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まもなく、無職です

私は自由になる。
今月末、1年間続けた仕事を退職する。
たった1年だったけれど、辞めると伝えた時、上司や同期が悲しい顔をして、引きとめてくれたことが嬉しかった。
それでも、私の想いを伝えると、「応援する」と背中を押してくれたことに、感謝したい。
社会人としての私は、決して胸を張って人に言えるようなものではなかったと思う。
けれどどの経験も、今の私にとってはなくてはならないものだった。

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仙台の専門学校を卒業した後、私はすぐに就職しなかった。
内定を2社もらっていたが、どちらも断った。
その時付き合っていた人の配属先である盛岡についていくことにしたからだ。
我ながら恋は盲目というか、よくもまあ後先考えず決断したものだと思う。
でもその時の私は、遠距離恋愛なんて考えられなかったのだ。
そもそも、コロナ禍で就職活動がうまくいっていなかった。
旅行会社やホテルを志望していた私や私の友人たちは、コロナウイルスの影響をもろに受けた。
説明会は開催したものの、コロナが広がっていくと同時に、新卒採用を今年は見送る、もしくは枠を減らすなどの対策がとられた。
もう、観光業は無理だ。そう思った。
そもそも私は、そこまでの熱い思いもなかった。
ただ勉強したことが少しでも活かせる仕事が良いのでは、という浅はかな考えをしていた。
しかし、内定を取らなければ、という漠然とした焦りはあった。
卒業後、私はどこで何をするのか、早いうちにはっきりとさせたかった。
なりふり構っていられないと思い、業種を問わずに気になった会社を2社受けた。
1つはマッサージ、リラクゼーションを行うセラピストとして働く会社。
もう1つは仙台ではかなり有名なパン屋の会社。
ありがたいことに、どちらも内定を貰うことができた。
けれど私は、もう色々なことに疲れ切っていたのだろう、卒業を3ヶ月後に控えた冬のある日、高熱を出した。
アルバイトを終え、恋人の家へ向かう。
その日は手巻き寿司パーティーをする予定で、準備して待っていてくれたのだ。

あれ、おかしい。全く食欲がない。
身体がだるい…あとめっちゃ寒い。
なんだかとても具合が悪い!!

その日は運悪く日曜日で、外ももう暗かった。
熱を測るとかなり高かったこともあり、なんとか空いている病院を探して行ったのだと思う。
その時の記憶はあまりはっきりと覚えていない。

そうして、しばらく入院することとなった。
過労により肝臓にウイルスが入り、高熱が出たようなのだ。
学校での勉強や人間関係、アルバイト、英会話教室、数週間に1度の心療内科への受診、親元離れての1人暮らし。
多分私は、背負いすぎていた。
入院している間、嫌というほど時間があったので、いろんなことを考えた。
考えたくなくても考えてしまうのだ。
私はこのまま仙台で就職して、1人暮らしを続けて、きっとどこかのタイミングで結婚して、それで…。
考えて考えて、気がついたらうとうとして眠り、起きてはスマホゲームかまた考えごと。
その繰り返しだった。
アイスを食べたくて点滴をしたまま売店に行った時、鏡に映る自分を見て、「ああ、病人っぽいな」と他人行儀に思ったことを覚えている。

入院している間に、祖父が亡くなった。
あまりに突然だった。
私が中学生の時に倒れ、心臓の手術をした祖父は、なんとか退院できたものの、ほとんど寝たきりになってしまっていた。
頑固で口うるさいと、母は実の父である祖父を嫌っていたが、私は祖父が好きだった。
いつも何かしら理由をつけて私に話しかけ、私も嬉しかったのでそれに応えていた。
小さい頃は、一緒にオヤツを食べたり工作したりもした。
孫の私にだけはとことん甘くて、釣り上がった眉毛も下がってしまうほどだったらしい。
そんな祖父が、いなくなってしまった。
電話越しに母が「退院するまで言うか迷ったの。負担かけるかと思って…」と震えた声で言葉を濁した。
母も母で、ものすごく辛かったと思う。
離れて暮らす娘が突然入院し、相次いで実の父が急逝したのだから。
コロナ禍で、しかも祖母の介護もあった母は、青森から仙台までお見舞いになど来れる状況ではなかった。
そもそも病院自体が面会禁止だったので、来てくれたところで会えなかっただろう。
祖父を看取ることも、葬儀に参加することも出来なかった私は、病室で1人さめざめと泣いた。

人生初の入院生活にて

2週間ほどで退院できたが、私の身体からウイルスが消えるのと同時に、自信や活力まで喪失していた。
大切な家族と自身の健康を失い、私は心身ともにとても弱っていた。

無理だ。就職したら週5日、8時間。
残業があればそれ以上。働けない。自信がない。きっと私にはできない…。

社会人になった自分が、想像できなかった。
そして私は、恋人についていく形で盛岡へ引っ越し、シフトの自由が効くからとカフェでアルバイトを始めた。

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日中は個人経営の飲食店、夜はコーヒーチェーン店でアルバイトをした。
かけもちは思った以上に大変だった。
初めは、日中に働いている個人の飲食店で、正社員として働くことも考えた。
その店は昼はランチ営業、夜は居酒屋として営業していた。
しかし、店長と私はとことん合わなかった。
コロナで店が暇だからシフトを減らすと告げられ、私は正社員希望→昼と夜入れるアルバイト→ランチのみのアルバイトに、とんとん拍子で降格していった。遠回しの戦力外通告だった。
そこで、コーヒーチェーン店でのアルバイトを始めたのだった。
カフェでのアルバイトは専門学生時代にも経験があったためか、すぐに要領をつかめた。
年齢の近い学生アルバイトも多く、私の他にもフリーターがいたため、精神的にも随分と働きやすかった。
昼のアルバイト先の店長との確執が限界に達し、私はカフェでのアルバイト1本に絞る決断をした。
店長から、逃げるようにそそくさと退職した。
タイムカードを勝手に押したり、お気に入りとそうでない人への態度があからさまに違う人だった。
もちろん私はお気に入りではない。
その店でのアルバイト生活は散々だったけれど、まかないだけは美味しく、食費が浮いてありがたかった。

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カフェでのアルバイト1本に絞ってしばらくが経ち、いよいよフルタイムで働く正社員を目指すことにした。
働きやすかったがために、離れるのが名残惜しかったものの、フルタイムの正社員として働く前のリハビリとしての目標はもうとっくり達成できていた。
(この頃には体調もかなり回復し、もう心療内科には通っていなかった。)
そして、ずっとフリーター生活をしていられないぞという焦りが、私を追い立てていた。
ハローワークへ通い、求人票を見比べる日々が始まった。
リクルートスーツをクリーニングに出し、証明写真を撮る。
私は、2度目の就職活動に本腰を入れた。
幸いにも担当してくれた女性の方がとても親切で、私はハローワークに通うのが楽しかった。
プライベートの悩み事も聞いてくれ、親元を離れていた私は、勝手に母のような存在に思っていた。
私の頑張りと彼女の支えのおかげで、履歴書を書き、面接練習をし、順当に就職活動は進んだ。
そして、ケーキ屋の販売部門に内定が決まった。
ケーキ屋での様々なエピソードは別の記事に詳しく書いているので、気が向いたら読んでほしい。

ケーキ屋は1年と1ヶ月で辞めた。
もちろん、人間関係はとても良かったし、美味しいケーキも食べられて、決して悪い職場ではなかったと思う。
しかし、親元を離れて、友人もおらず、盛岡に来たきっかけとなった恋人とも別れてしまった私は1人になった。
そこに、接客業ならではの様々なストレスがのしかかる。残業、クレーム、慢性的な人手不足。
耐えられなかった。私は弱いのかもしれない。
けれど、弱くていい。私は私のままでいいのだ。
そう思って、青森に帰ることを決めた。
青森に帰って、心も身体も整えて、ゆっくりでも前に進もう。
今までがむしゃらに走りすぎた。
その頃の私は、満身創痍だったのだ。

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