情報過多

情報過多で、眼も頭もチカチカする。

インターネットの普及により情報は指数関数的に増加を続けている。このnoteのページに来るまでの2クリック程度でも、天気予報、コロナ関連、オリンピック関連、差別問題、芸能人の離婚、健康食品の広告など、様々なリンクを見かけた。

目的を持った調べもの以外のネットサーフィンは、30代に入る頃から殆どしていないが、若者は仲間うちのコミュニケーションのために、情報に取り残されまいと同じようなニュースをあくせく読まないとダメなことを考えると、大変な時代だと思う。一方で、このような形で得た情報というものは、たとえ多くに目を通したとしても、それは単なる情報の消費として終わってしまい、思考に影響を及ぼすような深い読み方はできないのではないか。(もちろんこの記事も消費されるかもしれず、自分も加担してしまっていることは自覚している)

生まれた頃からスマホが普及している世代にとっては、ネット社会に転がっている情報を好き放題取ってくることもできるし、もちろんインスタやツイッター等で投稿することもできる。自分の考えや価値観に沿った投稿というものも山ほど転がっている訳だから、その情報の真偽によらず、自分の考えを正当化させ自己肯定感を得るといったような情報の活用もできるのではないだろうか。「いいね」が投稿した後に待つ形の受動的な承認欲求であれば、自分に似たような意見を探しにいくことは、もう少し能動的な承認欲求の満たし方と言えるのかもしれない。

情報量が多いと、それらの情報をグルーピングして、一つ上の概念で把握することは難しくなる。具体的な情報に触れて、より具体的な情報を探すことは物凄く簡単になったが、逆方向に抽象化していくことは、思考が必要なのでなかなか難しい。特に、抽象化の場合は、情報の真偽や前提を理解した上で、それぞれの情報に共通するエッセンスを抜き出していかなければならないから、たくさんの情報に触れてから抽象化するには訓練が必要となる。ただし、もともと具体的な情報をより深く掘っていくことに長けている世代にとって、抽象化能力というものはどんどんと失われていく可能性もあるのかもしれない。

AIは決まったパターンに対する判断は得意だが、これはまさしく具体的な物事に対する処理になる。一方で、抽象化というのは非常に高度で、ここはAIよりもまだまだ人が優位に立てるポイントにはなる。AIを道具として活用していく場合は、具体と抽象を適度に役割分担しながら、人が抽象的な部分を担うような分担になってくると相補完的な活用ができるように感じる。ただし、上述したように人も具体的な情報をただ消費することが得意となり、抽象化する能力が失われたら、結局はAIに代替される人材となってしまう。

企業研究や開発においても、いかに世の中や社内に蓄積された情報を活用するかが一つの重要なポイントになっているが、情報の活用=探索になってしまっているケースが多々ある。そうなると、結局はいかに早く答えを見つけ出せるかの競争になって、そこに効率化の要素はあっても創造性の要素は見当たらなくなってしまう(もちろん検索のアルゴリズム自体を開発するなどの創造性は発揮できるかもしれないが)。全くゼロの状態からイチを産み出すのはほぼ不可能だが、それでも知見を足し算したり、そこから抽象化して新しいアイデアを出すことこそが新しい価値提供に繋がるように感じる。そう考えると、情報の活用というのは、単なる応用に限るのではなく、創造を伴うものである方が好ましい。

企業研究も結局は資本主義の競争に加担することになるので、生計のためと割り切ってやっているが、社会課題の解決においても、情報を活用する時に創造の観点を盛り込んでいくことができれば、少しずつ創造性の溢れる社会になっていくようには思う。現代教育やスマホが加速させてしまった「答えを探す習慣」というものを一旦脇において、人にしかできない「知恵と創造を産み出す思考」が増えてくれたら良いと思う。


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