命の値段

自分の命に値段をつけるとしたらいくらだろう?

週末イオンモールをぶらついていた時に通りかかったペットショップのケージの中の子犬達を見ながら、冒頭のような質問を考えるに至った。一般的には、人の生命は何よりも大事で、その価値はプライスレスで、人権は当然守られるべきで・・・という話になるし、それが世間の常識というものだろう。

ただ、一方でペットショップで売られているペットには命に値段がつけられているし、子犬が大きくなると商品価値と共に値段が下がり、最終的に売れ残ったら殺処分される場合もある。ペットに限らず、我々が日々食べている肉や魚にも値段がついているけれど、それも元々は生きた動物達であるから、命に値段がついていると言えるだろう。

人間も過去には、自然の関係性の中で、食物連鎖の一部として成り立っていたものが、文明を手に入れて、あたかもその頂点に立ったかのように思い描かれている。そして人間だけが、他の種の命に値段をつけることが許されているただ一つの種のようになっている。

ただ、少し視点を変えてみて、保険を考えるとどうだろう。掛け捨ての生命保険は、いわゆる人が亡くなった時に支払われるお金であるから、それは命の値段なのかもしれない。医療保険や健康食品などは、治療や予防などに役立つのだろうけど、それは命を維持するために必要なものであるから、やはり命がお金に換算されている。合法的では無いけれど、人身売買や臓器売買も未だに無くなっていないことを考えると、命を値段に変えて切り売りするという行為が人間同士でも行われていることが分かる。

このように考えると、資本主義は、命を物質化して、モノに値段をつけるという仕組みで成り立っているともいえる。モノだからこそ、痛みを感じずに売買もできるし、時には殺したりもできる。戦争も、勝利のために敵対する人々を物質化して、モノを殺すと考えるから痛みを感じにくい。こういったことは、色々な本にも書いてあるけれど、このような構造的な事実から抜け出すことはなかなか難しい。

さて、自分は冒頭の質問にどう答えるのか。それを二日ばかり考えて過ごしていた。プライスレスは無限大に膨張するイメージがあり、何となく人間至上主義で傲慢さを感じた。かといって具体的な値段だと価値基準をどう置くかで全く異なってしまう。もちろん、年収とか簡単な数字で置き換えることも出来るのだろうけれど。

結局、今の自分のベストアンサーは0円だと思う。0という概念は、無とも言い換えることができる。自分というモノは実在せず、何かとの関係性の中で初めて成り立つものがヒトであり世界であるならば、実在しないモノにはそもそも値段がつけられない。

結局のところ、問いが適切ではなかったかもしれないし、問いに正しく答えられていないだけなのかもしれない。そのようなことを考えながら、仕事中は問い自体を忘れている時間もある。

人生とは不思議な旅だと改めて思う一日であった。


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