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アンナカレーニナ4(というか全部)ネタバレ読書感想文

 アンナがどんどん狂っていくのが恐ろしい。ヴロンスキーへの愛が強すぎて、彼が本当に自分を愛しているのかどうか疑わずにはいられなくなる。ヴロンスキーがどれほど誠意を尽くしても、アンナの心が安堵に包まれることは決してない。彼への愛を永遠に繋ぎ止めるには、もはや死ぬしかない。その描写はすさまじくリアルで、あたかも自分が今まさに死んでいくような気分にさせられた。解説で訳者が語っているが、アンナが自死するシーンは、トルストイ自身の体験から来ているという(私が言えるのはここまで。あとはご自分でご確認を)。

 一方、もう一人の主人公リョービンはというと、愛妻キティの出産という場面を迎える。このシーン、私はこの「アンナ・カレーニナ」という物語の核心を描いていると思った。少し長いけど、出産を待ちわびるリョービンの心理描写を引用する。

彼が意識し、感じ取っていたのは、今起こりつつあること(出産)が一年前に例の県庁所在地の町のホテルで、兄ニコライの死の床で起こった出来事と似ているということだけだった。たしかにあれは悲しい出来事であり、これは喜ばしい出来事だった。しかしあの悲しみもこの喜びも同じく、完全に日常世界の外側で起こる別次元の出来事であり、いわば日常世界にぽっかりと開いた裂け目であって、そこから何かしらより高次のものが垣間見えるのであった。あの時と同じく、いま起こりつつある出来事も辛さと苦しみをともない、心はその崇高なるものを見極めようとして、同じく手の届かぬ高みにまで昇っていこうとする。それはこれまでに心が経験したこともない崇高なる地点であり、理性はとてもついてくることができない高みであった。

アンナ・カレーニナ4(115ページ)

 トルストイはこの作品で「生と死」を描きたかったんじゃないだろうか。それゆえ、時に「二つの物語を一つにしてしまった」と批判的に言われてしまうが、アンナとリョービンという二人の主人公が必要だったんじゃないだろうか。
 二人のそれぞれの物語は、当初アンナは喜びに満ち溢れる一方、リョービンは鬱々とした感情に支配されている。それが物語が進むに従って徐々に逆転していき、最後には「死」を選択してしまうアンナと、息子の誕生を通じて生命の奥深さを認識するリョービンと、両極端な結末となっている。これは読者に「生と死」とは何かを考えさせ、そしてそれに伴い、人間の喜怒哀楽の根源をも考えさせようとしているのではないだろうか?

 物語の終盤、リョービンは人間というものについて深く考える場面がある。「いったい、人は何のために生きているのだろう」と。そんな時、百姓のフョードルのある言葉にハッとする。儲けに走らず、ギリギリの生活でよしとする同じく百姓のプラトンに対して「なぜ儲けようとしないのだ」と不思議がるリョービン。そんなリョービンにフョードルがかけた言葉。
「あの人(プラトン)は魂のために生きています-中略-神様の教え通りに生きるだけです」
 それまであまり信心深くなかったリョービンだが、この言葉をきっかけに神を信じることの素晴らしさに気づき、最後には下の引用のようになってしまった。

「ああ神さま、ありがとうございます!」と、こみ上げてくる嗚咽を飲み込み、目にあふれる涙を両手で払いながら、彼はそう口に出した。

アンナ・カレーニナ4(330ページ)

 ところが、この物語の面白いのは、こうしてリョービンが完全に悟りをひらいて、あらゆる人物に対して愛情深くなったと思いきや、相変わらずちょっとしたことで腹をたてて、ついつい声を荒げてしまったりするシーンが出て来るところ。「人間ってのはそう簡単に変われるもんじゃない」と著者が窘めているようで、とても品の良い滑稽さを作品に与えている。
 
 最後に、アンナが亡くなったシーンで、私が欄外に書き記した言葉で締めくくる。

愛に飢え、愛を愛したアンナ。
愛していたのはヴロンスキーでも自分自身でもなく、“愛”。
そんな悲しいことってあるか?

アンナ・カレーニナ4(253ページ)

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