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すべてを造ったことの意味

2023年9月17日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
創世記1章1節〜2章3節(旧約聖書・新共同訳 p.1-2、聖書協会共同訳 p.1-2)
有料記事設定となっておりますが、無料で最後までお読みいただけます。有志のお方のご献金をいただければ、大変ありがたく存じます。
最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼創世記1章1節~2章3節

 初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 神は言われた。「光あれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
 神は言われた。「水の中に大空があり、水と水を分けるようになれ。」神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを分けられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。
 神は言われた。「天の下の水は一か所に集まり、乾いた所が現れよ。」そのようになった。神は乾いた所を地を呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神は見て良しとされた。
 神は言われた。「地は草木を生えさせよ。種をつける草と、種のある実を結ぶ果樹を、それぞれの種類に従って地上に生えさせよ。」そのようになった。地は草木を生じさせ、種をつける草をそれぞれの種類に従って、種のある実をつける木をそれぞれの種類に従って生じさせた。神は見て良しとされた。夕べがあり、朝があった。第三の日である。
 神は言われた。「天の大空に、昼と夜を分ける光るものがあり、季節や日や年のしるしとなれ。天の大空に光るものがあって、地上を照らせ。」そのようになった。神は二つの大きな光るものを造られた。昼を治める大きな光るものと、夜を治める小さな光るものである。また星を造られた。神は地上を照らすために、それらを天の大空に置かれた。昼と夜を治めるため、光と闇を分けるためである。神は見て良しとされた。夕べがあり、朝があった。第四の日である。
 神は言われた。「水は群がる生き物で満ち溢れ、鳥は地の上、天の大空を飛べ。」神は大きな海の怪獣を創造された。水に群がりうごめくあらゆる生き物をそれぞれの種類に従って、また翼のあるあらゆる鳥をそれぞれの種類に従って創造された。神は見て良しとされた。神はそれらを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地に増えよ。」夕べがあり、朝があった。第五の日である。
 神は言われた。「地は生き物をそれぞれの種類に従って、家畜、這うもの、地の獣をそれぞれの種類に従って生み出せ。」そのようになった。神は地の獣をそれぞれの種類に従って、家畜をそれぞれの種類に従って、地を這うものあらゆるものをそれぞれの種類に従って造られた。神は見て良しとされた。
 神は言われた。「我々のかたちに、我々の姿に人を造ろう。そして、海の魚、空の鳥、家畜、地のあらゆるもの、地を這うあらゆるものを治めさせよう。」
 神は人を自分のかたちに創造された。
 神のかたちにこれを創造し
 男と女に創造された。
 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ。」
 神は言われた。「私は全地の面にある、種をつけるあらゆる草と、種をつけて実がなるあらゆる木を、あなたがたに与えた。それはあなたがたの食物となる。また地のあらゆる獣、空のあらゆる鳥、地を這う命あるあらゆるものに、すべての青草を食物として与えた。」そのようになった。
 神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
 こうして天と地、そしてその森羅万象が完成した。第七の日に、神はその業を完成され、第七の日に、そのすべての業を終えて休まれた。神は第七の日を祝福し、これを聖別された。その日、神はすべての創造の業を終えて休まれたからである。
(聖書協会共同訳)

▼古い物語と新しい物語

 皆さん、おはようございます。
 今日は聖書の一番最初のところ、天地創造の場面をとりあげて、みんなで分かち合いの時を持ちたいと思います。今まで私の説き明かしでは、もっぱら新約聖書でお話をすることが圧倒的に多かったのですけれども、今日は旧約聖書からの説き明かしとなります。
 さて、今日読んだところは天地創造の中でも、1つ目の物語です。実は天地創造の物語というのは2つあるんですね。1つ目は今日お読みした創世記の1章1節から2章の4節前半、2つ目が2章4節後半から始まります。
 1つ目は6日間で神さまがこの世を造って、いろいろな植物や動物を造った最後、6日目に人間を造ります。2章4節からの2つ目の物語では、まず最初に泥から人間を造って、そのあと他の動物を造っていきます。全然ストーリーが違うんですね。ある種の教派の方々は、この2つに矛盾はないんだと言って、いろいろつじつまを合わせようとするんですが、まあここは別の物語が並べられているんだなと思っておいた方が自然だと私は思います。
 そして、今日お読みしたのは1つ目の物語ですけれども、こっちの話のほうが新しいとされています。泥で人間を造ったという話の方が古くから伝えられていて、6日間で世界を造ったという話のほうが後にできたんですね。
 これは、ユダヤ教の聖書の編集のしかたの1つのわかりやすいパターンで、古いものに手を加えて改ざんするんじゃなくて、新しいものをその外側に付け加えてゆくという形で、古いものを尊重して保存しようとしたとも言われてします。まあそうでない部分も結構あると思いますけれども、ここの部分においてはそういう編集のされ方をしていると言われているんですね。

▼持ち運べる神殿

 まあ新しいと言っても、紀元前の540年頃の話です。「バビロン捕囚」という出来事が終わるころに書かれたのではないかと思われますけれども、今から2500年以上前です。
 「バビロン捕囚」というのは、旧約聖書を生んだイスラエル民族が、南北の王朝に分裂してしまって、北王国イスラエルはアッシリアという帝国に、南王国ユダは新バビロニア帝国に滅ぼされてしまいます。その時の生き残りが南王国ユダの子孫ということでユダヤ人と呼ばれることになります。そのユダヤ人の主だった人たちが、バビロニアに強制連行されてゆきます。これを「バビロン捕囚」と言います。
 ユダヤ人はバビロニアにおよそ50年間留め置かれます。その間に彼らは「ヘブライ語聖書」(今我々が「旧約聖書」と読んでいるものの元になった正典ですけれども)聖書を編集しはじめます。
 この正典のことを「持ち運べる神殿」と呼ぶこともあったそうです。ユダ王国ではユダヤ人は神殿で礼拝をしていたのですが、神殿は壊された上に、異国に連れて来られて神殿での礼拝は不可能になりました。そこから彼らは聖書を「持ち運べる神殿」と言って、編集し始めたというんですね。

▼再開発にあたっての教育

 さて、それで50年間ユダヤ人はバビロニアに連行されたまま奴隷労働などに従事させられていたんですけれども、この「バビロン捕囚」の約50年後に、今度はアケメネス朝ペルシャというところのキュロスという王さまが、新バビロニア帝国を滅ぼします。そして、ユダヤ人はユダヤに帰ってよいということになります。
 それでユダヤ人はもといたユダヤ地方(現在のパレスティナ地方)に帰ってゆくわけです。帰ってみるとエルサレムは瓦礫の山のまま放置された荒れ野になっていて、そこを再開発して彼らは新しい神殿を再建して、それを中心に都を作り直さないといけなかったんですね。最初にイスラエル王国が建てた神殿はもう瓦礫になってしまっていますんで、ここで彼らが再建した神殿を「第二神殿」と呼んでいます。
 この第二神殿を中心に都を再建するときに、大きな権力を持ったのが、神殿に仕える祭司の人たちです。そして、今日読んだ天地創造の第1の物語も、その祭司階級の人たちによって編集されたとされていて、神さまがこの世を混沌から秩序ある世界に作り上げていったということを、民衆に教育するためにつくられた物語であると考えられるわけです。

▼神の造った秩序

 この物語の中でも面白いなと思うのは、神さまが6日間で仕事を終えて、7日目には休んだということが書いてあるところですね。
 これは本当に画期的な発明なんですね。1週間のうち1日は休みなさい、という命令です。この物語を編集した人たちは、労働者や奴隷、家畜などを週に1日休ませた方が、実は生産性が上がるということを発見したんですね。そこで「神さまが6日働いて1日休まれたのだから、我々も6日働いて1日休まねばならないのだ」と人々に教えたわけです。
 この6日間の神さまの仕事で特徴的なのは、神さまはもともとある1つのものを「分ける」という作業で世界を造っているように見えるところです。
 まずはドロドロの混沌の水の上に暴風が吹いているような荒れ果てた状態のところを「天」と「地」に分けたように描かれています。
 次に、天の中で神さまは「光あれ」と言います。すると、「光」と「闇」ができたと書いてあります。それらに「昼」と「夜」という名前を付けました。
 更に神さまは「光」を、大きな光である「太陽」と、小さな光である「月」に分けて造り、それぞれ昼と夜を司るようにしました。
 次に神さまは、地を「乾いた所」と「水のあるところ」に分けたように書いてあります。そして、乾いたところには植物を、水のあるところには魚を、陸地には動物を造り、動物たちは植物とその実や種を食べるように命じます。この時点では地上には肉食の動物はいなかったんですね。
 肉を食べてもいいことになるのは、これよりずっと後のノアの箱舟の物語の後です。ですから、ある人たちは、人間が罪のない時代には植物しか食べていなかったのだから、今の人間も罪のない状態に戻るために、肉食はやめるべきだ、と唱えている人もいます。これについては賛否両論あると思います。

▼セクシュアリティから読む聖書

 そして最後に神さまは人間を造ります。「男」と「女」に分けて造ったという風に書いてあります。これで天地万物が完成されたということになります。人間を造って完成したという風に読めるので、この物語を造った人たちは、人間がこの世界で最も完成された生物、神の形として造られたのですから、人間こそが最も優れた生物なのだと考えていたのかも知れません。
 この天地創造の聖書の箇所で、近年問題になっているのが、性的指向やジェンダー・アイデンティティの観点から、この聖書の箇所の「男と女に造られた」という言葉をどう読むかということです。
 LGBTQ+、つまりシスジェンダー・ヘテロセクシュアル以外の全ての人。シスジェンダー・ヘテロセクシュアルを縮めて言うと「シスヘテロ」という言いかたをしますけれども、この「シスヘテロ」というのは、「自分の性はこれだ」という認識が、体の性と一致していて、異性を愛する人、多数派の人です。逆にこの「シスヘテロ」という多数派以外の全ての種類の多様なセクシュアリティの人が、いわゆる性的少数者、性的マイノリティと呼ばれる人たちになります。この少数者の人たちを、どうとらえるかということで、この「男と女に造られた」という聖書の箇所が問題にされることが多いんですね。

▼聖書による虐待

 多数派の人たちの中でも、あるクリスチャンの人たちは、この聖書の箇所を使って、性的少数者というのは存在してはならないと唱えます。神さまが人間を男と女に造った。神が造ったのはこの2種類しかいないのだから、それ以外の人間は、存在自体が御心ではないと言い切るのですね。
 たとえば、この考え方をとると、自分のことを男性でも女性でもないと認識している人たちは、この世に存在してはいけないことになります。それから、男性でも女性でもあるという性自認の人たちも、本当は存在していないはずだということになります。これらの人たちはひとまとめに言うと「Xジェンダー」と呼ばれるようですが、あるクリスチャンの人びとは、実際いるはずの人間を、いないと考えるしかないと思っているわけです。
 あるいは、保守的な人は、聖書には「男と女が父母を離れて一体となる」と書いてあるので、男性と女性以外の性的な関係は禁じられていると読みます。ですから、同性愛は神の御心ではない、つまり罪である、と言います。
 このタイプの信仰の持ち主は、昔は「同性愛者は死ななければならない」「殺せ」とよく言っていたんですけれども、最近は主張が変わってきていまして、最近は「私たちは同性愛の人たちのために祈っています」と言うようになりましたね。「同性愛は罪ですが、神さまは全ての人間を愛しておられます。ですから、あなたのその同性愛が変わるようにお手伝いします」と申し出る人たちが日本でも出てきました。「神はあなたを愛しています。しかし、あなたのありのままでは地獄に落ちてしまいます。そんなことにならないように、あなたの性的指向を変えましょう」というわけです。
 これは逆のパターンをちょっと考えたら恐ろしいことですよね。本来異性を愛するタイプの人に対して、「あなたのその異性愛は罪だから、同性愛に矯正しなさい」と言われても、かなり困りますよね。しかし、それと似たことを、「あなたのセクシュアリティを変えなさい」と要求するクリスチャンたちがいるわけです。
 聖書によって、人のありのままのあり方を否定する。存在する人を存在してはならないと言う。聖書で人を裁く。聖書で少数者を虐待するということがあるわけです。

▼すべての人が神の形に造られた

 このような聖書の読み方に対して、「ちょっとそれは違うんじゃないか」という意見も最近の神学では言われるようになってきました。
 例えば、「神は天と地を造った」と書いてありますが、これは「この世の全てを造った」というのと同じ意味だということは、理解しやすいですよね? 「天」という場所と「地」という場所を造って終わり、ではなくて、天上の世界から地の果てまで、そしてその間にあるすべてのものを造った、という意味で「初めに神は天と地を造った」と書いてあるわけです。
 そうなると、さっき私が申しました、物事を2つに分ける形、分割する形で世界を造っていったという認識自体が、実は間違っているのではないかと考えることもできるわけです。
 「天と地を造った」というのは、「この世の全てを造った」。「昼と夜、太陽と月を造った」というのは、「神はすべての時間を造った」ということです。実際には昼と夜以外の、たとえば夜明けとか夕暮れとか、いろいろな時間がありますから。
 「乾いたところを水のある所を造った」というのも、陸も海も、湖も池も、沼地も造った、つまり「地上のあらゆる場所を造った」ということですし、陸と海の境目も、気象条件、天候によっては、陸に水が入ってきて破られたりもするわけです。それらすべてが神の造ったものです。
 そして、神は人間を「男と女に造った」。これは端的に、「すべての人間を造った」という意味なんですね。すべての人間ということは、文字通りすべての人間です。性的な意味でも、単純に男である人から、単純に女まで、そして、そうでない人に至るまで、その間にあるグラデーションの上にいる全ての人を、神は造ったのだ。
 そして、どのようなありようであろうと、全ての人が神に似たものとして作られているのだ……そのように読めるではないかと近年の神学では言われるようになりました。

▼みんながみんなのままで

 いかがでしょうか。同じ天地創造の物語でも、読み方によって、解釈の仕方によって、そこから読み取るメッセージは違ってきますし、それは時代、社会によって変わってゆくものでもあります。
 何が本当に正しいかということはわかりませんが、私自身は聖書が人を救う本であってほしいという願いを持つ者として、聖書からメッセージを取り次いでゆきたいと思います。
 皆さんはどのようにお考えになりますでしょうか。全ての人が全てありのままに神のに似た形としてつけられた。全ての人がありのままで神を表している。
 そして、この物語では「神」という言葉は複数形で書かれていて、その「神」は「われわれにかたどって人間を作ろう」と言っています。神は複数形なのは、なぜか。
 それは、数限りなく集まった、それぞれに違う私たちが、みんな集まった、その集合体こそが神の形なのであり、誰ひとり欠けてはいけないのだという意味なのではないでしょうか。
 みんなが、みんなのままで、集まって神を表している。
 説き明かしはここまでとさせていただき、あとは分かち合いに委ねたいと思います。
 祈りましょう。


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