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ビロードの記憶

その垂れ幕には、ビロードの柔らかさと重みがあった。幕の向こうから、光がこぼれている。ビロードの裾をそっとめくりあげて、私は外に出た――。

誰もいない森。霧が広がる空。土のにおい。苔と木々に見つめられて、足がすくむ。

森の中には、小さな丸太に囲われて玉砂利がまばらに敷かれた小道があった。道の先には、こぢんまりとしたテラス付きの山小屋がある。私は小屋に向かって歩き出した。

足を踏み出すたび、砂利の音が鳴る。砂利が鳴るごとに「大丈夫」「がんばれ」「そうそう!」と背中を押してくれるようで、うれしい。同時に、私を励ましてくれるのは砂利の音しかないんだと気づいて、「ここで一人っきりかぁ……」とつぶいた。

スマホの画面が光った。メール受信の通知だ。待ち受け画面は、夫の陽平が元気だった頃の家族写真。スマホを握る手に力が入る。

「大丈夫。がんばれる!」
私は山小屋のドアノブに手をかけた。ドアを開けると、木の香りに包まれてフッと肩の力が抜けた。森には、アカゲラの木を叩く軽やかな音が響いている。

祖父が残してくれた山小屋が、今日から私の活動拠点だ。表札には「木暮」と書いたプレートをかけた。陽平がおまじないのように病床でつぶやいていたことを思い出す。

「咲子はずっと好きなことしててよ。がむしゃらに突き進む咲子が、大好きだからさ」

陽平が亡くなって十年経った。

「今日から私は作品を作るのよ。十年かかってもいい。蓄えはある。作家になるの」

引っ越し用ダンボールから、原稿用紙と四十年前の結婚式の写真を引っ張り出して、机に置いた。ひとまず、原稿用紙と写真があればそれでいい。今日はもう寝よう――。

私は、夢の中で血管の中にいた。マグマの中だったかもしれない。赤い塊で、元気よく飛び跳ねていた。

「出たい。とにかくここから出たい」
もぞもぞ震える私。

「私、出る!」
腹に力をこめた。
「出た!」
そこは記者会見場だった。

重くて柔らかいビロードの幕が垂れ下がっている。そっと幕を開けると、ライトが私にばかり当たる。眩しい。暗闇の中にいる記者たちをひとりひとり観察しながら、私は質問に答える。

「受賞おめでとうございます。今のお気持ちをお聞かせください」
「今まで一生懸命がんばってきて、本当によかったなと思います」

「あぁ、これは夢だな」と思ったとき、『受賞した私』が、『今の私』をふかふかのコートで包むように柔らかく抱きしめた。その途端、パッと体を離して走り出した。
「おいで! 走っておいで!」
笑って走りながら、『受賞した私』は軽々と先に行く。どんどん遠のく背中を追って、私は負けん気丸出しで走り始める。

「ピィーッ! ピッピーィ」
セキレイの鳴き声で、私は目が覚めた。朝だ。

朝食の前に、原稿を書こう。一行でもいい。原稿を書こう。私は前に進みたい。
この手でもう一度、あのビロードの幕を開けるために。

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