさんがいた。挨拶をして「雨はこれでやみましたかね?」と尋ねると、「もう雨は降らんみたいよ」、そう答えてくれた。
「よし、出発だ!」
 テント、タープ、グランドシート、これらは雨に濡れてグショグショなので、まずはバサバサと煽って水を切り、木と木の間に張った細引き(ナイロン紐)にひっかけて干すことにした。そうこうしている間にも天気は回復してきて、うっすらと日も射してきた。久しぶりに太陽の光を見て、ホッと安堵感を覚える。
 ある程度荷物をまとめてから、私はサックスを持ってある場所へ向かった。なんとこの公園には、野外音楽堂という施設があったのだ。舞台に上がっていそいそとサックスを組み立て、軽くならし演奏をする。音の響きが素晴らしかった。反響音が心地良く、吹いていて気持ちがいい。私は数少ないレパートリーの中で一番難しい、ジャズ風にアレンジされた「Fry me to the moon」を力一杯演奏した。客席では猫が一匹、立ち止まってこちらを見ている。とても晴れ晴れとした気持ちになった。 

 「石を投げれば女優の黒木瞳の実家に届くくらいの場所に住んでいる」という、福岡県八女市の農協職員さんの車に乗せられて、私は熊本県山鹿市へやってきた。ここに、大阪でバイトをしていた喫茶店の主任の実家がある。先方には今朝電話をしておいた。お母さんが出て「とっても楽しみにしている」と言ってくれた。真に受けてはいけない。失礼のないように心がけよう。
 教えられた住所の方へ向かう。番地が書かれた札が各所に貼り付けられているので分かりやすい。札を辿るように進んでいたら、拍子抜けするほど簡単に到着した。勢いよく呼び鈴を押すと、お母さんが急ぎ足で出てきてくれた。太った主任とは大違いで、ほっそりとしている。私は「はじめまして」と何度も何度もお辞儀をした。家の中に入ると、居間でお父さんが「ようこそ」と迎えてくれた。凜々しい顔、太い眉、そしてセンスの良い和服。古き良き肥後もっこすといった雰囲気が漂っている。無愛想というわけではないが、口数は決して多くはない。お母さんが気をつかって、私に色々と旅のことを質問してくれた。初めて聞くニュアンスの方言に、熊本へ来たことを実感した。
「ちょっと散策してきていいですか?」
 散歩とは言わず、格好をつけて散策という言葉を使った。それじゃあと、お母さんは近くにある銭湯の無料券を渡してくれた。「もらい物だから」と言っていたが、おそらくわざわざ用意してくれていたのだろう。頭を垂れて頂戴する。
 山鹿市では、菊池川へ行くことを楽しみにしていた。菊池川下流部の菊水町(現和水町)で野田知佑は生まれ育った。彼曰く「菊池川は故郷の川」だという。地理的な意味だけでなく、精神的にも彼の拠り所となる川であることは、彼の著書を読めば分かる。彼に影響を受けて旅をしている私にとっては、絶対に行かなければならない川だった。
 菊池川はすぐ近くにあった。昨日までの大雨の影響だろう、かなり増水しており、茶色い水が勢いよく流れていた。川原へ下りる階段に立ち、菊池川の空気を腹一杯吸い込んだ。
 カヌーに乗った野田知佑が見える。当然、彼の永遠の相棒、犬のガクも見える。
 私は持ってきたサックスで「Daydream Believer」を菊池川に捧げ、ペットボトルのバーボンで乾杯した。野田知佑の原点に、ほんの少し触れられた気がした。

 その足で銭湯に向かった。向島のタツヤさんの家で入ったとき以来のお風呂だが、あの時は湯船には浸からなかった。約二週間ぶりの湯船は、体がぞわぞわするくらい気持ちよかった。蓄積された疲労が湯船に溶け込んでいく。人が大勢いるにもかかわらず、「ああああああ」と恍惚の溜息をあげてしまう。それくらい気持ちよかった。
 風呂から出て体重を量ると、もともと八十五キロあった体重が七十五キロになっていた。旅を初めてわずか二週間足らずで十キロも減ったのだ。堕落した生活で身についた余分なものがそぎ落とされ、まるで生まれ変わったような心境になった。
 家に戻ると、既に宴の準備ができていた。特にお父さんが待ちわびていたようで、「早く早く」と急かされて食卓につく。そして目を丸くした。皿鉢料理にでも使うような大皿に、馬刺しがどどんと盛られていたのだ。馬刺しは様々な部位があった。赤身もあれば霜降りもあれば生レバーもある。中でも驚いたのが脂身(たてがみ)で、そのとろけるような甘さに、文字通り舌鼓を打った。
 脇役として添えられていたお椀は熊本名物、だご汁。温かく素朴な味が胃袋に優しかった。大満足。そのひと言に尽きた。
 空になった大皿を下げたお母さんは、「さあ、ちょっと置きますよ」と言ってガスコンロを持ってきた。お父さんはさも当たり前という顔をして、食卓中央に場所をあけている。
「さあ、焼きましょうか」
 なんと焼き肉が始まった。さすがに食べられないと思ったが、馬肉はそれほどくどくないので、意外と腹に入っていく。
 お父さんはお酒が進むほどに饒舌になり、子供の頃からの山鹿の変遷を蕩々と語ってくれた。興味深い話ばかりだったので、私も聴き入ってしまった。場が楽しいと胃袋が膨らむようで、結局焼き肉も全て食べ切ってしまった。今度こそ本当に大満足だと思っていると、なんと、分厚く切ったスイカとメロンが出てきた。時間をかけたら食べられなくなると思い、一気に平らげた。
「よく食べるわねえ」とお母さん。「うむ、たいしたものだ」とお父さん。
 良かった。もう何も出てこないようだ。

堕落

 山鹿には二泊させてもらった。朝から晩まで至れり尽くせりのおもてなしで、七十五キロに減っていた私の体重は、最終日には八十五キロに戻っていた。増えた分はお二人の優しさだと思うことにした。お二人のおもてなしは、(食事以外は)全く押しつけるところがなく、こちらも必要以上に気を遣うことがなかった。私もいつか、見ず知らずの旅人をこんな風に接待したいと心から思った。
 英気をたっぷりと養い、私は山鹿市をあとにした。後から主任に聞いた話だが、お母さんは私がヒッチハイクに成功するまで、遠くから見守ってくれていたらしい。本当に、何度お礼を言っても言い足りない。

 次の目的地、同じ熊本県の人吉市までは、三日くらいかけてゆっくり行くつもりだったが、なんと一日で着いてしまった。昼過ぎに熊本市内で乗せてくれた金髪のお兄さんは人吉在住で、ちょうど家に帰るところだった。アウトドアが大好きだというその人は、名前を市村さんと言って、私よりも一つ年上だった。サングラスをかけて派手な音楽をガンガン鳴らして、ちょっと早めの運転をする彼には「ファンキー」という言葉がピッタリくる。そんな彼と話していて、あまりの偶然に二人ともしばらくポカンと口を開けたままになったことがある。人吉にいる大学時代の友人・宮田が、このファンキー市村さんと幼なじみだったのだ。小学生の時に二人で鉄道旅行をしたことがあるほどの仲だそうだ。驚いて言葉をなくした後、こんなこともあるんだなあと、それまで以上に大いに盛り上がった。
 球磨川沿いの国道を遡ること約二時間、ついにというかあっけなくというか、とにかく人吉に到着した。

 人吉市内を流れる球磨川。その支流に川辺川という川がある。ここも野田知佑の本に何度も出てくる、いわば聖地だ。旅立つ前から、この川辺川で何日かキャンプをしたいと考えていた。その旨を市村さんに話してみると、「いい場所がある」と車を走らせてくれた。
 詳細な場所は割愛するが、そこは川辺川に架かった橋の下だった。テントをはるのにちょうど良い平らな川原で、町からそれほど離れていないわりに静かな場所だった。私はこの場所が気に入り、しばらくここでテント暮らしをすることに決めた。
 川辺川での生活は、ひとことで言うと「何不自由ない生活」だった。魚は一日一匹釣れるか釣れないかだったが、食事には全く困らなかった。
 昼間、この川原は勤め人にとって格好のサボりスポットになっていた。毎日誰か彼かが車で来ては昼寝をし、目覚めると物珍しそうに私の方へやって来るのだ。ひと言ふた言会話を交すと、決まって「いいなあ、こんな旅がしたいなあ。会社やめたい」と始まる。組織というものに属したことがなかった私は、会社ではどんな苦労があるのかを知りたく、根掘り葉掘り話を聞いた。普段まともに愚痴を聞いてくれる人などいないのだろう、皆、吐き出すように会社の内情を話してくれる。そしてこれに気を良くしてくれたのか、はたまた愚痴り足りないのか、夜になるとその人が酒やつまみを持ってやってくるのだ。焚き火をおこして彼らを持てなすと、「小さい頃は俺もよくここで焚き火をしたもんだ」と、心から喜んでくれた。
 また、どういうわけか、その日会った人(主におじさん)に居酒屋へ連れて行かれることも度々あった。居酒屋へ行くと決まって「人吉で酒と言ったらこれのことばい」といった感じで必ず球磨焼酎を勧められた。それまで「大」や「ビッグ」がつくような安い焼酎しか飲んだことのない私にとって、球磨焼酎の優しくも深い味わいは言葉にならないほどの衝撃だった。
 ただ、居酒屋に連れて行かれる時は、かなり気合いを入れる必要があった。というのも、一対一で喋っている分にはあまり気にならないのだが、人吉の人が複数集まる居酒屋のような場所では、会話が100%人吉の方言になってしまい、内容を把握するのに、とてつもない集中力が必要となるのだ。友人の宮田にそのことを言うと、「俺も年寄りの言葉は分からん」と笑っていた。
 ともあれ、人吉ではタダ酒タダ飯は当たり前で、あまつさえタバコにも困らない日々が続いた。人吉とはよく言ったもので、ここの人は本当に人がいいのだと、身をもって知った。

 そんな生活を二週間ほど続けた。昼間は川辺川に潜ったり散策したりして遊んで、夜は地元の人との交流。悪くはないが、私の脳裏にはいつしか「堕落」の二文字が見え隠れし始めた。冷静に考えれば、やっていることはもらい乞食と一緒だ。こんな生活は長く続けるものではない。私は人吉を離れることにした。 

 人吉最後の日は、宮田の好意で、彼の実家に泊まることになった。ここで宮田のお母さんがかけてくれた何気ないひと言が、私の心に深く刺さった。「あなた、文章が面白いから作家になりなさいよ」
 実は人吉に来るまでの旅すがら、何度か宮田に葉書を送っていた。葉書にはその日にあったことをビッシリと書き込んでおり、お母さんも目を通して楽しんでいたらしい。特大のリップサービスであることは重々承知していたが、「ああ、そういうのもいいな」と少し心が動いた。
 大学を中退し、役者になる夢を放り出して旅に出た。四苦八苦しながらもこうしてとりあえずの目的地である人吉まで来ることができた。その人吉の地で、物書きの道を進められた。これは何か意味があるのかもしれない。もとよりこの旅では、写真を撮らずに文章や絵で記録を残しており、これからもそのスタイルで旅を続けるつもりだ。しかし、その上でさらに「物書きの道もある」ということを意識しておけば、その記録がより面白みのあるものになるかもしれない。作家になるならないに関わらず、それは自分にとっての血肉、つまり生きていく上での武器になるような気がした。
 その晩は「この先のこと」を考えてほとんど眠れなかった。「この先」というのはこの旅の具体的な行き先という意味と、自分が将来どんな道に進むのかという漠然とした意味の、二つの意味があった。それぞれ別々の問題のはずだが、なぜか二つを混同させて考えてしまい、最後まで頭の中がスッキリすることはなかった。

甘くてしょっぱい川内川

  朝、「どこか好きな所まで乗せて行くぞ」という宮田の言葉に甘えて、川辺川のテントを張っていた辺りまで連れてきてもらった。
「ここが俺にとっての人吉の原点だから、ここから歩くよ」
 そう言って固い握手を交し、仕事へ行く宮田に別れを告げた。車が完全に見えなくなって、私はタバコに火をつけた。……根元まで吸い終わる。
「うん、もう完全に行ったな」
 私はこそこそと川原に向かった。昨晩ほとんど寝られなかったので、テントを張って思いっきり寝た。

 「おーい、おーい」と誰かの呼び声で目が覚めた。夢か現か分からない状態でテントから顔を出す。テント泊をしている時によく遊びに来てくれた、自称不良サラリーマンの川島さんだった。
 「昨日来たらテントがなかったから、もう行ってしまったのかと思ったら、今日来たらまたテントがあって、ああ良かった」
 まだ頭がボーッとしていたが、川島さんの温かい言葉が嬉しくて、へへへへと笑った。
 川島さんに人吉を出ることを伝えると、これから仕事で宮崎県のえびの市に行くから、良かったら乗っていけと誘われた。こりゃ渡りに船だと思い、急いで支度をする。
「慌てない慌てない、ホレゆっくりゆっくり」
 川島さんの呑気なかけ声。まだ夢の中にいるようだった。 

 人吉から宮崎へ抜ける道路には、人をバカにしているのかと思うようなクルクル回らされる橋が二箇所ある。ループ橋と言って、カルデラによってできた土地の高低差を、このループ橋で解消しているそうだ。この橋ができるまで人吉とえびの(宮崎)間は、いくつもの峠を越えなければならない交通の難所だったという。
「こんな冗談みたいな橋作るなんて、人間ってすごいですねえ」
 川島さんに声をかけると、「そっかあ?」と、気の抜けた返事が返ってきた。仕事で出かけるにしても、遊びで出かけるにしてもこの道路を使うことが多いので、何の感動もないそうだ。
 えびの市に入って間もなく、「いいところ連れてってやるよ」そう言って川島さんは、山の方へ車を走らせた。この人、仕事大丈夫なのかな? そう心配するくらいには山道を進んだと思う。
「ホラ、そこの川、見てみなっせ」
 そんな感じの熊本弁で促され、私は車を下りた。少し茂みをかき分けると、そこにはキラキラ輝きながらサラサラと流れる川があった。川底の砂利がはっきり見えるほど透き通っている。靴を脱いで、ズボンをたくし上げて川に入った。程良い冷たさが寝ぼけた頭をシャキッとさせた。気持ちよさが全身に行き渡る。川面に顔を近づけて凝視するが、不純物がほとんど見えない。私は思わず両手で川の水をすくい、ゴクゴクと飲み干した。驚いた。甘いのだ。いや、もちろん糖分などあるはずはない。水質や水温、私の体調など様々な要素が絡みあってのことだろうが、とにかくその川の水が甘く感じたのだ。私は腹がタポタポになるまで、すくっては飲み、すくっては飲みを繰り返した。
 川島さんが言うには、ここは九州屈指の清流、川内川の上流部だそうだ。あまりにも素晴らしい川なので今夜はここに泊まろうと思ったが、国道まで歩いて戻ったら丸一日かかるというので、少し下流に戻った所で下ろしてもらった。川島さんは去り際、「ああそうだ」と言って、私に紙袋を渡してくれた。
「またお前が来るのを待っとるばい」
 プップーと鳴らして、川島さんはゆっくりと出発した。慌てて紙袋の中を見ると、おにぎりなどの食料が入っていた。「ありがとーございまーす!」大声で叫ぶと、プップププップとおちゃらけたリズムでクラクションを鳴らした。とぼけた人だったが、なんと格好いい去り際だろうか。
 腕時計を見ると5時を回っていた。川島さんは今から仕事に行くのだろうか? もしかしたら仕事というのは口実で、私を無事に宮崎まで運びたかっただけなのかもしれない。だとしたら、全くもって「ひとよし」だ。

  テントを張り終えると、だいぶ薄暗くなってきた。急いで薪を拾い、こぢんまりとした焚き火をおこすと、辺りはすっかり暗くなっていた。焚き火の明かりを頼りに、改めて紙袋を確認する。おにぎり三つ、スルメ、魚肉ソーセージ、そしてマイルドセブンのロングが二箱入っていた。喜びが溢れてくると同時に疑問が湧いた。
「いつ買ったんだ?」
 私が車に乗ってからは、お店に立ち寄ることはなかった。ということは、今日、私のテントを見つけてすぐに声をかけたわけではなく、一度買い物をしてから、また来てくれたということなのか? そうとしか考えられない。
 川辺川でテント生活をしていた時は、単にとぼけたおじさんくらいにしか思っていなかったが、こんなにも情に厚い人だったとは。胸に熱いものが込み上げてきて、目頭が熱くなった。
 私は紙袋に手を合わせてから、ゆっくりとおにぎりを頬張った。しょっぱさが少しだけ増したおにぎりは、とてつもなく美味しく、そして温かかった。

 その日は、昨夜とは打って変わって、頭がスッキリしていた。自分が将来進む道は、今はとりあえず考えずにいよう。今は、この旅に集中しよう。全力で「メチャクチャに」この旅を楽しんだその先に、自ずと進むべき道は現われるに違いない。素直にそう思えた。

川内川のシャラシャラ流れる優しい音に包まれながら、私は眠りについた。時折ポチャンと小魚が跳ねるような音がするのも心地良かった。

 北へ

進む道

  えびの市から二台乗り継いで、宮崎市の市街地へやってきた。久しぶりの都会だ。ここで私は電話ボックスに向かった。旅に出る前に読んだアウトドア雑誌で、野田知佑がこんな告知をしていたのだ。
「徳島に家を建てるので、暇な若者は手伝いに来い。希望者は編集部に連絡されたし」
 とても魅力的な告知だったが、大阪からいきなり徳島へ向かうのは、なんだか節操がなさすぎるような気がした。ある程度旅をした今なら、野田知佑に会っても、まあちょっとは格好がつくだろう。そう思って編集部へ電話をすると、若い女性が出た。
「野田知佑さんの告知を見たんですが……」
「え? 告知ですか?」
「はい。家を建てるから暇なヤツは来いって……」
「ああ、はいはい、ありましたね、そんなの」
「えーっと、編集部に連絡してくれって書いてあったんですけど」
「あー、そうなんですか?」
「募集してるんですよね?」
「みたいですねえ」
「野田さんは今、徳島にいらっしゃるんですよね?」
「さあ、どうですかね? ウフフフフ」
 電話を切った。徳島へは向かわず、このまま北上することをこの時決めた。心の中で「クソ女め、バーカバーカ」と何度も連呼しながら、私は歩き始めた。

  宮崎で、私は絵葉書ばかり描いていた。人吉でたっぷりと食料を貯め込むことができて、心に余裕があったことも理由としては大きいが、この辺りのあちこちに植えられているフェニックスを見ると、どうしても唱歌「椰子の実」を思い出して、ふるさとを偲んでしまうのだ。みんなどうしてるかな? そう思うと絵葉書を描かずにはいられなかった。官製葉書の表に住所を書き、その下半分に今いる場所の風景を描く。そして裏面には、細かい文字でビッシリと近況を書く。これをだいたい一日三枚、多いときで五枚くらい書いていた。少し進んでは、気に入った場所にテントを張り、絵葉書を描く。飽きたらまたヒッチハイク。放浪の芸術家にでもなったような気分だった。

  大分県別府市には、きれいな白髪に白い髭を貯えた初老の男性の車に乗せられてやってきた。目つきが鋭く、背筋が反るようにピンとしていて、必要なこと以外全く喋らない。昔気質という言葉がピッタリな人で、お礼の手紙を書くための住所を聞こうとすると、私を睨みつけてこう言った。
「そんなもん、誰もが書くと思ったら大間違いだぞ。それじゃあ気をつけてな」
 私はそれまで、感謝の意味を込めて住所を書いてもらっていた。「乗せてもらったあなたのことを、私はこんなにも大事にするんですよ」という意思表示とでもいおうか。そして、確かに多くの人はそれを喜んでくれた。ただ、そんなことには全く興味がなく、むしろ迷惑だと思う人もいる。よくよく考えれば当たり前のことだが、その時の私には後頭部をゴーンと突かれたような衝撃だった。それ以降、住所を書いてもらう時は「ご迷惑でなければ」とつけるようにした。

 保母さんをしているという若い女性の車に乗って、別府市の北東にある奈多海岸へやってきた。
 ヒッチハイクの旅を始めて約二カ月経つが、若い女性に乗せてもらうことが少なくなかった。私が旅に出る少し前、お笑いコンビがヒッチハイクで旅をするテレビ番組が大人気を博していた。おそらくその影響なのだろう。その保母さん、松永さんも「猿岩石がヒッチハイクしてるのを見て、私もいつか乗せてあげたいなあって思ってたんです」と、とても楽しそうだ。
 テレビの企画と一緒にされると自分の旅がとてつもなく軽薄なものに思えてきてあまりいい気持ちはしなかったが、かといって自分の旅が“重厚”かというと、決してそんな訳でもないので、この手の話題になると私はヘラヘラ笑いながら「そうなんですか、ありがとうございます」と答えることしかできなかった。

 「今日はここで泊まるんですか?」
 車から荷物を下ろす私に、松永さんはそう問いかけてきた。
「そうですね。なんだか空模様もあやしいし、今日はここでテント張ります」
 そう答えると「へーえ、テントかあ。すごいなあ」と妙に感心している。なぜか疚しいことを考えてしまい、何も言わずにヘラヘラと笑った。
「頑張ってくださいね」そう言って松永さんは去って行った。ベージュの可愛らしい軽自動車が松永さんそのもののようで、なんだか無性に切ない気持ちになってしまった。 

 テントを張り終え、別府市内で収穫させて頂いたビワを頬張る。この時期、九州ではあちこちにビワがなっていて、私の貴重な食糧となっていた。全く管理されていないような山裾になっていたビワだが、驚くほど甘い。夢中になって食べていると、車の近づいてくる音が聞こえてきた。見るとベージュの軽自動車。松永さんだった。
「差し入れ持ってきました」
 そう言って松永さんは車から降りてきた。おにぎり、菓子パン、お饅頭、バナナ、そしてなんと缶ビール。「冷たいうちに飲んでください」という言葉に甘えて、さっそくプシュッと開けた。頂くものだけ頂いて「ハイさようなら」という訳にもいかないので、近くのベンチに二人で腰かけた。
 松永さんは私と同い年だった。保母さんの仕事は楽しくてやりがいもある。でも、大分で生まれて、大分の学校に通い、大分で就職して、将来は大分で結婚して……、自分の人生それでいいのだろうかと最近思うようになった。そんなことを話してくれた。
「それこそが幸せなんだよ」とか、逆に「じゃあ、大分を飛び出しちまえよ」などと言えれば恰好がいいのだが、その時の私には、人に何かアドバイスできるほど自分に対しての自信が全くなかった。私が黙って海を見つめていると、「サックス吹けるんですよね?」と明るく問いかけてきた。旅すがら所々で吹いてきたが、聴かせる相手はいつも猫やスズメやカラスばかり。人前で吹くのはサックス教室の発表会以来だが、ここは吹かねば男が廃る。私は、大阪で思いを寄せていた女性がカラオケでいつも歌っていた「未来予想図Ⅱ」を演奏した。この曲には思い入れがあり過ぎて、旅に出てからは一度も吹いていなかった。それを今ここで初めて吹いたのは、悩みを語ってくれた松永さんへの精一杯の感謝の気持ちからだった。
 決して上手くはない私の演奏を聴いて、今度は松永さんが押し黙ってしまった。なんだか気まずい雰囲気になってしまい、話題を変える。
「演劇やってたんだけど、そのセリフとか、聴く?」
 パッと目を輝かせて「うんうん!」と頷く松永さん。ストリートパフォーマンスで大勢の人の前で演技するよりも何倍も恥ずかしかったが、気持ちが明るくなるような長台詞を二つほど披露した。「わあ、うまいうまい!」
 保母さんだからなのか、褒め方がどことなくあやしている感じがしておかしい。
 ふと頬に冷たいものが当たった。雨粒だ。
「あっ、ポツポツ来ましたね」
「そうだね」
「だんだん暗くなってきたし、そろそろ帰った方が……」
「……そうだね」 

 松永さんは名残惜しそうではあったが、明るい笑顔を振りまきながら帰って行った。雨は、それを待っていたかのように強く降り出した。
「これが渡世人のつれえところよ」
 寅さんを真似ながらテントに潜り込む。
 その夜は、疲れてヘトヘトになるまで、テントの中で腕立て伏せと腹筋運動を繰り返した。
 テントに当たる雨の音が、ちょうど良い賑やかさだった。

島根よいとこ

  九州を出て再び本州に来ていた。大阪から出発して瀬戸内海側は既に通った。今度は日本海側を通って北上していくつもりだ。
 山口から島根を通って驚いたことがある。車に乗せてくれた人のほとんどが何か施してくれようとするのだ。ほかの地方でももちろんそういう人はいたが、ここは頻度が違った。下関から、今いる島根県の浜田市に来るまで6台の車に乗せてもらったのだが、その全ての人が食べ物をくれたり、食堂でご馳走をしてくれたりしたのだ。
 浜田市のコンビニの駐車場まで乗せてくれた人は、営業で県内を回っている五十代前後の男性だった。この人も大変親切で「これで好きなもの買いなさい」と千円を渡してくれた。去り際に、「ああ、そうそうタバコ吸うんだよね?」とまだ封を切っていないタバコを一箱くれた。膝に頭がつくほどに礼を言い、大きく手を振って見送った。
 腕時計に目をやると午後一時過ぎ。それほどお腹は減っていなかったが、その日は既に三台の車を乗り継いでいたのでしばし休憩を取ることにした。コンビニ前に設置されたベンチに座り、頂いたばかりのボックスタバコの封を切る。箱に巻かれた透明のフィルムをピリリと剥がし、蓋を開け、中に入っている銀紙をスッと取り除く。その一連の行為がたまらなく好きだ。足跡一つない雪山に自分が初めてシュプールの跡をつけるような子供じみた高揚感がある。
 スーっと丁寧にタバコを一本取り出し、肩で口元の水分をぬぐってからそっと銜える。ライターの火を近づけてゆっくり吸うと、チリチリと軽く爆ぜるようにして火がついた。焦げたにおいを感じながら深く煙を吸いこむ。肺全体に沁み込んでいく。息を止め、体内に蔓延した煙を一気に吐ききる。美味しいと心が感じる。よく「タバコは百害あって一利なし」などと、タバコを一度も吸ったことがない人がしたり顔で宣うが、そんなことは決してない。心が落ち着くのだ。百害あるのは認めるが、三利ぐらいはあると思う。……などと、人からもらったタバコを吸いながら、偉そうなことを考えたりする。
 あまりベンチを独り占めすることはしないのだが、時間帯のせいなのか人の出入りが少なかったので、そこで絵葉書を描くことにした。周りを見回すとちょっと大きな石ころが転がっていたので、それをモデルに選んだ。葉書きには風景を描くことが多かったが、たまに石ころのような何の変哲もない物を描きたくなる。面白いもので、最初は何の変哲もないと思っていた物でも、注意深く観察すると色々な表情があるような気がしてくる。笑っていたり泣いていたりしているように思えてくるので、描いているうちに感情移入してしまい、自分までそれに合わせた表情になってしまう。なんだか対象物と会話ができているようで楽しいのだが、傍から見れば頭のおかしい人だと思われているに違いない。
 そんな私を心配したのか、一人の女性が「こんにちは」と話しかけてきた。見上げると五十代くらいの小柄でややふっくらとしたおばちゃんだった。
「あなた、大きな荷物持って、バックパッカーって人?」
「あっ、そうです。ヒッチハイクで旅しています」
「ああ、テレビでやってるやつでしょ?」
「はい。猿岩石です」
 言われる前に言ってやった。
「絵、描いてるの?」
「下手くそですけど」
「そんなことないわよ。その石描いてるんでしょ? 笑ってるみたいじゃない」
 感性の合う人というのはいるものだ。「座りませんか?」と促し、しばしそのおばちゃんとの会話を楽しむ事にした。
 おばちゃんはそれまで出会った島根の人とは言葉のイントネーションが違っていた。その旨を訪ねると、私の肩をパシパシ叩いてこう答えた。
「あら分かる? 私、名古屋から嫁に来たんだわ」
 同郷人だった。もとより低かった垣根がさらに低くなった。しかも話をよく聞くと、私の通っていた小学校の隣の学区出身だということが分かった。垣根は完全になくなった。
「私ね、吉本って言うの。あんたさあ、今晩うちに泊まりゃー」
 完全に名古屋弁が戻った吉本さんに誘われ、私は車に乗り込んだ。 

 吉本さんの家は小高い丘の上にある住宅地にあった。
「あんたさあ、洗濯物とかいっぱいあるんじゃない? 洗ってあげるわよ」
 丁寧に断ったが、「いいから出しなさい」と半ば強制的に汚れた衣類を提出させられた。母親のようで、全く逆らえない。
 そうこうしているうちに、「ホラ、お風呂沸いたから、入りなさい」と勧められる。だんだんと遠慮をするのが失礼なように思えて来て、「ありがとうございます」と素直に従う。
 お風呂に入る度に思う。何日ぶりだろう? 熊本の人吉以来だから、ほぼ十日ぶりか。お風呂なんて入らなくてもどうということはないが、久しぶりに入るとやはり思う。「極楽極楽」と。
 風呂から上がると脱いだ服が全てなくなっていて、代わりの衣類がきれいに畳んで置いてあった。浴室の外から大きな声がする。
「服、洗濯するから! 明日までには乾くから! それ旦那のスウェットだけど、ちょっと着てみてよ。ああ、パンツ、新品のやつあるでしょ? それあげるから履きなさい」
 本当に実家に帰ってきたみたいだ。

 その日の夜は、吉本さんの他に会社の同僚の女性二人がやってきて、ちょっとしたパーティーのような感じになった。吉本さんの旦那さんは残念ながら出張中でご不在。二人いる息子さんは、県外の大学に通っているという。

「また浜田通るんでしょー? 旦那がおる時にまた来やあ」
 久しぶりに同郷人と話すのが嬉しいようで、吉本さんは終始名古屋弁だった。もちろん私も。
 翌日、吉本さんは仕事が昼からのようで、比較的遅い朝だった。ご飯にみそ汁、アジの干物に納豆。いたってシンプルだが、ごはんとみそ汁が驚くほど美味しくて、どちらもおかわりしてしまった。驚いたことにみそ汁は赤味噌だった。
「美味しいでしょー! 島根でも赤味噌作っとるでねえ」
 愛知県以外でも赤味噌を使う地域があることを初めて知った。

  洗濯物を取り入れて荷造りをしていると、吉本さんが何やら食料を両腕一杯に抱えてやってきた。
「これ、お昼ご飯のおむすび。こっちは晩ご飯のおむすび。まあ、どっちでもいいんだけど、アハハ。それと、これうちで漬けた梅干し。それと缶詰と乾パンと……」
 母心を無下にする訳にはいかない。ありがたく全てザックに詰め込み、吉本さんの車に乗り込んだ。

黒塗りのベンツ

  JR江津駅近くで吉本さんの車を降りた。通常の一.五倍くらいの重さになったザックをヨイショッと声を出して持ち上げる。これはかなり重い。食料を消費するために、しばらくどこか静かな川原ででもキャンプ生活をしよう。
「これ、持っていきなさい」
 吉本さんが渡してくれたものは、郵便局で使えるプリペイドカード三千円分だった。
「気が向いたら絵葉書描いてちょーだいね」
 はい。いっぱい描いて送ります。 

 何度もお礼を言って、吉本さんの車を見送った。車が見えなくなり、振り返って視線を落とすと、高級ハムのようにムチムチしたザックがガードレールにもたれかかっている。これを背負うのかと思うと溜め息が出るが、これは吉本さんの厚意そのものだ。背負わない訳にはいかない。
 ザックに背を向け、しゃがみ込む。しゃがんだままショルダーベルトに両腕を通し、前かがみになりながら立ち上がる。こうすると、重い荷物でも楽に背負うことができる。ザックが体に密着するようにショルダーベルトを縮め、ウェストベルトを締める。これでザックの重みが肩と腰に分散されるので、長時間歩いても疲れにくい……はずだが、あまりにも重すぎて立っているだけでつらい。いつまでも立っていては無駄に体力が削られるだけだと思い、私はすぐに歩き出した。もちろん、手にはサックスを持って……。

  中国太郎とも呼ばれる江の川(ごうのかわ)。その河口にかかる橋を歩いている。なかなかに長い橋だ。ここに来るまで島根県にこんな大きな川があることを知らなかった。周囲に高い建物がないせいか、余計に川幅が広く感じられる。車にでも乗っていれば「ああ、いい景色だなあ」と目を細められただろうが、加重オーバーのザックを背負った旅人は、そんな呑気なことを言っていられない。
 ようやく橋を渡り切った時には汗まみれになっていた。歩道脇の木陰に身を寄せ、犬のように舌を出して休む。やはりこの重量を背負って歩くのは無理がある。
「ここの川原でしばらくキャンプして食料を消化するか」
 そんなことを考えていると、目の前に黒くて大きなベンツが止まった。スモークガラスのウィンドウが下りると、パンチパーマに高級そうなサングラスで、いかにもそっちの筋といった風貌の男性の顔が見えた。
「なしたー!」
 サングラスを外して、その男性はそう叫んだ。意味が分からずしゃがんだまま呆けていると、続けてこう叫んだ。
「怪我でもしたのかー?」
 どうやら私がへたばっているのを見て心配してくれているようだ。
「ありがとうございます。ちょっと疲れたんで休んでました。大丈夫です」
「そうか、死んでんのかと思ったぞ」
 気さくな方だ。
「おめー、何してんだ?」
「あっ、ヒッチハイクっていって、車に乗せてもらって旅してます」
「そーか! じゃあ乗れ! 一人で退屈してたんだ」
「あっ、でも僕、鳥取の方へ向かってるんで……」
この人の車は、私が今来たばかりの方を向いている。
「おう! 俺今から浜田に行ってよ、そのあと米子に帰るから、ちょうどいいんじゃねーか?」
 米子か。ちょっと一気に進み過ぎる気もするが、これも何かの縁だ。私は黒光りするベンツに乗り込んだ。 

 たった今、必死の思いで歩いてきた道を、ふかふかのシートに座って引き返している。苦労して歩いている自分の残像が見えるようで、妙におかしい。
 この、その筋っぽい方は三浦さんと言って土建屋の親方をしているという。自身は作業をせずに若い衆を束ねているそうだ。そしてこの辺りには仕事で来ているだけで、あとひと月ほどで住居のある函館に帰るそうだ。道理で、三浦さんの言葉はこの辺りのイントネーションとは違う訳だ。
 三浦さんが用事があるという浜田市役所まで行き、そして再び東へ向かう。三たび、江の川にかかる橋を渡る。縫い物で言えば、返し縫いをしているような気分になりながら車窓を眺める。
「ああ、いい景色だなあ」 

 三浦さんは、その風貌とは裏腹にとても細かい気配りをしてくれる。座席は狭くないか? エアコンはちょうどいいか? ジュース買ってやるからちょっと待ってろ。タバコ好きなだけ吸っていいぞ。眠かったら寝ていいぞ、などなど。さだまさしの歌詞にでもなりそうなくらい気にかけてくれる。親には連絡しているのかと尋ねられて「ちょくちょく手紙を出しています」と答えると、「ちょくちょくじゃダメだ。毎日連絡してやれ」とくる。やや押し付け気味だが、それほど悪い気はしなかった。

「お前、最終的にはどこ行くんだ?」
「最終的ってわけじゃないけど、とりあえず北海道を目指しています」
「そうか。じゃあ電話番号教えてやるからよ、函館に来たら連絡しろよ。うまいもん食わせてやる」
 まだ見ぬ北海道。そこに住む人からのお誘いに心が色めきだったが、まさかそこまでお世話になる訳にはいかない。「ええ? いいんですか? 嬉しいなあ」と曖昧な返事をしておいた。

 昼過ぎに出雲市へと入った。三浦さんお勧めの蕎麦屋に入る。
「オラァ蕎麦にはうるせえけどよ、ここの蕎麦はうまいぞ」
 そう言って天ざるセット大盛をご馳走してくれた。香りと味がしっかりしていて、本当に美味しい。大阪に住んでいる時は駅構内の喫茶店でバイトをしており、同じく駅構内にあった立ち食い蕎麦屋によく昼食を取りに行っていたが、そこで食べる蕎麦とは全く別の食べ物と言っていいくらい美味しかった。
「どうだ! うまいだろ?」
「こんなうまい蕎麦、初めてです」
「そうかそうか。はっはっは」
 三浦さんは、人をもてなすのが心から好きなのだろう。見てくれは怖いが、なんともカッコイイ人だ。
「お前、今日はどこまで行くんだ?」
「しばらくキャンプ生活をしたいんで、どこか静かな山の中にでも行こうと思ってます。そんな場所、知りませんよね?」
「ハハ、変わりもんだな、お前。じゃあ今から行きつけのガソリンスタンドに行くからよ、そこで聞いてやるよ。……全部食ったか?  よし、行くぞ」
 再度ベンツに乗り込む。それにしてもピカピカだ。ボディーに触れないよう、そーっと乗り込む。
 30分もしないうちにガソリンスタンドに到着。
「オイル交換させるから、お前も降りろ」
 言われるままに降りる。「コンチャーッス、コンチャーッス」と、店員さんたちが元気よく挨拶してくれる。感じの良い店だ。
「コンチャーッス、三浦さん」
「……おう」
 気のせいか、三浦さんの声のトーンが一段階低くなった。
「オイル交換しとけ。エレメントも交換しとけよ」
「あざーっす! オイル、エレメント、オッケーっす」
 その時だった。
「オッケーっすじゃねーぞ、バカヤロー!」
 突然、三浦さんが怒号をあげた。
「馴れ馴れしーんだよ、おめーらはよー! 友達じゃねーんだよ。何がオッケーっすだ、バカヤロー!」
 スタンドが静まり返る。店員さんの「すみませんでした」という小さい声がやけに大きく聞こえた。

「ジュース何がいい?」
 三浦さんは私に声をかける。私は恐る恐る「あ、コーヒーお願いします」と答えた。
 スタンドの休憩室で三浦さんは私にこんな事を言った。
「親会社の指示でこのスタンド使ってやってんだけど、こいつら元気はいいんだけど態度が良くねーんだよ。こっちはお客様だってのに、いつもニヤニヤしやがってよ」
 私にはそれほど悪い接客態度には思えなかったが、おとなしく「そーですね」と頷くしかなかった。
「おーい!」
 三浦さんは、今度は明るいトーンで、しかりつけた店員さんを呼んだ。ものすごい勢いで駆けつけてくる。
「さっきは怒鳴って悪かったな。これ、みんなでジュースでも飲んでくれ」
 三浦さんは店員さんに千円札を渡す。「受け取れないです」という店員さんに「いいからいいから」と押し付けながら「ところでよ」と話し始めた。
「ところでよ、この兄ちゃんがこの辺でキャンプしたいって言うんだけど、どっかいい場所知らねーか?」
 店員さんは「みんなに聞いてきます」と言って、礼をしてその場を離れた。私も三浦さんに礼を言うと、「いいってことよ、世の中お互い様」と、すっかり人の良い三浦さんに戻っている。感情の起伏が激しすぎる。
 店員さんが地図を持って駆けつけて来て、三浦さんに場所の説明をしている。
「よし、分かった。オイル交換は? ……おぅ、済んだのか。分かった、じゃあ行くぞ!」
 地面から数センチ浮いているかのような感覚で、私は三浦さんのあとに続いた。

  三浦さんが連れて来てくれた所は、とある山奥のキャンプ場だった。まだシーズンオフのようで、管理人も含めて誰一人いない。旅を始めてから今まで、キャンプ場に泊まるのは避けていた。お金を払わなければならないし、何より人が大勢いそうなのが嫌だった。しかし、このキャンプ場なら誰に気兼ねなく過ごすことができる。
「こんな所でいいのか?」
 三浦さんは訝しがりながら聞いてきた。私が満面の笑みで「はい、最高の場所です!」そう答えると、「ハハ、ホント変わってんな、お前」と失笑した。
 車を傷つけないよう、細心の注意を払いながら荷物を下ろしていると、「ホレ! これ」と、三浦さんはメモ用紙を渡してきた。
「ケータイの番号だ。遠慮せずにかけてこいよ」
 恐いところもあるけれど、本当に面倒見の良い人だ。親分肌とは、こういう人のことをいうのだろう。私は何度も何度も礼を言い、車が見えなくなるまで手を振って三浦さんを見送った。少しだけ安堵感を覚えたことは心の奥の奥にしまっておこう。 

ほんとにあった……

 キャンプ場はなだらかな斜面に作られており、奥へ行くほどに高くなっている。キャンプ場の一番奥は鬱蒼とした森で、昼なお暗しといった様相だ。
 登るようにキャンプ場の奥へと進む。中ほどに炊事場がある。長い流し台があり、蛇口が二十程度ある。コンクリートで作られた竈も十ほどある。そこそこの大人数でも対応できる炊事場だ。照明設備があったのでスイッチを入れてみると、全ての蛍光灯がしっかりとついた。快適過ぎて申し訳ない気持ちになるが、しばらく滞在するには最高の環境だ。私はこの炊事場の一角にテントを張った。 
 山間は日が早く、4時を回ったばかりだというのに、かなり薄暗かった。森に入って手早く薪を拾い、私はキャンプ場を後にした。実は今朝、吉本さんにこんなことを頼まれていた。
「無事に浜田を離れたかどうか心配だから、今日だけでいいから、できれば電話ちょうだい」
 キャンプ場付近には電話ボックスが見当たらないので、散歩がてら探しに行くことにした。

  どれくらい歩いただろうか。大きな湖があり、そこに沿った道路を延々と歩くが、全く景色が変わらない。同じところをグルグルと歩かされているような気分になる。西の空が赤く染まってきれいだが、もうしばらくすると真っ暗になるのかと思うと気がはやる。引き返そうかどうか思い悩んで歩いていると、突然二車線ある大きな道路に合流した。そしてその合流地点の角に電話ボックスがあった。
「おお、あったあった!」
 車も人も全くいない静かな山間に、私の声だけが響いた。 

 「今日一日、気が気じゃなかったわよー。ああ、よかったあ」
 吉本さんに電話をすると、大いに喜んでくれた。心の中の暖炉に火が点いたような気分になる。
 風邪ひかないように暖かくして寝なさいね。これからの季節、食中毒に気をつけなさいね。梅干しは殺菌作用があるから、毎日食べなさいね。何か困ったことがあったら連絡しなさいね。
 うるさいくらいに心配してくれるのが本当に嬉しかった。旅に出てからは実家に電話をしていない。もしかしたら、母親の生霊が吉本さんに乗り移っていたのかもしれない。明日は、吉本さんと実家に絵葉書を描こう。

  電話ボックスから出ると、完全に夜だった。物音もほとんどしない。たまに木々の葉がサワサワと音をたてるくらいだ。吉本さんと話していた時の世界から、全く別の世界に入り込んでしまったようだ。寂しいを通り越して、怖い。
 二車線道路には街灯がついているが、私が通ってきた道路に目をやると完全に闇だった。
「俺はこの道を帰らなきゃいけないのか?」
 暗くなることは想定していたのでヘッドランプこそ持って来てはいたが、この闇の中を再び一時間以上歩かなければならないと思うと、暗澹とした気分になった。こういう時は大声を出して気合いを入れるのが一番だと思い「ヤッホー」と叫んでみたが、こだまが妙な感じで何往復もしてしまい、余計に不気味さが増してしまった。もうどうとでもなれと、私は半ばやけくそ気味に闇の中へと入って行った。
 ヘッドランプの小さな明かりだけを頼りに歩く。最初は心細かったが、「帰るしかない」と腹を括ると、意外なほど気楽になった。やはり覚悟を決めるというのは大事だ。今回の旅にしてもそうだ。退路を断って「やるしかない」という状況を作れば、やれてしまうものなのだ。そうだ。分かっていたことじゃないか。
 歩いているうちにだんだんと暗闇に目が慣れてきた。試しにヘッドランプを消してみると、うっすらとだが物の形が見て取れる。人間の適応力というのはすごいものだ。ふと見上げると、夜空一面数えきれないほどの星がチカチカと瞬いていた。「うわあああ」と思わず声が出てしまうくらい見事な星空だった。
「栄光に向かって走る……」
 思わず口から出たのは、ブルーハーツの「TRAIN‐TRAIN」の歌詞だった。
「あの列車に乗って行こう……」
 あの列車とはどの列車なのだろう? 私は列車に乗れているのか? いや、そもそも列車に乗らなければいけないものなのか? 私は、精一杯生きることだけしかできない。
 そらで歌えるブルーハーツの曲は三曲しかなかったが、その三曲を何度も繰り返し歌いながらキャンプ場へと向かった。

  小高い所にポツンと明かりが見えた。炊事場の明かりだ。照明を消し忘れていたようだ。
「やっと着いたあああ」
 思わず安堵の声を漏らす。消していたヘッドランプを灯すと、右側で何かが光った。見ると、小屋があった。灯りの正体は、小屋の窓ガラスに映ったヘッドランプの灯りだった。小屋の中には色々と物が置いてあるようだったが、なんだか気味が悪くてすぐに目を逸らし、小屋から離れた。
 ヘッドランプを上下左右に振ってキャンプ場を照らすと、管理棟、看板、ブランコなどの遊具が浮かび上がった。何もない山の中よりも、人工物がある方がなんだか恐ろしい感じがする。「さっさとテントに帰ろう」そう思って炊事場を見ると、人影が見えた。遠くてはっきりとは確認できなかったが、白い服を着た男性のようだった。私と同じような旅人だろうか? 驚かせては悪いと思い「こんばんはー!」と大きな声で挨拶しながら炊事場に近づいた。
 ところが、炊事場には誰もいなかった。ゾワゾワーっと、一気に鳥肌が立つ。見間違い? いや、確かに動いていた。
「俺は今日ここで寝なくちゃいけないのか?」
 炊事場の隅に張られたテントを見ながら力なく呟いた。 

 拾っておいた薪で火をおこし、インスタントコーヒーを作る。吉本さんからもらったおにぎりと一緒に頂くと、少しだけ恐怖心が和らいだ。
 とにかく覚悟を決めることだ。今晩、私は絶対ここで寝る。絶対にだ。オバケだか何だか知らないが、気合いで追っ払ってやる。
 私は習ったこともない空手の練習を始めた。正拳突きと回し蹴りを、「ウォリャ! チョワ!」と奇声を発しながら何度も繰り返す。三十分もやったのだろうか。汗だくになってへたり込んでしまったが、炊事場内の邪気は追い払えたような気がした。「これでぐっすり眠れる」と立ち上がろうとした時だった。
「ピチャン」
 水の垂れた音が炊事場に響いた。体が固まる。その後も「ピチャン……ピチャン」と流し台の方から聞こえてくる。恐る恐る様子を見に行くと蛇口が締まり切っていないようだった。使ってもいない蛇口なのに……。放っておく訳にもいかないので強く締めてみるが、どうやっても滴が落ちる。仕方なく、タオルを蛇口から垂らして、音が出ないようにした。気のせいか、炊事場には再び邪気が立ち込めたようだった。
 私はサックスを取り出した。音だ。音で追っ払うしかない。そう思って、二十曲ほどあるレパートリーを、唇の筋肉が疲れて音が出なくなるまで吹きまくった。
 時計に目をやると十一時を過ぎていた。さすがにクタクタになった。もうこれで寝るしかない。私はテントに潜り込み、寝袋にくるまった。どこかのアウトドアライターが「テントの中は母親の胎内のようだ」と言っていた。胎内での記憶など残っていないが、確かにこの閉ざされた空間は妙に安心できる。自然と瞼が閉じた。「ああ、これでようやく寝られる」と夢の世界に入り込もうとしたまさにその時、「ヒャアアアア」と女性の声が、頭の中で響いた。ガバッと飛び起き、慌ててテントの外に出る。何も聞こえない。自分の心臓だけがドンドンドンドンと速いテンポで動いている。
「……気のせい、気のせい、絶対気のせい」
 私はそう自分に言い聞かせ、「ウォーーー」と外に向かって大声で叫んでから、再びテントに潜り込んだ。
 ……結局、これを三度繰り返した。どうしても、眠りにつく瞬間に頭の中で女性の悲鳴が響くのだ。ぐったりして時計を見ると二時を指していた。丑三つ時。いわゆる“一番出やすい時間”だ。私はザックの中から「ハムレット」の文庫本を取り出し、セリフの部分を大声で朗読した。
「誰か?」「なに、きさまこそ。動くな、名前を言え」「わが君の御長命を!」「バーナードか?」「おお」
 何度読んでも意味が分からない本を、声高々に読み上げる。音が途切れるのが恐ろしくて、次々とセリフを重ねていく。舌が回らなくなってセリフが言えなくなると、ただ大声で「あーあーあーーー」と叫びまくった。この時の私を誰かが見ていたら、私こそがオバケに見えていたに違いない。

 無我夢中で叫び続けていると、東の空がわずかに白み始めていることに気がついた。それとほぼ同時に、「チチチチ」と野鳥の声が聞こえた。この瞬間「乗り越えた」と思えた。フラフラになってテントに潜り込み、倒れるように仰向けになると、そのまますぐに夢の中へ入ることができた。
 長い、長い夜だった。

 目が覚めると辺りはすっかり明るくなっていた。時計を見ると九時を回っている。四時間くらいは寝たようだ。頭はスッキリしたが、昨晩、というか先程の恐怖はまだ鮮明に覚えている。急いで荷物をまとめ、逃げるようにキャンプ場をあとにした。

  その恐怖体験から一週間後、私は鳥取市のとある砂浜に留まってテント生活を送っていた。粒の細かいきれいな砂浜に太陽の光が反射して、あらゆる角度から照らされる。あのキャンプ場とは正反対のこの環境がとても心地良かった。吉本さんから頂いた食料もだいぶ減り、そろそろ移動する頃合いだった。

 実は、あの恐怖体験には続きがある。
 キャンプ場を離れ、最初に乗せてくれたのが地元で酒屋を営む三十代の男性だった。
「もしかして、あのキャンプ場に泊まっただ?」
 車を走らせながら、男性はそんな感じの出雲弁で問いかけてきた。
「ああ、はい。泊まりました」
「何かあった?」
「……めちゃくちゃ恐い目にあいました」
「やっぱり」
 男性が言うには、あのキャンプ場は地元で有名な心霊スポットだそうだ。理由は分からないが、若い女性が首吊り自殺をしたらしい。あの、ヘッドランプの灯りが反射した小屋で。
 私は車から降りるまで、心の中で「ナンマンダブ」を繰り返した。

  野宿をしていると多少霊的なことを感じることは少なくないが、ここまではっきりとした心霊体験は後にも先にもなかった。

バカ息子

 浜田市を出た時よりは十キロ以上軽くなったザックを背負い、砂浜をあとにした。通るたびにカラスが襲ってくる松林を抜け、舗装道路に出た。描き貯めた絵葉書を束にして郵便ポストに投函し、ヒッチハイクをすべく国道九号線へ向かった。
 風俗の呼び込みをしているという男性と大工さんの二人組の車に乗せてもらう。いわゆる“走り屋系”の人たちで、運転がかなり荒い。ただ、二人とも会話がとっても面白く、ずいぶん長いこと同乗してしまった。

「俺たちここでダチの家に行くから、ここでいい?」と下ろされたのが、強い潮の香りがする港だった。別れ際にこの町の名前を聞くと「はまさか」と答えてくれた。
 二人を見送ったあと、町の名前を復唱してみる。
「はまさか、はまさか、はまさか」
 どこかで聞いた響きだった。地図で確認してハッと気づいた。
「浜坂」

 私の父親は小さいながらも塗装工場を経営していた。高校時代、部活が終わった後によく手伝いに行った。終わるのが八時過ぎで、近くの居酒屋で食事をして帰るのが常だった。その居酒屋の名前が浜坂だったのだ。店の大将は気さくな人で、若い私によく話しかけてくれた。確か日本海の港町出身で、その町の名前を店名にしていると言っていた。そうか。ここがまさにその浜坂なのだ。
 高校を卒業して以来、居酒屋の浜坂には行っていないが、大将と繋がりができたようで無性に嬉しくなった。
 浜坂に思いを馳せると、必然的に父親の事にも考えが及んだ。
 苦労して大学に行かせた息子が、大学を中退して役者の道に進んだ、と思いきや放浪の旅に出る。
 家計は決して楽ではないのは分かっていたのに、私は自分の我儘ばかり通してきた。すねかじり、穀潰し、負け犬、落伍者、人間のクズ。どんな侮蔑の言葉でも足りないくらい、どうしようもないバカ息子だ。
 野田知佑に憧れ、自分も彼のように強くなろうと思って旅に出た。強くなる? ヒッチハイクで旅をしていると人に言うと、皆「凄いね」と言ってくれる。何が凄いものか。結局他人様のお世話になって旅をしているだけじゃないか。一つも強くなんかなっていない。ただこの生活に慣れているだけだ。旅を始めて二カ月と少し。何か変わったのか? 物乞いの技術が上達しただけじゃないか。

  懐かしい気分に浸っていたはずなのに、いつの間にか自分を追い詰めていた。気分転換に絵葉書でも描こう。私は港に放置されていた古タイヤを描くことにした。
 絵を描くのは特に上手いという訳ではないが、対象物をよく観察して、時間をかけて描いていけば、なんとなくいい感じには仕上がる、ような気がする。描き始めてすぐに「ああ、ちょっと難しくて上手く描けないなあ」と思っても、根気よく最後まで描き続けると、それなりに格好がついた絵になる。
…そうか。この旅に疑問を持ったとしても、とりあえず最後まではやり通そう。少しは格好のついた人間になれるかもしれない。
 前向きな気分を取り戻し、私は旅を続けるのだった。

水の月

  水無月の無は「の」という意味があるそうだ。つまり、六月は「水の月」。その言葉通り雨がよく降っている。
 六月末、梅雨真只中。私は新潟県長岡市、高速道路の高架下にあるちょっとした空き地にテントを張っていた。昨晩遅くにこの辺りで降ろされたのだが、テントを張るような場所が見つからず、仕方なくここで一晩を過ごしたのだ。人通りはほとんどないのだが、車がひっきりなしに通るのでうるさくてほとんど眠れなかった。
 さてどうしたものか。梅雨らしいどっしりとした雨は全くやむ気配がない。通常なら移動せずに留まるところだが、なんせ場所が悪い。私はここを離れることにした。

 レインコートをしっかり着込み、その上で傘をさし、ヒッチハイク開始。今までにも何度か雨の中でヒッチハイクをしたが、一つ分かったことがある。それは、雨の中わざわざ車を止めてくれる人は、とてつもなく優しいということだ。当てにしている訳ではないが、必ずといっていいほど何かを施してくれる。
 いや、認めよう。私は雨の中でそういう優しい人が乗せてくれるのを期待してヒッチハイクをしているのだ。浅ましい事この上ない。そう、私は浅ましい旅をしているのだ。だが、その目論見は必ずしも叶うわけではない。何の保証もないことを私はしているのだ。もしかしたら一生そういう人は現れないかもしれない。そういうリスクを背負って、私は旅をしているのだ。 
 そんな手前勝手な論理を頭の中でこねくり回していると、大きなトラックが止まってくれた。駆け寄ると、50代くらいの男性が体を伸ばすようにして助手席から顔を出した。
「雨の中大変だね。まあ、乗りなさい」
 仏様のような笑顔でそう言ってくれた。
 トラックドライバー歴まだ十年というその男性は、名前を村山さんと言った。菅原文太のようなきれいな角刈りだが、顔が柔和なので全く怖くない。
 ポータブルの冷蔵庫から缶コーヒーを出し、「体が冷えてなかったら飲みませんか?」と勧めてくれた。物言いがお坊さんのようで、必要以上に恐縮してしまう。両手で缶コーヒーを受け取った。
「ホラ、信濃川だよ」
 外を見ると、ちょうど橋を渡り始めたところだった。日本一長い川・信濃川。狭い島国で一番といっても大したことないだろうと思っていたが、予想以上に川幅が広かった。森のような中州がいくつもある。変化に富んだ面白そうな川だ。こんな所をカヌーに浮かびながら釣りでもしたいものだ。
「わたしは長野から来たんだけど、この川は長野じゃ千曲川って名前なんだよ。知ってた?」
 知らなかった。千曲川ならよく知っている。長野の野辺山で働いていた牧場には細い川が流れており、その川を下っていくと千曲川へと合流するのだ。あの細い川が、眼前に広がる信濃川の一部になっているのかと思うと、まるで我が子が大きく成長した姿を見届けているようで、なんとも感慨深いものがあった。そんな歳でもないのに。 

 ひと通り自己紹介を交えた会話が済んだ後、村山さんはこう切り出した。「私には君ぐらいの息子がいてね……」
 村山さんは若い頃、東京でいわゆるヤクザをしていたという。当時同棲していた彼女が妊娠したのを切っ掛けにまともな職に就こうとしたが組から抜けさせてもらえず、彼女とは別れてしまったそうだ。
「ヤクザを辞められなかった自分が悔しくてね、彼女と別れた後に、私は東京から逃げ出したよ」
「ヤクザは辞められたんですか?」
「不文律みたいなものがあってね、私みたいな軽い不義理だと、二つくらい県を跨げばお咎めなしになるんだよ」
 村山さんはその後、人生をやり直すために仏門に入り、四十歳の時に還俗(僧をやめて一般人に戻る)して、トラックドライバーになったそうだ。
「だから、君ぐらいの歳の子は他人とは思えないんだ」
 私は何も言えなかった。私が何か言ったところで、村山さんの救いになれるような事など言えるはずもないし、そもそも村山さんは救いなど求めていない。ただ、自身の経験を話してくれただけなのだ。 

 乗せてもらってから二時間ほど経った頃、村山さんは「おっ!」と言ってカーラジオのボリュームを大きくした。「新潟県全域で、明日明後日と暴風雨が予想されます」とのことだった。
「暴風雨か。私は弘前まで行くんだけど、どうする? 君さえよければ乗ってってもいいよ。」
 青森か。一気に北上し過ぎるのも味気ないが、暴風雨の直撃は避けたい。即答しかねていると、チッカチッカとウィンカーの音がした。
「ちょっとトイレ休憩しますね」
 村山さんは道の駅の駐車場にトラックを止めた。私も降りる。空はどんよりとしているが、雨は降っていなかった。
 村山さんがトイレに入っている間、私は道の駅を観察していた。この道の駅はちょっと変わった作りで、本物のJRの駅と繋がっていた。死角になるような場所がいくつもありそうで、仮にテントも張れないような暴風雨でも、ここならなんとか凌げそうだ。
 トイレから出てきた村山さんにここで降りる旨を伝えると、軽く驚いた表情を見せたあと、「そうか、ここなら大丈夫そうだね」と得心したようだった。
 荷物を下ろすと、「ちょっとおいで」と、道の駅にあるレストランへと案内された。
「苦手な食べ物ある?」
「全然ないです」
「ビールは?」
「大好きです」
「そう。……店員さん、この子に刺身定食と生ビールお願いします。お金は今私が払います」
 遠慮する間もなく村山さんは会計を済ませた。
「君を乗せることができてよかったよ。ありがとう。気をつけて旅を続けて下さいね」
 私は村山さんを見送るために一度店の外に出た。食事をご馳走してくれることに、トラックに乗せてくれたことに、私に身の上話をしてくれたことに、何度も何度も感謝を伝えた。村山さんはうんうんと頷きながらトラックに乗り込んだ。ドアを閉めるとすぐに窓が開いた。村山さんは手を伸ばして、私の頭をそっと撫でた。暖かい。自然と涙が溢れてきた。
「こちらこそありがとう」
 そう言って村山さんはトラックを出発させた。見えなくなるまで私はトラックを見つめていた。 

 雨の日に乗せてくれる人はとてつもなく優しい人が多いなどと偉そうに分析していた自分を恥じながら、私は生ビールと刺身定食を頂いた。涙と鼻水を何度も何度も拭いながら。

発散

 暴風雨という名称にふさわしい暴風雨に曝された三日間だった。
 工事現場の赤いコーンが空を飛んでいるのを初めて見た。他にも色々なものが飛んでいた。外に出ることもできず、ひたすら道の駅で過ごす。道の駅はほぼ休業状態だった。おかげで私は階段の踊り場を自室のようにして使うことができた。絵葉書を描いたり、文章を書いたりして過ごす。
 昼間、道の駅には管理のためなのか、従業員のおじさんが一人だけ来ていた。そのおじさんも退屈だったのだろう、ちょこちょこ踊り場に来ては、この辺りのことを色々と教えてくれた。岩牡蠣、アワビ、サザエ、甘えびなどの魚介類が最高に美味しい。景観も良く、特に日本海に沈む夕日は何度見ても感動する。そんな地元愛溢れる話をしてくれた。
 おじさんは来るたびに何かをくれた。菓子パン半分だったり、スルメ数切れだったり、ビスケット数枚だったり。自分が野良犬にでもなったようで、妙におかしかった。
 読み終わったスポーツ新聞をくれるのも嬉しかった。普通の暮らしをしている時には全く気がつかなかったが、世の中の動向を知るということは、自分もまたその社会の一員だということを実感する作業でもあるのだ。決まり事だらけで窮屈な印象しかなかった“社会”という言葉に、その時初めて前向きな姿勢で向かい合えたような気がする。……と、そんなことを考えながら、セクシーなページだけをそっと引き抜いた。

  道の駅滞在三日目の夜。相変わらず暴風雨が吹き荒れている。いつからだろう、道の駅に併設するJRの駅では電車が止まりっぱなしだ。気の毒な事に、乗客の影もチラホラ見えた。新聞によると明日には晴れる予報だが、どうにも信じられない。私は最新情報を得るために、公衆電話から一七七にかけた。ピンポンパンポーンという音の後、こんなことを言っていた。
「明日は、朝のうち強く降り、大雨で、朝のうち雷をともなって、一時激しく降り、のち晴れでしょう」
 前置きがやたら長かったが、どうやら昼からは晴れるようだ。
 次の日、だいたい予報通りの経過で、昼から見事に晴れた。おじさんに別れを告げに行くと、封の開いたカレーパンを「まだ食べてないから」と言って渡してくれた。最後までマイペースなおじさんが愛しく思え、尻尾があったらブンブンと振りたい気分だった。
 台風直後ということもあったのだろう、その日は車通りがかなり少なく、ヒッチハイクを開始して二時間後にようやく一台の車が止まってくれた。車に乗っていたのは二人で、二十歳前後の姉妹だった。私はヒッチハイクで乗せてくれた女性のことは基本的に女性として見ることができなかった。だが、その姉妹を見た瞬間、恥ずかしながら心の中で「めちゃくちゃ可愛い」と叫んでしまった。透き通るような白い肌に、肩まで伸びた柔らかそうな髪。日本人形とフランス人形のハーフのようなその姉妹に、出会った瞬間からときめきっぱなしだった。
 山形県酒田市にある実家から新潟にある親戚の家に遊びに行っていたが荒天のために車を出すことができず、今日数日ぶりに帰宅するという。美人姉妹の話す「んだらねー」とか「だ、だ」という山形の方言がとても心地良く、酒田市までの道中はまるで夢の中にでもいるような気分だった。

 一時間たっぷりかけて酒田市に到着。海沿いに静かな公園があるというので、そこで降ろしてもらうことにした。荷物を下ろしていると、二人も車から降りてきた。別れを告げようとすると、何やら妹さんの方がお姉さんに耳打ちして、二人で笑っている。お姉さんが「あのの(あのね)」と切り出した。ドキンと胸が高鳴る。「結婚してほしい」なんて言われたら、断る自信はない。そのまま酒田市に骨を埋めると思う。
「あのの、その酒田って書いた紙、欲すいんだげど」
 ヒッチハイクで使うスケッチブックのことだった。
「い、いいですよ、こんなもんでよければなんぼでも」
 残念なような、ホッとしたような、なんとも形容しがたい気持ちで「酒田」と書かれたページを切り離した。
「あのの」
 再びドキッとする。
「あのの、サイン書いでけろ」
「ぼ、僕の? はい。僕のサインでよければなんぼでも」
 サインをして紙を渡すと、二人してキャッキャッと喜んでくれる。天女の戯れを見ているようだった。
 車中から手を振って去って行く美人姉妹。
「あの姉妹は、これからも多くの男を惑わせていくのだろうなあ、無自覚に……」
 そんな事を考えながら、小さくなっていく車に手を振り続けた。

  少し早かったが、その日はその公園にテントを張った。公園の近くでは、水嵩を増した最上川が勢いよく海に流れ込んでいる。
 ツバメが低く飛び交う公園で、私は暗くなるまで正拳突きと回し蹴りを繰り返した。川も人間も発散が大事だ。

不思議系トラッカー

  美人姉妹との出会いから二日後、私は青森県の小川原湖のキャンプ場にいた。朝になって、ワイワイとした人の声で目が覚めた。キャンプ場には昨夜遅くに着いたのでもっと眠っていたかったが、時間が経つにつれて騒々しくなっていくので、仕方なく体を起こした。脳がまだ目覚めていないようで、頭がクラクラする。

  話は昨日の朝にさかのぼる。
 昼下がりの盛岡にて、雄大な岩手山を背後にヒッチハイクをしていると、電飾をたっぷりつけたトラック、いわゆるデコトラが止まってくれた。このデコトラの運転手は名前を木下さんといって私よりも一回り年上の三十六歳。かなり変わった人で、走り出してしばらくすると、唐突に自身が起こした交通死亡事故の話をしだした。「そうですか」としか言うことができずにいると、今度は若い頃のモテ自慢をしだした。「とにかくメチャクチャにモテて、六人と同時に付き合ったことがある」と、他人にはどうでもいいようなことを長々と語り出した。これだけなら、“気持ち悪くて嫌な人”で終わるのだが、不思議なことに木下さんの話には、ついつい身を乗り出して聞いてしまう魅力があった。落語家のように語り口が軽妙なので、内容の道徳性にさえ目を瞑れば、聞いていて心地良いくらいだった。話題はあっちこっちに飛びまくるが、そのどれもが面白く、まるで壮大な絵巻物のようでもあった。絵巻物の最後は、意外にも木下さんの夢の話で締め括られた。
「夢と言えばね、昔からおかしな夢を見るのさ。場所はアラスカ。一本の木の下に俺がいる。周りは猛吹雪。吹雪のせいで息苦しくなってプハッと顔を上げると、なぜか空はどこまでも真っ青。この夢を何度も見るのさ。俺はその場所を探しに行くために、お金を貯めているのさ」
 世の中には本当に色んな人間がいるんだなあと、改めて思った。

  話に聞き入り過ぎて、トラックの外は真っ暗になっていた。木下さんは下北半島のむつ市まで行くという。今更降りられないから最後までついて行こうかと思っていると、「ここでいいよね」とトラックが止まった。ヘッドライトが「小川原湖畔キャンプ場」という看板を照らしていた。
「たぶん、テント張れると思うよ」
 ああそうですかと、促されるままにトラックを降りた。
「また会えるといいねー」
 明るい笑顔でそう言い残し、木下さんはさっさと行ってしまった。彼には「夜だから」という理由付けは存在しないようだ。ただ単に私の存在が邪魔になっただけかもしれないが、そのドライさが逆に心地良く、カッコイイとさえ思ってしまった。めちゃくちゃモテたというのも、まんざら嘘ではないように思えた。
 時計を見ると十一時を回っていた。私は外灯の灯りを頼りに、その辺の芝生にテントを張り、すぐに眠りについた。 

 そして朝である。
 テントから顔を出すと、思いのほか多くの人がいた。ほとんどが家族連れのようだ。外国人の家族も何組かいる。そうか、三沢の米軍キャンプが近いのだ。それにしても皆楽しそうだ。なんだか場違いのような気がして早々に荷物をまとめた。
 キャンプ場から出ると、すぐ近くに「寺山修司記念館」なるものがあった。寺山修司といえば唐十郎と並ぶアングラ演劇の伝説的人物だ。役者を目指している者にとっては神様と言っても過言ではない存在だ。
「……まあでもいいや。お金かかるし、荷物もあるし」
 それよりも、もうすぐ本州最北端。そして津軽海峡の向こうは、まだ見ぬ大地、北海道だ。夢は膨らむ。
「さようなら。また機会があれば寄らせて頂きます」
 私はキャンプ場を、そして寺山修司記念館を後にした。

北海道第一歩

  小川原湖のキャンプ場から四台の車を乗り継いで、夕方ごろ大畑町(現在はむつ市に編入)に着いた。四台のうち二台の運転手が北海道の人だった。まだ見ぬ「北海道」という存在に自分が近づいていることを実感する。十八歳の時、中国行きのフェリーで中国人の従業員に会った時のことを思い出した。「この人は中国から来て、今俺と接している。世界ってのは本当に存在するんだな」と妙に感激した。その時と同じような感覚だった。 

 大畑町は室蘭との航路があった。しかし私は、もう少し進んだところにある大間町を目指していた。大間町からは函館に行くことができるからだ。函館には、島根県で出会ったヤクザっぽい三浦さんがいる。彼を頼る訳ではないが、函館に着いたら電話ぐらいはしてみようと思っていた。

 その夜、テントで寝ていると突然もの凄い暴風雨に襲われた。大畑町にある海辺の公園にいたのだが、周りには遮るものが何もなく、風雨がまともにテントを打ちつけた。テントが何度も浮きそうになって必死で抑える。
 暴風雨は三時間ほどで過ぎ去ったが、それ以上長引いていたら耐えられなかったかもしれない。
「どんな時でも最悪の状況を想定しておかなきゃな」
 そんなことを思いながらグッタリと眠りについた。

 朝、外に出ると、風に飛ばされて色々なものが散乱していた。人の背丈ぐらいあるトタン屋根もあった。あれがテントに直撃していたらと思うとゾッとする。
 テントを片付けていると、近所のおじいさんが物珍しそうに近づいてきて話しかけてくれた。「うちに泊まればよかったのに」という言葉に大笑いする。「次の機会によろしくお願いします」と答えておいた。

 川谷拓三そっくりな男性が運転する軽トラに乗せてもらい、午前十時頃、大間のフェリー乗り場までやってきた。
 だだっ広い港にポツンと建てられたフェリー乗り場。沖を望むと無数の白波が細かい牙を剥いている。晴れてはいるが風が強く、七月だというのに寒く感じる。全てが“本州最北端感”を演出しているようだった。
 待合室には思ったよりも多くの人がいたが、誰一人喋っていない。北へ向かう人の群れは誰も無口。私もその群れに混じってフェリーへと乗り込んだ。
 フェリーは、右へ左へとかなり強く揺れた。極端に乗り物酔いしやすい私は、誰よりも早く客室の隅で仰向けになり、函館に到着するまで全く動けずにいた。途中、おばあさんに「大丈夫だが?」と心配されるぐらいだったので、もしかしたら半分死んでいたのかもしれない。 

 函館に着いた。まずは何台ものトラックや乗用車がフェリーから下りて行く。“辺鄙な航路”と勝手に思い込んでいたので、その混雑具合に少し驚いた。車両に続いて人も下りていく。
 船酔いのせいで多少ふらつきながらも、北海道に上陸。大地に足をつけ、感慨に浸る。ここから私は、自分の二本の足で、北海道のあらゆる場所へ行くことができるのだ。今の時点で、私の足跡は点でしかない。しかし、時間が、日数が経つにつれて、点は線になり、線はさらに複雑に絡み合い、膨らみを持ち始める。どんな出会いがあり、どんな出来事が起こるのだろう? 船酔い気分はすっかり抜け、希望に酔いしれた。
「お兄さん、先に進んでよ」
 誘導係の人に注意されて、慌ててフェリーから離れた。 

急展開

  どこへ向かうかは全く決めていなかった。右へ行くのも左へ行くのも私の自由だが、とりあえず三浦さんに到着した旨だけでも伝えておこうと思い、公衆電話から三浦さんの携帯電話にかけてみた。
「おー! 本当に来たのか! ちょうどいいや。今時間あるから、オヤジのところへ連れてってやる! 五稜郭タワーで待ってろ!」
「オヤジ」という言葉に少し危機感を覚えたが、とりあえず流れに任せてみよう。

  五稜郭タワー前で待っていると、「パッパー」とけたたましいクラクションの音が響いた。見ると、あの黒光りするベンツだった。交通ルールなどお構いなしで停車。後続車も止まり、瞬く間に渋滞が起きる。
「オーーー! 元気かーーー!」
 ベンツから颯爽と三浦さんが飛び出してきた。やけにテカテカした紫紺のスーツを身にまとっている。絵に描いたようなヤクザスタイルだ。私の肩をバンバンと叩く。
「おう、後ろの車に迷惑かかるから、さっさと乗れや!」
 一応の気遣いはあるようだ。私は急いで、それでいて車を傷つけないよう慎重に荷物をトランクへ詰めた。
「おう、悪いな!」
 後続車の方を向いて元気よく詫びを入れ、三浦さんは車を走らせた。 

 島根から北海道までの土産話をひと通り披露すると、三浦さんは「おー! すごいな!」とか「おお、大変だったなあ!」と、たいそう面白がって聞いてくれた。
 車は函館市内を抜け、国道二二七号線に沿って西へと向かっていた。人工物がほとんどなく、延々と森が続いている。
 三浦さんが機嫌よく運転しているのを確認してから、気になっていたことを訪ねてみた。
「オヤジさんの所ってのは、どこにあるんですか?」
「おお、言い忘れてた! 俺、こう見えても忙しいからよ。お前の世話、オヤジに頼んどいたから」
「その、オヤジさんは何してらっしゃるんですか?」
「もういいジジイなんだけどよ、元気に漁港でフォークリフト乗り回してんだわ」
 どうやらヤクザの“オヤジ”ではないようで、ホッと安心した。

 二時間ほどで目的地と思しき漁港に着いた。荒々しい波がテトラポッドにぶつかってドドンと音を立てている。漁港の片隅にあるプレハブに案内された。
「オヤジー!」
 三浦さんが大声で呼ぶと、プレハブの中からオヤジさんが出てきた。背はそれほど高くはないが、体はがっしりしている。浅黒い顔にパンチパーマ、眼光は細く鋭く、よく切れる刃物のようだ。とても堅気には見えない。
「こいつがこの前言ってた旅人の英二。世話してやってくれな」
 私は自己紹介をして「よろしくお願いします」と頭を下げた。オヤジさんは軽く頷いたが、何もしゃべらない。
「オヤジ、頼むな。英二、ちょっとこっち来いや!」
 言われるままについて行くと、三浦さんは漁港にある大きな倉庫のような建物にズカズカと入って行った。建物は波止場にそのままつながっているようで、船がユラユラと揺れているのが見える。仕事を終えたばかりといった感じの人たちが輪になって談笑している。「おう!」と三浦さんが声をかけると、皆が「久しぶり」「元気だったか?」と声をかける。どうやら三浦さんはこの漁港では“顔”のようだ。
「こいつ、しばらくここにいるから、よろしくな!」
 事情がよく分からないが「よろしくお願いします」と挨拶をする。「なんだか知らねーけどよろしくよろしく」といった感じで、皆で一斉に歓迎してくれた。

  再びオヤジさんのプレハブに戻ると、三浦さんは「そんじゃあまたな」と言って車に乗り込もうとする。私は慌てて呼び止めた。
「三浦さん、えーっと、僕、何をすればいいんですか?」
「おう、なんもしなくていいぞ。遊んでろ。まあ、働きたいんだったら、漁港の奴らに声かけてみろ。俺も時間があったらまた来るからよ! じゃーな!」
 パッパーと高らかにクラクションを鳴らして、三浦さんは去って行った。
「凄い展開だな」
 黒光りするベンツを見送りながら、そう呟いた。 

豹変

 オヤジさんは最初こそ言葉少なだったが、私が「ここはどこですか?」と尋ねると、「おめー、そんなことも知らねーで、ここに来たのか?」と大笑いして、それからは普通に喋ってくれるようになった。

 渡島半島の日本海側の小さな港町。ここでオヤジさんは生まれ育った。若い頃は、やはりヤクザの世界にいたそうだ。漁師をしていたこともあるが、今は専ら運搬の仕事に携わっているという。港内でフォークリフトを運転したり、時には大型トラックにも乗るそうだ。今は函館に家を移して、イカ漁で忙しいこの時期だけ、この港町に帰ってくるという。
「おめー、ここで何するつもりだ?」
「港で働かせてもらえるなら、やってみたいんですけど」
「わかった。任せろ」
 オヤジさんはすぐにどこかに電話をかけ、私の理解できない地元の言葉で何やら話している。バイリンガルみたいだ。
「話つけといたから、朝六時頃、港に行け」
 想像もしていなかった展開だ。
 この日は、ご近所のおばちゃんが持ってきたイカ飯と、オヤジさんが作ってくれたイカそうめんを肴に、お酒を酌み交わした。 

 朝、六時よりも少し早く港へ行った。昨日行った大きな建物からガヤガヤとにぎやかな声がする。中をのぞくと大勢の人が楽しそうに談笑している。二十人くらいはいるだろうか。ほとんどがお年寄りで、若い人は五人程度だ。「おはようございます!」大きな声で挨拶すると、現場のリーダーといった感じの男性に「おいでおいで」と手招きされた。肩をバンバン叩かれながら「頼んだぞ」みたいなことを言われた。仕事の内容が全く分からないが、力仕事なら自信がある。皆をあっと言わせてやる。

 突然、皆があちこちに散らばった。港に漁船が入ってきたのだ。リーダーに案内されて、私は波止場に向かった。
 船が港に横付けにされ、漁師さんがイカのいっぱい入った魚箱を港に上げる。それを受け取って、フォークリフト用のパレットに積み上げるのが私の仕事だった。魚箱は次から次へと上げられてくるのでかなり忙しい。一隻が終われば入れ替わりに別の船が横付けされ、同じ作業を繰り返す。
 三時間ほどで全ての水揚げが終わった。

  作業が終わって気がついたのだが、周りの人は皆、作業用の合羽を着て、ゴム長靴を履き、肘まですっぽり覆うような手袋をしている。私はというと、Tシャツとジーパンとスニーカー。要は普段着だ。そして今、それらの衣類は海水やイカのぬめりでベトベトだ。おまけに、前腕部分が魚箱とこすれて、あかぎれのようになっている。「あらら、ひどいね」と皆が声をかけてくれるほど惨めな格好だった。だがそれでも、私は仕事をやり切った充実感に満たされていた。やはり、働くことは素晴らしい。
「おうおう、ご苦労さんだったな。明日も来るのか?」
 リーダーが尋ねてきた。よろしくお願いしますと答えると、合羽や長靴など、必要なものを用意してくれることとなった。
 オヤジさんのプレハブ横にあるお風呂でシャワーを浴びながら、その場で衣類も洗った。洗濯物を干して港の倉庫に戻ると、大きな寸胴鍋からもくもくと湯気が出て、その周りを皆が取り囲んでいた。おいでおいでをされて、輪に加わる。
「おめえ、よぐ働ぐな」
「うん、よぐ働ぐ」
「力もありそうだ」
「大したもんだ」
  皆が褒めてくれる。照れ臭い。
「もう、こごに住んだらいいべや」
 そうか、そういう選択もあるのか。
「ホレ、これ食え」
 鍋から取り出して渡されたのは大きなフキだった。本州の物に比べるとかなり太い。丸ごと齧りつくと、皆が大笑いした。
「ハハハ、ホレ、こうやって皮さ剥げ」
 言われた通り、薄皮を剥いてシャクシャクと齧ってみた。特に美味しくはなかったが、皆で輪になってシャクシャクしているのが楽しかった。

  朝は港で働いて、昼からはオヤジさんの私用を手伝う。そんな生活が五日間続いた。仕事の報酬は日払いで五千円。二万五千円も稼いでしまった。函館に着いた時の所持金が八千円程度だったので、ものすごい金持ちになった気分になる。

  五日目の晩だった。私が二人分の夕食を作っていると、オヤジさんが、オヤジさんと同じ年頃の女性を連れてきた。
「アハハ、あなたが旅人さん? はじめましてー。お邪魔していいかしら~? アハハハ」
 どうやら奥さんではなく、こちらでの彼女のようだった。受け答えに少し病的なものを感じたが、持てなさない訳にはいかない。オヤジさんの好きな焼酎の水割りを二人分用意した。
「オメーもさっさとメシ作ってこっちさ来いよー」
 オヤジさんは既に酔っぱらっているようだった。私はなぜか気分が乗らず、ゆっくりと夕食を作った。
 二人は最初のうちは楽しそうに飲んでいたが、ふとした瞬間にお互いの言葉が荒くなり、ついには口論に発展してしまった。私は見て見ぬふりをしていたが、オヤジさんが彼女に水割りをぶっかけたので、慌てて仲裁に入る。「オヤジさん、お願いします。ここは僕に免じて! お願いします!」と、芝居じみたセリフでオヤジさんをなだめて、何とかその場は収まった。
「ささ、気を取り直して、楽しく飲みましょう」
 急いで料理を仕上げ、私も席についた。仕切り直して三人で乾杯をする。「なんとか収まったか」と思った瞬間、女性が口火を切った。
「この人、昔からこうなのよ」
 私に懇願するような目で訴えてきた。それが面白くないオヤジさん。表情が一気に強張る。
「ねえ聞いてよ」
 しなを作って私に話しかけてきた時だ。バシャっと、私の顔にも水割りがかかった。
「んだ、オメーらデキてんのか?」
 とんでもない言いがかりだが、努めて冷静に「そんな訳ありませんよ」となだめる。ギラギラと私を睨むオヤジさん。ああ、もう耐えられない。いや、でもじっと耐えるしかない。無言で下を向いていると、さらに女性が油を注いできた。
「そんなに言うならデキちゃおうか?」
 テーブルがひっくり返った。オヤジさんがめちゃくちゃに怒鳴っている。女性も甲高い声で絶叫している。もうダメだ。ここには一分、一秒もいられない。私は立ち上がった。
「オヤジさん、もういいっすわ。こんなとこ居たくないから出て行きますわ」
 二人の動きが止まった。荷物をまとめようと二人に背を向けたその時、ドンとお尻を蹴飛ばされて、私は床に倒された。
「テメーこのヤロー! さんざん世話してやったのに、なんだその言い草は! もう許せねえ!」
 倒れた私の背中を何度も蹴りつけるオヤジさん。相変わらず甲高い声で喚き散らす女性。私は抵抗できずにいた。オヤジさんは私の襟元を掴んで体を起こした。
「おい、正座しろ」
 言う通りにする。
「お前、誰のおかげでここにいられると思ってんだ? 若い衆呼ぶぞ? 本物のチャカ見せてやろーか?」
「すみませんでした」
「なあ、おい、名古屋に電話してやろうか?」
 そう。初日に、「何かあったら大変だから実家の住所と電話番号を紙に書いておけ」と言われて、その通りにしていたのだ。
「すみません。勘弁して下さい」
「どうしようもねえバカ息子だな」
「はい。すみません」
「家まで送ってくるから、お前、部屋片づけとけよ」
 オヤジさんは女性に対しての怒りはすっかり消えたようで、肩を抱いて外に出て行った。
「帰ってくるまでに片づけなくちゃ」
 逃げ出すという選択肢は、その時の私には考えられなかった。

逃亡

 それから二日間、私は完全にオヤジさんの奴隷だった。朝、水揚げの仕事をこなすと、すぐにオヤジさんに呼び出される。一日目は錆だらけになった包丁を二十本ほど研がされた。二日目は、トラックの錆を全部落とせと命じられた。海辺のトラックはあちこち錆だらけでとても一日では落としきれない。晩になると「落ちてねーじゃねーか」と、スコップでお尻を叩かれた。
 食事は、朝昼晩、食パン一枚ずつだった。二日目に腹が減り過ぎて、水揚げされたイカの耳をそのまま齧った。イカはまだ生きていて、ピギーと悲鳴をあげた。私はイカ以下だ。悲鳴をあげることさえできない。
 あの日以来、プレハブの中に入れてもらえず、夜はプレハブ横の物置で寝た。ザックとサックスはプレハブの中にあり、逃げ出すこともできない。
 稼いだお金は全て没収された。私はまごうことなき奴隷だった。

 三日目、再びトラックの錆取りを命じられる。
「帰るまでにできてなかったら殺すからな。ああ、それと窓ガラスにゴメ(カモメ)の糞がついてるぞ。とっとけよバカヤロー」
 そう言って自家用車に乗って出て行った。もらったパン一枚を食べ、水をたっぷり飲んで腹を満たす。そしてすぐに錆取りを開始した。
「落とさなきゃ、落とさなきゃ、落とさなきゃ、落とさなきゃ……」
 しかし錆はなかなか落ちない。悲しくなって視線を上げると、プレハブの中のザックが目に入った。プレハブに近づく。ザック、そしてサックスもある。あれは、あの二つは、私にとって自由の象徴だ。しかし今、あの二つは私の手の届かない所にある。落胆して窓ガラスに手をつけた。すると、かすかに窓が動いた。ハッとして横にスライドさせる。窓は開いていた。私は慌てて窓を閉め、すぐに錆取りを再開した。
「落とさなきゃ、落とさなきゃ……」
 精神が完全にオヤジさんの支配下に置かれていた。上空でカモメが何羽もアーアーと鳴いている。
「そうだ、カモメの糞も落とさなきゃ」
 カモメ。
 そうだ。しんちゃんにもらった「かもめのジョナサン」もあのザックの中に入っている。
 自分の信念を曲げず、ついに群れを追放されたジョナサン。それでも自分を信じて強く生きていく……。
 しんちゃんは私に何を伝えたかったのだろう。本の欄外に書いてくれた言葉。
「何かを見つけるまで帰ってくるんじゃねー」
 私はまだ何も見つけていない。私は、行かなければならない。
 再びプレハブに近づき、そっと窓を開けた。痛いくらいに心臓が激しく鼓動を打つ。ゆっくりと深呼吸をしてから、そーっと侵入した。まずはザックを、次にサックスを窓の外に運んだ。これだけではだめだ。実家の住所と電話番号を書いたメモを探さなければならない。オヤジさんがいつも座っていた辺りに置いてあるはずだ。ガタガタと震えながら、郵便物や町の広報の束の中を探す。……あった。震えが一層強くなる。落としでもしたら大変だ。くちゃくちゃに丸めて飲み込んだ。
 腰が砕けそうになりながら窓の外に下りた。丁寧に窓を閉める。ザックを背負い、サックスをしっかりと握ると、少しだけだが勇気が湧いてきた。
「よし、逃げよう」
 私は急ぎ足でプレハブを後にした。

 ひと気のない国道を必死で歩いた。オヤジさんの乗っているシルバーでセダンタイプの車が通るたびにビクビクする。見つかったらおしまいだ。バス停があった。しかし時刻表がない。まさかバスが来るまで呑気に待っている訳にはいかない。再び歩き出す。それにしても、本当に何もない道だ。前を見ても一人、後ろを向いても一人。全く前進している気がしない。このままでは埒が明かない。無理やりにでもヒッチハイクしよう。
 振り向くと、車が来ているのが見えた。はっきりとは見えないが、色は白い。オヤジさんの車ではない。私は車道に出た。普段はこんな迷惑な真似はしないが、思い切ってそこで大きく手を振った。車は私のだいぶ前で止まった。四十代くらいでサラリーマン風の男性だった。私は、「ごめんなさい、本当にごめんなさい」と言って駆け寄った。迷惑そうに私を見ている男性に、私は懇願した。
「本当に申し訳ありません。ダメなら諦めますが、近くの町まで乗せてもらえませんか?」
 何かを察してくれたのだろう。男性は「いいよいいよ、乗りなさい」と言ってくれた。

「何かあったのかい?」
 助手席で黙りこんでいる私に、男性が声をかけてくれる。
「……旅をしていたんですが、身内に不幸があって急に帰らなくちゃならなくなって……」
 車に乗りはしたものの、オヤジさんの呪縛はまだ解けきっていなかった。『もしかしたら、この人はオヤジさんと繋がりがあるかもしれない。本当のことは言わない方がいい』そんな猜疑心を抱えていた。
「そっかぁ、大変だな」
 男性の返事に、少し心が痛んだ。

 一時間ほど走っただろうか、民家がチラホラと見えるようになり、程なくしてJR江差駅に着いた。
「気をつけて帰りなさいよ」
 そう気遣ってくれる男性に何度も何度も頭を下げて礼を言い、車を見送った。
 これでとりあえず安心だ。待合室のベンチにぐったりと腰を下ろした。
「これで逃げられる」
 そう思うと一気に緊張が解け、私はその場で眠ってしまった。 

救いの手

 ポンポンと肩を叩かれて目が覚めた。ビックリして飛び起きると、制服を着たおじさんが心配そうに私を見ている。「起こしてゴメンね」と言って、おじさんは喋り出した。
「私、バスの運転手なんだけどね、君がここに着いた時からずっと見てたけど、何かあったのかい? 普通の旅の人と様子が違ってるように思えてね……」
「あっ、実は旅をしていたんですが、身内に不幸が……」
 また嘘をついた。
「そうか、じゃあ汽車に乗るんだね。良かった。……いや、あのね、ここは夜になると暴走族がたむろするからね、それが気がかりで声をかけたんだよ」
「そうなんですか。ありがとうございます。ここでは泊まらないようにします。ありがとうございました」
 運転手さんは、「じゃあ気をつけてね」そう言って去って行った。
「寝てたのか……」
 ここの待合室に入ったのは覚えているが、それからの記憶が全くなかった。肉体的にも精神的にもよほど疲弊していたのだろう。
 「ふう」と深く息をついて下を向くと、たくさんの小さな蟻が死んだ蛾を運んでいた。「何のために生きてるのかな」そんなことを思いながらその光景を眺めていると、再び意識が遠のいていった。 

 「キミ、キミ」と肩を揺すられている。ハッと顔を上げると先程の運転手さんだった。
「大丈夫かい?」
 運転手さんは勤務を終えたようで、私服を着ていた。「大丈夫です」と答えると、なぜだか涙が溢れてきた。慌てて下を向く。
「何か事情があるんだね。……君さえよければだけど、うちに泊まるかい?」
 下を向いたまま、小さな声で「お願いします」と答えた。

  運転手さんの名前は藤川さんと言った。自宅は函館にあるが、今は単身赴任で江差に住んでいるという。
 帰宅途中の商店で総菜やお酒を買い込み、藤川さんのアパートに着いた。「先にお風呂に入りなさい」と言われ、お言葉に甘える。北海道で初めて浸かる湯船は、体よりも心が温かくなった。
「良かったら話を聞かせてくれないかい?」
 缶ビールを開けながら、藤川さんはそう口を開いた。
 私は、函館に来てからの出来事を全て話した。藤川さんは途中一切口を挟まず、全てを聞き終わると頭を垂れてこう言った。
「同じ北海道の人間として申し訳なく思う。本当にすまなかった」
 思ってもいなかった言葉に躊躇した。
「いえ、僕が勝手に北海道に来ただけですから全然気にしていませんよ。それにオヤジさんだって本当はいい人なんですよ。いろいろお世話してくれたし……」
 弁解する私をキッと見つめ、藤川さんはこう言い切った。
「いいかい。キミをそんな目にあわせた人が、いい人な訳がないよ。キミは何一つ間違っていない。わかるかい?」
「……ありがとうございます」
 そう答えるのが精一杯だった。
 その日は、夢さえ見ないほどに深く深く眠った。
 翌朝、再び江差駅へ連れてこられた。
「いいかい? キミは誰にも遠慮せずに旅を続けなさい」
 私は何度もお礼を言い、深く頭を下げた。藤川さんは私の肩をポンポンと叩き、バス会社の方へと向かっていった。
 藤川さんを見届けると、私は駅の窓口へ行き、木古内までの切符を購入した。

洗脳解除

 汽車に揺られながらも、オヤジさんの追手がどこからか私を見張っているのではないかとビクビクしていた。
 私が脱走したことを知ったオヤジさんはどんな行動をとったのだろうか? オヤジさんの指令を受けた若い衆が北海道中に散らばっているんじゃないだろうか? 息子の方も血眼になって私を探しているんじゃないだろうか? もう北海道はこりごりだ。木古内まで行けば、そこから青森へ行けるはずだ。
 そんなことを考えていると、向かいに座っていたお婆さんが「兄さん、ホレ、これやる」と、お饅頭をくれた。そのぞんざいな物言いに思わず破顔してしまった。私の顔を見てお婆さんはこう言った。
「あれ、そんな笑顔できるんだね。ずーっと難しい顔してっから、どうしたんだろって心配してたんだよ」
……そうか、私はずっと難しい顔をしていたのか。 

木古内駅に着いた。
私はホームのベンチに腰掛けて考えた。
「俺は今、怯えている。何に? オヤジさん? 息子? チャカ? 若い衆? それら全て?」
 ふーーーっと深く息を吐いた。
「奴らに捕まったらどうなる? 一生奴隷のような生活を送るのか? それともボコボコにされて魚の餌にでもなるのか?」
 天を仰いで目を閉じる。
「俺の旅はまだ途中だ。何も見つけていない。何も達成していない。奴らのために、この旅を犠牲にしていいのか? いいわけがない。……上等だ。どうせ大した人生じゃないんだ。捕まって殺されたって構うものか。そうなったら所詮それまでの人生ってことだ。それに、もしもそんな事態になったら、今度は……今度は殺してやる。大勢いたとしても、誰か一人は道ずれにしてやる。拳銃で撃たれても、絶対に一人はぶち殺してやる」
 目を開いて前を見据えた。
「覚悟だ。覚悟さえすればなんてことはない。今までもそうしてきたじゃないか」
 私は立ち上がった。ザックを担ぎ、サックスをギュッと持つ。下っ腹に意識を集中する。文字通り、腹を決めた。
「はっ!」と短く吠えて、私は歩き出した。
 不思議なもので、覚悟を決めると景色が違って見える。それまでは人や車を見るとクソオヤジの手下じゃないかと思ってビクビクしていたが、今は逆に「殺してやるから現われてみやがれ」という気持ちになっている。かといって別に殺伐とした気持ちという訳ではない。実に晴れ晴れとした気持ちなのだ。
 闘志を燃やしながら歩いていると、スポーツ用品店が目に入った。店の中にいたおばちゃんと目が合うと、自然にニッコリと会釈ができた。疑心暗鬼に陥っていた自分とは完全に決別することができたようだ。
「ちょっとー!」
 後ろから声がした。振り向くと、今しがた会釈をしたおばちゃんだった。
「あなた旅してるんでしょ? これあげるわ」
 三枚組の靴下だった。スポーツ用なので、決して安くはない。
「え? いいんですか?」
「いいのいいの、人気なくて売れ残ってるヤツだから遠慮しないで。でも、物はしっかりしてるわよ」
 手を振りながら店に戻っていくおばちゃんに「ありがとうございます!」と礼を言うと、最後に投げキッスをしてくれた。心の中でしっかりと受け止める。
 再び歩き出すと、世界は輝いて見えた。 

出会いの妙

 木古内から函館、函館から内浦湾沿いにぐるりと回り、室蘭を経て、その日は白老町のとある公園まで辿り着いた。テントの中、ヘッドランプの灯りを頼りに、昨夜泊めてくれた藤川さんへのお礼の手紙をしたため、最後に「北海道の旅を続けます」と結んだ。
 木古内からのヒッチハイクは、それはそれは楽しいものだった。別れ際に「これあげる」と函館の観光パンフレットをくれた娘さんとそのお母さん。無口だけどずっとニコニコ笑顔で、お昼にウニいくら丼をご馳走してくれたおじいさん。霧だらけの地球岬に連れて行ってくれた営業中のサラリーマン二人組。経営している居酒屋の備品などを買い出しに来ていて、私をここまで連れて来てくれた若夫婦。
 それまでのクソジジイによるマイナスを補って余りある素敵な一日だった。だが同時にこうも思う。あのクソジジイがいたおかげで、今日の出会いもあったのだと。これが“出会いの妙”というものなのだろう。いい出会いも悪い出会いも、全ては繋がっている。全ては一つなのかもしれない……。
 宇宙の真理を発見したかのように悦に入っていると、「おーい」と呼び声が聞こえた。テントの外に顔を出すと、ここまで連れて来てくれた居酒屋のご夫婦だった。
「あれ、どうしました?」
「これ、差し入れ」
 そう言って、コンビニの袋を渡してくれた。パン、ソーセージ、ジュース、キャンディ、タバコなどなど、一度に把握できないほど色々なものが入っていた。
「こんなにいっぱい……」
「なんかね、最近お店が上手くいってなかったんだけど、キミに出会えたら、なんとなくこれから上手くいくように思えて……そのお礼です」
 その言葉を聞いて、涙が一気に噴き出した。感激で言葉が出ない。必死で涙を堪えながら「ありがとうございます」そう言うのが精一杯だった。
「もしも機会があったら、いつかお店にも来て下さいね」
 無理矢理に作った笑顔で別れを告げた後、私はしゃくり上げるようにして一人泣いた。今まで強いられていた緊張から、この時、完全に開放されたような気がした。
 ただ、北海道の大自然は、そう簡単に感激に浸らせてくれない。藪蚊が次から次へと現われ、不快な音をたてて襲ってくる。私はテントの中に逃げ込んだ。何匹かも一緒に入ってきた。煙で退治するためにタバコに火をつける。タバコを忙しくプカプカさせながら、私は再び泣いた。全く絵にならない。
 外では、エゾフクロウがホホーホホーと鳴いていた。 

果てしない大地

  白老の公園。ここは地元の人たちの散歩コースのようで、テントを片付けていると、通りかかる人がひっきりなしに話しかけてくれる。どこ行くの? どっから来たの? 学生さん? そんな当たり前のやり取りがこの上なく心地良い。
 白老から苫小牧へ。函館からずっと海沿いの道を通ってきたので、ここいらで山の方へ進むことにした。
 夕張のドライブインまで乗せてくれた若いカップルが「サックスを聴きたい」と言ってくれたので、思い切って人が大勢いるお土産屋さんの前で演奏した。吹き始めてすぐに、お土産屋の店主が、おひねりで千円をくれた。他のお客さんも面白がっておひねりを置いていく。調子に乗って五曲ぐらい演奏すると、合計で三千二百円も集めてしまった。
 あとで分かったことだが、ああいう場合は店の迷惑にもなるので、千円頂いた時点で適当に切り上げていくのが暗黙のルールなのだそうだ。「これで食っていけるんじゃないか?」と思ってしまった自分を大いに恥じた。 

 夕張からは、十勝の新得町へ帰る途中のカップルが乗せてくれた。二人とも柔道で全国大会に出場したことがあるそうで、どちらも肩の筋肉が盛り上がっていた。このカップルもサックスが聴きたいと言ってくれた。しかし延々と森が続いて演奏するような場所がなく、男性の提案で車内で吹くことになった。レパートリーの中で一番静かな曲「OVER THE RAINBOW」をなるべく小さい音で演奏したが、吹いている自分でもうるさいと思った。密室とサックスは相性が悪いことを知る。
 午後四時過ぎ、そろそろテントを張ろうと思い、日高町にある日高ウェスタンファームというドライブインで降ろしてもらう。
「新得町は蕎麦が有名ですから、是非食べに来てくださいね」
「はい。その時はまた車の中でサックス吹かせて下さいね」
 二人は大笑いしながら去って行った。
 ここのドライブインには、大きなヒグマのハリボテがあった。五メートルは優に超える大きさで、ガオーと口を開けている。現実的にはあり得ない大きさだが、本当にヒグマが出るような場所でこういうオブジェを見てしまうと、恐怖心が膨らんでしまう。「テント泊する者のことも考えろよ」と、身勝手に憤る。
 ドライブインの敷地の端に雑草の生えた空き地があったので、そこにテントを張った。敷地の一段下がったところを、きれいな川が流れている。近くにあった標識を見てみると「沙流川(さるがわ)」とあった。
「ここが沙流川かあ」
 沙流川というのは野田知佑の本に何度か出てくる川で、彼曰く「日本で一、二位を争うきれいな川」だそうだ。
 思いもかけず野田知佑の足跡を感じることができて嬉しくなった。 

 翌日昼頃、帯広に着いた。昨日夕張を出てからは、ほとんど森の中の道路を通ってきたので、久しぶりの平野、そして街並みが新鮮だった。
 北海道は、私にとって全て未踏の地なのだが、帯広まで来ると、いよいよ奥地にやってきたと実感できた。地の果てにそびえ立つ屏風のような日高山脈、そして、そこから果てしなく広がる十勝平野。今まで見てきた日本の風景とは全く違っていた。
「果てしない大空と、広い大地のその中で……」
 松山千春の「大空と大地の中で」は、まさにこの風景のことなのだろう。降ろしてもらった十勝川の河川敷に荷物を置き、しばしこの歌をうたいながら散歩をした。まるで空を飛んでいるような気分だった。
 自由でいようとすると、何かと不自由なことが多いが、やはり自由はいいものだ。この解放感は不自由を覚悟で自由を選んだ者のみに与えられる特権だ。
 理屈をこねくり回しながら、自由を謳歌した。

  この日は帯広から北東に少し行った所にある本別町まで行く。降ろされたのは国道沿いの細長い空き地だった。車道に近すぎるような気もしたが移動するのも面倒なので、その日はその空き地にテントを張った。
 西の空を見ると、薄い雲に夕陽がきれいに混ざり合い、空が真っ赤に燃えていた。日高山脈のシルエットがきれいに浮かび上がっている。あの山々には神様がいるに違いない。そんな風に思える光景だった。 

ひぐま濃い麦酒

  比較的静かな場所ではあったが、時折通る車の音で夜中に度々起こされた。そのせいで寝坊してしまい、出発の準備ができたのは十時頃だった。さあ行こうと思ったちょうどその時、セダンタイプの商用車が私の真横に止まった。運転手の中年男性が手動で助手席の窓を開け、笑い顔を見せながらこう言った。
「兄さん兄さん、乗っていかないかい?」
 ヒッチハイクをする前に乗せてもらったのは、この時が初めてだった。
 男性の名前は岩本さん。頭髪が薄く、痩せた白いタコみたいな風貌のこの男性は、釧路でお土産屋さんを経営しているという。
「これこれ、ちょっと聞いてくれる?」
 やや早口でそう言って、カーステレオのテープをカチャリと再生した。何かのラジオ番組のようだった。
「これね、僕が釧路のラジオに出演した時のテープ。スタジオに呼ばれてインタビューされたんだよ」
 聴いていると、なるほど岩本さんだ。緊張しているせいか、今喋っているよりもさらに早口だった。
「ホラ、これこれ、このビールのことを話したんだよ」
 後ろ手にして取り出した黒っぽい小瓶を、押し付けるように私に渡した。ラベルにはヒグマの絵と商品名が書いてある。
「ひぐま濃い麦酒」
 なんとも北海道らしいネーミングだ。
「それねそれね、アメリカのビールで、本当は『シェイクスピア・スタウト』って名前なんだけど、それだと日本人には何が何だか訳分かんないから、『ひぐま濃い麦酒』って名前になったんだよね。道東で初めて取り扱ったから、ちょっと話題になったんだよ。それ、飲んでいいよ」
 そう言って栓抜きも渡してくれた。なんとも用意周到だ。「ぬるいなあ」と思いながらゴクリと飲んで驚いた。スッキリとした日本のビールとは違い、味が濃い。甘みと苦みの相乗効果。お互いがお互いを高めあって、絶妙な味わいを実現している。それでいて、ビールとしての爽快感も失っていない。こんなビールは初めてだった。
「ぬるいのに、こんなに美味しいんですね!」
「おっ! 嬉しいねえ! こういう味のあるビールはね、常温の方が美味しいんだよ」
 私の感想を聞いた岩本さんはご満悦の様子だった。今日はこのビールの試供品を、阿寒周辺のお土産屋さんに置いてくるそうだ。
 岩本さんはとってもいい人なのだが、喋り方と同じで運転がかなりせっかちだった。追い越し禁止の黄色いセンターラインでもガンガン追い越していく。
「北海道ではね、黄色のセンターラインは『注意して追い越しなさい』って意味なんだよ」
 そんなマイルールも教えてくれた。
 せっかちな喋りと運転を味わいながら、阿寒や弟子屈のお土産屋さんを回り、岩本さんの自宅に着いたのは夕方過ぎだった。
「私はまだ行く所あるからね、庭、無駄に広いからさ、好きな所にテント張っていいよ。晩御飯は? 大丈夫、ああそう。じゃあこれ、他の種類のビールもあげるね」
 ひぐま濃い麦酒の他に、北狐レッド麦酒、ハスカップビール、流氷ビール、そばビール。いずれも北海道らしいネーミングの瓶ビールを五本も置いて、岩本さんは風のように消えて行った。
 夕方頃から出ていた霧は、日が沈むに従ってどんどん湧いてきて、いつの間にか数メートル先も見えないほどの霧に包まれた。“霧の町・釧路”とは聞いていたが、これほどとは想像していなかった。
 霧に包まれながら、今まで味わったことのないビールを飲む。まるでどこか遠い異国にでも来たかのようだった。 

捨てられて

  朝、テントから顔を出す。相変わらず霧が出ていたが、視界は悪くなかった。どこかでガサガサと音がする。見ると、痩せた犬がコンビニの袋に顔を突っ込んでいた。「ワン」と挨拶をすると、ビクッとして顔を出した。よく見ると、それは犬ではなく、キタキツネだった。私がテントから出ると、こちらを何度か振り返りながら、テッテッテッと去って行った。
 岩本さんに丹頂鶴自然公園まで乗せてもらう。別れの際、何度もお礼を言うと、茶目っ気たっぷりに「ビールいっぱい宣伝してね!」と言っていた。私に大した影響力はないが、できる限り宣伝しようと心に誓う。 

 ヒッチハイク開始。五分もせずに、一台の引越社のトラックが止まった。旅に出て三か月ちょっと、これが記念すべき百台目の車だった。
 四人乗りのトラックには、運転手の男性の他に助手として二人の女性がいた。皆二十代前半と若く、車内は陽気な雰囲気で充満していた。ちょうど百台目だということを伝えると、「イェーイ、カンパーイ」と祝福してくれた。後部座席で私の隣にいた女性が、「これお祝い!」と、まだたっぷりと残っているセブンスターを一箱くれた。
 私たちは当時人気絶頂だったJUDY AND MARYの曲を歌いながら、国道二百四十号線を北へ進んだ。ただただ陽気に友達とドライブをしているみたいで、本当に楽しかった。
 阿寒で引越社の三人と別れた。「バイバーイ」と言い合って別れたのは、これが初めてかもしれない。忘れられない百台目だ。 

 阿寒から東へ行くルートは昨日岩本さんと通っているので、道なりに北上して網走へ向かうことにした。だが、次に止まってくれたのが山口から遊びに来た女子大生二人組で、彼女たちは東のルートへ行くという。「ああ、僕もそっちに行くつもりでした」とあっさりと方針を変更した。
「私たち斜里町まで行くんですけど、途中で観光地に寄ってもいいですか」
「僕は全然構いませんけど、お邪魔じゃないですか?」
「ぜーんぜん! せっかくだから一緒に行きましょうよ」
「はい。邪魔になったらその辺に捨てて下さいね」
 笑いに包まれながら、車は東へと進んだ。 

 観光地巡りは実に楽しかった。幸運にも晴れ渡っていた“霧の摩周湖”。ゴツゴツとした岩肌のあちこちから煙を出す硫黄山。砂を掘ると温泉が湧いてくる屈斜路湖の砂湯。さらには、あちこちでチョコチョコと顔を出すエゾリス。これぞ北海道という観光地に二人は大はしゃぎだった。私はカメラ係になりきって二人の旅を全力でサポート。自分の旅なんぞは二の次だ。
「もう、ちょー楽しかった!」
「ホントホント! 次どこ行く?」
 予定の観光地を全て巡り、宿のある斜里町へと向かっていたが、二人は興奮冷めやらぬといった状態だった。時計を見ると三時半。私としてはそろそろ寝場所を探し始める時間帯だった。今はまだ山の中なので、麓に下りた辺りで降ろしてもらおう。そう考えていた時だ。
「バチッ」
 大きな雨粒がフロントガラスに落ちた。後部座席にいてよく分からなかったが、空を見るといつの間にか暗雲が立ち込めていた。助手席の女性が「あ、雨降ってきたね……」と言い終わらないうちにバチバチバチと雨粒が増えていき、ものの数秒で前が見えなくなるくらいの雨に変わった。車内はけたたましい雨音のせいで会話もままならない。豪雨に合わせて雷も鳴り響く。恐怖さえ覚えるほどの天気の変わりようだった。
 これでは車から降りる事さえできない。
「ねえお兄さん、こんな雨の中降ろす事できないから、私たちの宿まで行きませんか?」
「いえ、それはさすがに。それに御覧の通り貧乏旅行なので、あいにく持ち合わせが……」
「大丈夫よ、こっそり部屋に入っちゃえばバレないって!」
「そうですか、そんなに仰るならそうしましょうか」
「やったー!」
 と、そんな気色悪い妄想をしていると、民家がチラホラと見えてきて、雨も少し収まってきた。それを待っていたかのように運転をしている女性が口を開いた。
「あのう……」
 まさか妄想通りの展開か?
「あのう、そろそろ私たち宿に着くので、どこかで降りてもらっていいですか? 雨の中悪いんですけど」
「あっ、そうですよね。僕もそろそろ降りようと思ってました。えーっと、あっ、あそこに公園みたいなのが見えるんで、そこで降ろしてもらっていいですか?」
 大きな焼酎工場に併設された公園で降ろしてもらった。雨の中、挨拶もそこそこに公園の東屋に逃げ込んだ。車を見ると、申し訳なさそうな表情で手を振っている。私は目一杯の笑顔を作って、大きく手を振った。
 東屋の中にテントを張り終えた頃には、雨は完全にやんでいた。私は公園の芝生で、クタクタになるまで正拳突きと回し蹴りを繰り返した。
 この旅で、空手の腕前はかなり上達したと思う。

名寄の夜

  女子大生二人組と別れた清里町から、オホーツク海沿いに網走、紋別と北上した。そのまま海沿いに北上するつもりだったが、紋別で乗せてもらったトラックが内陸部の名寄に行くというので、一緒に連れて行ってもらった。
 延々と森が続き、ポッと町が現われる。名寄はそんな印象だった。
 サックスでも吹いて小遣いを稼ごうと思い名寄駅で降ろしてもらうが、駅には駅員さん以外全く人がおらず諦める。駅にあった町の地図を見ると、近くに“大学公園”なるものがあった。この日の宿泊地にしようと思い、そこへ向かう。
 途中、北海道で一大勢力を誇るコンビニ・セイコーマートがあった。赤外線こたつに潜り込んだような色合いの店舗。丸みをおびた「Seico Mart」の文字。その優しそうな雰囲気につられて店の中に入ってしまった。しかも、あろうことかハンバーグ弁当まで買ってしまった。なんたる堕落。
「仕方がない、テントを張り終えてからじっくりと食べよう」
 そう思って再び歩き出すと、目と鼻の先に公園が見えた。大学公園だ。急ぎ足で近づくと、何やら騒がしい。よく見ると、芝生の一角で、おじちゃんおばちゃんたちが酒盛りをしていた。三十人はいるだろうか、皆とっても楽しそうだ。
 大きな荷物を持った私を見て、一人のおじちゃんが大声で呼び止めてくれた。
「おーい、ライダーさん! こっちさ来ーい!」
 北海道では、徒歩旅でも自転車旅でも「ライダー」と言われることが多い。
「おっ! ライダーさんだ」
「一緒に飲まさい」
「ホレ、飲め飲め!」
 皆が一斉に声をかけてくれる。聞けば今日は町内会の夏祭りだそうだ。毎年、七月の第三土曜日に開くという。遠慮せずに私も輪に加わった。
「ホレ、カンパイカンパイ!」
 生ビールが回ってきた。立ち上がって挨拶をすると、やんややんやの大騒ぎ。
「ホラ、料理も食べさい」
 おにぎり、唐揚げ、卵焼きといった定番メニューから、ツブ貝やイカ飯など北海道ならではのおかずがズラリと並んでいる。ハンバーグ弁当なんか買わなければよかった。
 私は「ザル」と呼ばれるほどビールを飲むので、皆が面白がってどんどん生ビールを注いでくれる。ここは、最高ランクのオアシスに違いない。
 程なくカラオケが始まった。おじちゃんもおばちゃんも実に楽しそうに歌う。見ているだけで私まで幸せな気分になる。
「ライダーさん、ホレ、あんたも歌いんさい」
 少々気がひけたが、断って場がしらけるのもよくない。一曲だけ、「北酒場」を歌った。皆が手を取り合い踊ってくれる。この上なく楽しいひと時だった。
 祭りは九時ちょうどで終わった。皆がテキパキと動くので、会場はあっという間に片付いた。
 私はフラフラになりながらテントを張り、倒れるように眠りについた。

 深夜、ものすごい爆音で目が覚めた。ラッパホーンのパラリラパラリラ。低く唸るエンジン音。暴走族だった。
 大勢の車やバイクが名寄の大通りを走っている。通り過ぎたかと思うとまたやって来る。何度も往復しているようだ。全く寝られない。
「んだよ、事故って死なねーかな」と思っていると、暴走族たちはなんと大学公園の中に入ってきた。そして何を思ったか、私がテントを張った一角を大きく周回し始めたのだ。私の心の声が聞こえてしまったのだろうか?
 私は大急ぎでザックを探り、右手に鉈、左手にナイフを握って中腰で構えた。
「上等だ。襲ってきたら返り討ちにしてやる。大勢いようが関係ない。最低一人だけでも道ずれにしてやる」
 暴走族は相変わらず周回している。音だけに集中していると、遠くから違う音が聞こえてきた。パトカーの音だった。暴走族もパトカーに気づいたようで、あっという間に去って行ってしまった。
「警察バンザイ」
 そう声に出して、仰向けに倒れた。 

太陽

  朝、テントを片付けていると、トコトコと子供が一人やって来た。
「ねえ、キャッチボールしようよ」
 言うが早いか、テニスボールを投げてきた。仕方なく付き合ったが、やっているうちに面白くなり、フライ、ショートバウンド、変化球などなど、私の持てる技術を全て伝授してやった。名前を聞くと「よしまさ。これからはヨシって呼んで」と生意気なことを言うので腹を抱えて笑った。
 なんだか私の方が楽しくなって、一時間以上もこのヨシと遊んでしまった。ヨシがあまりにも可愛く思えてきて、持ってはいたもののあまり吹く機会のなかったオカリナをプレゼントすることにした。私が昨日買ったハンバーグ弁当を食べている間、ピーポーパーポーと楽しそうに吹いている。
 そのうちにヨシの友達も集まり出してきた。皆で鬼ごっこなどをして、結局ヒッチハイクを始めたのは昼過ぎだった。子供たちは、私がヒッチハイクするのを見て同じように真似をする。やりにくいったらありゃしない。
 だが、すぐに一台の軽バンが止まった。体を伸ばして助手席から顔を出した若い女性は開口一番「ヨシ、何してんの?」と言った。会話から察するに、ご近所同士のようだ。
「ねえ、ヒッチハイク乗せてあげて」
 そう言うヨシの口を抑えて、「いえ、無理だったらいいんですよ」と言うと、「どーぞどーぞ!」と太陽のような笑顔で答えてくれた。 

 女性は実家がラーメン屋で、つい最近旭川でのラーメン修行を終えて名寄に帰ってきたという。百台以上ヒッチハイクをして分かったことは、話のあう人というのは、会った瞬間から話があうという事だ。この女性、幡野さんがまさにそうで、恋の話、仕事の話、趣味の話をほとんど絶え間なく語り合った。幡野さんは当初、近所へ買い物に行くだけだったそうだが、話が盛り上がり過ぎて百二十キロも離れた幌延町まで来てしまった。幌延町の商店へ行くと幡野さんはお弁当やらジュースやらタバコやらを大量に買い込んだ。「ああ、買い物が目的だったもんな」と思っていたら、全部私に買ってくれたものだった。
「絶対にラーメン食べに行きます!」
「絶対来てくださいね!」
 固い握手を交わして、別れを告げる。小さな太陽のような幡野さんが去って行くと、まだ日が高いのに一気に暗くなったような気がした。

 牧場が延々と続く国道を歩きながら考えた。
「そろそろまとまったお金が必要だ」
 日本最北端の稚内まではあと少し。キリがいいのでこの辺りでバイトでもしようと思っていた。北海道に入ってからあまりにも当たり前になりすぎて感覚がマヒしていたが、乗せてくれた人が色々と買ってくれ過ぎる。旅に出た当初は「できる限り自給自足で」と思っていたが現実的には難しい。それなら、やはりある程度はまとまったお金があった方がいい。それに靴やズボンに少しずつ綻びが出始めている。完全に使えなくなる前に、その分のお金だけは用意しておきたかった。
 近くでトラクターが動いているのが見えた。
「よし! 出たとこ勝負だ。あの人に声をかけてみよう」
 そのトラクターに辿り着くには三十分以上かかった。視界を遮るものの少ない北海道では、近いと思っても案外遠いことがよくある。若干上がり気味の息で、トラクターから降りて一服していた六十代くらいの男性に声をかけた。
「すみません。牧場で働かせてもらえませ……」
「いらんいらん」
 蝿でも追い払うように断られた。

 その日は近くにあった社にテントを張った。少し小高い所にあって、旅の最初の頃に泊まった社を思い出した。あのお婆さんは元気だろうか? 階段から落ちたりしていないだろうか? 社にお参りをするついでに、お婆さんの無事を祈った。
 テントを張り終え、幡野さんにもらった牛丼弁当を頂く。
「それにしても本当に楽しいドライブだったなあ」
 食べながら車中での会話を思い返していると、視界の隅に何か異質なものを感じた。「なんだ?」とそこにズームアップすると、大きな蛇がとぐろを巻いていた。アオダイショウだろうか、これはヌシに違いない。手を合わせて「一晩やっかいになります」とお辞儀をした。お弁当を食べ終わる頃には、いつの間にかいなくなっていた。

 日本各地、社の境内には今までにも何度かテントを張らせて頂いたことがある。神様に守られているようで、たいていぐっすり寝られるのだが、その日は違った。草むらでガサゴソ音がして、キュキュキュと何かよく分からない鳴き声も聞こえてくるのだ。音の大きさからして小動物だとは思うのだが、北海道ではヒグマという存在を無視する訳にはいかない。私はサックスをいつでも吹ける状態にしておいて、物音がする度に大きな音を鳴らした。
 結局何事もなかったが、朝になってドッと疲れが出て、昼近くまで寝てしまった。
 朝になればヒグマが出ないという保証は何もないが、明るいというだけで絶対的な安心感がある。古代の人々にとって夜、すなわち暗闇というのはかなりの不安要素だったのではないだろうか? 暗闇では行動が制限されるし、外敵に襲われる危険も高くなる。その暗闇をパーッと打ち破ってくれる太陽というものは、人間にとって最大の味方に思えたに違いない。
「そりゃ、太陽を信仰するわなあ」
 寝ながらそんなことを考えていた。

最北端にて

 幌別からは、稚内に住む中年ご夫婦の車に乗せてもらった。
 薄曇りの日本海の景色を見ていると、海から大きな山が出ているのが見えた。驚いてご夫婦に尋ねると、あきれたようにこう教えてくれた。
「そんなことも知らないでここに来たのかい? ありゃ利尻富士だよ。利尻島の利尻富士」
 名前は知っていたが、まさかこんなにも荘厳な山だとは思ってもいなかった。溜め息交じりに「鬼ヶ島みたいですねえ」と感想を述べると、大口を開けて笑ってくれた。
 そのご夫婦の車で、日本最北端の宗谷岬に着いた。観光バスや乗用車がたくさん停まっている。思った以上に“観光地”だった。
 最先端にある三角のモニュメントの前では、観光客が入れ代わり立ち代わり写真を撮っている。私はそこへは行かず、トイレだけを済まして、早々にその場をあとにした。

 子供の頃から、皆が興味を持っているものに対して眉間にしわを寄せてしまう性格だった。例えば月。「今日は何年に一度の大きな満月よ」と言われても、それが特別にありがたいものだとは思えなかった。「じゃあ何かい? 普段の月はありがたくないのかい?」と思ってしまうのだ。満月だろうが半月だろうが、大きく見えていようがどうだろうが、それら全てが等しく価値があるものだと私には思える。同様に、北の端だろうが南の端だろうが、その場所自体にはあまり興味が湧いて来ない。 

 宗谷岬で乗せてくれた地元のおばちゃんに「どこかテントを張れる静かな場所はご存じないですかねえ?」と言って連れてこられたのが、なかなかに混雑して賑やかなキャンプ場だった。「しまった」と思ったがこれも何かの縁だ。おばちゃんに大きく手を振って別れを告げた。
 家族連れや若者同士のキャンプの中に、みすぼらしい中途半端な若者が一人。周りからの「なんだコイツ」的な視線がかなり痛い。純粋な心を持った子供たちだけが私に興味を抱いて近づいてくるが、必ず親が走ってきて「ごめんなさーい」と子供を抱っこして去って行く。
 夜になればあっちでもこっちでも花火で大騒ぎ。やっと終わったかと思うと、今度は地元のヤンキーどもがうるさい車でやってきてギャアギャア騒ぎ出した。
 もう二度とシーズン中のキャンプ場には来ないと心に誓った。

前略、天国より

  翌日、私は礼文島行きのフェリーに乗っていた。
 その日の朝、行き先を決めずにヒッチハイクをしたら、船舶修理工場勤務の青年が止まってくれた。「稚内で俺のことを知らない奴はいない」とか「稚内のほとんどの女は俺のことが好き」と大法螺を吹くのが面白く、ついつい彼の行き先である稚内港までついてきてしまったのだ。この時はまだフェリーに乗るつもりはなかったが、「あと十分ほどで礼文島行きが出向する」というので、これも何かの縁だと思って乗船したのだった。
 デッキでは、乗客の何人かがかっぱえびせんを高く掲げている。それをフェリーと並走(並飛?)するカモメが銜えて行く。飛んでいるカモメのアップなど見たことがなかったので、まじまじと観察した。羽を動かしたり向きを変えるたびに筋肉が動くのが面白く、長い事眺めていた。 

 二時間ほどで礼文島の港、香深に到着。
 お迎えの人と下船する人とでお祭りさながらの賑わいになったが、十分もすると港は静寂に包まれた。私は静かになったのを見計らって、公衆電話に向かった。「宿でヘルパーを募集していることがある」という情報を船中で仕入れていたので、礼文島の宿に片っ端から電話することにした。
 十軒も電話すれば決まるだろうと高を括っていたが、七月も終盤に差し掛かる今、宿の返事は「間に合ってます」ばかりだった。「ぜひ来てくれ」という返事をもらったのは二十軒目にかけた宿だった。
 その宿は四十代のご夫婦が経営していた。ヘルパーは私以外に男二人。札幌の大学に通う二十一歳の竹ちゃんと、苫小牧からやって来た十九歳の亮ちゃんがいた。竹ちゃんはマジメだけが取り柄のような大人しい性格で、亮ちゃんは髪を鮮やかな金色に染めて、かなりヤンチャな印象だった。私は名前が英二なので、「えいちゃん」と呼ばれることになった。
 「昨日ひと月働いてくれたライダーさんが帰っちゃったからちょうど良かったよ。家族だと思って気楽にしてくれていいからね」
 大将は気さくを絵に描いたような人だった。
「気楽じゃ困るべさ。しっかり働いてもらわないと」
 と、女将さん。どうやらかかあ天下のようだ。

 仕事内容は、食事の支度と片付け、掃除、布団の上げ下げ、その他諸々の雑用。昼はランチの手伝いに一人必要なので、ヘルパー三人が交代で担当した。
 朝昼晩、拘束時間はそれぞれ二時間程度で、それ以外の時間は好きに使うことができた。
 民宿のすぐ裏がきれいな浜辺で、私はほぼ毎日潜っていた。魚はそれほど多くはなかったが、ウニがウジャウジャいた。手で割って、指ですくって食べるエゾバフンウニは、それまで食べたどんなウニよりも美味しかった。
 浅瀬には天然のもずくが生い茂り、柔らかい部分を取って宿に持って帰ると大将が大喜びしてくれた。ここのもずくも、やはり今まで味わったことがないような美味しさだった。モチモチとした食感が楽しくて、私は毎日どんぶり一杯ぐらい食べていた。
 夜になると懐中電灯を持って浜に行った。昼間は気がつかなかったが、もずくの森にはシマエビが生息していて、夜になって懐中電灯を照らすと、目が光って居場所が分かるのだ。タモで簡単にすくえるので、三十分もやれば魚籠いっぱいに獲れた。あまり大きくはなかったが、身が引き締まって味がしっかりしているので、酒の肴には最高だった。
 そういった自然の恵みも素晴らしかったが、私が何より感動したのは、朝昼晩と食事を頂ける事だった。旅をしていると毎食必ず食べられるという保証はない。時には水だけで凌ぐこともある。それがここでは朝昼晩、必ず食事にありつける。
 思えば太古より、人間は食べるために色々なことをしてきた。狩猟採集に始まり、栽培、牧畜。毎日の食事を安定させるために、組織を作り、役割分担をして、収穫量を増やし、時に物々交換をして、そうして社会が出来上がった。
 現在、多くの人は会社に属している。学生時代、私は会社に入る意味が全く分からず、挙句の果てに大学を中退してしまった。野田知佑の言葉を借りれば、「マジメに生きたいと思っているから就職しないで頑張って」いたのだ。その自分を間違いだとは思わないが、就職する意味というのはやはりある。その一つが「安定して食事を得る」ということだと、旅をして初めて、実感として分かった気がする。 

 住み込みで働くようになってすぐに、私は家族や友人そして旅先で出会った人たちに絵葉書を出しまくった。全部で三十枚くらい出しただろうか。今までと違って、今回は宿の住所を書いておいた。返信が来るのを毎日待ちわびた。
 ただ、待てど暮らせど返事は来なかった。
「まじかよ。俺、嫌われてたのかよ。旅先でいっぱい絵葉書出したけど、みんな迷惑だったのか」
 日が経つにつれてじわじわと気持ちが落ちて行く。だが一週間ほど経つと、まずは北海道で知り合った人たちから返事が届くようになり、十日も経つと毎日誰かから返事が届くようになった。大将が言うには、「普通郵便だと、内地まで三日以上かかることもあるからねえ。ハッハッハ」とのことだった。先に聞いておけばよかった。

 礼文での暮らしは何もかもが天国のようだった。怖いのかと思っていた女将さんは、実は涙もろくて感激屋さんだったし、十歳の娘たまきちゃんと五歳の息子慎太くんとは一緒にお絵描きをするのが日課になっていた。
 ただ、一つだけ問題があった。それは、苫小牧から来ていた金髪の亮ちゃんだった。 多少ヤンチャではあるものの、明るい性格なので子供受けは良く、またお客さんにも評判は悪くなかった。だが、大将や女将さんの目が離れると、すぐにあくどい事をやり始める癖があった。お客さんが部屋にいない間に我々ヘルパーが布団を敷くのだが、その時、テーブルの上に食べかけのお菓子でもあろうものなら、何の躊躇もなくパクパク食べ始めるのだ。また、若い女性客が泊まった後の部屋では、布団に顔をうずめて「たまんねえ」などとやっている。やんわりと注意をしても、同じヘルパーの言うことなど聞きもしない。さらに質の悪いことに、たまに手伝いに来る大将の姪御さんとデキているのだ。この宿に後から入ったこともあり、私の方がかなり分が悪かった。
「大将たちが選んだことだから、俺が出しゃばることもないか」
 しばらくは自分にそう言い聞かせていたが、エスカレートしていく彼の悪行に耐え切れず、私は大将に直談判した。
「クビを覚悟で言わせてください」
 大将にそう切り出すと、いつものにこやかな表情がガラリと変わり、真剣な目つきで「部屋おいで」と大将の部屋へ招かれた。
「亮ちゃんの事ですが、彼は大将たちの目の届かない所でかなり悪いことをしています。このままでは大問題を起こしかねません。やめさせた方がいいんじゃないでしょうか? でも、もしも僕の方が間違っていると思うようでしたら、僕をクビにしてくれても構いません」
 大将の答えは意外なものだった。
「えいちゃんもやっぱりそう思うか」
 大将も亮ちゃんの悪行には薄々気づいていたようだ。
 その後は大将が全て解決してくれた。まずは姪御さんと話し合い、次に竹ちゃんからも話を聞き、最後に亮ちゃんに事実確認をしたらしい。女将さんが言うには、かなり揉めたそうだ。 

「あーあ、えいちゃんにチクられちゃった」
 そう毒づいて亮ちゃんは出て行った。
『ざまーみろバーカ』と思ったが、彼の言う通り確かに私はチクった。それだけが不甲斐なかった。私にもう少し力があったら、彼を改心させることができたかもしれない。
 うん、そうだ。チクったという事実だけは、絶対に忘れないでおこう。

別れ

  亮ちゃんが去ってからは新しいヘルパーが入ることはなかった。一番忙しいお盆期間も、竹ちゃんと二人で乗り切った。竹ちゃんは口にこそ出さなかったが、亮ちゃんをだいぶ疎ましく思っていたようで、亮ちゃんが去ってからというもの、見違えるように明るくなった。それまでは、挨拶と「はい」くらいしか声を聞いたことがなかったが、子供たちと歌をうたったり、はやりのギャグをして皆を笑わせてくれた。やはり亮ちゃんを追い出して正解だった。
 竹ちゃんとは仕事の合間に一緒に遊びに行くようにもなった。手軽に登れる礼文岳。メノウが拾えるメノウ浜。ハイキングコースになっているハイジの谷や礼文滝などなど、時間を惜しむようにあちこち歩き回った。
 しかし、当然別れはやって来る。大学の準備があるそうで、八月終盤に差し掛かったある日、竹ちゃんは島を出て行った。
「札幌来たら、絶対連絡くださいね。美味しいジンギスカンのお店行きましょう! 絶対ですよ!」
 出会った頃とは別人のように積極的だ。ありがとう竹ちゃん、楽しかったよ。必ず会いに行きます。
 宿には私だけが残った。

 九月になると、お客さんは日に二組程度に減った。十ある部屋はほとんどが開店休業状態。とても寂しそうだ。仕事もほとんどすることがなく、勤務時間は半分になった。島の気候もお盆を過ぎた辺りから一気に変わり、半袖では耐えられないほど寒くなった。
 お金は十三万円も貯まっていた。礼文に来た時には二千円程度しか持っていなかったので、大金持ちになった気分だ。これで靴もズボンも買える。
 大将一家とは本当に家族のように仲良くなった。子供たちと一緒に遊んだり、勉強の面倒をみるのは楽しくてしょうがなかった。しかし、私は旅をしている最中だ。これ以上この島にいる理由は見つからなかった。
 九月の第一週が過ぎた頃、私は島を出た。

 フェリーから利尻富士が見える。礼文島にいる間も何度か見たが、本当に見事な山だ。左右対称に広がる裾野の安定感が素晴らしい。心が安らかになるような安定感だ。
 礼文島に来た旅人のほとんどは利尻島にも寄るそうだ。私が利尻島には行かないというと、大将も女将さんもビックリしていた。「バカじゃないの?」と。
 確かに。礼文と利尻の間には直通フェーリーもあるので、行かない方がどうかしている。だが、今回旅を始めるまで自分でも気がつかなかったが、どうも私にはそういう性癖があるようだ。どういうことかというと、「気になるがゆえに敢えて行かない」という場所が、今までにいくつもあったのだ。南から順に列挙していく。
 長崎の五島列島。
 島根の隠岐の島。
 石川の能登半島。
 青森の恐山。
 北海道の知床半島。
 そして今回の利尻島。ほとんどが島や半島だ。特に調べたわけではないのだが、こういう地形的に限定された場所では文化も独特なような気がする。そういう場所は、またいつかじっくりと訪れたい。そんな気持ちがあった。
 違う言い方をすれば、敢えて行かない場所を作ることでいつかまた訪れようとしている、のかもしれない。
 ほとんどの人に理解してもらえない考えだが構わない。誰のものでもない私の旅だから、これでいいのだ。 

南へ、南へ

バクテリアン

 稚内に到着したのは午後四時過ぎだった。ヒッチハイクをするには中途半端な時間なので、その日は近くにある稚内公園にテントを張った。
 いよいよ明日からヒッチハイクの旅再開だ。今度は日本列島を南下し、ふた月ほどかけて沖縄まで行こうと思う。那覇市に大学で一緒に演劇をやっていた友人がおり、そこをとりあえずの目的地と決めた。その先は全く決めていないが、また住み込みでバイトができればいいとは思っている。
 実はこの頃になると、少しずつ海外に目が向き始めていた。第一候補はカナダ・アラスカを流れるユーコン川でのカヌー旅。これは完全に野田知佑の影響だ。もう一つはニュージーランド。ワーキングホリデーを利用して長期滞在を考えていた。どちらを選ぶかは、旅をしながらゆっくり考えるつもりだ。
 ただ、「海外旅行」という目標から逆算して今何をしていくべきかということは常に頭に入れておこうと思う。旅人は、ボーっとしているように見えて、色々と考えているのだ。

 翌日、約二か月ぶりのヒッチハイク。泊まってくれたのは、東京から自分の車で来て旅をしている三十代前半の男性だった。
 「こんにちはー」と挨拶しながら車の中を見て閉口した。シャツやらパンツなどの衣類。ゴミなのかまだ食べられるのかよく分からないお弁当やお菓子。いくつものペットボトル。助手席の窓が開くと、若干饐えたような臭いがした。
 私は咄嗟に「どちらへ行きますか?」と尋ねた。相手がAに行くといったら「ああ、ごめんなさい。僕Bに行きたいんです」と言って断ろうと思った。しかし男性はこう言った。
「別に予定ないから、キミの行きたいところに連れて行くよ」
 乗らざるを得なかった。
 ボサボサの髪。皺くちゃのシャツ。ヨレヨレのスラックス。足元はサンダル。男性は何もかもがだらしなかった。なんだか全体に細かいゴミがまぶされているようにも見える。男性の雰囲気が漫画ドラゴンボールに出てくる不潔なキャラクターに似ていたので、私は彼を心の中で、その名前“バクテリアン”と呼んだ。
「一人で運転してるとホント退屈でさあ。良かった、相棒ができて」
 勝手に相棒にされてしまった。
 車が動き出すと、バクテリアンは左足を貧乏ゆすりさせ始めた。振動が伝わってきそうだ。乗せてもらって申し訳ないとは思ったが、これ以上は耐え切れなかった。「あっ、宗谷岬に用事があるんで、そこで降ろしてくれませんか」と、適当に近場を指定した。「ええ~、そんな近くでいいの?」彼は不服そうだったが、私は何も答えなかった。
「相棒、またねー」
 バクテリアンはそう言って去って行った。「相棒じゃありませんよーだ」そう思いながら笑顔で手を振った。

 穢れを払うために、しばし岬周辺を散歩する。海を見ている一群から「あー、見えた見えた」という声が聞こえてきた。目を凝らすと、はるか沖にうっすらと陸地らしきものが見える。樺太だ。目視できるということを知らなかったので、軽い感動を覚える。
「そうか、フェリーで樺太まで行くという手もあるんだな」
 そう思ったがパスポートがない。まあいい。樺太も「いつか行くリスト」に追加しておこう。 

 気を取り直して、ヒッチハイク再開。ここからオホーツク海沿いに南下して興部(おこっぺ)町まで行き、そこから内陸に進路を取ることにした。
 ヒッチハイクを始めて三十分ほど経った頃だ。反対車線の路肩に車が止まった。運転手の男性がニタ~っと笑ってこう言った。
「相棒~。どこでも行くよ~」
 バクテリアンだった。寒気がしたが、断ることもできなかった。
「ねえ、どこまで行くの? どこでもいいなら紋別の流氷センター一緒に行かない?」
 稚内から紋別までは二百キロ以上ある。その間この臭い車に乗っていなければならないのか? 冗談じゃない。何か言い訳を見つけて、早々に降りよう。
 十五分ほど走っただろうか、集落が見えてきた。ここしかない。郵便局に用事があると嘘を言って降ろしてもらった。
「待ってるのに~」というバクテリアンをなだめすかして出発させる。裏道に避難し、十五分ほど経ってから再度国道に出ると、なんとまだいた。目が合うとニヤ~っと嬉しそうな顔をした。血の気が引いて、なりふり構わず走って逃げた。
 空き地で二時間ほど絵葉書を描いて時間をつぶし、再び国道へ出るとバクテリアンの姿はなかった。すぐにヒッチハイクを再開したが、乗せてくれる人が現われるまで気が気ではなかった。
 悪意のない悪行ほど質の悪いことはない。島根の心霊現象や函館のクソジジイとはまた違う種類の恐怖だった。

夕陽にむせぶ

  稚内を出発してから三日後、私は日本海側にある苫前町の三毛別という場所にいた。
 北海道開拓時代、七名の開拓民が一頭のヒグマに殺される事件が起きた。三毛別羆事件といって、日本最大の熊害として有名だ。その現場は現在観光地化されており、ハリボテのヒグマなどで現場を再現していた。
 ここまで乗せて来てくれた地元のおじちゃんは既に引き返して、ここにはいない。「引き返して」というのは、実はここに来る通称ベアロードは、この再現現場で行き止まりなのだ。道中は全く民家がなく、一番近い集落の古丹別へ出るには、二十キロ以上歩かなければならなかった。
「誰か来るまで絵葉書でも描いてよっと」
 一応は観光地になっているので、そのうち誰か来るだろうと高を括っていたのだが誰一人現われず、気がつくと夕方の四時を過ぎていた。夕暮れ間近を演出するかのように、カラスがカアカアと泣いている。
「え? もしかしてここでテント張らなきゃなんないの?」
 すぐそばを小川が流れており、土手が小高くなって整地されている。普通ならテントを張るにはうってつけの場所だが、ここは三毛別だ。開拓民が非業の死を遂げたこの場所で夜を過ごすのは、さすがに躊躇する。それに、こんな山奥なら本物のヒグマが現われる可能性だって十分にある。
「歩いて引き返すか?」
 そう思ったが、思いとどまった。集落までは二十キロ。一時間に四キロ歩いたとしても五時間かかる。腹を括ってここにテントを張るしかない。今までだって腹を括って色々なトラブルを凌いできた。大丈夫だ。腹を括るしかない。
 そう思って、土手にテントを張り始めていると、車のエンジン音が聞こえてきた。ハッと振り向くと、白と黒の車体に赤色灯。パトカーだった。
「国家権力バンザイ」
 両手を上げてそう呟いた。 

「あんな所で泊まろうとするヤツ、初めて見たぞ! ハッハッハ」
「いや、もう、ホント助かりましたよ」
「ヒッチハイクしてんだから、クマに乗って下りてくれば良かったんだ。アッハッハ」
 パトカーの中。私は警察官二人と談笑して盛り上がっていた。三毛別へのパトロールは週一回と決められており、今日がその日だったそうだ。なんという巡り合わせだろうか。
 結局そのパトカーで苫前町のキャンプ場まで連れてきてもらった。さびれたキャンプ場で、誰一人いなかった。これもラッキー!
 大げさに手を振って、パトカーを見送った。

 小高い丘にあるそのキャンプ場は、小さな東屋と申し訳程度の炊事場だけしかなく、かなり簡素なものだった。ただ、野球ができるくらいの大きな広場があり、解放感は抜群だった。しかもここからは日本海を一望することができた。
 日本海を見ると、水平線の上に真ん丸な太陽が浮かんでいた。見上げれば青い空は、視線を水平線に近づけるに従って薄く赤み帯びて行く。今まさに夕焼けが始まる瞬間だった。「テント張らなきゃ」と一瞬思ったが、空の色が一瞬一瞬で変わっていくその風景から目を離すことができなかった。
 ゆっくりと、それでいて着実に水平線へと近づいていく太陽。それに伴い赤色に支配されていく広い空。空が音をたてずに燃えているようだ。
 太陽が、私だけを包んでいるような錯覚を覚える。気がつくと涙が川のように流れていた。
「なんだ、あの太陽というものは。なぜこんなにも涙が溢れてくる?」
 なぜだか子供の頃の事が思い出された。母におんぶしてもらうと、必ず母の襟を嚙んでいたこと。団欒の時には、祖母の膝の上に座っていたこと。父が銜えタバコで車を運転する姿。近所のお宮さん。駄菓子屋。一緒に遊んだ幼なじみ。
 温かかった。思い出す全てのことが温かかった。子供の頃に戻ったように、私は無防備に泣いた。何が悲しいという訳ではない。何もかもが愛おしかった。愛おしい人やものに囲まれていたということを、大人になって今初めて実感しているような気がした。全てはあの太陽のせいに違いない。
「ありがたや、ありがたや」
 お年寄りのようなセリフが、二十五歳の私の口から自然と出てきた。三毛別のあの場所にいたら、この夕陽を拝むことはできなかった。本当にありがたや。 

 太陽が完全に水平線に沈むと、徐々に暗闇が広がってきた。私は我に返って、大慌てでテントを張るのだった。

ありがとう北海道

  苫前町から日本海に沿って南下し留萌へ。そこから内陸部に入り、果てしなく続く田畑を眺めながら滝川へ。滝川から日本一長い直線国道を進み、美唄、岩見沢、そして苫小牧へ。三か月ぶりに太平洋と再会。

 苫小牧からは、同じ歳でとても感じの良い男性の車で室蘭に辿り着いた。別れ際、「また会えるといいですね」と言ってくれた。こんな素敵な人が北海道で最後に乗せてもらった人で本当に良かった。そう。私は今日、この室蘭から本州行きのフェリーに乗るのだ。時刻表を確認すると、青森県大畑行があと一時間ほどで出航する。私は乗船受付カウンターへ向かった。
 ……ところが、どうやら台風が来ているようで、この日は欠航となってしまった。
 気持ちが宙ぶらりんになってしまったので、とりあえず喫煙コーナーへ向かった。先客がいた。小柄な若い男性で、外の景色を眺めながら煙を吐いている。恰好からするとどうやら旅人のようだ。「こんにちは」と声をかけると、素早くこちらを振り向いて笑顔で「こんにちは」と答えてくれた。この一連の反応で、「この人とは合うな」と思えた。
 ひとしきりお互いの自己紹介をした。彼は長野県に住む大学四年生。既に単位を全て取ったので、歩きと列車で旅をしているそうだ。北海道には一週間だけいたという。彼の顔は、当時重量級ボクサーとして注目を浴びていた西島洋介山にそっくりだった。大学ではやはり「洋介山」と呼ばれているというので、私もそう呼ばせてもらうことにした。
 彼も私と同様に文庫本を何冊か持って来ていて、既に読み終わったという沢木幸太郎の「一瞬の夏(上)」をくれた。「上」だけというのがおかしかったが、代わりに私は、太宰治の「人間失格」を渡した。
 旅人同士で本を交換するというシチュエーションに憧れていた私は、心の中で「うおー、俺たちカッコイイ」と興奮していたが、私の方が年上で、しかも旅歴も長いので、強がってすました顔をしていた。くだらない見栄だと、後で反省する。
 その日、午前中まではそれ程でもなかったが、お昼を過ぎた頃から風がビョウビョウと音を立てるようになり、夜、そして翌日の午前中まで激しい雨を伴って吹き荒れた。
 フェリーは二日続けて欠航だったが、洋介山がいたおかげで全く退屈することがなかった。旅、女性、映画、本、美術、哲学などなど話題を変えて、飽きることなく語り合った。
 夕方頃、風はすっかりおさまり、晴れ間が見えるほどに天候が回復した。海に目をやってもそれほど荒れてはいない。「明日は出航できそうだね」と二人で話し合っていると、ターミナルにアナウンスが流れた。なんと、今晩十時に臨時便が出るという。という事は、大畑までは四時間かかるので、午前二時に到着という事になる。「明日でもいいのに」と思ったが、周りにいたトラックの運転手さんたちは「助かった助かった」と喜んでいる。そうか。仕事で物を運んでいる人たちにとっては、今日出るのと明日出るのとでは大きく違うのだ。旅をしているとどうしても世間と隔絶しがちになり、思考が手前勝手になってしまう。大いに反省した。

 夜十時、室蘭から出航。
 洋介山と真っ暗なデッキへ行き、買っておいた缶ビールで乾杯。室蘭のコンビナートの夜景が、夢のようにきれいだった。
「銀河鉄道スリーナインに出てくる、どこかの星みたいですね」
 洋介山のつぶやきに深く頷いた。百万ドルの…といった感じの煌びやかさは、室蘭の夜景にはない。だが、花火でいえば線香花火のような、結局最後はここに落ち着く、といった安心感があった。郷愁を誘うような、そんな夜景だった。
 夜景の中に、北海道の思い出が浮かび上がってくる。函館に上陸し、なんだかよく分からないうちにクソジジイ…いや、オヤジさんの支配下に置かれ、そして脱走。たくさんの親切な人たちに助けられながら北上し、礼文島で宿のヘルパーに。とろけるような美味しさのウニやシマエビ。そして奇跡的に出会えたあの夕陽。さらに、台風のおかげで仲良くなれた洋介山。良いことも悪いことも、今となっては全てが大切な思い出だ。温かい気持ちでいっぱいになる。
「ありがとー! 北海道ありがとー! さよーならー!」
 あらん限りの大声で叫んだ。そんな私を見て、洋介山はポカンとしている。申し訳ない。恥ずかしいのは承知の上だが、叫ばずにはいられなかったのだ。ところが彼は、そんな私に近づき握手を求めてきた。
「僕は一週間しかいなかったから、正直、北海道に対してそんな気持ちは湧きませんでした。でも、英二さんが叫ぶのを見て、湧いてきました。一緒に叫んでもいいですか?」
 やはり波長の合う人間はいいものだ。私たちはデッキから何度も何度も「ありがとう」と叫んだ。
 本当にありがとう。

目指せ静岡その一

  深夜二時に大畑港に着く。近くでテントを張り、朝を迎えた。
 洋介山は恐山へ向かうという。私はというと、実は数日前、私が旅立つきっかけを与えてくれたしんちゃんと会う約束をしていた。一週間後に静岡での長期出張が終わるので、そのタイミングで私と落ち合ってキャンプをしてみたいというのだ。青森から静岡まで一気に駆け抜けるのはもったいない気もしたが、他ならぬしんちゃんの頼みだ。断る選択はなかった。
 という訳で、洋介山とはここでお別れになる。住所を交換。初めて彼の本名を知るのが妙におかしかった。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
 長く握手をして別れた。山への道を歩いていく洋介山の背中が心底かっこいいと思えた。
 旅人は、こうして出会いと別れを繰り返し、それぞれの場所へ向かって行く。

 旅は何のためにするのか? 旅を始める前は「強くなりたい」そういう思いが強かった。だが、旅を続けるうちに、そう簡単に強くはなれないことに気がつく。同じような失敗を何度も繰り返し、むしろ前よりも弱くなっているのではないかとさえ思う。ただ、それでも私は旅を続ける。これからも沖縄へ向かい、その後は海外も旅するつもりだ。
 これからの旅は何のためにするのだろう? 禅問答のようになるが、それを見つけるために旅をするのかもしれない。
「にっちゃ、どいてけさまい」
 軽トラに乗ったおばちゃんに、そんな感じの下北弁で注意され、私は道路の端へ寄った。
 人には迷惑をかけないで旅をしようと思った。

  さて、大畑から静岡までは千二百キロ程度ある。一日のヒッチハイクでの平均移動距離は百八十キロ程度なので、一週間あれば到着できる計算だ。ただし、それは天気や交通状態などが好条件の場合なので、それまでヒッチハイクをしてきた感覚だと、かなり厳しい日程に感じた。高速に乗る車を狙ってヒッチハイクをすれば、もっと早く着くとは思うが、それではあまりにも味気ない。できる限り下道で行ってみようと思う。まずはチャレンジだ。

 ヒッチハイクを始めて十分ほどで一台の乗用車が止まってくれた。お若いカップルで、新潟から遊びに来ていた。今日は三沢まで行くというのでかなり距離が稼げる。幸先の良いスタートだ。
 運転手の男性も助手席の女性も、まるで私がツアー客でもあるかのようにもてなしてくれた。ジュースを買ってくれたり、リンゴのお菓子をくれたり、「眠かったら横になってくださいね」と言ってくれたりと、居心地が悪くなるくらいの気の使いようだった。
 一時間くらい経った頃だろうか、男性がおもむろにこう切り出した。
「あのう、よろしければ私たちの仕事の話を聞いて頂けませんか?」
 よろしければも何もない。「是非聞かせて下さい」と身を乗り出した。
「私たちには夢があるんです。仕事を通じて自分が幸せになり、周りの人も幸せになる。それを大きな輪にしたいんです。そういう気持ち、お分かりになりますか?」
「もう、それこそ理想ですよね。分かります分かります」
 バックミラー越しの男性の目が満足げだ。
「これ、食べてみませんか?」
 助手席の女性がそう言って、何か錠剤のような物を手渡してくれた。男性が話し出す。
「それ一粒の中に何種類ものビタミンとミネラルが配合されているんですよ。私は元々アトピー体質だったんですが、そのサプリメントを飲むようになって、完全に治ったんです」
「私もです」
 息がピッタリのカップルだが、なんだか話が怪しくなってきた。錠剤は飲んだふりをしておいた。
「私たちの会社ではこういう健康食品以外にも、体にやさしいシャンプーやリンス、石鹸なども取り扱っているんです。それを自分の周りの大切な人に勧めるようにしているんです。今日出会ったあなたも、私の大切な人です。石鹸など足りていますか?」
 どうやら信仰宗教系かネズミ講の類だ。適当に言い訳を告げて降りようと思ったのだが、既にとんだハプニングが起きていた。この男性が、道を間違えて山の方に入り込んでしまったのだ。ただ、標識を見ると一応県道ではあるようだった。私は地図を見て、この県道がちゃんと三沢方面に繋がっていることを確認した。
「大丈夫。行けます行けます」
 こうなったら降りることなどできない。この県道はいつしか舗装道路からガタガタの砂利道に変わっていた。カップルも勧誘どころではなくなったのか、二時間ほどかけて砂利道を抜けるまではずっと無言だった。

 舗装道路に出てからは、三人の中に何か奇妙な連帯感のようなものが生まれ、カップルから勧誘を受けることはなくなった。それでも所属団体への使命感からか、別れ際に「新潟に来たら絶対連絡下さいね」と名刺を渡してきた。見ると、やはり有名なネズミ講団体だった。
「嫌ですよー」という言葉を胸に秘めて、笑顔で別れを告げた。

  その日は四台の車を乗り継ぎ、岩手県の三陸鉄道普代駅までやって来た。移動距離二〇六キロ。夕方六時過ぎの到着で、もう薄暗くなっていた。
 駅前の広場では、ちょうどお祭りが行なわれていた。規模はそれほど大きくないが、この辺りの住人が全員集まっているのではないかと思うほどの密集具合だった。ひと通り見て回ったが、疲れていたので駅のホームにある待合室で寝た。

 どれくらい寝ただろうか、「ねえねえ、邪魔だからどいてくれない!」という女性の怒鳴り声で目が覚めた。見ると明らかに酔っぱらった女性が私を凝視していた。事態を飲み込めずに黙っていると、男性が駆けつけてきて「おい、やめろやめろ」と女性を引きずって行った。このフード付きの待合室でイチャイチャしたかったのだろう。申し訳ないことをしたとは思いながらも、再び眠りについた。 

目指せ静岡その二

  普代駅の駅長さんから始発の前に出るように言われていたので、六時前に起床。
 朝七時、ちょっと早いかなと思いながらもヒッチハイク開始。軽トラのおじちゃんが止まってくれたが、助手席には荷物がいっぱいで座れず、荷台に乗り込む。荷台に乗るのはヒッチハイカーにとって憧れではあるのだが、道路交通法が邪魔をしてなかなか叶わない。その夢がこの時実現し、大いに興奮した。
 おじちゃんは山に松茸を取りに行く途中だそうで、普代の隣村、田野畑の集落が見えてきたあたりで降ろしてくれた。短い距離だったが、印象に残るひと時だった。

  その日は短距離で乗せてくれる人が多く、出発した普代から約七〇キロ離れた宮古市に着くまでに、四台の車を乗り継いだ。
 お昼前、五台目に乗せてくれたのが、二十五歳の息子さんがいるという女性だった。おそらく五十歳前後なのだろうが、容姿が信じられないくらいに美しく、最初のうちは緊張しっ放しだった。
 だが話していくうちに、なんだかおかしなことを言い始めた。ダイアナ妃は元々女神様だったとか、二十日ほど前に亡くなったマザーテレサは今でもスラム街に行きたがっているとか、何の確証もないことを大真面目に語り始めたのだ。これは怪しいと思っていると、彼女は決定的な言葉を発した。
「私たちの教祖様は有名な僧侶の生まれ変わりで、イエスキリストとも親友なんですよ」
 これはもう嵐と一緒だ。黙ってやり過ごそう。そう思って彼女の言うことには、ただ「うんうん」と頷くだけにした。「若い子は素直でいいわねえ」という言葉には吐き気さえもよおしたが、じっと「うんうん」で凌ぎ続けた。
 別れ際に「これ持っていきなさい」と、その教祖様とやらが書かれた本を渡された。何度も断ったが、かなりしつこい。こういう時の嘘はわりと得意で、「そういう大切な本は自分のお金で買わせて頂きます」と真顔で伝えると、納得して本を引っ込めてくれた。
 昨日のネズミ講もそうだが、善意の押しつけほど厄介なことはない。気を取り直して、すぐにヒッチハイクを始めた。 

 宮古から釜石、気仙沼と順調に南下している。三時頃、雨がポツポツし始めた頃に、いいタイミングでマグロ猟師をしている三十代の男性が乗せてくれた。今まであまり漁師さんと交流をした事がなかったので、私は根掘り葉掘り仕事について質問をした。
 マグロ漁の漁期は、ひと月くらいの短期から一年間の長期まで選ぶことができる。給料は、期間や熟練度に応じて四百万円~千二百万円までと、かなり開きがある。犯罪者やゴロツキも少なくはないが、船の上では仕事ができるかできないかが全てなので、あまり恐くない。船上でいざこざもあるが、船長がしっかりしていればまとめてくれる。逆に頼りない船長の場合は、かなり危険らしい。
 聞く事全てが新鮮で、あっという間に時間が過ぎた。自宅のある石巻市内まで帰るそうだが、私は少し手前の道の駅で降ろしてもらう事にした。降りる直前にこんなことを教えてくれた。
「以前、石巻でヤクザが旅人をボコボコにして殺害した事件があったから気をつけてね」
 気をつけようがないことを教えてくれて、ありがとうございます。 

 二日目は八台の車を乗り継ぎ、二七三キロ移動。一日目と合わせて四七九キロ。この調子なら余裕を持って静岡まで行けそうだ。

目指せ静岡その三

  昨夜本降りになった雨が、弱まることなく降り続いている。道の駅の駐車場付近で、朝の八時からレインコートを着てヒッチハイクをしているが、昼を過ぎても誰一人止まってくれない。この天気だから当たり前と言えば当たり前だ。
 とりあえず休憩しようと、トイレに行って用を足していると、「兄ちゃん、ヒッチハイクか? 大変だな。ハハ」と、金髪で強面だが、意外と優しそうな中年男性が話しかけてきた。
「アハハ、こんな日もありますからねえ」
 他人とのちょっとしたやりとりは元気を頂ける。用を済ませ、タバコを一服。さて、もうちょっと頑張るか、とレインコートを羽織ろうとした時だった。
「よお、栃木までで良かったら乗せてくぞ」
 見ると、先程の金髪男性だった。栃木といえば今いる宮城から福島を超えたその先だ。私は「是非! 是非お願いします!」と、大はしゃぎで彼について行った。
 大きなトラックで、荷台にはシートで覆われたドデカい機械のようなものが二つ積まれていた。「ザックはキャビンには乗せられないから」と言うので、シートでグルグルに巻いて荷台の隅にザックを置いた。サックスだけはシート後ろの寝室に置かせてもらった。
 エンジンがかかると、三つのワイパーがせわしなく動き出した。さっきまで私がヒッチハイクをしていた場所を見る。当然誰もいない。だが、この人に出会わなければ、今自分はあそこいるのかと思うと、なんだか不思議な気持ちになった。さっきまでの私に、私は別れを告げた。
「飲みな」と温かい缶コーヒーを渡された。「これ、好きに食っていいから」と菓子パンが二つ入ったビニール袋も渡された。「いや、そんな申し訳ないです」と遠慮をすると、男性は話を始めた。
「いやさ、さっき道の駅でメシ食ってる間、兄ちゃんがヒッチハイクしてるのずっと見てたんだよ。最初は雨の中バカじゃねーのかって思ってたんだけどさ、兄ちゃん、こんな雨なのにニコニコ笑ってるだろ。偉いなあって思えてきてさ。メシ食い終わってまだやってるようだったら乗せてやろうって思ってたんだよ。そしたら兄ちゃんトイレにいてさ、話しかけたらやっぱり笑ってるから、ああ、こいつは乗せた方がいいヤツだわって思って、コーヒーとパン買って来て声かけたって訳なんだわ。だから、やるよ」
 受け取らない訳にはいかなかった。そんな風に見てくれている人がいて嬉しかった。ニコニコと笑っているのは「私は安全ですよ」とドライバーにアピールする意味合いが強いのだが、それは言わないでおいた。
 男性は、名前を聞いても「名乗るほどのもんじゃない」と頑なに教えてくれなかった。なので金髪さんとしておく。金髪さんはパッと見は怖いが、笑うと目がクニャっと曲がる可愛らしい人だった。親が転勤族で、幼少時代は北関東を転々としていたそうだ。そのせいで友達がなかなかできず、中学の時に引っ越してきた仙台で不良グループに入ってしまい、二十代半ばまでは悪さばかりしていたという。
「ホラ、コレ、分かるか?」
 金髪さんは上着をたくし上げて脇腹を見せてきた。ケロイド状の細い傷が見える。
「ゴメンな、こんなの見せて。バカやってた時にケンカで刺されちまってさあ。何日か昏睡状態で、目が覚めたらお袋が目の前にいたんだけど、わりときれいなお袋の顔がさ、目の下に真っ黒なクマ作って別人みたいになっててさ、そのクマに涙が溢れていくのを見て、ああ、お袋にこんな汚い顔させられないなって思って、今のトラック会社に就職したんだよ」
 淡々と自身のことを話す金髪さん。私は、特に悪い世界に入っていた訳ではないが、金髪さんの話を聞いていると、まるで自分のことのように感じる。両親にどれほど迷惑をかけてきたことか……。 

 トラックは海沿いの国道6号線を通って南下。茨城県日立市で荷物を一つ降ろし、今度は国道五十号線に舵を取り、栃木県へと向かった。時間を見ると夜七時。既に外は真っ暗だった。
 前にもこんな事があった。盛岡から青森県の小川原湖まで乗せてくれた木下さんだ。あの時も大きなトラックで、真っ暗になっても乗っていた。木下さんは「アラスカにある一本の木をよく夢に見る。いつかそこに行きたい」と語っていたが、金髪さんには何か夢があるのか聞いてみた。
「小さい頃からアメリカ横断するのが夢でさあ。いつかやってみたいよなあ。その頃にはもう子供は大きくなってるだろうから、カミさんと二人、でっかいキャンピングカーにでも乗って」
 面白い人ってのはデッカイ夢を持っている、そんなことを思った。 

 夜十時、栃木県の目的地に着いた。周りに民家などはなく、何か大きな工場のようだった。工場には誰もおらず、金髪さんは朝までここで仮眠をとるという。雨はとっくにやんでいたので、私はトラックを降り、敷地の隅にテントを張って眠りについた。
 朝五時半頃、目が覚めて驚いた。なぜか衣類や寝袋が全体的に白っぽいのだ。テントの外を見て納得した。大きな看板に「石灰」の文字が見える。石灰を扱う工場だったのだ。テントを張っている時から石灰臭いとは思っていたが、まさか石灰工場そのものだったとは。
 石灰を払いながらテントを片付け、出発準備完了。ただ、金髪さんはまだ寝ている。仕方なく、長めの書き置きを残す事にした。書いている途中で起きないかと期待したが、ついぞ起きてこなかった。
 ノート一枚、びっしりと文字で埋まった手紙をトラックの窓の隙間に挟み、深く礼をしてその場を後にした。 

目指せ静岡その四

  昨日は金髪さんのトラック一台で石巻から栃木まで三八五キロを移動。三日間で合計八六四キロ。静岡までは残り三〇〇キロ程度。頑張れば今日中にでも着ける距離だ。
「野辺山に寄ってみよう」
 しんちゃんと落ち合うのは二日後なので、日程には余裕がある。大学を中退してすぐに住み込みで働いた長野県の野辺山へ行ってみることにした。 

 栃木県から群馬県の高崎、長野県の軽井沢と西に進み、小諸から南へ進路を変える。小諸で乗せてくれたお姉さんはゲームが大好きらしく、私もできる範囲で話を合わせていたら、ゲームについて夢中になって語り出し、ついに四〇キロ以上も離れたJR野辺山駅にまで来てしまった。近所のスーパーへ行くだけと言っていたのに申し訳ないことをしたが、帰って行くお姉さんの顔が、喋り切った満足感に溢れていたので、あまり罪悪感は覚えなかった。

  四年ぶりの野辺山駅。お土産屋が二軒あるが、相変わらずひっそりとしている。周囲を見回してもほとんど人影がない。おとぎの国にあるような駅舎が、妙に寂しく感じる。
 駅から小一時間歩いて、半年間過ごした牧場に辿り着いた。懐かしい。我が家に帰ってきたようだ。薄暗くなったトラクター置き場に人影が見えた。ご主人だ。覚えているだろうか? 恐る恐る声をかける。
「おお! 英二くん、久しぶりだな。え? 旅してる? ははは、おめーらしいな。まあ、うちに入れ」
 嬉しい。以前と同じ扱いだ。遠慮せずに家の中に上がった。
 おじいちゃんとおばあちゃんもご健在。奥さんも変わらず明るく元気。六年生を頭に五人いた子供たちは、四年経った今、高一を頭に六人になっていた。もともと賑やかだった家庭が、輪をかけて賑やかになっている。懐かしさと嬉しさで涙が出てくる。子供たちは、最初こそ遠慮していたが、すぐに昔のように絡みつくように接してくれた。
「あれー、英二くん?」
 驚いた。四年前、私と同じく半年間の短期バイトで来ていた橋本くんがまだいた。居間に入って来るなりソファに寝転んで、すっかり家族の一員となっている。私がここを離れ、大阪に住み、旅に出て、そして今日来るまで、ずっとここにいたのか。どちらが良い悪いという事はもちろんないが、時間軸があまりにも違っていることに驚きを隠せなかった。
 夕食時を狙っていた訳ではないが、ちょうどその時間だったので私も食卓に混ぜてもらった。ワイワイ騒ぎながらの食事は本当にいいものだ。何より、以前と変わらずに接してくれるのが本当に嬉しい。

 食事後、離れにあるバイト用の家へ行く。今はシーズン終了間近なので、橋本くんが一人で住んでいる。私も以前住んでいた部屋を使わせてもらうことにした。
 その日は夜遅くまで橋本くんと語り合った。というよりも、橋本くんに旅の話をせがまれた。野辺山から動かなかったせいだろうか、外の世界の話を、身を乗り出して聞いてくれる。姉弟の男連中三人も部屋に来て、興味津々に私の話を聞いてくれる。まかり間違って「俺も旅をする」などと思われては大変なので、「旅なんてものは、しなけりゃしない方がいいんだからな」と何度も念を押しておいた。これは半分本心でもある。

  翌朝、皆は仕事や学校の準備でバタバタしているので、朝食だけ頂いて、すぐに出ることにした。奥さんがおにぎりを三つ持たしてくれる。子供たちが「また来てよ、待ってるよ」と言ってくれる。今まで野辺山は第二の故郷だと思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。第一も第二もなく、野辺山は故郷だ。そんな思いを噛みしめながら、牧場を後にした。 

 しんちゃんと落ち合う日は二日後。静岡までの距離は一〇〇キロ程度。人に乗せてもらう身分で言うのも気がひけるが「楽勝」の二文字が浮かぶ。
 再会場所は既に決めていた。富士山だ。旅に出るきっかけとなったしんちゃんと富士山で再開。いやが上にも胸が高鳴った。

再会

  青森県大畑を出てから六日目、静岡県富士川の河口にある公園で、ついにしんちゃんと再会した。大げさに喜ぶ私に対して、「はいはいはい」といった感じでいなすような彼の態度が懐かしかった。
 しんちゃんは思う所があったようで、せかし気味に私を車に押し込み、「実は頼みがある」と切り出した。
「お前がいつもやってるようなキャンプを俺もやりたい」
「え? いつもビールとかはないけど……」
「ビールはありで」
「食事はパンとかおにぎりとかもらい物が多いけど。それか沢蟹とか、タニシとか」
「……食事は豪華にいこう」
 スーパーで食材とビールをしこたま買い込んだ。

 富士山を望むことができるとある川原に来た。それにしても富士山はさすが富士山だ。利尻富士にも心惹かれたが、本物の富士山はやはり大きい。利尻富士の倍以上の標高で、当然その高さを維持するための裾野も広い。そうだ。人も山も裾野が広くないと、大きくはなれないのだ。そんな大きな富士山に見守られながら、しんちゃんへのおもてなしに取り掛かる。
 手の込んだ料理は作る方も食べる方も面倒なので、ボリューム優先の料理を選んだ。まず鶏肉にたっぷり塩コショウを振り、たまねぎやピーマンなどの野菜と一緒に濡らしたタオルで包む。それをさらに濡らした新聞紙で何重にも包み、丸石の多い川原に埋める。その上で焚火をする。「焚火なんて子供の時以来だな」と、既にビールを飲み始めたしんちゃんはご満悦の様子だ。
 二時間ほどで焚火をどけ、包みを取り出す。湯気がホワホワと上がっている。新聞紙の上の方は焦げて真っ黒だ。そーっと新聞紙とタオルを解くと、うまそうな湯気がもわあっと立ち上がる。そして湯気の中から、ツヤツヤの鶏肉と野菜たちが「さあ食べてくれ」と顔を出した。
「おおおおお!」
 クールを装うきらいがあるしんちゃんが大興奮している。鶏肉を一つまみすると、目をキラキラと輝かせて「うまいうまい」と連呼している。うん。初めて作った料理だが、どうやら上手くできたようだ。
 ご飯も炊いておいた。空き缶の上をナイフで切り取り、お米半分に擦り切れ一杯の水。切り取った部分で蓋をして、遠火にかける。焦げた匂いがしてきたら遠ざけて蒸らす。しばらくしてナイフで空き缶を切り裂くとホクホクに炊きあがった白米が現われた。空き缶はそのまま器にする。火傷しないよう、左手に軍手を二枚つけ、右手で手づかみで食べる。炊飯器で炊くよりも何倍も美味しい。しんちゃんも「あつあつ」と言いながら、手づかみで食べている。何度も一緒にご飯を食べた仲だが、こんなにも美味しそうに食べる彼の姿は見たことがなかった。 

 大学の演劇部で、実はしんちゃんとは折り合いが悪かった。真剣に演劇に取り組むしんちゃんに対して、私はかなりいい加減だった。何でも適当に済ませようとする私に対する彼の憤りは相当なものだったに違いない。
 それでも、大阪で近くに住むようになった私を、しんちゃんは何かとサポートしてくれた。奢ってもらったことも何度もある。少なくない金額を借りたこともある。そして、旅の最中に私を何度も救ってくれた「かもめのジョナサン」。あの本があるとないとでは、私の旅は全く違うものになっていたと思う。
「英二も食えよ!」
 しんちゃんの言葉にはたと我に返った。脂の滴る鶏肉を頬張り、ビールで流し込む。うまい。楽しい。心が温かい。とてつもなく、とてつもなく幸せな時間だった。

 翌日、しんちゃんは実家のある名古屋へ行くというので、私も便乗した。なので、厳密に言うと、「ヒッチハイクで日本一周」という私の旅は、この富士山名古屋間は抜け落ちている事になる。ただ、正直そんな事はどうでもよかった。私にとって、ヒッチハイクはもはや目的ではなくなっていた。ヒッチハイクをすることによって人と仲良くなることの方が重要だった。ならば、今度いつ会えるか分からないしんちゃんと少しでも多く時間を過ごした方がいい。それに、この抜け落ちた区間が気になるようだったら、またやりにくればいい。それだけのことだ。

日本代表

  しんちゃんとの再会からひと月半後、私は鹿児島の港から沖縄行きのフェリーに乗りこんだ。

 しんちゃんと名古屋で別れた後、私は西日本のまだ行ったことのない地方を回りながら、のんびりと西へと向かっていた。ところが十月下旬に差し掛かった頃から日没後の気温が急激に下がり、夜はガタガタと震えて眠れないほどだった。冬用の装備は持っていないので、私は寒気に追われるように鹿児島まで南下し、そして、今沖縄へ向かっているのだ。

 フェリーは、鹿児島から丸一日かけて那覇に着く。長距離フェリーというと、学生時代に乗った上海行きのフェリー鑑真号を思い出す。あの時は出会う人がそのまま友達になっていくようなフレンドリーな空間に包まれていた。それを期待して、雑魚寝部屋にいた何人かに声をかけたが、皆適当にあしらうような返事ばかり。あきらめて毛布にくるまって寝る。

 夜中、ロビーの方がざわついているので、様子を見に行った。皆、身を乗り出してテレビに見入っている。サッカーフランスワールドカップ予選、日本対イランの試合だった。勝った方がワールドカップ出場という大一番。私もそのままテレビに釘付けになった。一対〇から逆転され一対二。しぶとく追いつき二対二。フェリーのロビーは、いつしかスポーツバーのような一体感に包まれていた。
 そして延長後半の試合終了間際、長髪の岡野がスライディングをしながらのゴール。ロビーにいた何十人かが一斉に立ち上がり大歓喜。あちこちで握手や抱擁する姿が見られた。
 朝まで大騒ぎしそうな勢いだったが、折良くか悪くか、その頃から船の揺れが大きくなり始めた。一人二人と手摺りにつかまりながら寝床へと帰って行く。私はというと、寝床へ帰る事さえできず、トイレで便器にうずくまっていた。サッカーを見ながら食べていた焼きそばUFOも、乾杯のために買ったビールも全て吐いてしまった。そのまま沖縄に着くまで、便所が私の部屋だった。

 夜七時、那覇港到着。風は強かったが寒くはない。それどころか、暖かいくらいだ。ひと月前の本州はガタガタ震えるほど寒かったのに、さすが南国だと感心する。
 大学時代の友人ヨナちゃんには昨日電話をしており、七時半に迎えに来てくれることになっている。まだ船酔いが抜け切らない足取りで、ターミナルを出る。すると、たむろしていた黒人青年が私の持っていたサックスケースを指さして、「サキソフォーン?」と話しかけてきた。
 サムエルと名乗るその青年は、那覇市のライブハウスで毎晩演奏しているプロのミュージシャンだった。サックスを持ち歩いて旅をしている私を、相当なプレイヤーだと勘違いしているのだろう、目がキラキラと輝いている。私も調子に乗って「サックスは俺の恋人だ」みたいな、それっぽいセリフをいくつも吐いてしまった。
「セッション ウィズ ミー」
 そう言ってサムエルは名刺を渡してきた。ライブハウスの地図まで描いてある。今更素人ですとは言えない雰囲気になってアタフタしていると、駐車場からヨナちゃんが向かってくるのが見えた。
「オー! マイフレンドだ! グッラック、シーユースーン」
 そう言って、サムエルと強引に固い握手を交わし、ヨナちゃんの方へ体よく逃げて行った。すまない。ライブハウスでやるような技量も根性も私にはない。セッション日本代表の座は、他の人に譲ることにした。

  ヨナちゃんは演劇部の男性陣の中でもとりわけ優しい人柄だった。優しさが服を着て歩いているとよくからかっていたが、いつも「えー、そうかなあ。そんなことないよぉ」と、やはり優しい受け答え。皆に癒しを与えるような存在だった。
「よく来たねえ。船揺れたでしょ? ご飯ご馳走したいんだけど大丈夫? 気持ち悪くない?」
 数年ぶりに会ったヨナちゃんは、以前と変わらず優しかった。那覇市の目抜き通り、国際通りから一本外れた通りにあるマンションの五階に彼の部屋はあった。向かいの建物の隙間から、わずかに国際通りの賑やかな様子が伺える。覗き見しているようで、歪んだ高揚感を覚えた。

  連れていかれたのは那覇で一番有名だというステーキ屋さんだった。ヨナちゃんにメニューをお任せすると、俵みたいな太いステーキが出てきて度肝を抜かれた。切ってみてさらに驚く。ステーキの表面だけは焼けているが、中は完全な生。確かにレアを頼んだが、まさかここまでレアとは思わなかった。
 生肉を見ると無条件に思い出すのが、冒険家・植村直己のエスキモーの村での体験談だ。
「生肉を差し出されて断ってしまうと、彼らとは友達にはなれない」
 私にとって植村直己は、野田知佑と同じく神様のような存在だった。ヨナちゃんはもちろんエスキモーではないが、差し出された生肉を食べないという選択肢は、私にはなかった。 

 食事をしながら、ヨナちゃんはプリントされた紙を渡してくれた。
「それね、製糖工場の短期バイトの面接日程。沖縄各地の製糖工場から人事の人が那覇のハローワークに来て、面接してくれるんだよ。これ見ると、明日は波照間島の面接があるみたいだね」
 沖縄本島をひと通り回ったらどこかでバイトをするとヨナちゃんには伝えておいた。そんな私のために、こんな物を用意してくれていたのだ。本当に優しい人だ。この厚意に報いるためにも、選り好みなどしていられない。明日すぐに面接に行こう。
「ところでさ、波照間島ってどの辺にあるの?」
「えーっとね、確か沖縄最南端の島だったかな。那覇から石垣島まで行って、そこからさらに船に乗るんじゃなかったかな? あれ、飛行機だったかな?」
 沖縄で生まれ育ったヨナちゃんにとっても、あまり馴染みのない島のようだった。
 どれだけ食べてもなかなか減らない生肉ステーキと、遥か南にあってどうやって行ったらいいのかもはっきりとしない波照間島が、頭の中でリンクする。そんな沖縄初日の夜だった。

不思議な夢

  面接の手応えは完璧だった。志望動機については特に完璧だった。
「貧乏旅行をしていると、砂糖のありがたみがよく分かります。疲れていても砂糖をなめるとエネルギーが湧いてきて、また旅を続けられるんです。昨日沖縄に来て御社のバイト募集を知り、これは運命だと思いました。砂糖は大好きですが甘ったれたことは言いませんので、どうかよろしくお願いします」
 面接官は笑っていた。笑わせればこっちのものだ。面接結果は、一週間後にハガキで知らせてくれるそうだ。ちょうどいい。この期間に沖縄をヒッチハイクで回ることにした。
 翌朝、「ヒッチハイクしやすい場所まで」ということでヨナちゃんの車に乗り込むも、ついつい話し込んでしまい、那覇から三〇キロも離れた読谷村まで来てしまった。
「何かトラブルがあったらすぐ行くから、電話してね」
 そう言って去って行った。本当に優しい。 

 ここ数日、一人になる事が少なかった。
 長期の旅で必要なもの。食事や睡眠などを除くと、私には“一人になる時間”が重要だった。ヒッチハイクの旅をしていると、「気楽な生活だねえ」とよく言われる。自分でもそう思うが、やはり知らず知らずに気を遣っているようで、あまりヒッチハイクばかりしているといつの間にか鬱状態になっていることが何度かあった。そんな時はひと気のない川原にテントを張って、何日間か完全に“人間断ち”をするようにしていた。これを私は「入出力のバランス」と名付けていた。つまり、ヒッチハイクというのは運転手に対して自分がどういう人間かを伝えなければいけないという出力作業だ。出力ばかりしているとどうなるか? 自分が空っぽになってしまい、私の場合、鬱状態になってしまうのだ。そこでその状態をフラットに戻すための入力作業が必要となる。人間断ちして、山や川、海などの自然に触れていると、色々なことを経験できる。釣り、潜り、焚火、料理、これら全てが空っぽだった私の中を満たしていき、入出力のバランスはフラットな状態に戻るのだ。
 という訳で、その日私はヒッチハイクをせず、テントを張る場所を探すために、当てずっぽうに海の方へと歩いて行った。十一月下旬だというのに日差しが強く、すぐに汗が滲んできた。本州では味わえない環境に気持ちが昂る。
 三十分ほど歩くと防風林のようなものがあり、そこを抜けると、白い砂浜が見えた。細かく砕けたサンゴの死骸からなる沖縄の砂浜は目が覚めるように明るく、私の細い目がさらに細くなった。砂浜の奥には、濃淡様々な青に彩られた海が広がっている。まさに、絵に描いたような“沖縄の海”だった。
 少し離れた所に、いわゆるリゾートホテルのような小洒落た建物が見える。観光シーズンから外れた十一月下旬ということもあるのだろうか、人影は全く見えない。私はこの砂浜にテントを張った。
 海パン一枚で砂浜に寝っ転がり、熱くなったらテントに避難。それを繰り返した。何もせずに、ただ太陽光の入力だけに専念した。 

 夜、昼間たっぷり寝たにも関わらずぐっすりと眠っていたが、懐中電灯の灯りがテントに当たったことに気づいて目が覚めた。怖いので「こんばんはー」と大声で挨拶してからテントの外に出る。
「ここ、ホテルの敷地なんですけど」
 ぶっきらぼうな声だった。暗くてよく分からないが、制服らしきものを着ている。どうやらホテルの警備員のようだ。極力明るく返答をする。
「あー、そうでしたか。ごめんなさい。朝には出て行きますから」
 不服なのか、何やら低い声でブツブツ呟き、「ハブいるからね」そう言って去って行った。時計を確認すると深夜一時だった。この時間にわざわざ起こして注意するのか。なかなか厳しい人だ。
 気を取り直してテントの中に潜り込み、再び眠りについた。寝られる日というものはいくらでも寝られるもので、すぐに夢の世界へと入ることができた。
 その夢での話になる。
 昼間のように、浜辺で私は寝転がっていた。ボーっと海を見つめていると、無数の緑の点が沖の方から押し寄せていることに気づいた。立ち上がろうとするも、身動きが取れない。そうこうしているうちに緑の群れはどんどん膨れ上がり、ついに浜辺へと上陸してきた。よく見るとそれは迷彩柄の戦闘服を着た軍人の群れだった。軍人たちは匍匐前進をしながら私の方に向かってくる。なぜが悲鳴をあげることすらできず、私はただジタバタと藻掻くことしかできなかった。軍人たちの何人かが一斉に私の足を掴んだ。顔を見ると、彼らは日本人ではなく明らかに白人だった。
「ああああ!」
 ようやく声が出せたのと同時に飛び起きていた。貧乏揺すりぐらいの速いテンポで、心臓が脈を打っている。慌てて足を確認する。無事についているが、まだ掴まれた感触が残っているようだった。全てを細かく絵に描けそうなほど生々しい夢だった。 

 朝、ホテルに迷惑がかからないよう、早めに出発した。国道に向かって歩いていると、何か手書きの看板のようなものが見えた。「チビチリガマ」と書いてある。可愛らしい名前に興味を惹かれ、矢印の方向に進んでいくと、洞窟のような場所に行き着いた。近くにあった説明書きを読んで驚いた。ここ読谷村は米軍が最初に上陸した場所で、このチビチリガマは米兵に追い詰められた百人近い村人が集団自決をした場所だったのだ。
(※米兵は村民を救出しようとしたものの、村民はそれを信じずに自害したという)
  どうやら私は亡くなられた方々に失礼な場所でテントを張ってしまったようだ。手を合わせ、お詫びとご冥福をお祈りした。
 沖縄は単なるリゾート地ではないということを身を持って体験し、身が引き締まった。 

沖縄本島ヒッチハイク

 「ここじゃ誰も止まらんよ」
 読谷村の県道でヒッチハイクをしていると、おバアが説教口調で話しかけてきた。「そうですねえ」と、適当にかわす。不思議なことに、こういうおせっかいなアドバイスをしてくる人は、日本全国各地にいた。確かに地域性や道路状況によっては、なかなか止まってくれないことはある。だが、それを自分で決めてしまってはヒッチハイク自体が成り立たない。なので、こういう時は自分の気持ちが落ち込まないよう、「うるせーよ」と心の中で呟く。
「国道行きなさい、国道」
 うるせーよ。無視して続けていると、五分も経たないうちに一台の車が止まってくれた。
「ニーニ(お兄さん)、乗っていきなさいヨー!」
 なんだか陽気な方だ。
「おばあちゃん、色々とありがとうね。さようなら」
 おバアは面白くなさそうに眉間にしわを寄せて去って行った。何が目的だったのだろうか?

 乗せてくれた五十代の男性は、一点の曇りもないカラっとした笑顔が印象的だった。海が大好きで、この辺りの海について色々と教えてくれた。
 天気が良ければ今の時期でも泳げること。
 地元の人は日焼けを嫌って夜に泳ぐこと。
 ライトをつけて海に潜ると、ダツ(細長く、口先が尖っている魚)が突っ込んできて、刺さって亡くなる人もいること。
 昔に比べて魚も貝もずいぶん減ったこと。
 終始楽しそうに語ってくれたが、最後の魚が減ったことについてだけは雨降りのような表情で語っていた。
 読谷村から二〇キロほど北上した恩納村で降ろしてもらい、続けざまにヒッチハイク。三十分ほどでワゴン車が止まってくれたのだが、この運転手の男性がだいぶ変わった方だった。こちらの言うことを全く聞かず、延々と自分だけで喋り続けているのだ。
「ほかの人アナタ乗せない、ワタシ乗せる。沖縄の人の情、法律で縛れない。昔の沖縄の人、誰でも車乗せる、今乗せない。ここ昔軍の道路、軍道一号線、今、国道五十八号」
 相槌を入れる間もなく、喋り続ける。
「ワタシ、名護の人。名護で四時間遊んでいきなさい。ステーキは食堂で。昼メシはパン食べなさい」
 怖くなってよほど降りようかと思ったが、昨日読んでいたハムレットの一節が頭をよぎった。
「どんな人の話も聞いてやりなさい」
 名護に着くまで、私はじっと我慢して彼の言葉を聞き流し続けた。
「ほかの人、絶対車に乗せない。ワタシだから乗せる……」 

 名護市内に入ると、何も言っていないのに国道五十八号線を外れ、中道へと入って行った。「あのう、どちらへ?」と聞いても返事がない。いよいよ強引にでも降りなければならないかと思っていると、車が止まった。道の真ん中に、本州では見ないような変わった大木が生えている。
「名護市のシンボル、アナタ見る」
 有名なひんぷんガジュマルだった。言動が不気味だったが、根は優しい人なのかもしれない。ここで降ろしてもらい、深々と礼をして見送った。
 それにしても、今の男性といい、朝のおバアといい、やけに「ここの人は車に乗せない」と言う人に当たる日だ。悪気はないのだろうが、何度も聞くと呪いをかけられているようで、あまりいい気分ではない。

 気分転換がてら国道まで歩き、車が止まりやすい場所でヒッチハイク。すると、すぐに一台、いや、二台の車が同時に止まってくれた。旅を始めてから二百台以上乗せてもらっているが、こんなことは初めてだった。『めちゃくちゃ乗せてくれるやないかい!』と思いながらアタフタしていると、後ろの車の運転手が事情を察したようで、手を振りながら発進してしまった。「ありがとうございましたー!」大声でお礼を言うと、ハザードが二回ほど点滅した。「あの車に乗った未来」に後ろ髪を引かれつつ、もう一台の車へと乗り込んだ。 

 その日は結局、読谷村から名護市、本部半島を周って北上し沖縄本島最北端の辺戸岬へ。そこから島の東側を通って一気に嘉陽という集落まで来てしまった。距離だけで言うと、この日だけで沖縄を半周してしまったことになる。どうも初めての沖縄で、距離感が掴めない。
 この嘉陽という集落は、嘉手納基地移転問題で渦中の辺野古にほど近く、あちこちに「基地反対」「命どぅ宝(命こそが宝)」の看板が掲げられている。緑濃いやんばるの森と透き通った遠浅の海に挟まれた国道。そしてそこに掲げられた手書きの看板。この風景が、この島の複雑な事情を雄弁に語っているようだった。

青年と海

 

 この嘉陽という集落には、見渡す限りの美しい砂浜が広がっていた。その砂浜と防風林の境目あたりに、私はテントを張った。海を背にすると、長く広がる防風林がテントを守ってくれているようで、なんとも心強い。防風林からさらに視線を上にやると、さっきまで真っ青だった空が、少し赤みを帯びていた。夕陽は山の稜線に阻まれて見ることはできないが、それでも十分に美しい夕焼けの始まりだった。
 海の方で人の気配がしたので振り向いた。ランニングシャツに短パンのおじさんが、投網を担いで歩いていた。ギラリと光る大きな目と白髪の混じった髭が印象的な人だった。
 おじさんはやおら立ち止まり、今度は海に膝下まで入って行った。そのままピクリともせず海を見つめている。何か始まるのかと思って、私もそーっとそばに寄った。
 おじさんは投網を肩から降ろすと、両手で持って投げる構えをとった。視線は海から逸らさない。海面が急にキラキラっと輝いた瞬間、おじさんは投網を打った。その姿は、庭にバケツで水を撒くような、極々ありふれた日常の一動作だという感じで、何の気負いもないものだった。その何でもない動きに反して、投網は一つ一つの網目がはっきり分かるほどきれいに広がり、ジャババっと音を立てて整列するように着水した。おじさんは網を引き上げながら、砂浜に戻ってくる。手にした網には数えきれないほどの小魚がかかっていた。
 私が目を丸くして「すごいですねー」と声をかけると、口角が少しだけ上がった。おじさんにとっては、それほど珍しくもないことのようだ。「持っていきなさい」おじさんはそう言って。投網から無造作に小魚を掬い、砂浜にばらまいた。イワシだ。ゆうに十匹以上はいる。「ええ! ありがとうございます!」礼を言うとまた少し口角を上げ、別の場所へと行ってしまった。
 空は先程よりも赤みを帯びていた。海からは既に青色が消えている。夕闇がすぐそこまで来ているようだ。砂まみれになってピチピチと跳ねるイワシを海水で洗うと、わずかな光を受けてキラリと光った。自分で獲った訳でもないのに、無上の満足感を覚えた。

 腹を壊す訳にはいかないので、イワシは全て湯がいた。一匹だけを残して。私には予てからやってみたい食べ方があった。ヘミングウェイの小説「老人と海」で、主人公の老人サンチャゴが、トビウオを一匹丸ごと生で食べるシーンがある。
「骨ごと注意ぶかく嚙みくだき、尻尾まで丸ごと食べてしまった」
 私はこれを読んで、いつか同じようなことをしたいと思うようになっていた。今、目の前にまだ生きているイワシがいる。この時を逃したら、私は永遠に夢を叶えられない。
 まず頭の先から食べることにした。エラ辺りまでガブリといきたかったが、躊躇してしまい鼻先だけを齧ってしまった。見ると、イワシと目が合った。こんな悲しい表情のイワシを見るのは初めてだった。「ひと思いにやってくれ」と言っているようで、慌ててエラ辺りから噛み千切った。ビビビビっと小刻みに動くイワシ。歯というものが、生物を殺す武器だということを、この時初めて知った。
 口の中に入った頭を、グチャリと奥歯で潰す。何度も潰す。骨ばっていて、口の中が少し痛い。生臭みが強く少しも美味しくはない。先程のイワシの顔が浮かび、「それなら食うなよ」と言っている。全くだ。申し訳ない。五分ほど噛んだだろうか、完全に潰して液状になったものをゴクリと飲み込んだ。「口は第一の消化器官」の意味を実感する。
 次はいよいよ本体。はらわたのある部分だ。胴体の三分の一程度を口の中に入れ、ガジャリと嚙み切る。この時点で既に生臭い。恐る恐る胴体を嚙み潰すと、生臭さ、血の味、色々な種類の苦みが口の中に広がる。そして咀嚼するにしたがってウロコが剥がれ、口の中に張り付く。だが、それら不快な要素を全て搔い潜ると、微かに肉の旨味を感じることができた。その旨味の部分だけに神経を集中して噛み続ける。生臭さ、血、苦み、旨味、別々だった成分が少しずつ混ざり合い、やがて一つになる。その頃には骨もウロコもバラバラになり液状になっている。そして、それを飲み込む。
 結局、一匹のイワシを食べきるのに三十分以上かかった。口の中の生臭さが不快だ。予め汲んでおいた海水で何度も口をすすぐと口の中に張り付いていたウロコが浮かび上がってくる。何度か繰り返した後、最後は真水ですすぎ、ゴクリと飲み込んだ。
 今まで数えきれないほど食事をしてきたが、ここまで考えさせられることが多い食事は初めてだった。決して美味しくはないし、寄生虫も怖いので今後やることはないだろうが、私はこの体験を、そして、あの私を見つめるイワシの目を、生涯忘れることはないだろう。 

 翌日、風は少し強かったが、きれいな青空がどこまでも広がっていた。十一月も末だというのに肌がジリジリと焦がされる。押し寄せる波がおいでおいでと言っているようで、私は海に潜った。遠浅の海にはたくさんの海藻が生えていた。ジュゴンが食べるアマモだ。アマモの森を掻き分けて泳ぐと、体にアマモがサワサワと当たって心地良い。潮の関係だろうか、魚はあまりいなかったが、その感触が楽しくて、いつまでも泳いでいた。まるで自分がジュゴンにでもなったかのようだった。
 アマモの森でプカプカと浮いていると、いつの間にか景色が暗くなっていることに気づいた。顔を上げて空を見ると、一面重そうな雲に覆われていた……と思う間もなくポツリポツリと雨粒が体に当たり出した。海一面にポツリポツリと雨粒が落ちる風景は、大群衆の中のまばらな拍手のようだったが、それは間もなく万雷の拍手へと変わった。大慌てで浜に上がる。テントに着くまでに海水のベタベタがすっかり抜けるほどの大雨。グシャグシャと体を拭いて、急いでテントの中へ逃げ込んだ。
 いくつもの大きな雨粒がバチバチとテントを鳴らす。この音だけでも恐怖感を覚えるというのに、次第に風も強くなってきた。ビョービョーと防風林が風を切る音が聞こえてくる。テントに当たる風も時間が経つにつれて強くなり、テントの形が歪むほどの暴風が吹き荒れるようになった。雨と風との狂騒で頭がおかしくなりそうだった。

  暴風雨はほぼ丸二日吹き荒れ、その間、私はテントからほとんど出られないばかりか、騒音と恐怖で眠る事さえままならなかった。この旅で、自然の前には人間など本当に全く無力だということが分かった。人間など、地球にへばりついて生きる生物の一つに過ぎないのだ。

 結局その浜には四泊もしてしまい、五日目の朝にようやく出発することができた。バイト採用の通知がそろそろ届く頃なので、慌て気味にヒッチハイクをした。その日はなかなか車が止まってくれなかったが、那覇まではそれほど遠くはなかったので、夕方にはヨナちゃん宅へ帰還することができた。波照間島の製糖工場からのハガキはちょうどその日に届いていた。
 通信面には「不採用」と大きく書かれていた。
 甘くなかった。

「バイト見つかるまでゆっくりしてていいからね」
 ヨナちゃんはそう言ってくれたが、あまり甘えるのも申し訳ない。不採用を突きつけられた翌日、本屋で「沖縄・離島情報」というガイドブックを購入した。ここには沖縄全島の民宿の情報が記載されている。礼文島でやったように、片っ端から電話をかけてみることにした。ただ、当てずっぽうにかけても効率が悪いので、ある程度部屋数の多い民宿だけに絞ることにした。二十軒もかければどこかに引っかかるだろうと高を括っていたが、どこの民宿も「バイト」という単語を聞いただけで「いらないヨー」とガチャリ。午前中いっぱいかけて沖縄本島および周辺の島々にかけてみたが全滅。午後からは本島を離れ、八重山諸島に狙いを定めた。宮古島、石垣島、西表島、全滅。朝から数えると百以上の民宿にかけている。箸にも棒にも掛からないとはこのことだ。
 それでも諦めずに、というよりも惰性でかけまくった。もはやどこの島のどんな名前の民宿にかけているのか分からない状態になり、電話番号を見つけては、そこにかけるという作業の繰り返し。マンションの窓から赤みを帯びた西日が差しこんでいる。「もう諦めるか」そう思いながらかけていると、とある一軒の民宿で「うーん、どうしようかなあ」という女性の受け答え。こんな反応をした人は今までにいなかった。逃すものか。
「何でもします。料理もできるし、掃除も丁寧にします。力仕事も大丈夫です」
 電話の向こうで「どうする? 力仕事もできるって」と小声で聞こえる。脈ありだ。
「あんまりお金あげられないけど、それでもいい?」
「もちろんです! がんばります!」
「じゃあ、いつでもいいから、島に着いたら連絡ちょうだいね」
 大雑把な契約を交わし、電話を切った。働き口を勝ち取った感慨に耽りながら、はたと気づいた。私はどこの島にかけたかも分かっていなかった。今一度ガイドブックで確認すると、そこにはこう書かれていた。
「波照間島」
 どうやら、この島とは縁があるようだ。 

南の果て

  那覇からフェリーで半日以上かけて石垣島に到着。民宿に「今から行きます」と連絡し、小さな高速船に乗って波照間島へ向かう。連日の荒天で白波がたっている。その中をバッタンバッタンと叩きつけるように高速船が進んで行く。客は私しかいなかった。
 途中、何度も吐いて、ようやく島に到着。船から下りようとすると船長に呼び止められ、荷揚げ作業を手伝わされた。二十個ほどある段ボールは、ほとんどが個人宅向けの宅配便だった。「ワレモノ注意」のシールが目に入ったが、どう注意しようと、あの揺れでは割れてもおかしくないだろう。
「ニーニ、ヘルパー希望の人? 電話の?」
 港に降り立った私に声をかけたのは、いかにも「おっかちゃん」といった感じのふくよかな女性だった。「はい、そうです」と答えると、「乗って乗って」と軽バンに押し込められた。港から坂道を上り、サトウキビ畑を抜けると、道の両脇に手で積まれたような石垣が現われ始めた。石垣の奥にはくすんだ色の赤瓦の民家が見え隠れする。観光地化されていない、生活感が湧き上がっているような沖縄の家々に感動を覚える。
 程なく、コンクリート造りの二階建ての建物が見えてきた。平屋の多いこの島では、二階建てというだけでかなり目立つ。それこそが、私が住み込むことになる民宿だった。 

 民宿に着くと、挨拶もそこそこに夕食の支度。客は、土木工事で長期滞在している八名と、観光客十五名程度。おっかちゃんたちが食事を作っている間に、お座敷を掃き掃除し、テーブルを拭き、お箸や取り皿などを揃える。北でも南でも、民宿の仕事の内容に大差はない。
「ニーニ、仕事早いネー」
 おっかちゃんが褒めてくれるのが嬉しかった。
 あとはお客さんが食べに来るのを待つだけという段階で、ようやく自己紹介。民宿は大将のタカシさんと「おっかちゃん」のスミコさんとで切り盛りしており、スミコさんの妹カズコさんが手伝いで来ていた。カズコさんに「今のうちに食べなさいヨ」そう言われて八重山そばを頂いた。豚骨の出汁がたっぷり効いている上に、隠し味に黒糖を使っており、何とも言えない奥深い味わいだった。それまでにも何度か沖縄のそばを食べているが、それらとは比べ物にならないくらい美味しかった。 

 食堂にはまず土木工事の人たちが現われた。もう何カ月もこの民宿に滞在しているようで、私を見るなり「新人さんだヨー」とか「どこから来たのさ?」と声をかけてくれる。皆が皆、ひまわりのような明るい笑顔なのが印象的だった。そうこうしているうちに観光客も一人二人と現われ始め、瞬く間に食堂は大賑わいとなった。

 全てのお客さんに食事を出し終わってしばらくすると、タカシさんが厨房から出て来て、おもむろに三線を弾き始めた。飛び跳ねるような三線の音色が心地良い。そのうち工事の人たちの数人が沖縄の踊りカチャーシーを踊り始めた。踊っていない人は指笛などで参戦している。観光客たちは食事をしながら手拍子をしたりで、とても忙しそうだが、それ以上に楽しそうだ。
「今日は何かのお祝いですか?」
 カズコさんに尋ねると、こう答えてくれた。
「今日はお客さんが多いし、ニーニも来てくれたから大サービスみたいネ」
 タカシさんは寡黙な人で、まだほとんど会話を交わしていないが、どうやら歓迎してくれているようで、少し安心した。
 宴は大いに盛り上がり、片付け終わった頃には十二時を過ぎていた。なんとも中身の濃すぎる一日だった。 

 私の寝床は、二階から屋上へ上がって行く階段の踊り場だった。ベッドが置いてあるので、今までのヘルパーさんもここで寝泊まりしていたのだろう。
 寝る前に、屋上へ出てみた。風があって肌寒かったが、なんとか半袖でも耐えられた。夜空を見上げて驚いた。星が、今まで見たことのないほどのたくさんの星が、水平線の隅から隅まで、夜空いっぱいにびっしりと埋め尽くされていた。まるで、自分も宇宙空間にいるようだった。
 波照間島。人の住む島では日本最南端。島名の由来は、「果てのウルマ(サンゴ礁)」だという。
「果てまで来たんだなあ」
 星空を眺めながら呟いた。波照間島に来たという実感を、この時改めて感じた。 

不思議な力

  波照間島の生活は楽園そのものだった。朝六時に起床して、十時くらいまで民宿の仕事。昼間はたまにサトウキビの収穫を手伝ったりもしたがほぼ自由時間。近くの浜でシュノーケリングをして、晩酌用に魚を突いたり、シャコガイを獲ったりして過ごし、夕方四時頃から仕事を再開して、だいたい八時には終わる。仲良くなったお客さんとはそのあと一緒に飲んだりもした。しんみり飲むこともあれば、大宴会になることもある。その日の盛り上がり次第で宴会の規模が変わるのが面白かった。
 土木工事の人たちは翌日仕事があるのでそれほど頻繁に騒いだりはしなかったが、上原さんという五十代くらいのおじさんだけは毎日のように酒宴に加わってくれた。私のことを「エージ、エージ」とかわいがってくれ、他のお客さんがいない時はこの上原さんと二人で飲むことも少なくなかった。思えば、私の波照間島での生活はこの上原さんとの生活だったと言ってもいいくらい、精神的に密接な関係だった。
 最初は単なる気のいいおじさんだと思っていたこの上原さん、一緒に過ごすうちに、少しずつマジックのようなことを披露してくれるようになった。泡盛やタバコなどに手をかざして上下させると、味が変わってしまうのだ。上原さん曰く「毒気を飛ばした」そうで、飲んでみると、確かに味が柔らかくなっていた。
 こんなこともあった。観光客の何人かも含めて一緒に飲んでいると、上原さんが急に真顔で一人の男性に質問をし始めた。
「左肩、重いでしょ? 三カ月くらい前からでしょ? その時、神社に行ってない? 神社のそばの森に入ったでしょ? アナタ、そこで立小便したよネ?」
 全て当たっていた。上原さんは「じゃあ、ちょっと立って」と、男性を立たせ、両手を横に広げさせた。上原さんは男性の後ろに立ち、背中や腕に手をかざした。時間にして一分くらいだろうか。「もう立小便したらダメだよ」と言って上原さんが離れると、男性は「うわあ、嘘みたい」と、両手を振り回して大喜びしている。ずっと感じていた肩の重みが、きれいさっぱりなくなったというのだ。
 そんなことが何度もあった。私はというと、あまりそういう超常現象には興味がないので、何度も奇跡を目の前で見ているというのに、本気で信じてはいなかった。ただ上原さんと一緒にいると楽しい、それだけの理由で一緒に飲んでいた。
 だがある日、私も上原さんの奇跡を直接体験する出来事が起きた。
 私は二月初旬に西表島で開催されるマラソン大会に出場するために、仕事が終わってから島を一周ランニングするようにしていた。街灯のない島の道路を月や星の明かりを頼りに走るのは、最初こそ恐怖感が先に立っていたが、慣れてくるとむしろ気分がいいくらいだった。
 大会を翌日に迎えた夜、いつものようにランニングしていたら、こぶし二つ分くらいある大きな石を踏みつけてしまい、右足首を大きく捻ってしまった。小中高と運動部だったので、自分の怪我の重症度はすぐに分かった。「明日のマラソンは絶対無理だ」と。
 びっこを引いて民宿へ帰ると、ちょうど上原さんがロビーでタバコを吸っていた。作り笑いで「足やっちゃった」と伝えると、まだ長いタバコを揉み消して駆け寄ってくれた。
「ちょっと見せてみなさい」
 言われるままに靴と靴下を脱ぐ。パッと見てすぐ分かるくらい大きく腫れていた。もしかしたら骨折しているかもしれない。
「ちょっと座りなさい」
 言う通りに座ると、上原さんは私の足首に手をかざし、何度か手を上下させた。
「折れてなければ、明日には治ってるサ」
 足首はまだパンパンに腫れている。これが一晩で治るわけがない。一応礼だけは言って、その日は大人しく寝た。
 翌朝、起きてすぐに足首を触った。腫れがひいている。足首をグルグルと回してみる。全く痛くない。ベッドから降りて歩いてみる。痛くない。外に出るために階段を下りる。軽く走る。全速力で走る。その全ての動作を何の痛みもなくこなすことができた。
「嘘だろ」
 足首は完治していたが、私はしばらく動けなかった。 

 マラソンは、何の問題もなく完走することができた。帰ってきて上原さんに報告すると、こともなげにこう言った。
「悪い部分を飛ばしてあげただけだヨ。お疲れさん」
 その日、私は上原さんに不思議な力のことを詳しく聞いた。
 上原さんは生まれつきこの力があった訳ではなく、ある日「力を与えるから、これで人を助けなさい」という神のお告げがあり、その日を境に病気や怪我を治せるようになったという。ただ、この力を金儲けのために使うと途端に力がなくなるから、普段は土木の仕事をしているそうだ。遠隔で治すこともできるそうで、上原さんの自宅には全国から治療の依頼が舞い込んでくるという。
 普通ならこんな話など頭から否定する私だが、実際に治してもらったのだから、信じざるを得なかった。上原さんは、さらにこんな余計なことまで教えてくれた。
「エージには海軍の偉いさんの格好をした悪霊がついてるネ。でもエージが全く気にしていないから実害はないヨ。まあ、そのうち祓ってあげるヨ」
 今すぐ祓ってくれよと思ったが、「エージが気にしていないから」などと変なプライドをくすぐられてしまい、ハハハと笑って流してしまった。結局最後まで祓ってくれなかったので、おそらく今でも憑いているのだろう。 

よわむし

  民宿には私と同年代の旅人もよくやって来た。そこで初めて知ったのだが、多くの旅人はキャンプ場に泊まることが多く、そこで横の繋がりができるらしい。そういった旅人のネットワークはなかなかに優秀で、たとえば「北海道でこんなひどい旅人がいた」という情報があると、ひと月後には沖縄全体にまで広がっているなんてことも珍しくはないそうだ。
 できるだけキャンプ場を避けてきた私としては、目から鱗の情報だった。もちろん自分のしてきた旅には何の後悔もないし、これからもシーズン中のキャンプ場には泊らないとは思うが、「キャンプ場で知り合って、新婚旅行で波照間に来ました」などというお客さんが来ると、たまにはキャンプ場に泊まってみようと思ったりもした。

  三月のある日、大学四年の男性二人組が泊まりに来た。大学ではワンダーフォーゲル部に所属しており、今回、卒業旅行として二人で日本を旅しているという。基本的に交通機関での移動らしいが、ヒッチハイクも何度かしたそうだ。
「東京から二週間かけて波照間まで来たんですけど、色んなトラブルを乗り越えて、僕たちメチャクチャ強くなりましたよ!」
 宴席で興奮気味にそう語る彼らを見て私は思った。「ああ、これは俺だ」と。私はほとんど何も意識せずに、彼らにこう言った。
「それは錯覚だよ。そう簡単に強くはならないよ」
 口を開けて呆然と私を見る二人。言わなくてもいい言葉だった。いくら宴席とはいえ、相手はお客さんだ。「へー、スゴイ!」などと言って気分よくさせてやれば良かったのかもしれない。だが私にはできなかった。
「俺も旅してきて、何度も『強くなった』って思ったことがあるよ。でもね、情けないことに次の日には簡単に弱くなるんだよ。一人で歩いてるとさ、『俺何してんだ? こんなことして何になるんだよ? もう俺なんて死んだ方がいいんじゃないのか?』なんて思うことが何度もあるんだよ。テントの中で寝ててもさ、何だか分かんないけど、自分が情けなくなって涙が溢れてくることがあるんだよ、何度も何度も。人間なんてね、旅なんかで絶対に強くならないよ。自分がいかに弱いかってことを自覚するだけなんだよ」 
 二人にではない。私は自分自身に言っていた。そうなのだ。強くなりたくて旅に出たのだが、私は弱い自分を発見してばかりだった。旅を通じて分かったことは、自分がよわむしだということだけだ。
「エージの言う通り。だからみんな、これから強くなればいいのサ。ニーニたちは卒業したらどんな仕事するの?」
 上原さんが上手く場の雰囲気を戻してくれた。私は自分が恥ずかしくなって、少ししてからトイレに行くふりをして退席した。かいてもかいても掻ききれない程、私の中には恥が潜んでいるようだ。 

 次の日、朝一番で大学生二人に謝った。すると、謝り切らないうちに意外な答えが返ってきた。
「いえいえ、昨日の夜、二人で話し合ったんです。エージさんの言う通り、僕たち思い上がっていました。旅はまだ二週間あるんですが、エージさんに言われたことを肝に銘じておきます。ありがとうございました」
 そう言って、彼らは握手を求めてきてくれた。とんでもない。こちらこそ二人のおかげで自分の現状を認識できたのだ。
「ありがとう、ありがとう」
 涙が詰まって、それしか言うことができなかった。まったく、よわむしで泣き虫だ。
 二人は二日後、次の目的地へと旅立っていった。私が波照間島を離れる日も、一日一日と近づいていた。

  四月下旬から、私は野辺山で一年間働くことになっていた。私が野辺山を離れた後、住み込みの橋本くんが私に感化されて三月から旅に出てしまったという。ご主人にとっては寝耳に水だが、元よりバイトなので止める手立てがなく困っていたそうだ。そこにちょうど私が電話をしたようで、橋本くんの穴を埋める形で一年間働くことになったのだ。
 海外を旅するためにまとまったお金が必要なので、一年間の区切りで働けることはありがたかった。さらに、私は予てより、冬の北国での生活に憧れていた。冬の北国は、名古屋の下町で生まれ育った私には未知のことばかりだろう。
 未知は、既知に変えなければならない。

北へ再び 

四国上陸

 三月末、私は波照間島を離れた。高速船で乱暴に揺られながら波照間での出来事を振り返る。約四カ月間の楽園のような生活を、私は生涯忘れない。悲しいことも楽しいことも、醜いことも美しいことも、全ての思い出が太い輪郭で縁取られたようにくっきりとしている。別れはもちろん悲しいが、来たくなったらまた来ればいいのだ。そのために、私の旅先でのしきたり、敢えて行かない場所を作っておいた。日本最西端の島・与那国島だ。興味津々の島だが、次にまた来るおまじないとして、行かないでおいた。
 ともあれ、ありがとう、波照間島。

 石垣島からフェリーで沖縄本島へ。那覇ではヨナちゃんと三日程過ごし、再びフェリーで北上。与論島や奄美大島に寄港しながら、九州へ。春の柔らかな青空にくっきりと浮かび上がる桜島。剥きだしの情熱が具現化されたようなその姿に見惚れながら、鹿児島港到着。旅が終わった訳ではないが、なんとなく「帰ってきた」という安堵感を覚えた。
「ここから野辺山までは、ウィニングランってとこかな?」
 既に日本を一周半くらいしているので、もうヒッチハイクもやり切ったような感があった。だが、地図を見ながらどういうルートで野辺山まで行こうか考えていた時、重大なことに気がついた。まだ四国に上陸していなかったのだ。徳島の野田知佑の所へ行くことに見切りをつけた時に、なんとなく私の中で四国は旅の中から除外されてしまったようだ。これはいけない。私は四国へ狙いを定めた。

  鹿児島から国道三号線で北上。天草の海を眺めながら熊本市へ。そこから直角に進路を変える。阿蘇山を越えて九州横断。大分県佐伯市から、まだ暗いうちにフェリーに乗って豊後水道を横断し、七時過ぎに高知県宿毛市の港に到着。朝早かったからだろうか、山に囲まれた港にうっすらと霞がかかっていた。水墨画のような雰囲気が、四国初上陸の気分を盛り上げてくれた。

 宿毛から中村市(現四万十市)を経て、昼前には高知市にほど近い須崎市まで来ていた。南国土佐とはよく言ったもので、この日の高知は半袖で過ごせるほど暑かった。道路脇の木陰に座って休んでいると、地元の人が私をお遍路さんと勘違いして、お弁当とお茶を渡してくれた。ただの旅人ですと断っても「かまんき、食べえ」と勧めてくれる。ありがたくその場で頂くことにした。
 お弁当を食べている横で、ころころしたクマバチが花壇を元気よく飛び回っている。少し離れた所では、地元のおんちゃんが軽トラを道の真ん中に止めて、通りすがりの人と夢中で話し込んでいる。時間が、明らかにゆっくりと流れていた。今見ている世界が、それまでなんとなくイメージしていた高知そのものだった。

  須崎市の国道でヒッチハイクをしていると、ピカピカで真っ白なベンツが止まった。運転手側のスモークガラスが下りる。身なりの良い六十過ぎくらいのおじさんだった。
「どこまで行く?」
 見た目の印象と違って、ややぶっきらぼうな物言いだった。高知市方面ならどこでもと答えると、表情を変えずに「乗りなさい」と言う。きわめて自然な命令口調だった。
 車を発進させると同時に、「私は高知では誰もが知っている会社を経営していてね」と標準語で話しだした。
「裸一貫で会社を興し、寝る間も惜しんで働き続けた。ライバルもいっぱいいたが、全てに競り勝ち一番になった。一番になってからは違う業種の会社をいくつも立ち上げ、それら全てを高知で一番にした」
 そんな吐き気をもよおすような話を延々としてくれた。私も悪かった。面倒なので、どんな話に対しても「へー、凄いですねえ」と答えていたのだ。すると社長さんもどんどん調子に乗っていき、ついには私に対して説教をしだした。
「キミはいくつだ? 二十六歳だって? 私がキミくらいの時には従業員を何十人も使っていたよ。親御さんはご健在? 私みたいになるのは無理だろうから、せめてちゃんと就職して、親御さんを安心させてあげなさい。高知に住むんだったら仕事世話するぞ」
 ふと波照間の前津さんを思い出した。前津さんが手をかざして上下させると、毒気や悪い部分を飛ばすことができた。前津さんがこの社長さんに手をかざしたら何が残るだろう?
「衣服しか残らないだろうな」
 そう考えると、怒る気にもならなかった。

 太平洋を望む広々とした道路に出た。太陽の光が海の粒子一つ一つを輝かせているようで、海全体が信じられないくらいにキラキラしている。この社長さんから浴びた毒気を落とすには最適な場所だ。
「すみません。景色がいいんで、ここで降ります」
 そう伝えると、社長さんは最初少し驚き、次に鼻で笑って、そして溜め息をつきながら車を止めた。その一連の動作が彼の人生の全てを物語っているように感じた。自分の理解が及ばないことは全て侮蔑の対象なのだろう。可哀そうな人だとは思ったが、私も人間ができている方ではないので、心の中で「バーカバーカ」と何度も言いながら別れを告げた。 

 この日は、そのあと三台の車を乗り継いだ。
 一台目、軽トラに乗った釣り好きのおじさんは大阪で生まれ育ったそうだが、海釣りも川釣りも手軽に楽しめる高知の自然が気に入って移住したという。「ここは天国や」そう言ったおじさんの笑顔は、太平洋のようにキラキラしていた。
 二台目、金物店の店主。東京で就職していたが、家業を継ぐために十年前に帰ってきたという。「若いうちは、色々やった方がえい。人生が豊かになる。あんたが羨ましいわ。娘をやるから、僕と変わってくれんかね?」と終始冗談ばかり言っていた。
 三台目、軽トラに乗った無口な男性。高知県東部の奈半利町から、室戸半島をショートカットする国道を通り、山奥の無人のキャンプ場まで連れて来てくれた。ほとんど口をきいてくれなかったが決して無愛想ではなく、私が何か話しかけると、屈託のない笑顔を作ってくれた。地元の商店に立ち寄り、生魚や豚肉や大根、そして六本パックの缶ビールを買ってくれた。まさか私のためのものとは思っていなかったので断ったのだが、女の子がもじもじしながら「チョコ受け取って下さい」というような感じで、下を向きながら押し付けてくるので、どうにも断れなかった。
 焚火をして、頂いた食材で料理をしながら考えた。高知県に入ってから、あの社長さん以外は素晴らしい人ばかりだった。もしかしたら、あの社長さんは高知県の悪い部分を全て一身で負っているのかもしれない。だとしたら、やはり感謝せねばなるまい。「バカ」は取り消さないが、社長さん、ありがとう。

 夕闇を間近に迎え、少し冷気を含んだ空気に焚火の煙が溶け込んでいく。静寂の中に響く薪の爆ぜるパチパチという音が心地良い。
 旅もいよいよ終わる。

旅の終わり

  キャンプ場は居心地が良く、結局三泊もしてしまった。高知から徳島へ。徳島からフェリーで和歌山へ。そして今、私は旅の出発地、大阪にいた。
 大阪では、しんちゃんの部屋に何日か泊まらせてもらった。友人や旅先で知り合った人たちとも再会した。久しぶりの都会の空気は案外悪くなかった。
 大阪には行くと決めていた場所があった。京橋だ。
 私は京橋の喫茶店でバイトをしていた。バイト仲間に愛媛出身で同い年の女性がいた。私たちはすぐに仲良くなり、バイトが終わると二人きりで遊ぶようになっていた。だが二人ともに既に恋人がいた。なので、私たちはどれだけ仲良くなっても手さえ握ることはなかった。
 ある秋の日、バイトが終わった後に彼女が「ねえ、夜景見たくない?」と言うので、当時まだできて間もなかった梅田の空中庭園へ行くことにした。
 空中庭園から眺める大阪の夜景は、想像よりもはるかに美しかった。地平線の隅々まで広がる街の灯りを見て、彼女も「わあ、すごい」と喜んでいる。手すりに寄り添って二人で並んでいると、ふと彼女が私の体に身を寄せてきた。こんなことは今までになかった。
 黙って夜景を眺めながらも、私は服越しに触れ合った腕と腕に神経を集中していた。まるでその部分だけが熱をもって溶け合っているようだった。
 唐突に、彼女が口を開いた。
「彼氏がね、来年の春、東京に行くの。私もついて行くことにした」
 夜景の中に落ちていきそうになるほどの衝撃だった。何も答えることができなかった。
「ねえ、私たちってどんな関係?」
 彼女の視線が左頬辺りに刺さる。どんな関係? 今まで二人とも曖昧にしてきたことだ。私は、これからの人生は彼女と共に歩んで行きたかった。だが、彼女は東京へ行くという。
 私は、手摺りに置かれた彼女の右手にそっと自分の左手を重ねた。初めて握る彼女の手。小さくて、柔らかくて、冷たくて、でも温かい。彼女も私の手を握り返してくれた。「結婚したい」そう伝えたかったが、口から出た言葉は情けないものだった。
「友達だよ」
 彼女の握る手に力が入った。
「……だよね。ああ良かった」
 声が震えている。私は彼女の肩を引き寄せた。小刻みに震える小さな体が愛おしい。私の腕の中で、彼女はいつまでもいつまでも泣いていた。
 数日後、彼女はバイトを辞めて、私たちの友達関係は終わった。

  そんな青臭い思い出が京橋にはあった。
 その京橋駅のコンコースに、私はサックスを持ってやって来た。バイトをしていた喫茶店が見える。彼女と私の姿もはっきりと見えるような気がする。今日は、そんな二人に別れを告げに来た。
 人通りの多い京橋駅周辺では、いつもストリートミュージシャンがどこかで演奏している。皆、演奏レベルは高い。その中で、たいして上手くもない私が、彼女が好きだった「未来予想図Ⅱ」をサックスで演奏しようとしている。恥ずかしいことこの上ないが、今まで旅先でさんざん恥をかいてきた総まとめと思えば、やれない訳がない。
 サックスを組み立て、首から下げて試し吹き。柔らかい金属音がコンコースに響く。行き交う人々の中に、あの頃の二人を思い浮かべながら演奏を開始した。誰も足を止めない。それどころか迷惑そうだ。なあに、構うものか。

きっと何年たっても
こうして変わらぬ気持ちで
過ごしていけるのね
あなたとだから 

 彼女が東京で幸せに暮らしていることを祈りながら、最後まで演奏しきった。酔っ払いが茶化すようにパチパチと拍手をして去って行くが、恥ずかしさはもうなかった。
 喫茶店にも、行き交う人々の中にも、もう二人はいないような気がした。 

 さようなら、大阪時代の俺。モヤモヤとただ悩んでいただけの俺。でもありがとう。あの時の俺がいたから、今の俺がある。前よりは、ちょっとはマシな人間になれたような気がするし、これからも少しずつマシになるよう努力するよ。

 まだ大阪から野辺山までヒッチハイクをしなければならないが、今回の私の旅はここで終わったような気がした。
 一年間あちこち回って、結局できたことは女への未練を断ち切ることだけだったと思うと、なんだか馬鹿馬鹿しくもあったが、まあ、旅なんて所詮そんな程度のものなのかもしれない。 

 サックスを片付けていると、高校生くらいの男の子がやって来て、もじもじしながらこう言った。
「あの、なんか、めっさ感動しました」
 思いがけない言葉に呆然とする。バカにされているのかと思ったが、男の子は真剣な眼差しだった。
 嬉しくて、恥ずかしくて、私は顔をクチャクチャにして笑いながら、こう答えた。
「ありがとう」

旅の始まり

  四月末、私は野辺山で働いていた。
 朝昼晩の牛の世話と、白菜を作るために、何町歩もの畑で下準備をしている。仕事は優しくないが、三食が約束され、おまけにお金まで頂けるという生活が、なんとも贅沢に思えた。

 旅をしてみて分かったことは、何事も当たり前のことなどないということだ。食事、住居、仕事。火を自由に使えるということも、当たり前ではない。蛇口をひねれば水やお湯が出るなどということに至っては、もはや魔法の域だ。ありがたいとは、まさに、有り、難い。本来は難しいことなのだ。
「おーい! 一服しようやー!」
 ご主人の呼び声で体を起こした。屈み作業をしていたので腰をぐいーっと伸ばす。まだ雪を被っている八ヶ岳が、真っ青な空に映えている。この景色を見るだけで、疲れの半分くらいは飛んでいきそうだ。 

 空を見上げながら思う。北海道から沖縄まで色々な風景を見てきた。風景には必ずといっていいほど、空がある。今まで見てきた全ての空はこの野辺山の空とも繋がっている。考えるまでもなく当たり前の事実だが、それを体感で理解できたことは大きな収穫だった。
 そしてこの空は、これから行くであろう海外の空とも繋がっている。そう考えると、海外だろうがなんだろうが、人がどこかへ移動することを阻むものなど、実は何もないということに気がつく。
 阻むものは、いつも自分自身だった。

 海外の行き先は既に決めていた。カナダからアラスカを流れるユーコン川。野田知佑の本に何度も出てくる川だ。ここを何週間かかけてカヌーで下ることにした。その後のことは決めていないが、旅はそれで一度区切りをつけようと思う。
 旅は知らない人や物に出会える素晴らしいものではあるが、旅をすることを旅の目的にはしたくなかった。
 アフリカで発生した人類の祖先が、何十万年何百万年もかけて南米まで辿り着いたわけだが、彼らの目的は旅ではなかったはずだ。落ち着ける場所を見つけることが目的だったはずだ。そして、それこそが旅の本質だと思う。いつまでも旅をし続ける人と何人か知り合ったが、あまり彼らに魅力を感じることはなかった。もちろん彼らには彼らなりの目的があるのかもしれないが、私には行き先を失った亡霊にしか見えなかった。それに、ダラダラと旅を続けるよりも、区切りをつけた方が「メチャクチャに」やれるような気がする。

 ゴミクズのような生活をしていた私を救い出してくれたしんちゃんの言葉。
「そろそろメチャクチャにやってみたら?」
 自分に言い訳ばかりして、何かをしているようでしていない日々を送っていたあの頃。私に足りなかったのは明らかに「メチャクチャ」だった。
 泣いたっていい。挫けたっていい。よわむしなりに、もう少しの間メチャクチャに生きてみよう。 

 ツバメが何羽も畑の上を飛び交っている。
「よお、メチャクチャにやってるか?」


ただただ長いだけの紀行文を読んで頂き、ありがとうございました。
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