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今日が人生でいちばん若い日

2024年1日7日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
創世記12章1−9節(新約聖書・新共同訳 p.14、聖書協会共同訳 p.14-15)
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最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼創世記12章1-9節

 主はアブラムに言われた。
 「あなたは生まれ故郷
 父の家を離れて
 わたしが示す地に行きなさい。
 わたしはあなたを大いなる国民にし
 あなたを祝福し、あなたの名を高める
 祝福の源となるように。
 あなたを祝福する人をわたしは祝福し
 あなたを呪う者をわたしは呪う。
 地上の氏族はすべて
 あなたによって祝福に入る。」
 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。
 アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。
 アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
 主はアブラムに現れて、言われた。
 「あなたの子孫にこの土地を与える。」
 アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。
(新共同訳)

▼アブラム伝説の始まり

 今日お読みした最初の箇所、アブラムという人物が登場しました。
 創世記というのは、人類の最初の頃を描いたと言われている、旧約聖書の最初の本ですが、このアブラムが登場する前までの部分は、「原初史」と言いまして、天地創造とか、アダムとエバの話とか、カインとアベルの話、ノアの方舟の話、バベルの塔の話など、いくつのも面白い神話が収めされています。この世の始まり、原初の時代を描いた歴史という意味で「原初史」と言います。
 そして、「原初史」が終わると、アブラムという人物が登場し、ここから「族長物語」という流れが始まります。創世記という本は「原初史」と「族長物語」という2つの部分でできているんですね。
 最初の方の「原初史」というのは、言ってみれば神さまが主役の神話です。それに対して、「族長物語」からは人間が中心の物語に移っていきます。神さまと頻繁にやり取りはするんですが、主役はあくまで代々の族長……「族長」というのは、「族」の「長」、後にイスラエルと呼ばれることになる、その先祖の部族の長ですけれども、その3代の族長の大河ドラマが描かれていきます。
 3代の族長は、前から順番に「アブラハム」「イサク」「ヤコブ」と言いまして、今日お読みしたのは、最初の「アブラハム」という人の物語の始まりです。
 といっても、この人は「アブラハム」という名前で広く知られていますけれども、もとは今日お読みした聖書の箇所にあるように「アブラム」という名前でした。もっとも、もともと同じモデルとなった人物が、地域や小さな部族によって、「アブラム」という名前で伝えられた系統と、「アブラハム」という名前で伝えられた系統があって、それが後になって1つの物語に合成されたというのがこの本の成り立ちの実態ではないかと推測できるのではないかなと思うんですけれども、いずれにしても、「アブラム」「アブラハム」という名前で伝えられることになった、物語の素材になる1人の人物は確かにいたのではないかと考えられます。

▼「この土地をおまえに与える」

 このアブラムという人物は、もともとカルデヤのウルという地域に住んでいたと言います。これは、以前はメソポタミア文明のあったユーフラテス川の下流の町と云われていましたが、後から上流の方という説もあり、ちょっとどこだかはっきりしません。いまのイラクのあたりだと思われます、
 ひょっとしたら世界地理の授業で習ったことを憶えている人もいるかもしれませんけれども、「三日月型肥沃地帯」と呼ばれている、イラクからシリア、ヨルダン、パレスティナに至るまでの、肥えた土地が続く地域ですね。その地域のどこかにあったと考えられる町です。そのウルから父親のテラと一緒に、ユーフラテス川の北の方のハランという町に引っ越しました。
 そのハランで父親のテラが亡くなって、そこからアブラムはせっかく住み慣れたハランの父親の家を出て、旅をしなさいと神さまに命じられる……というのが今日の聖書の箇所です。
 アブラムはハランを出て、南西の方に旅をして、カナン地方に入ります。カナン地方というのは、今のパレスティナ地方、今はイスラエル国という右翼が牛耳っている国家がある地方ですね。その地方の昔の呼び名がカナンです。そこにアブラムはやってきます。
 そして、このカナン地方に入っていた時に、私たちはちょっと聞き捨てならん言葉を読むことになるわけですね。12章7節にあります。「あなたの子孫にこの土地に与える」と。つまり、「このカナンの地、現在のパレスティナ地方は、アブラムとアブラムの子孫のものだと、神さまが言ったのだ」ということが旧約聖書に書かれてあるやないかというわけです。その前の6節には「当時、その地方にはカナン人が住んでいた」と書いてあるのにです。
 これは、いま、イスラエル国によってガザ地区で集団虐殺、集団殺戮が行われている状況では、非常に問題になる聖書の箇所です。

▼侵略のプロパガンダ

 いまのイスラエル国……ちなみに、今の「イスラエル国」と、我々が聖書の中で呼んでいる「イスラエル」というのは、確かに歴史的につながってはいるけれども、あの今の国はちょっと異常だという意味で、一応区別しておいた方がいいように思うので、あえて聖書の「イスラエル」という名前と、現在のあの国のことを「イスラエル『国』」という風に、呼び分けておきたいと思いますけれども……あの現代のイスラエル国の大部分の人たちは、「我々はアブラムの子孫、アブラハムの子孫だ」「神がこのカナンの地を我々に与えたのだ」すなわち「ここは私たちが神から与えられた土地なのだ」と主張します。「だから、他の民族には出ていってもらう」「出て行かなかったら強制的に排除する」「反抗したら皆殺しにする」。それがイスラエル国です。
 そのやり方の根拠になっているひとつが、今言った聖書の言葉です。ですから、非常に今日の聖書の箇所は、それを真に受けるかどうかが大問題なわけです。
 キリスト教の信徒にも色々いて、原理主義的なクリスチャンの中には「ここにこうやって書いてあるから、断固イスラエル国支持」という人もいたりするんですよね。日本にもいます、そういう右翼的なクリスチャンが。
 まあ考えてみれば今日の聖書の箇所も、「アブラムとのその家族がカナンの地にやってきて、そのカナンの地にはカナン人が住んでいて、後からやってきたアブラムたちに、神が『この土地を与える』と言ったのだ」なんて言うのは、結局やっぱり自分たちがカナンの地を自分のものにするために、それを正当化するために神さまを持ち出して、こういう物語を語り伝え始めたというのが、おそらく実際のところだったんではないかと推測されます。
 つまり、創世記12章7節の言葉は、文字通り占領、征服を正当化するためのプロパガンダみたいなものなんですね。

▼新しい旅立ち

 しかし、この物語が結び付けられている、今日読んだ部分の前半部分には、必ずしもそういう「他の民族をやっつけてしまえ」みたいな考え方とは違う、「他の民族に仕えて生きなさい」という教えが唱えられています。今日読んだところの前半の部分ですね。
 ここの部分は、こうして日本語の聖書を見ても、何度も改行されて詩のような形になっています。実際古くから伝えられている歌のようなものだったんでしょうね。その歌は、アブラムに「住み慣れたウルの地から旅に出なさいよ」という風に招き出されています。
 その時アブラムは75歳であったと4節後半に書かれています。75歳になってから、今までの生活を捨てて、全く新しい人生を始めなさい。旅をして今まで全く知らなかったところへと動いて行きなさい、と言われてしまうわけです。
 しかも、その新しい人生でやるべきことも、神さまは指し示しています。
 12章の2節後半に「(あなたは)祝福の源となる」と書いてあります。そして、3節後半には「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」とも書いてあります。
 「祝福する」というのは、日本語の辞書を見れば、「人の幸福を祝うこと。あるいは幸福を祈ること」、キリスト教的には「神から恵みを与えられること」という意味であるとあります。もとのヘブライ語では「ベラカー」と言いまして「救済に満ちた力を与える」という意味だということです。
 つまり、もうちょっとわかりやすく言い換えれば、「地上のすべての民族、あなたによって神の恵みを受けるようになる。あなたがたは他の人たちが救われるように、また幸福になるように祈る。そのような民族になりなさい」ということなんですね。
 今のイスラエル国がやっていることと真逆ですけれども、本来のイスラエルの役割はそういうことなのだと説いているわけです。

▼祝福するために呼び出される

 もちろん、この詩の中には、ちょっと引っかかる言葉もあって、3節前半には「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う」と書いてあります。
 「ほーら、やっぱり自己中心的な民族主義がにじみ出とるやないか」と、まあそう受け止めることもできます。
 しかし、こっちの方の言葉を、後々のイスラエルの人々は、そこが大事なところだとは受け止めていなかったみたいなんですね。
 むしろ大事なのは「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。「他の人たちが神さまの恵みを受けるために、私たちは奉仕する。そういう役割のために私たちは選ばれているんだ」と、そこが大事なんだともっぱら解釈する伝統を受け継いできたわけです。
 例えば、同じ創世記のもうちょっと先のところ、18章18節には、神さまがこういうセリフを言うところがあります。
 「アブラハムは必ずや大いなる強い国民となり、地上のすべての国民は彼によって祝福される」(聖書協会共同訳)。
 更にそのあと、22章18節にも、こう書いてあります。
 「地上のあなたの国民はあなたの子孫によって祝福を受けるようになる」(聖書協会共同訳)。
 新約聖書でも使徒言行録という本では、イエスの弟子のペトロが、
 「神はアブラハムに、『地上のすべての氏族は、あなたの子孫によって祝福される』と言われました」(聖書協会共同訳)
 と話していますし、ガラテヤの信徒への手紙では、パウロが、
 「『すべての異邦人(つまりイスラエル以外のすべての民族ですね)すべての異邦人があなたによって祝福される』という福音をアブラハムに予告しました」
 と書いています。
 つまり、ユダヤ教およびキリスト教の長い伝統の中で、大事なことだと考えられて伝えられたのは、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12.3)ということ。
 いちばん大事なことは、「アブラム/アブラハムが神さまに『あなたとあなたの子孫の役割は、他のすべての民族が幸せになるように努めることなのだ』と言われたのだ」ということなんですね。
 この召命(召命というのは、ある特別な役割のために、神さまに呼び出されるということですが)この召命が大事なんだということなんです。
 そういう役割をするために、75歳になってからアブラムは呼び出されたわけです。

▼遅いということはない

 アブラムはこの「他の民族が祝福されるために生きる」という使命のために、75歳になって呼び出されました。
 75歳というのは、日本でも後期高齢者の始まりになるわけですけれども、ましてや今から何千年も前の、おそらく庶民の寿命が今よりも短かったであろう時代では、もっともっとおじいさんという認識だったのではないかと思います。
 しかし、アブラムはその年齢になってから、「これから他の人が神さまの恵みを受けるために奉仕する。そういう人生を生きなさい」と、あらためて神さまに命じられるわけです。
 私たちの人生が「他の人が神さまの恵みを受けるために奉仕する」という目的をもったものだったら、どんなに素晴らしいでしょうか。もちろん、それは楽なことではないでしょうし、きっと難しいことでしょう。しかし、そのような役割を実際に務めることができるのなら、そんなに素晴らしいことはないと思います。
 しかもそれを始めるのに、遅いということはない、というのが、今回の物語から読み取れることのひとつではないかなと思います。
 何歳からでも、他者に奉仕する人生というのは始められるのではないでしょうか。「いやいや、そんなに人のために生きるなんて、私にはできないよ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。かくいう私だって、こんなところでこんなことをしゃべりながら、「お前が誰の役に立っているというねん」と言われてしまうような人間かもしれません。
 けれども、そんな私が言うのもなんですけれども、私って存在しているだけでも、結構人の役に立っていると思いませんか? 私はここに生きているだけでも、けっこう人のためになっているんじゃないかなと思うんですけれども、違いますかね?

▼生きているだけで

 これは最近私が思い始めたことなんですけれども、人は生きているだけで、他の人の役に立っていると思うんです。
 なぜかというと、その人が生きているだけで、「その人がこの世からいなくなった」という悲しみを周りの人が味わわずに済んでいるからです。その人が生きているだけで、その人以外の人が、何気なく、ある意味「その人がいなくなったこと」に嘆かずに生きていける。何の気なしに生活していることを支えているんです。人は生きているだけで、他の人を支えています。
 だから、人は自分から命を絶ってはいけないんです。それほど人を傷つけ、何の気なしの生活を狂わせてしまうことはないからです。
 もちろん、人はいつか亡くなりますから、いつかは別れはやってきます。
 けれども、生きられるかぎりよく生ききるということ。それだけで、じゅうぶん周りの人に対する奉仕なのではないでしょうか。ただ生きているというだけで、その人が生きているということで、深く考えもしない何気ない日常を支えているという奉仕になっているではないでしょうか。
 そして、そのうえで、何か1ミリでも付け加えることができれば、それがアブラムに神さまが望んだ、「他の人の幸せのために、何かができる」という奉仕にじゅうぶんなりうるのではないでしょうか。
 何かを始めるのに、遅いということはありません。
 私の好きなYouTuberの言葉を借りれば、「今日が人生でいちばん若い日」です。いつからでも、人生の新しい出発が始められます。今日、新しい気持ちで生きてゆく。明日も新しい気持ちで生きてゆく。そんな風に生きてごらんという神さまからの招きに応えて、生きてゆきたいと思いますが、皆さんはいかがお考えになりますでしょうか。
 祈りましょう。

▼祈り

 神さま。
 私たちに、この世での生活を与えてくださってありがとうございます。
 しかし、私たちは時に、年齢にかかわらず、自分の人生には希望がないとか、自分が何かを始めるにはもう遅いのではないか、と思ってしまったりすることもあります。
 神さま、そのような時こそ、私たちにアブラムのように、新しい人生の旅を始める勇気を与えてください。
 そして、今その人生の旅路を歩んでいる者には、その旅を生きている限り、いつかあなたのもとに帰る日まで、毎日を新しい心で生きることができるように、私たちにその「生きる力」をお与えください。
 ここにいる者だけでなく、世界には生きる希望を叩き壊されるような出来事に見舞われて、窮地に陥っている人たちがたくさんおられます。
 1日も早い平安な日々への回復がなされますように。そして、私たちが自分のことだけではなく、他の人の祝福のために、1ミリでも何か奉仕することができますように、どうかお導きください。
 イエス様の御名によって祈ります。
 アーメン。


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