「まあ気いつけて」の裏

「まあ気いつけて」

帰省してまた出発するとき、両親や祖父母からよく言われる言葉だ。今までは「へいへい」と軽く流していた、時には心配性やな~ぐらいに感じてたが少しそれについて考えてみた。

気いつけて

=気を付けてやりなさい

=注意しながら自分の力でやってみなさい

=リスクヘッジをしながらも物事に『自分の力で』挑みなさい

「気を付けて」とは言ってるものの、あくまで主は自分でやってみること、ではないか。自分でやってみる際に懸念点を考慮せよ。でもそれは懸念点に固執しすぎて『やらない』とは違う(ときとして「しない」を選択するのもまた自由である)。やってみて「できない」を知るのもまた経験である。「諦め」を知るのも経験である。「うまくいく」を知るのも経験である。あくまで前提は『やってみる』、これは自立を促す言葉かもしれん、と気づいた。

...いや分かんねー!!!!そこ省略すんじゃあないよ本当に(ツッコミ)、日本語難しすぎる。「気いつけるどころかめっちゃ考えこんどんねん、こっちはあ」と感じたこともある。気を付けずにやるか、気を付けすぎてやらないか、この両極端の我が人生である。

「あんたは人にすぐ騙されそうだから」←気を付けずにやろうとしてるときに言われる。

「あんたは考え込みすぎ、心配性なんだから」←気を付けすぎてしり込みしてるときに言われる。

どっちやねーんと感じたことも多々あったがそういうことなのねとふと。(しかし「やってみる」というのは愛着障害に詳しい岡田尊司氏曰く安心基地あっての探索行動なのでこの塩梅中々難しんだろう実際のところ)

「やってみんと分からんからやってみんさい、やってみるときには気をつけんさい、失敗すんのも経験経験、失敗からの立ち直り方を学ぶのも経験経験、人を頼ってみるのも経験経験、まあ人生そんなもん」

...親の言ってたことが少し分かった我が身かな。

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