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NO GENRE, NO CHOICE???

ジャンルなんていっそのことなくなっちゃえばいいんじゃね?
っていうのが今日のお話。

一つ前の投稿でも書いた通り、ビールには数えきれない程の種類がある。それをフレーバーや原材料によってグループ分けしたものを、スタイルと呼ぶ。
例を挙げればIPA、ペールエール、スタウト、ポーター、セゾン、ランビック、ピルスナーなどなど。実に様々なスタイルが存在し、今も増え続け、複雑化している。

800種類以上のビールを売る店で働いていると、スタイルというものは実に役に立つ。
「最近おすすめのビールはありますか?」と聞かれるよりも、
「最近おすすめのIPAありますか?」と聞かれるほうが選択肢はかなり絞られて、選ぶのが楽になる。
そもそもこのようなカテゴリーやジャンルは、情報処理を簡略化する、という存在意義もあるから当たり前と言えば当たり前なんだけど。

でもこのビアスタイルでまた悲しくなる時もあるわけなのよ。

それは「IPA以外は飲まない!!」みたいな、スタイルで飲むビールを決めているお客さんを見た時。
いや、スタイルで飲むビールを決めるというよりも、飲まないスタイルを決めている、というか、自分の選択肢からいくつかのスタイルを排除してしまっている、という表現が正しいのかな。

こういうグループ分けを、選択肢を排除するのに使っちゃうのって、すごくすごくもったいない気がする。

例えばそれが「以前飲んだあのビールが美味しくなかったから、あのスタイルのビールは全部嫌い!」ってなってるのだとしたら、もう本当に悲しい。
同じスタイルでも、醸造所、原材料、ビールのコンディション、飲む人の体調によって、味はいくらでも変わる。
嫌い!もう飲まない!って思ってるスタイルの中に、実は本当に自分にとってドンピシャな味のビールが存在する可能性は大いにあるわけよ。

んで、これって音楽とか本、映画にも通ずる話なんじゃないかと。

「テレビで聴いたあのバンドの曲が響かなかったからあのジャンルの音楽はもう聴かない」
「友達から借りたあの小説が読むのが苦痛だったからあの手の本はもう読まない」
「彼氏の付き添いで観たあの映画がつまらなかったからあんな感じの映画はもう観ない」

んー、もったいなくないですか。

この情報化社会、自分が欲しいと思ってるものだけが手に入る時代。
何かを楽しもうにも、必ず事前にジャンルや評価を調べてから選択してしまう。

でも、「今」自分が良い、欲しいと思ってるものの中だけで留まってるよりも、その外にあえて飛び込んでみるっていうのもおもしろいんじゃなかろうか。

だって、本当はこっちが選び、利用するはずの「ジャンル」というものに、実は自分が支配され、閉じ込められてるのは悔しいから。

Spotifyで思いついた言葉で検索して出てきた音楽を再生してみる。
図書館で友達と同じ苗字の作家の小説を読んでみる。
TSUTAYAで目をつぶって観る映画を決めてみる

そんな現代の生き方とは正反対な行動の中に、今の自分じゃ出会えない、内側で眠ってた何かに出会えるかもしれないと思うとワクワクしません?

だから、いっそジャンルなんていらないんじゃね?って話。

「スタイルなんてどうでもいいよ、だって美味いんだもん」

なんて言ってもらえるようなビールをいつか造りたいなあ。