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ボヴァリー夫人を読了できなかったことに対する分析

 空間表現が素晴らしいと言われるフローベール。小説家を志す私としては、彼の代表作「ボヴァリー夫人」から一つでも多くのことを学ぼうと、かなり意気込んで読み始めました。
 しかし、読み進めども読み進めども、物語の中に入っていくことができない。期待していた空間表現(たいそうな言葉を使っているけど、要は“描写”)は確かに素晴らしい。じっくり文章を追っていくと、そこにフランスの片田舎が浮かんでくるようですらある。だけど、そんな描写が何度も何度も繰り返されると、正直読み進む意欲が削がれていく。なんというか、豪華なレストランがあるとする。煌びやかで清潔感あふれる店内には、重厚なテーブルとよく磨かれてキラキラと光る食器類が並び、給仕さんたちがあたたかい笑顔で出迎えてくれる。そんな、なにもかも申し分レストランなのに、肝腎の料理がなかなか出てこない。……読んでいてそんな印象を受けました。
 そういったいわば「空腹」な状態でドロップアウトしたのが171ページ。「もうダメだ。これ以上は読み進めない。エンマ(ボヴァリー夫人)がわがまま女ということだけは分かった。もう十分だ」と本を書棚に戻し、同じフランス人の作家バルザックの「ゴリオ爺さん」を読み始めました。ところがその翌日、X(旧ツイッター)で愛書家日誌さんというアカウントがこんなことを教えてくれたのです。
「今日はフローベールの誕生日です」
 と!

 「ボヴァリー夫人」の読了を諦めたその翌日に、なんとその著者の誕生日を迎えるとは!
 これは何かの天啓かと思い、もう一度思い直して「ボヴァリー夫人」を手に取り、こう誓いました。
「絶対に最後まで読んでやろう!」
 と。
 しかし、文章は相変わらず、「なかなか料理が出てこない」状態。たまにポツリと少量の料理が出されたと思うと、また延々と待たされる。その間、豪華な店内と給仕たちを眺めるだけ。そんな状態でも頑張りました。200ページを越え、300ページを越え、そして400ページ。ゴールの637ページまでもうひと踏ん張り!……しかしそこでついに精魂尽き果てました。料理の供給がエネルギー消費に追いつかない、つまりガス欠。レストランにいながらにしての餓死。
「もう降参! エンマがエロくて過度な依存症というが分かったから、もう十分!」
 というわけで、今度こそ本当にギブアップしたのでした。

 今年から海外古典小説にはまって、カフカ、トルストイ、スタンダール、E.ブロンテ、デュマフィス、ドストエフスキーを読んできましたが、読了できなかった(物語の中に入っていけなかった)のは「ボヴァリー夫人」が初めて。そこで私は思いました。
「この体験は貴重だな。読了できなかった理由を分析してみよう!」
 と。
 そして、こうして長々と読めなかった言い訳を書いているのです。

 読了できなかった理由は、先に述べた「描写が多すぎる」ということ以外にもう一つあります。それは訳文の読みにくさ。訳者曰く「句読点まで含めて、原文に忠実に従った」そうだが、これが日本語の文章の常識からは大きく外れているので、本当に読みにくい。例を二つあげます。

エンマは玄関に入るなり、濡れた布でも肩にかけられたような気がしたが、漆喰の冷たさだった。

153ページ

 言わんとしていることは分からないでもないけど、なんだか焦点がぼやけているように私は感じませんか? 逆接の「が」が逆接になっていないような気もするし……。
 もう一つ、ちょっと長めです。

自尊心でくたくたになった彼女の魂は、ようやくキリスト教的な謙虚さのうちに疲れを癒やし、そして、弱き者である歓びをじっくり味わいながら、エンマは自身の心のうちで自らの我が打ち砕かれるのをじっと見つめるのだったが、これによってきっと神の恩寵の入り込んでくる広い入り口ができるだろう。

383ページ

 なんつうんだろうか、もう一段あると思ってた階段がなかったときのように、ガクっとテンポが崩れませんか? 
 またもレストランの喩えになりますが、モグモグと料理を咀嚼して、いざ飲み込もうというときに給仕さんに「お水いかがですか?」と言われるような感じだったり、または逆に、水が欲しいのに「パンのおかわりどうですか?」と言われるような感じで、なんだか妙にチグハグした印象を受けるんです。
 原文がどうなっているのかは知りませんが、もうちょっと読みやすくしてくれてもいいんじゃないかと思いました。おまけに、文章中にやたらと注釈が出てくるので、それも読書のテンポを大きく崩す要因になりました。
 
 ただ、一つ思ったのは、これは「無人島に一冊だけ持って行く本」としては最適ではなかろうか、ということ。文章に癖があるものの、描写は確かに美しくはあるので、長~く楽しめるんじゃないかと思わなくもない。

 「ボヴァリー夫人」を擁護するわけではありませんが、読了できなかった要因として、私自身の「インプットアウトプットの問題」もあります。
 ここ最近、読書(インプット)をしすぎていたのが良くなかったのかなと思うんです。話が全然変わるんですが、私、若い頃ヒッチハイクで旅をしていたことがあるんです。日本を二周くらい、合計300台くらいの車に乗せてもらったといえば、まあまあガチな旅だったことがお分かりいただけると思います。そんなガチなヒッチハイクの旅では毎日何人ものドライバーさんと出会います。私はもとより気遣い気質があるので、助手席にいる間は、ドライバーさんに気持ちよく運転してもらうために、時に相手の話をじっくり聴いたり、または相手の要望によっては今までの旅の話をしたりと、その相手相手によってそれぞれに合わせた対応をするように心がけていました。これは言いかえると、自分の全神経を相手に集中させていた。つまり、ヒッチハイクしている間はほぼアウトプット状態だったんです。これが続くとどうなるかというと、精神が滅入ってきます。人と話すのも、人を見るのも嫌になります。そんな時はしばらく山の中に籠って、自然の空気感を目一杯吸収したり、読書をしたりと、そのときはあまり意識していませんでしたが「インプットに重きをおいた生活」をするようにしていました。そうして何日か充電しては再びヒッチハイク(アウトプット)を始めていたものです。
 インプットとアウトプットはどちらも大事なんですよね。
 つまりですね、私が「ボヴァリー夫人」を読了できなかった要因の一つに、「ここ最近、読書をし過ぎていた」ということがあげられるんじゃないかと思うんです。まあ、ロマンティックに言えば、「私たちは出会うタイミングではなかった」と、そういうわけです。
 なので、またいつか機会があれば、「ボヴァリー夫人」には挑戦してみたいと思います。

 ともあれ、今年中にもう二作品くらい海外古典小説を読む予定でしたが、その予定はキャンセルして、しばらくはアウトプットである「執筆」に重きを置いた生活をすることにします。もちろん、このnoteもその一環です。


追記:
進展がありました。


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