同調圧力鍋(ショートショート)

 新緑が輝き始めたある春の日、ミノムシ博士は、世界の飢餓問題を解決する画期的な鍋の開発に成功した。その鍋の名は、同調圧力鍋。ラーメン屋でみかける寸胴鍋を一回り大きくしたようなこの鍋を使えば、米でも肉でも、好きな食材を好きなだけ増やすことができるというものだ。具体的な使い方はこうだ。増やしたい食材、米なら米を適当な量、10㎏入れるとしよう。そこにさらに他の有機物を10㎏より少なく入れる。“他の有機物”は肉や野菜など食料でも構わないが、雑草や木材などでもOKだ。そして蓋をして火にかける。後述する特殊な物質を含んだこの鍋は、熱を加えることでその特性を発揮する。その特性こそが同調圧力だ。鍋は、鍋の中に多く存在する有機物(この場合は米)に味方し、その性質を少数派(肉や野菜)に圧しつけて、米に変化させてしまう(炊けるわけではない)。米10㎏、肉5㎏、雑草5㎏、木材5㎏といった風に複数の有機物を入れた場合も、最も多い米が“多数派”となり、他の有機物を全て米に変えてしまう。まさに夢のような鍋、それこそが同調圧力鍋なのだ。

 開発のきっかけはこうだ。物理学、社会科学、人間科学、三つの分野で博士号を取得したミノムシ博士は、日本社会に蔓延する目に見えない圧力、いわゆる同調圧力の研究をライフワークとしていた。なぜ日本人は周りの人と同じことをしたがるのか、そこにはどんな力が働いているのか? そういった疑問を、助手のバット君と共に研究していたのだ。そして二十年以上の研究の末、同調圧力には、実際に同調圧力を生み出す超微粒物質があることを突き止めた。博士によってDマターと名付けられたこの物質には、大きく分けて二つの性質、というよりも能力がある。一つは、自身の周辺に複数の有機物があった場合、最も多い物質を“多数派”と判断する能力。もう一つは、熱エネルギーをエサに、周辺にある様々な有機物を多数派と同じ物質に変換してしまう能力。博士曰く、「この能力は“物質”の持つそれをはるかに越えている。Dマター(物質)ではなく、Dライフ(生命体)と呼ぶべきかもしれん」とのことだった。

 本来、このDマターは地下奥深くにしか存在しないのだが、火山大国である日本では、温泉と一緒に地上に出てくることがあり、それが積もり積もって日本人の気質形成に大きく関与したのではないかと博士は推測している。
 世界平和を心から願う心優しいミノムシ博士は、このDマターの能力を解明した時、すぐさま世界中の飢餓が救えると考えた。そして、それを具体的な形にした物こそ同調圧力鍋だったのだ。

 今、その同調圧力鍋がガスコンロの火を受けて、シュッシュと細かく蒸気を上げている。ヘアライン調に仕上げられたステンレス製の鍋は、実験室の照明を柔らかく反射している。さらに鍋をよく見ると、キラキラとした物が鍋全体に塗してあるようだった。そう、これこそが同調圧力物質Dマターなのだ。
 Dマターは肉眼で見るのは難しいが、Dマターの濃度が濃いと、僅かに輝いて見えた。同調圧力鍋には大量のDマターが練り込まれているため、このようにキラキラと輝いて見えるのだった。博士はこの輝きを見た時、人類の明るい未来、すなわち世界中の人たちのキラキラと輝く笑顔を思い浮かべずにはいられなかった。

 そしてついに、歴史的ともいえる瞬間が訪れた。プシューーーという蒸気音が研究室に鳴り響いた。完了の合図だ。二人が恐る恐る鍋を覗き込むと、米と一緒に入れておいた肉や野菜はなくなり、全てが米に変わっていた。博士はその米を両手で掬い、大声で叫んだ。
「やったぞ! これで世界から飢餓がなくなるのじゃ。飢餓で苦しむ子が、この世からいなくなるのじゃーーー!」
 興奮する博士をよそに、何事にも慎重な助手のバット君は冷静にこう言った。
「博士、私はここからが大変だと思います」
「む? どういうことじゃバット君」
「この鍋が世に知られてしまったら、一体どうなると思います?」
「みんなハッピーになるに決まっているではないか」
「いいえ。私はですね、この鍋をめぐって争いが起きるのではないかと危惧しております。企業、いや、国同士が、この鍋の争奪戦を繰り広げるのではないでしょうか? この同調圧力鍋の生産、そして使用にあたっては、極秘裏に進めなければならないと思います」
「うーむ、さすがバット君。キミのその冷静さには、今までもずいぶんと助けられたものじゃ。それに引き換えワシは、なんと能天気なことか。親子ほど歳が違うというのに、全く恥ずかしい限りじゃ」
「いえいえ、博士の発想力あってこその、この研究所です」
「ハッハッハ。まあ褒め合いはそこそこにして、今後の具体的な展開方法はバット君、キミ主導でいこうじゃないか」
「いえいえ、私は博士のサポートしかできませんので、今後も博士主導でお願いします」
「全く君は、素直にハイと言った試しがないな。ハッハッハ」

  さて、その年の夏は、全ての物が煮えたぎってしまうのではないかというほどの猛暑だった。そして、暑さでボーっとしていたせいだろうか、同調圧力鍋の存在を嗅ぎつけていた記者から質問を受けたミノムシ博士は、うっかり鍋の存在を認める発言をしてしまったのだ。その日から、テレビ、新聞、ラジオは同調圧力鍋のニュースで一色になった。ネットでは、同調圧力鍋関連のワードが毎日のようにトレンド入り。さらにタイミングの悪い事に、世界規模の猛暑のせいで農作物や畜産物などの収穫量が大激減。研究所の周りでは、鍋を世界に解き放てという意味の「FREE NABE」の横断幕や旗があげられ、連日デモ行進が行なわれるほどだった。同調圧力鍋への期待は、異常と言っていいくらいに加熱していた。

 最高気温50度を記録した、まさに異常なその日、事件は起こった。研究室から異常を知らせるブザーが鳴り響いたのだ。それは日本各地に設置されたDマター計測器を統合するメインメーターからだった。急いで研究室に駆けつけた二人が目にしたものは、数値がもの凄い速さで増え続けていくメーターと、燃えるように真っ赤になった同調圧力鍋だった。
「博士、なんですか、これは! ものすごい熱です! しかも、見て下さい! 部屋中がキラキラしています!」
「大変じゃ、バット君。異常増殖したDマターが、同調圧力鍋と、まさに同調しておる!」
「お、おっしゃる意味が分かりません!」
「この異常な酷暑に、人々の『鍋が欲しい』という異常な熱意が加わり、その総合的な熱量がDマターを増殖させているのかもしれん」
「そんな性質、Dマターにはなかったはずですよ!」
「うーむ、Dマターが進化しているのかもしれんな。やはり生命体に近いのかもしれん。いずれにせよ、このまま臨界点を迎えれば、日本に存在している最も多い有機物に、その他全ての有機物が変化することになる」
「え? それはつまり……」
「うむ。日本全体が同調圧力鍋と化しているのだ」
「そ、そんなバカな……」
「ハハ、日本にある最も多い有機物、なんじゃろうな? 木か? 草か? 虫? 菌類? それとも猫だったりしてな。ワッハッハ」
「何を呑気に笑って……うわっ! 博士! 日本中のDマターが増えすぎてメーターが爆発しました。博士! はかせーーー!」
「バット君よ、今までありがとう。キミとの研究は、今振り返ると本当に楽しかった」
「は、博士」
「人間の都合で、好きな物質だけを増やそうとするなんて、もしかしたら、我々は思い上がっていたのかもしれんな。他の生き物には申し訳ないことをしたが、もうどうしようもない。あきらめよう」
「……博士、取り乱して申し訳ありません。私こそ博士との研究の日々は、今思うと最高に幸せな日々でした。ありがとうございます」
「おやおや、私に同調してくれるのか。ありがとう。これもDマターの影響かな? ハッハッハ」
 二人は涙を流しながらも、光り輝くような笑顔で握手を交わした。

 やがて、プシューーーという蒸気音が、日本中に鳴り響いた。それと同時に日本列島から人間が消えた。森や林も消えた。動物や虫も消えた。家屋や社寺仏閣、城郭などの木造建築物はガラガラと崩れた。運転手を失った自動車や列車は次々と衝突して、派手に黒煙を上げた。日本列島のあちこちで大惨事と言える光景が展開されたが、それを見るものは誰もいなかった。
 何もかもが目茶苦茶になった日本列島は、異常なまでにキラキラと輝いていた。

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