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「ボヴァリー夫人」という壁

 昨年12月からフローベールの「ボヴァリー夫人」を読み始めました。癖のある文体(自由間接話法)のせいでなかなか物語の中に入っていくことができず4分の1程度読んだところで一度ギブアップ。そのあと思い直して再チャレンジするも、どうしてもフローベールの文体に馴染めず、4分の3程度のところで本を放り出した。コレ↓がそのときの言い訳。

 自分なりに、かなり頑張って「ボヴァリー夫人」に食らいつこうとしたのですが、本との出会いには時期というものがあります。私とこの小説は、まだ出会うタイミングではなかったんです……と自分を納得させ、次に読む予定だった本「アルジャーノンに花束」を読むことにしました。これがまあ、なんとも感動的な小説でして、最後の一文をよみ終わった後に「おぉぉぉおおおぉお」と声を上げて号泣してしまうほどでした。その詳細は割愛するとして、この「アルジャーノンに花束を」なんですが、日本語版文庫への序文として著者のダニエル・キイスが一筆したためておりまして、そこでなんと「ボヴァリー夫人」について言及しているんです。7ページほどの短い「序文」なのに、そこでわざわざ「ボヴァリー夫人」とフローベールのことが書かれていたのです。
 「ボヴァリー夫人」、一度目のギブアップあから立ち上がったきっかけは、ギブアップした日の翌日がフローベールの誕生日だったからなんですが、それに勝るとも劣らないくらいの奇跡だと思いませんか? 少なくとも私はそう感じました。「とにかくボヴァリー夫人を最後まで読め」と。ただ、何の対策もなしに再々チャレンジしたところで、すぐにあのおかしな文体に嫌気がさしてくるのは目に見えています。そこで私は、まず訳者あとがきを読むことにしました。これが大正解! あとがきで分かったことは以下4点。

1.訳者である芳川さんの、普通の文章は読みやすい。つまり、本編の読みにくさは意図的であるということ。
2.芳川さんは「読みやすさ」を犠牲にして、フウロ―ベールの地の文章を日本語で再現することに重点を置いていること(これってすごい決断だよね)。
3.自由間接話法の具体例。
4.自由間接話法を用いる意義。

3と4について説明します。まず具体例。

階段に足音が聞こえた、レオンだわ。

185ページ

 日本語の文法を完全に無視しているので、初見で呼んだ時には違和感しかありませんでしたが、これこそがまさに自由間接話法なんです。
「階段に足音が聞こえた」という部分は、三人称による状況説明で「、」を挟んであとの「レオンだわ」が、それを心待ちにしていたエマンのセリフ(想い)なんですね。そして4。なぜこんな文章表現をするのかというと、客観的に見える情景にも必ずそれを見ている人の想いというものがあり、そういう“想い”を情景描写に織り交ぜたかったからなんです。
 たとえば、下のような普通の文章があったとします。
「朝、Aさんは近所の犬のけたたましい鳴き声に起こされた。二日酔いだったAさんはひどい頭痛を覚えた。」
 これを自由間接話法にすると↓
「朝、Aさんは近所の犬のけたたましい鳴き声に起こされた、飲みすぎて頭イテー!」
 こうなるんです、たぶん(※間違ってたらご指摘ください)。間違いなく後者の方がAさんの“想い”を感じますよね。
 この自由間接話法のルールを頭に入れておいて再再読したところ、それまでよりあきらかにスムーズに読めるようになり、難なく最後まで読み通すことができました。なんのこたあない。私はルールを知らなかっただけなんですね。ただね、これで自由間接話法の全てが分かったと思うほど傲慢ではないので、芳川さんが出している「『ボヴァリー夫人』をごく私的に読む―自由間接話法とテクスト契約」という本をさっそくポチリました。

 思うに、私にとって「ボヴァリー夫人」は壁のような気がするんです。小説家になるに当たって避けては通れない壁。これは、小説の神様が用意してくれた壁なんじゃないかと思うわけです。考えてみて下さい。フローベールの誕生日とダニエル・キイスの「序文」、この二つの偶然(奇跡)がなければ、私は「ボヴァリー夫人」を読み終えることができませんでした。これは壁を避けようとしている私を、神様が「乗り越えろ!」と誘導してくれたような気がするんです。「お前に今必要なのは自由間接話法じゃ!」と。うん、そうです! 間違いありません!(思い込み大事)
 私は、おそらくまだ「フローベールの自由間接話法」という壁を乗り越えていなくて、たぶん壁をよじ登っている途中じゃないかと思うんです。とりあえず前述した本を読んで、自由間接話法という壁がどんなものなのかを知ってみたいと思います。


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