「女児アニメ」の魅力について。例えば「藝術への越権」

数年前から所謂「女児アニメ」を観ております。

プリパラに始まり、歴代プリティーシリーズ。おジャ魔女どれみ。明日のナージャ。プリキュアの何作品か。CCさくら。今はプリキュアアラモードとセーラームーンを観ています。
自分が女児アニメにハマるとは思っていなかったのですが、気づけばプリパラを観てから3年が経とうとしています。
女児アニメの魅力はたくさんありますし、もちろん作品によっても異なりますが、その一つとして考えている「藝術への越権」について書いてみます。

藝術への越権

物語は藝術でありフィクションです。作者が物語世界内の出来事について責任を負うことは、現実世界においても、物語世界においてもあり得ませんし、また負わせることはすべきではないでしょう。
もし我々の世界がフィクションであり、何らかの書き手(例えば神)があることを考えます。この世の悲惨な現実は、法によって裁かれ民主主義による政治によって変更されるのであり、すべてこの世に生きる我々に責任があります。
神にその責任を負わせることは不可能ですし無意味です。また、神にとっても我々の世界をどのように作成しようとも、改変しようとも、神自身がなんらかの責任を神の世界において負うことはできないでしょうし、また無意味でもあります。

しかし、子供向けの作品においては、作り手が自ら進んでその責を負うということがあるように見受けられます。
フィクションから思想や価値を提示され、自らの行動を変容させることは、子供ではなくとも誰にでも起こりうることですが、
子供にフィクションを提示する立場の作り手の方々は、子供たちのよりよい生のために、子供へいかなる価値を提示すべきか、いかなる行動を促すべきかということを深く考えていらっしゃるようです。
秀逸かつ美麗で誰もが楽しめるエンターテインメントの中に、子供たちの生をよりよくする、または子供たちがよりよく生きることを選び取れるようなメッセージが描き込まれているのです。

プリパラにおける「なりたい自分を一緒に目指せる仲間と場所」の提示
プリティーリズムレインボーライブの「どんな境遇でも勇気を持って行動すれば未来は拓ける」という物語
プリチャンの「テクノロジーの活用による明るい未来と、挑戦することの大切さ」というメッセージ

もっぱら美的経験を与えることを本分とする藝術作品において、いわば越権。
藝術作品の目的外使用と捉えることもできると思います。
しかし我々はそうした作り手の覚悟をもった越権に尊敬の念を抱き、生み出される鋭い作品に惹かれ、夢中となっています。


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