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お正月おつかれさま、おかえりなさい

2023年1月8日(日)徳島北教会 新年礼拝 説き明かし
使徒言行録17章22-29節(新約聖書:新共同訳 p.248-249、聖書協会共同訳 p.243-244)
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▼使徒言行録17章22~29節(聖書協会共同訳)

 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あなたがたがあらゆる点で信仰のあつい方であることを、私は認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを私はお知らせしましょう。世界とその中の万物を造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、人の手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に、命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の全域に住まわせ、季節を定め、その居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神は私たち一人一人から遠く離れておられません。私たちは神の中に生き、動き、存在しているからです。皆さんのうちのある詩人たちも、『我らもその子孫である』と言っているとおりです。私たちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで刻んだ金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」

▼お正月おつかれさま。おかえりなさい

 皆様、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 ……お正月おつかれさまでした。ようこそ教会に戻ってこられて、おかえりなさい。今日の説き明かしのタイトルは「お正月おつかれさま。おかえりなさい」ですけれども、最初この題をつけて週報で予告した時は、「お正月にご家族、ご親族で集まって、楽しい時を過ごしておられたと思いますが、色々お世話することも多く、ご苦労もたくさんあったでしょう」というような意味を含めてこのような題をつけたのですが、実際には色々なことがこの2週間の間に起こって、全く別の意味で苦労、身も心も疲れ切るような思いをしてここに集っている方もおられることも思い、それでも礼拝を大切にしようとしてここに集われたことに、深く敬意と感謝を抱きながら、やはり「ようこそ教会にお帰りなさい。おつかれさまでした」という気持ちでおります。
 徳島北教会では毎年、最初の日曜日は礼拝をお休みしています。「うちの教会は年始の礼拝は休みます」というと、大抵の教会の方に驚かれます。失笑されることもあります。「なんという信仰の薄い教会でしょう」と思うクリスチャンの方々もおられるのではないかと思います。新年礼拝、あるいは元旦礼拝、一年の始まりの礼拝というものに、かなり気合を入れて望んでいる信徒や牧師の多い中で、徳島北教会では礼拝をお休みにしているという。
 しかしそれは、年末年始に帰省をされて徳島におられない方、また逆に他県から帰省して帰ってこられて、その家族のお世話をしなければならず、日曜日に家を離れることがなかなかできない方がおられたので、お休みにしませんかという経緯だったと思いますが違いますでしょうか。

▼お正月の苦悩

 これに関連して私が思い出すのは、関西学院大学の神学部がまとめたブックレットで『自死と教会』という本があるんですね。その中に、新潟教会の方の発題が載せられておりまして、新潟では非常に自死(自殺)が多いという話でした。
 その発題がなされていたのが2010年なので、ちょっと古い、今から12年ほど前ですけれども、その時点で新潟は全国で4位の多さだったそうです。ちなみに徳島は下から3番目だったそうです。
 私も調べてみましたが、確かにその時期は少ない方から3番目でした。最近では2021年の統計では、徳島県は少ない方から3番目とまではいかないまでも、細かい順位までは私にはわかりませんでしたが、全国平均よりは自死率が低いのかなという位置づけでした。
 ひょっとしたら温暖な気候が関連しているのかなと推測したくなるのですが、高知県は平均よりも多いので、そうとも言い切れない。ここは社会学者の分析が必要なのではないかと思います。
 その新潟教会の方の発題のなかで、「新潟いのちの電話」の働きが紹介されていました。
 新潟県の人たちの自死に、「役割期待型」が多いとのことでした。長男なら長男の役割を果たさなければならない。嫁は嫁の役割を果たさなくてはならない。お盆とか正月にお嫁さんから、いのちの電話に重い内容の電話がかかってくるそうです。長男のお嫁さんです。
 「家を出ていた次男、三男、娘たちが、田舎のおじいちゃん、おばあちゃんのところ、実家に帰ってくる。わずかばかりの手土産を持って帰ってくるわけです。嫁さんは、夫の兄弟たちを迎える準備を朝からばんまでやって、そして仲間から外されてしまう。「お姉さん、ご苦労さん」という声がかかればまだ違うのでしょうけれど。そして、自分の部屋から電話がかかってくる。「私っていったい何なんでしょう」。……お盆やお正月には、こういう電話が必ずかかってきます」(『自死と教会』キリスト新聞社、2012、p.22)
 期待されたように生き、期待された役割を果たさなくてはいけないと思って、自分を追い詰めてしまう人が多いということなんですね。
 お正月が本当のお休みになっている人は、たいへん恵まれていると言えるのかもしれません。しかし、お正月こそ疲れ切ってしまう人もいます。もちろん、自分の子どもたちが戻ってくるのを迎えて、その苦労も幸せなんだとおっしゃる方もいらっしゃいますけれども、長男とその嫁という立場に押し込められると、正月だからこそしんどいという人もいるのだということなんですね。
 そして、徳島北教会は、しんどい人も、しんどくない人も、しっかり家族を大事にしてくださいということで、お正月は集会をお休みにするということになっているわけです。

▼父の戒名

 さて、お正月に教会が元旦礼拝に力を入れるというのは、日本の初詣に対抗する気持ちも多分に含まれているのではないかと感じます。日本人は、自分は無宗教だと思っている人は多いですけれども、その割には初詣と墓参りには非常に熱心ですね。
 私の家族でも私だけがクリスチャンで、父も母も弟もクリスチャンではありません。私以外一家全員みんな初詣と墓参りには非常に、非常に熱心です。
 私が高校生の時、洗礼を受けた頃ですけれども、洗礼を受けることを反対された時に、私が「だってうちだって宗教やってるやないか」と言ったことがあります。初詣やお墓参りは一種の宗教だと言いたかったんですね。すると、父親は激しく怒りまして、「屁理屈を言うな」と。「あれは宗教やない。習慣や!」と怒鳴ったことがありました。
 あんなに怒鳴らなくてもいいやないかと今でも思いますが、要するに、「キリスト教は宗教だからあかん」、「我々がやっているのは単なる習慣であって、宗教ではない。だからいいんだ。お前は宗教に入ろうとしている。だからあかん」ということが言いたかったのだろうと思います。
 そんな父親が亡くなる直前、急に病床洗礼を受けるということになりました。私が無理にそうさせたというわけではないんですけれども、記憶は定かではありませんが、私が何か勧めたのかもしれません。とにかく父親は亡くなる直前に、洗礼を受けたいと言い出しまして、病院の近くの私の後輩の牧師に司式してもらって、病床洗礼を授けてもらいました。それで、一応クリスチャンとして亡くなっていったのですけれど、最近になってこれに対して、母親と弟が落ち着かないと言い出したんですね。
 おそらく母親が自分が亡くなった時のことを考え始めたからだろうと思うんですけれども、「お父さんだけが位牌も戒名も無いのは、なんか寂しい」と。それで、これも信心深い弟が色々手を回して、父親の戒名を取って位牌を作ってもらって、それで50万円くらいお寺に払ったと思いますが、そういうことをしても惜しくないんですね。
 それで、私は「あんたらはほんまに信心深いねえ」と言うんですが、母と弟は、自分が50万円払っても、自分たちは宗教をやっているという意識はなく、「宗教をやってるのは兄貴やろう」という意識なんですね。
 そして、今年もお正月に母の所に行った私は、仏式のお墓参りに付き合うことになり、弟も自慢そうに例年通りの初詣の写真をLINEに送ってくるのでした。彼らに自分が宗教をやっているという意識はないと思います。
 そのような無自覚だけれども非常に熱心な宗教心で、日本の人たちは元旦には初詣に行くわけですけれども、教会で元旦礼拝に力を入れるのは、そういう日本人の初詣への熱心さと裏表の関係にあるのではないか。初詣も元旦礼拝も、根底にあるのは同じような心理なのではないのかなと思ったりもするわけです。

▼「知られざる神に」

 さて、今日の聖書の箇所は、パウロという初期キリスト教の宣教者が、ギリシア神話への信仰が篤いギリシア・ローマ文化の世界に切り込んでいって、キリスト教を宣教する場面のひとつです。
 パウロがアレオパゴスという場所の真ん中で話をしたことになっています。アレオパゴスというのは、アテネのアレイオスと呼ばれるところにある丘のことで、ここでアテネ市の政治の実権を握る人たちが会議を行ったという場所でした。
 といっても私自身も現地の遺跡に行ったわけではないので、実感がわかないのですが、この場所の真ん中に立ってパウロが話をしたということは、ここがアテネ市民にとって政治的にも精神的にも重要な場所であったということなのでしょうね。そこではアテネの政治についての話し合いであるだけでなく、様々な討論もなされていた場所だった。そしてパウロはそれを知っていて、わざとそこで大きな声でアテネ市民に向けて演説をしたということなのでしょう。
 ここで、パウロはちょっと面白い事を言っています。今日読んで使徒言行録17章の23節ですね。
 「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』に刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物を造られた神が、その方です」と言うのですね。
 あなたがたがその正体を知らないで拝んでいるものは、私が知っている神さまなんだよ。それは同じものなんですよという論理で、周りの人たちに伝えていくわけです。

▼汎神論

 これは周りの人たちがあまり自分たちのやっていることを「宗教的だ」と自覚しないで拝んでいる、その宗教心は私たちの知っている神さまを拝んでいるのと同じなんだよと教えているのと同じようなものだと思われます。このような論理が本当に有効かはちょっと疑問に思うところもありますけれども、少なくともパウロは、「あなたがたが自覚なしにやっていることは、実は宗教的な行為なんだよ」ということを知らせようとしているのではないかと思われます。
 加えてパウロはこんなことを言います、28節にありますけれども、
 「皆さんのうちのある詩人たちも、
 『我らは神の中に生き、動き、存在する』
 『我らもその子孫である』と、
 言っているとおりです。」
 これがキリスト教の神さまであると言い切れるかいうと、おそらく賛否両論あるとおもいます。特に「私たちは神の中に生き、動き、存在している」。これはいわゆる「汎神論」という考え方に近いでしょうね。この世の全てが全て神であり、私たち自身も神の一部であり、神の中で生きている。これが汎神論です。これもキリスト教の中の1つの考え方で、実は私の考え方もそれに近いのですけれども、こういう神論・神観を認めない人もいます。
 けれども、この汎神論というのは、割と日本の、あるいはアジアの宗教観とそんなに相性が悪いものではないんですね。全てのものが神であり、全ての存在は神の中に生きており、全ての生命は神の命を生きている。そして、生きている人も亡くなった人も、同じ神さまの中を生きている……という考え方は、アジア的な「全てのものに魂、霊が宿っている」というのも、厳密には違いますけれども、感覚としては似たものがあるのではないかと思います。
 もちろん、1人の神を拝む一神教と、全てのものにそれぞれの神が宿っていると考える多神教とでは、全然違うと言うこともできます。けれども、すべてのものに命が宿っている、霊が宿っているという感覚は似ていて、それをバラバラの霊だと考えるのか、実はおおもとは1つなんだと考えるのか、それだけの違いでないかと思うのですね。
 ですから、私たちは周りの人たちに対して、あなたがたがバラバラの神だと思って拝んでいるものは、実は私たちが拝んでいる1人の神の一部なんだよと言うことができるわけです。
 もちろん、そんなことを直接自分の家族に行っても、理解してもらえないと思いますから、わざわざそんなことを自分から言う必要はないと思いますが、もし、非常に稀なことではありますが、訊かれたらそう応えてあげたらいいし、自分の心の中では、そのように思っておけばいいのではないかと思います。
 それが、周囲のキリスト教ではない人たちと平和に生きてゆく1つの道ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

▼相通じる祈りの思い

 ひと昔まえには、「クリスチャンだったら、神社の鳥居もくぐってはなりません」とか、「家にある仏壇も処分しなさい」とか、そんなことを要求する教会もありました。また、家族の中で自分以外にクリスチャンが1人もいないという状況で、初詣とかお墓参りに行くたびに、自分は拝まないでいると、周りの家族に嫌な目や不審な目で見られないだろいうかと悩むクリスチャンもいました。こういうのは、家族の中でクリスチャンが自分だけという人にしかわからない気持ちかもしれません。
 まあさすがに、パウロも29節で、「神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」と言っていますので、神そのものではない物体を「御神体」といって拝む神社に行って、その像に向かって一緒に拝むのはどうかと思いますが、拝んでいる人に向かって、批判的な目を向ける必要はないです。同じ場所で私たちは私たちの信じる神に祈ればいいことです。私たちが神に感謝する思い、神に願い求める祈りは、多くの人が抱く願いと同じものであることが多いからです。
 また、たとえばお墓参りや仏式の法事の時に、「全ての存在が神に造られたものだ」という信仰を持ちながら、心のなかで「亡くなった人が神さまのもとで安らかに眠りますように」と願いつつ、手を合わせるというのは、全く問題ないと思うのですね。
 人は皆、「知られざる神」に拝んでいる。それはクリスチャンとは神の捉え方、拝み方は違っているけれども、「拝む」、「祈る」というおおもとの宗教心においては相通じるものがあると考えるのも、悪くないのではないかと思いますがいかがでしょうか。
 それでは祈ります。

▼祈り

 神さま。
 様々な試練、危機を乗り越えつつ、とにもかくにもこうして、あなたの年2023年を迎えることができましたことを感謝いたします。
 私たちは、多くの苦しみ、悩みを抱えながら生きています。それは自分自身の重荷であったり、身近な人の痛みであったりします。その事態に直面した時、私たちは必死にあなたに祈ります。
 その祈りは特別なものではありません。キリスト者であろうとなかろうと、あなたに私たちが願うことは同じことです。
 どうか私たちの暮らしと健康が支えられ、この与えられた命を、終わりまで善く生きることができますように、どうか守り、導いてください。
 また、いついかなる試練の時にも、あなたの平和な思いが、私たちの心を満たしてくださいますように、切に願い求めます。
 全てのことをあなたにお委ねし、イエス・キリストのお名前によって、祈ります。
 アーメン。
 


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