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まだ終わりではない

2024年1日7日(日)徳島北教会 新年礼拝 説き明かし
マルコによる福音書13章7−8節(新約聖書・新共同訳 p.88、聖書協会共同訳 p.87)
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最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。


▼マルコによる福音書13章7−8節

 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。(新共同訳)

 戦争のことや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。それは必ず起こるか、まだ世の終わりではない。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。(聖書協会共同訳)

▼「おめでとう」とは言い難い

 おはようございます。
 新年が明けましたが、「おめでとう」とは到底言えないような出来事が次々起こり、私たちは2024年がどんな年になるのだろうかと、身構えたり、不安を抱いたりせざるを得ないのではないでしょうか。
 もともと、去年は悲しいことが多く、私などはちょっと喪中のような気分でして、あまり「おめでとう」という気分になれなかったのでした。個人的にも、教会でも親しい方々をお送りしましたし、世界的にもウクライナの戦争は収まる気配はないし、ガザでの大量虐殺が止まる気配がない。
 それに加えて、今回の新年早々の能登半島の震災や羽田の航空機事故のニュースに触れて、私は少し神経過敏なのか、不安症なのか、こういうことが起こると、自分が被災者でもないのに、陰鬱な気持ちになり、元気が出なくなります。
 けれども私だけでなく、テレビのニュースやSNSの情報などで、何度も何度も被災地の映像を見せられると、それによって精神的にダメージを受けてしまう人は少なくないようです。
 もちろん被災地にいる人たちは、極限状況に置かれているのでしょうし、あるいは既に亡くなられた方もおられ、とても私などが想像するにあまりある状況でおられると思います。
 しかし、この災害の報道のシャワーを受ける中で、その場にいなくても、先の東日本大震災で被災した方々を始め、熊本地震や阪神淡路大震災、あるいは他の各地の災害で被災した方々も、精神的に打撃を受けておられる方はおられると思います。
 被災者でもない私自身が、心をざわつかせて元気を失っている状況ですから、被災経験のある方のダメージは計り知れないと思います。私のように、被災した者でなくても、気力が削がれてしまうような人間もいますから、実に多くの人がショックを受けているのではないかなと思います。
 被災された方々が守られ、支えられると共に、被災者以外の人の心の痛みにも神さまが寄り添ってくださることを願わずにはおれません。何より、まだ救われていない被災者の方々が一刻でも早く助けられることを願ってやみません。

▼終末のことは書いていない

 地震、震災という言葉を聞くと、今日の聖書の箇所が浮かびます。
 もう一度読んでみますね。
 「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」(マルコ13.7-8:新共同訳)
 この箇所は、多くのクリスチャンによって、「世の終わり」「世界の終末」のことだと思われています。それは、この13章の後半、1ページ後ろの24節(新共同訳では89ページ、聖書協会共同訳では88ページ)に「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子(つまり救い主)が大いなる力を栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る……」(マルコ13.24以降)といったことが書かれているので、この13章全体が世界の終わりのことだと思わされてしまうんですね。
 でも、世の終わりのことをイエスが言っているのは、この24節からであって、そこまでの23節までの部分は、世の終わりのことを話しているわけではありません。
 それに、私たちが使っている聖書には(新共同訳聖書でも聖書協会共同訳でも)、13章の3節のところに「終末の徴(しるし)」という小見出しがついています。ですから、「ああ、ここには世界の終わりのことが書いてあるんだ」と思ってしまうわけです。でも、この小見出しは元のギリシア語の本文には入っていない言葉です。つまり、翻訳して日本聖書協会からこの日本語訳を出した人たちが、「ここは終末の徴ですよ」と思って、説明してしまっているから、みんなここが「終末の徴」の話だと思わされてしまっているわけで、実はそうではない可能性が高いんですね。
 実際、13章の最初、1節から2節には、「エルサレムの神殿が崩される」ということを言っているだけですし、今日お読みした7節から8節には、戦争のこと、地震のこと、飢饉のことが書いてあるだけですし、9節からは、クリスチャンが権力者や政治家に捕まって証言をさせられたり、拷問を受けたりするだろうということが書いてありますし、14節からは「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たらーー読者は悟れ」と書いてあるように、具体的に起こった事件について「あなたがたなら知っているだろう」というふうに言っています。
 これはこの世の終わりのことを書いているのではなくて、実際にマルコによる福音書が書かれた時代に、これを読んだ人が、実際にどういう事件に巻き込まれ、どういう災難に遭うかを警告したイエスの言葉なんですね。世の終わり:終末のことを書いた記事ではありません。
 ですから、7節の終わりに、「まだ世の終わりではない」とちゃんと書いてあることを、もう一度意識しないといけません。「まだ世の終わりではない」とはっきり書いてあります。戦争や地震や飢饉は「世の終わりの徴」ではありません。

▼災害を喜ぶクリスチャンたち

 ウクライナやパレスティナ、そして世界の各地で、戦争が行われています。また、先ごろ起こった能登半島の震災など、これは震災が起こるたびにそうですが、こういった出来事を、「世の終わりの徴だ」と言って浮かれ騒ぐ一部のクリスチャンがいます。
 特にガザに対する大量虐殺では、これが「神が与えた土地を巡るイスラエルの戦いだ」、「パレスティナ人を滅ぼしてイスラエルを統一することが神のご意志だ」と言って、一方的にイスラエルを支持するクリスチャンがアメリカにはたくさんいますし、日本にも一部そういう信仰を持っている人たちがいます。
 今回の能登半島の震災でも、私自身はもうたくさんの問題のあるクリスチャンたちのアカウントはかなりブロックしているので、全く聞こえてこない、おかげさまでTwitterなどにおいては、何の精神的ダメージを受けることもなかったのですけれども、聞く所によれば、中にはこのような災害が「神のご意志だ」「終わりの時の始まりだ」「救いがこれから始まる」と喜んでいるようなツイートもたくさん流れているそうです。
 とんでもないことです。人の不幸を喜んでいるクリスチャンがいるのです。私たちは、絶対にそういうおかしな信仰に染まりたくはありません。絶対にそういう宗教といっしょにしてもらいたくはないと、私は思います。
 もう一度言いますが、今日の聖書の箇所は「まだ世の終わりではない」とはっきり書いてあります。この戦争と地震は「終末の徴」ではありません。このことは、このような災害が起こっている時に、私たち聖書を読む者としては、しっかりと押さえておかなくてはいけないし、そうでなければ、聖書の言葉によって不安を掻き立てたり、心を痛めている人を更に痛めつける、二次被害を生み出したりしかねません。ここは気をつけておかないといけません。

▼大いなる苦しみの始まり

 もう少し詳しく聖書の箇所を見てみると、新共同訳の翻訳でも、問題がある言葉遣いが見て取れます。
 先ほどの「終末の徴」という、元のギリシャ語の原典には無い言葉が加えられているということもそうですが、7節の後半に「(戦争が)起こるに決まっているが」とあります。「起こるに決まっている」と言ってしまうと、「戦争が起こることが決まっている」という風に、神によって決定づけられてしまっているというニュアンスになってしまいます。
 しかし、ここはそうではなく、「我々の世の中では残念ながら戦争が起こらざるを得ないが」という意味、つまり、神によって戦争が起きることが定められているというのではなく、「人間の世には戦争が起こるものだが」というニュアンスになります。聖書協会共同訳では、ここは単に「それは必ず起こるが」という風に訳しています。
 つまりここでは、「人間の世の中にはどうしても戦争が起こってしまうが、それはまだ世の終わりではない」(マルコ13.7)と言っているわけです。
 続いて、8節には「方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」とありますが、これも、確かに「産みの苦しみ」が語源となっている単語が使われているのですが、その言葉は、必ずしも女性の陣痛自体のことを指す場合は少なく、「ものすごい苦しみ」という意味でたとえとして使われることの方が多いようです。
 これは例えば、「はらわたがねじ切れる」という言葉が、文字通りの意味ではなく、「はらわたがねじ切れるほどの、憐れみの心」を示すのと同じように、「陣痛の痛み」という言葉が、文字通り陣痛のことではなく、「ものすごい痛み」として使われるのと同じようなものだと考えていただければいいと思います。
 したがって、これも「これから終末の時が始まる」、そのための「産みの苦しみ」だという翻訳者の思い入れが、こういう翻訳になってしまっていると言えます。でも、これは出産の時の陣痛という意味ではなく、他の場合に使われることのほうが多い言葉です。
 ということは、今日お読みした7節から8節は、こんな風に訳すことができます。
 「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、狼狽するな。それは必ず起こってしまうが、それはまだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、場所によっては地震があり、飢饉があるが、それらは大いなる苦しみの始まりである」。

▼私たちは終わらない

 こう読んでみると、マルコによれば、この戦争と地震と飢饉は、この世の終わりではありません。まだ終わりは来ません。その代わり、大きな苦しみの始まりなのです。
 これは、この福音書を書いたマルコ自身の、この世に対する悲観的な見方が現れていると見ることもできます。苦しみはこれからだ。まだ終わりは来ないのだ。
 何度も言いますが、「この災難は世の終わりであり、天の国がやってくる前兆だ」と喜ぶことは間違いです。苦しみは苦しみであり、それ以上でも以下でもありません。
 しかし、それにしても、このマルコの「まだ終わりではない。苦しみはこれからだ」というような言い草を、私たちはどう受け止めたらいいのでしょうか。新年の始まりにあたって、「これからが苦しみの始まりなのだ」とは、マルコはなんと不吉なことを言うのか。
 私は思うんです。「まだ終わりではない」ということは、「苦しみはこれからも続いてゆくのだ」という見方もあるかもしれないけれど、「私たちはこのままで終わるわけではない」という面もあると受け止めることもできるのではないでしょうか。
 「私たちはこのままでは終わらない」ということは、これからどうなるかは私たち次第だということではないでしょうか。
 ここままでは終わらない。神さまが強制終了することはありえない。だからこそ人間がどうするかにかかっている。
 そこでどのように人間が考え、行動するかによって、絶望が希望に変わるかもしれません。
 その希望を抱きながら、私たち被災者でない者は、被災された方々に、自分にできることをしなければならないのではないかと思います。
 私たちにできること、できないこと、やるべきこと、やるべきではないことを識別する知恵を与えてくださいと、神さまに求めたいと思います。
 祈りましょう。

▼祈り

 神さま。
 多くの人が災害によって、苦しみに叩き込まれました。
 この災害で命を失った方々の魂を、どうか慰め、その痛みを取り去ってください。
 そして生きている人々の中には、この艱難に抗って闘っている人もいるでしょう。あるいは動けなくなってしまっている人もいるでしょう。孤立し、絶望しておられる方もいらっしゃると思います。あるいは、私たちが想像もできない状況に陥っている方々もたくさんおられるでしょう。
 神さま、どうかすべての人に、あなたの寄り添いがありますように。すべての人にあなたの守りと支えがありますように。切にお願いいたします。
 奮闘する人に力をお与えください。疲れている人にはお休みを与えてあげてください。
 そして、私たちにできることをお示しください。
 イエス様のお名前によって祈ります。
 アーメン。


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