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さまざまなパートナー、そしてパートナーのいない人にも

2024年5日5日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
 創世記2章18−25節(旧約聖書・新共同訳 p.3、聖書協会共同訳 p.3)
 有料記事設定となっておりますが、無料で最後までお読みいただけます。購入によって有志のお方のご献金をいただければ、大変ありがたく存じます。
 最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。


▼創世記2章18−25節(人に助け手が造られる)

 主なる神は言われた。
 「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」
 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶかを見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者を見つけることができなかった。
 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨を女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
 「ついに、これこそ
 わたしの骨の骨
 わたしの肉の肉。
 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
 まさに、「男(イシュ)から取られたものだから。」
 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

▼聖書の言葉をどう読むか

 本日お読みした聖書の箇所は、ツッコミどころが多いところです。ここの記事のせいで、どんなにたくさんの人が傷つき、悩んできたか知れません。
 しかし、その中で一言だけ、宝物のような言葉が埋まっているような聖書の箇所でもあります。
 今日はそのことについてお話しようと思います。

▼異性婚中心主義の物語

 今日の聖書の箇所はだいたいこんなお話です。
 主なる神が「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2.18)と言って、もう一対の存在を造ろうとする。そして色々な動物を造って人の前に置くのですが、どうも自分に合うパートナーが見つからない。そこで、人を眠らせて、あばら骨、つまり肋骨の一部から女を造り、これで人間は男と女になった。そして2人は一体となる」というお話です。
 悪くない話としてすんなり読むこともできる記事です。人間にはやはりパートナーがいたほうがいい。男と女は最良のパートナーだ。そういうメッセージが読み取れます。それは、互いに異性のパートナーと愛し合い、良いつながりを持って生きている人にとっては、喜ばしい箇所でしょう。
 23節にあるように、「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」という叫びを上げるほどに、一体となれるようなパートナーを見つけること、そんなパートナーと一緒に生きることができることは、とても素晴らしいことだと思います。
 それはそれで良いのです。
 しかし、こういうお話を、「他ならぬ聖書にそう書いてあるのだから」と言って、絶対化し、そこに書いていないものは存在していないとか、存在してはならないとか言い出すと、宗教というものの悪いところが一気に吹き出します。
 聖書に書いてあることは基本的に悪いことではないかもしれない。しかし、その記事を絶対化し、排他的に解釈しようとすると、弊害が起こるのです。
 具体的に言えば、この箇所に関して言えば、「ここに男女の異性間のパートナーシップが書かれているのだから、それ意外のパートナーシップはあってはならないし、独身であることも許されない」という解釈の仕方をする、良くないタイプのクリスチャンもいるということです。

▼独身であることの恵み

 そもそも人が独りで生きるのは、本当に良くないことでしょうか。人は独身でいてはいけないのでしょうか。もしいけないのでしたら、私は罪深い生活を日々送っていることになります。
 もちろん、独りで生きてゆきたくはないと思っている人が、独りで生きなくてはいけないのは寂しく、辛いことかもしれません。私自身も「誰かパートナーがいたら、もっと毎日が潤いのある、味わい深いものになるのかな……」と思わないこともないです。実際、仲睦まじいカップルや、良い絆を結んで生きている夫婦を見ると、羨ましいと思うことはあります。
 時々はそういう気持ちがよぎることはあります。けれども、それよりも、独身でいることの恵みを享受しながら生きている側面の方が大きいというのも、事実なのです。
 もっとも、「それでも一緒になりたい」と思うような人が現れる可能性もないとは言えませんが、そういう人が自分の方を振り向いてくれるとは限らないし、振り向かせようとするエネルギーが自分にあるかというと、そんな力があるならば、残りの人生は別のことにそれを注ぎたいと思ってしまうのです。
 「独身であることの賜物」という言葉を使う人もいます。パウロは彼が書いたコリントの信徒への手紙(一)の7章で、結婚をあまり積極的には勧めておらず、せずにはおれない人はしたらいいけれど、基本的には自分と同じように独身でいてくれたら」ということを書いています。
 パウロがいつも正しいというわけではありませんけれども、そういうことも言う人間も聖書の中にはいる。結婚するのも良し、結婚しないのも良し、ということなのだろうと思います。
 それを、「聖書には『独りはよくない』と書いてあるから、独身は神の意志に反するのだ」と言って(そう言って無理矢理にでも結婚したくない若者にお見合いを強制する教会もあるようですけれども)、そうやって独身者を裁くのは良くないことです。
 パウロのように、独身であることの賜物を用いながら、神さまのために力を注ぐという生き方もあるのだということです。

▼クリスチャンであることをやめたくなる時

 もうひとつ今回の聖書の箇所で気をつけなくてはいけないのは、「男と女のパートナーシップだけが正しく、それ以外の関係は神の意志ではないのだ」と思ってしまうことです。
 繰り返しになりますけれども、この聖書の箇所は、「異性愛のカップルの愛がどんなに素晴らしいか」を語っていることは間違いありません。しかし、それだけのことであって、「だから同性愛は素晴らしくない」ということは、どこにも書いてありません。
 なぜ、ここに異性愛のことしか書いてないのか。
 それは、この物語を書き、編集した人たちが、同性愛の存在を知らなかったからでしょう。
 聖書には書かれていないことも色々あります。たとえば、聖書には電気に関することは書いてありません。電気の存在を知らない時代の人たちが書いたからです。聖書には基本的人権のことも書いてありません。基本的人権について知らない人たちが書いたからです。
 それらと同じように、なぜ同性愛のことを書けなかったというと、同性どうしで、仲睦まじいカップルを作って一緒に生きてゆくパートナーシップということを想像もできなかったからです。
 「聖書には『女と寝るように男と寝る者は死なねばならない』(レビ記18.22)と書いてあるではないか」と言う人もいますが、あれはそもそも「女と寝るように」ということが理解できる異性愛男性にあてた戒めです。
 そのように言うと、「じゃあバイセクシュアルはやはり禁止されているのではないか」と言う人がいるのですが、これには「そこまで執念深く、異性愛、異性婚以外のものを、聖書を使って差別し、排除したいのか」と呆れてしまいますね。聖書に書かれていないものは、全て禁止されている。あってはならないと思いたがる傾向の人間がいるんですね。
 しかし、聖書に書かれていないものは、実際にはたくさん存在するし、それが存在する生活を、今の私たちは当たり前のように受け入れて暮らしている。それなのに、異性愛、異性婚以外の性愛についてだけは、むきになって血眼になって攻撃する。
 多くのクリスチャンたちの異性愛以外の性愛に対する差別意識、敵意、憎悪は驚くほどで、あの差別意識、敵意、憎悪を抱いている人たちと同じ宗教を信じていると思うと、こっちがクリスチャンをやめたいと思いそうになるくらいです。
 しかし、聖書に書いていないものは実際にはある。電気も基本的人権も同性愛も、聖書に書いていないだけで、それらは現在、存在が確認されているものなのですね。書いていないから存在していない、存在するべきではない、という解釈はおかしいのです。

▼読む側の問題

 今日の聖書の箇所に異性愛・異性婚のことしか書かれていないのは、単にこの物語を書いた人たちが異性愛や異性婚のことしか想定していなかったからです。この人たちには同性婚を志す者や独身で生きる者のことは見えていないのです。
 見えていない人たちの見解を絶対化してはいけません。聖書の物語を書いた人たちの視点にも偏りがあります。実際、こういう異性婚を絶対化する時代の社会の中で、多くの本来なら同性と結ばれたい人たち、あるいは本来なら結婚したくなかった人たちが、「子孫を残すため」という至上命令のために、強制的に結婚させられ、人生を破壊させられてきたであろうことが想像できます。
 それに、たとえば24節には「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と書かれています。つまり、これは男の視点からしか書かれていません。「男と女はそれぞれの父母から離れて」とは書いていない。また、両親が揃っている家庭の男のことしか考えていない。
 これは、例えばマタイによる福音書の初めにある系図が、基本的に男から男へと継がれる形になっているのと無関係ではありません。つまり、聖書の物語は、無意識に男系主義、家父長制を肯定しているということになります。聖書も決して中立ではないということです。
 なんでそういう中立でない記事が書かれるか。
 聖書を書いた人たちは、女性の権利について知らないからです。女性の権利の存在そのものが想定されていなかったからです。家父長制に何の疑問の抱かず、それしか知らなかったからです。
 しかし、それはそういう時代に書かれたんですから、仕方がありません。問題は、それを絶対化してしまう、読む側の人間にあります。

▼互いに救い合う存在

 そんな問題だらけの聖書の箇所の中で、ひとつ「良い言葉だな」と主う言葉があります。
 それは、18節の「彼に合う助ける者を造ろう」という主なる神のセリフの中の「助ける者」という言葉です。
 この「助ける者」、「助け手」という言葉は、長らく英語の聖書でも「ヘルパー」と訳されてきました。しかし、近年では「パートナー」という言葉に直されるようになってきているようです。翻訳というのは解釈が反映されたものですけれども、これは良い方向の解釈だと思います。
 そもそも、この「助ける者」という言葉はヘブル語で「エゼル」と言って、「神さまからの助け」という含みがある言葉です。
 聖書の中に「エリエゼル」という名前の人が登場するところが幾つかあって、そんなに珍しい名前ではないようですけれども、この「エリエゼル」という名前は「神はわが助け」という意味です。つまり「エゼル」というのは「神の助け」を表す時に使われる「助け」という言葉なんですね。
 ですから、この場合の「助ける者」というのは、何かこちらが主役で、それに対する助手のような立場ではなくて、むしろ、こちらが危機や苦難に陥っている時に、救い出してくれるような存在という意味なんですね。
 「助ける」という日本語には、どっちの意味もあるので、ややこしいんですけれども、どちらかというと、危機や苦難から自分を救ってくれるような素晴らしい存在。それが、ここでも「助ける者」という言葉の意味なんですね。
 主なる神は、いざという時に自分を救ってくれるような、素晴らしいパートナーを造ろうとしてくれたんだ、と。それはとても良い言葉だなと思います。
 願わくば、異性愛者にも、同性愛者にも、それらを含むあらゆるセクシュアリティの人にも、お互いを救い合えるような、パートナーシップが与えられるといいですね。
 そして、独身の賜物を持つ人にも、互いに救いになるような人との出会いがあると、それはそれでいいですね。それが恋愛や結婚生活という形を取らなくても、お互いのことを一番知っている友人という形であったとしても。
 形にとらわれるのではなく、本当に大事なことは、自分に合う、互いに救い合える「エゼル」が見つかることなのではないかと思います。
 祈りましょう。

▼祈り

 私たちひとりひとりに命を与え、愛の種を蒔いてくださった神さま。
 今日もあなたに与えられた命をこうして生きることができ、また、あなあに蒔かれた愛の種を育てる機会を与えられていますことを、心から感謝いたします。
 しかし、私たちは、この蒔かれた愛の種を十分に活かすことができず、お互いを裁き合ってしまったり、貶めたりするような弱さをも持っています。
 どうか神さま、私たちがお互いを、共にあなたによって造られ、あなたに愛された者として大切にし合い、互いを救えるような関係を気づいてゆくことができる者として、私たちを強めてください。
 人生の途上で、愛すべきパートナーが与えられた人のことを喜びたいと思います。神さま、感謝します。
 また、パートナーがいない人にも、あなたが豊かな関係を築ける人を与えてくださいますように。
 出会いを大切にさせてください。恋愛であれ、結婚であれ、友人であれ、喜びある出会いを私たちに与えてください。そして、出会う人にいつも丁重に接する者へと成長させてください。
 イエスさまの御名によって、祈ります。
 アーメン。


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