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ますく堂読書会レポート「津原泰水『ヒッキーヒッキーシェイク』を読む」(冒頭部を抜粋)

『ヒッキーヒッキーシェイク』文庫版刊行前史

益岡 今回の課題本である『ヒッキーヒッキーシェイク』は、ヒキコモリ支援センター代表のカウンセラー竺原丈吉(JJ)が、自身のクライアントである苫戸井洋佑(タイム)、乗運寺芹香(パセリ)、刺塚聖司(セージ)に伝説的なウィザード・ロックスミス(ローズマリー)を加えた引きこもりばかりのプロジェクトチーム「ヒッキーズ」を結成し、ウェブ上を舞台にした「人間創り」を皮切りに、世界を救うかもしれない事業を進め続けていく姿を描き出した小説です。
津原泰水さんの作家生活三十周年を記念して早川書房から文庫化された本作ですが、それ以前に、この出版の経緯というか「前史」がネットで話題になって大変なヒット作となっています。今日はもちろん、この小説自体の魅力を中心に語り合いたいと思ってはおりますが、今回の読書会開催のきっかけになったこともありますので、この本をめぐる事件について、最初に触れておこうと思います。
元々は、この本は幻冬舎から、二〇一六年に発売されました。ほぼ同時に、『音楽は何も与えてくれない』というエッセイ集も出ています。
僕はこの二冊が幻冬舎から発表されたとき、本当に素晴らしいと感動したんですね。内容はもちろんですが、この出版自体に感動した。
小説はともかく、このエッセイ集は音楽をテーマにしたものなんです。小説に関する文章も載っていますが、メインは音楽とか楽器にかかわること。もちろん、ファンであれば津原さんがバンド活動をされていることも知っていますし、代表作の『ブラバン』(新潮文庫)などを読めば音楽に関する教養のある方だということはわかるわけですが、初エッセイ集として、小説に関する文章ではなく、音楽エッセイを全面に押し出して出版するというのはかなり勇気のいることだと思います。
個人的には幻冬舎はもう少し色気のあるというか、軟派なイメージのある出版社だった。これが、それこそ早川書房や東京創元社や河出書房新社ならわかるんです。
ティーヌ ああ、わかるわかる(笑)
益岡 それが、幻冬舎からだったものですから、この二冊の出版は本当に驚いたし感動しました。当時、津原ファンの後輩と一緒に「世の中捨てたもんじゃない」と語り合ったのをすごくよく覚えている(笑)
だから今回、幻冬舎と津原さんがこういうかたちで袂を分かったというのは、この二冊の出版に驚喜した人間としては本当に悲しかったし、つらかった。幻冬舎に向けて厳しい声が投げかけられるたびに、あの情熱的な編集さんはどんな気持ちでいるだろう、と……
ぽて 一緒にバンド活動もされていたと、津原さん自身もツイッターに書かれていましたよね。
益岡 そうですね。本当につらい話だと思います。
この事件のきっかけは百田尚樹さんの『日本国紀』という本の記述がウィキペディアの引き写し、コピーアンドペーストであった、と。津原さんはこの本の内容ではなく、このコピペという姿勢について批判した。作家として、この態度は誠実ではないからしっかり謝ったほうがよいという発言をしたんですね。それに対して、百田さんに好意的なひとたちが津原さんを攻撃しだし、津原さんはそういうことにひとつずつ丁寧に応答する方なので、なんとなく、論争というか、「バトル」みたいな空気が醸成されていった。そうした状況が過熱していく中で、幻冬舎側から「これ以上、津原さんが『日本国紀』を批判されると『ヒッキーヒッキーシェイク』の文庫化ができなくなる。営業が協力してくれなくなって売ることができなくなってしまうので批判をやめてほしい」というような申し出があった。津原さんとしてはそれを良しとすることは出来ない。結果として、幻冬舎としての文庫化は断念することとなり、ハヤカワ文庫JAにて刊行されることになった。
以上が、僕の認識しているハヤカワ文庫版『ヒッキーヒッキーシェイク』出版前史ということになります。
この事件というか騒動については、受け止め方によって異論・反論もあるかと思います。ただ、ひとつ示しておきたいのが、この文庫化中止の経緯は、津原さんが能動的に発信したものではないということです。そもそもの始まりは、二〇一九年五月、津原さんの一連の『日本国紀』批判について、「プロレスだったのでは」というツイートが某ユーザーからなされたことにある。それに対して「冗談じゃない」と、津原さんが文庫化中止に関する経緯を語り、それが拡散された。
最終的に幻冬舎の見城徹社長が出てきて、「編集者の情熱に負けて出版したがとにかく売れなかった」と、実売部数を公表してしまう。これが作家や出版関係者の反発を招いて大炎上した。
結果的にはこの騒動が話題となって、『ヒッキーヒッキーシェイク』は大ヒット中なわけですが、津原さんが仕掛けた炎上商法ではないということはここに示しておきたい。
ファンとしては、正直、複雑な心境なんです。この事件は本当、とてもつらかった。でも、津原作品にスポットがあたったことがすごくうれしいのも事実なんです。
僕はすごく津原作品が好きなので、でも、好きすぎて、読書会をやるのも畏れ多いというか、しかもそれを本にするなんて、ちょっと、こういう事件でもなければ心理的に無理だったと思う(笑)
だから、こういうかたちであっても、津原泰水の、しかも長編小説が話題になるということは大変うれしい。
津原さんの業績を振り返ると、どちらかといえば「短篇の名手」という評価が大きいと思うんですね。
今、ここに『11』(河出文庫)という短篇集があります。この短篇集自体、第二回ツイッター文学賞を制するなど、高い評価を受けてロングセラーとなっている一冊なのですが、この中の「五色の舟」は、二〇一四年に発表されたSFマガジン700号記念企画「オールタイム・ベストSF」の国内短篇部門一位に輝いています。これはかなり話題になった。
こういう企画における国内編の一位候補はやっぱり星新一なんです。実際、今回も「おーい、でてこーい」が二位。前回の二〇〇六年には一位です。その王座を大変新しい作品が奪ったということで驚きの声があがったわけです。
他にも『蘆屋家の崩壊』から始まる〈幽明志怪〉シリーズ(ちくま文庫)や〈ルピナス探偵団〉(創元推理文庫)、〈たまさか人形堂物語〉(文春文庫)など、シリーズ短篇集の人気が高い印象がある。それに比べると、長編は話題になることが少なかった。『ブラバン』がヒットして新潮文庫のフェア書目に入ったり、『少年トレチア』(集英社文庫)が日本推理作家協会賞の候補になったりはしていますけどね。
もうひとつ、津原作品の総論的な解説をすると、個人的には二つの大きな流れというか、系譜があると思っています。ひとつは、皆川博子さんや山尾悠子さんを彷彿とさせるような硬質な幻想文学の流れ。先の『11』にもそうした短篇が収録されていますし、長編でも津原泰水名義のデビュー作『妖都』(講談社文庫)や『ペニス』(双葉文庫)、『少年トレチア』、『バレエ・メカニック』(ハヤカワ文庫JA)もこの系譜に分類されると思います。
一方で、津原やすみ名義の作品から貫かれる、ストーリーテリングを重視した、スタイリッシュで品の良いエンターテインメントの系譜があります。少女小説時代の人気シリーズ〈あたしのエイリアン〉の続編でもある『クロニクル・アラウンド・ザ・クロック』(河出書房新社)や〈ルピナス〉、〈たまさか〉の筆致はエンターテインメント文体の到達点、最高峰といってもいいと個人的には思っておりますが、『ヒッキーヒッキーシェイク』もまた、どちらかといえばこの系譜に連なる作品であると整理できると思います。
あと、もうひとつだけ津原さんの作品の特色に触れておくと、津原作品には「戦争」や「平和」という、かなり大きなテーマがたびたび登場するんです。そこから透かし見る「政治」や「社会」という要素も、作家・津原泰水に触れる上では、実は重要なのではないかと思っています。
『ブラバン』は若き日にブラスバンド部に所属していた中年たちが、当時のことを思い出したり、今まさに生きている人生に向き合ったりしながら、久しぶりに楽器に触れる姿を綴った作品なのですが、この中でローマ法王が広島を訪れた日のことが描かれています。津原さん自身が広島のご出身で被爆二世であることもありますが、原爆とそれによる犠牲、そしてその悲劇の地が平和の聖地になっていること、それを大切に扱う所作には平和への強い祈りの念を感じます。
津原作品が、特定の政治体制や思想を流布するような、そんなメッセージを帯びているとは僕は思いませんが、平和への強い思いに貫かれているとは感じています。そして、そうした思いを強く表明することが多分に政治的に見なされるという傾向が現在のこの国にはあると思っています。
津原泰水という作家は、そういう視線に動じない強さを持った作家であると個人的にはとらえています。実際、ツイッターでは政治的と受け取られる発言も多いですし、選挙において支持する政党を明言するような場面もある。政治的発言を徹底的に控えるタイプの作家もいますが、津原泰水はその対極にいる作家だと思う。先の「第二十五回参議院議員選挙」の際にも文禄堂高円寺店において「投票証明書」持参で津原作品を購入したひとにサイン色紙をプレゼントするキャンペーンを行うなど、世間の政治への関心を高めようとする活動も行っています。そういう姿勢に僕は敬意を抱いていますが、「そこが嫌い」「思想が偏っている」と非難する向きも多い。ただ、そんな人の中でも、「作品の質の高さは認めざるをえない」という声は多く聞きます。
そんな津原泰水という作家の凄さについて、今日は存分に語っていけたらいいと思っております。


多彩な言語表現とリズム感で魅せる「人間賛歌」


益岡 それでは、これからおひとりずつ、『ヒッキーヒッキーシェイク』の感想や印象に残った点などをお話ししていただいて、ひとまわりしたところで、さらに掘り下げた話をしていけたらと思います。
駄々猫 駄々猫です。出版や本の関係ではなく、一読者として息をするように本を読んで暮らしています(笑)
津原さんの作品は『11』を数年前に読みました。全国の書店員さんが「ナツヨム」という、出版社の夏の文庫フェアとは関係なくおすすめ本を店頭で紹介する企画を展開しているんですが、その選書の中の一冊として出会って、「なんて面白いんだ!」と。その後は、読む機会がなかったんですが、今回の騒動で久しぶりに津原さんの名前に再会したという感じです。あまり新聞やテレビでニュースを得るということがないので、主な情報源はツイッターのタイムラインになっているのですが、そこで益岡さんはじめ本好きのひとたちが大騒ぎしていたから(笑)、「これは面白いに違いない!」と思って読んでみました。
正直いうと私は『11』の方が好きでしたけど、この作品もすごくリズム感があって楽しい作品だなと思いました。作者が音楽好きというのは今知ったんですけど、確かに音楽が好きな人の文章なのかな、と……全体を通して、このリズムの良さは印象に残りました。
引きこもりさんたちのお話ですけど、この引きこもり問題というのはだいぶ前から問題になっていると思うんですが、この小説の「否定しない感じ」はすごくいいと思いました。登場人物たちが引きこもりになった背景というのは様々だけれど、作品の中では一貫して、そうした状況を否定しない。その心地よさがとてもよかった。
あとはネットの用語が多く出てきて、わからない単語もあったんですが、そういうところをある程度読み飛ばしてもちゃんと伝わるように書かれている印象を受けました。
私は益岡さんのように津原ワールドと深くつきあってきた読者でもないし、ネットにも詳しくないから、もっと置いて行かれてしまう小説なのかなと思っていたらそんなことはなく、疎外感を覚えることもなかった。そういう意味ではいろいろな読者に開かれている作品だと感じました。
すごく好きだったシーンとか、そういう局所的な「好き」は感じなかったんですけど、全体のつくりや発想は面白かった。故郷にピンクの象、ユーファントを捏造するくだりはすごく好き。つくられたものだとわかっているのに、「ユーファントに会いたい!」とすごく思った。物語の中でも作りものだし、そもそもこれは小説として書かれたものなのでユーファントなんているわけないんだけど、それでも、この象に会いたいと思わせる、この嘘に喜んで巻き込まれたい!と、そう思わせる力がこの小説にはあると思います。一緒に踊りたいと思わせてくれる。遠巻きにしてみていたい、傍観者として味わいたいと思う小説と、一緒に踊りたい、参加したいと思う小説があると思うんですが、『ヒッキーヒッキーシェイク』はそんな、一緒に交じって踊りたくなるような小説だと思いました。
ぽて そもそも題名からして踊りだしたくなるような感じですもんね。
駄々猫 そうですよね。まあ、乗れない人ももちろんいるとは思いますが、かなり乗せ方がうまい小説だと思います。
益岡 そう、この筋立てはかなり突飛で、もっと冷めてしまってもおかしくないプロットだと思うんですね。でも、この小説で読んでいくと、あのピンクの象が観光地を生んでいく様がすごく自然にすっと入ってくる。
ティーヌ 実際、やってる人たちいると思うんですよ。ユーファントほどの仕掛けはなくても、五年くらいしかやっていないような行事をものすごく歴史のあるものに見せかけて町おこしをするといった試みは全国で行われている。この作品はそういう点でも時宜をとらえていると思います。
みずき みずきといいます。益岡さんとはティーヌさんが主催している「読書サロン」で知り合って、その流れでこの読書会を知って参加することになりました。津原さんのことはこの騒動ではじめて知ったくらいなので、作品を読むのも初めてでした。「読書サロン」で『バレエ・メカニック』が課題本になったときには参加できなかったので……あれはセクシュアルマイノリティ文学なんですよね。
ティーヌ 主人公はバイセクシュアルで、その娘の主治医はゲイでトランスヴェスタイト(異性装者)という設定だったと思います。
みずき ああ、それも読んでみようと思います。『ヒッキーヒッキーシェイク』は一頁目からワクワク感がすごくて一気に読んでしまったという感じ。すごく面白かった。あと、登場人物表がしっかりしていたのが助かりました。
駄々猫 それはわたしもすごく感じました。翻訳ミステリーなんかでも、登場人物表を見ながら読んでいるんですが、日本の小説にはあまり詳しく用意されていないことが多くて……この小説も登場人物が多いので、とても助かった。
ぽて 『ブラバン』もしっかりしてましたね。あの作品も登場人物が多いですけど、別刷りで登場人物表があって、そのおかげでスムーズに読めた。私はあそこまで登場人物が多い小説ってあまり読んだことがなくて、かなり実験的だと感じたんですが、同じような小説ってあるんですかね。
益岡 ぱっと思いつくものでは、恩田陸さんの『ドミノ』(角川文庫)ですかね。とにかくたくさんの登場人物がばらばらの物語を抱えて現れるのですが、その全員が期せずして関係しあうことにより東京駅で大変なことが起こるという……この作品でも登場人物表がユニークに機能していて、単行本版ではそれぞれのキャラクターにイラストがついていて、さらにそれぞれの一言コメントが載っているという趣向でした。読者はそれぞれの登場人物についてかなり明確なイメージを持ちながら読み進めることができる仕掛けになっています。
ぽて 『ブラバン』も担当する楽器が示されていて、とても楽しい試みだと感じました。
益岡 『ブラバン』の登場人物が出てきていないかな、と思ったんですが、ちょっと僕には見つけられなかった。津原さんは作品をまたがってキャラクターを登場させることがよくある。それによって異なる作品の世界がゆるやかにつながっていくんですが、この作品にも何人かそういうキャラクターが出てくるんですよね。〈たまさか人形堂〉に登場するラブドール工房の〈キャプチュア〉とか、『エスカルゴは歌う』(角川ハルキ文庫/単行本時のタイトルは『エスカルゴ兄弟』)の榊Pとか。
駄々猫 そういう遊びはうれしいよね、ファンにとっては。
ますく堂 私は今回の読書会のために津原作品を何冊か読んでみたんですけど、読んだ中では『エスカルゴ兄弟』が一番面白かった。
『蘆屋家の崩壊』『少年トレチア』『ブラバン』……みんなそれぞれ面白かったけど、「はまりこむほど面白い」と思うためにはちょっとずつ距離があるというか、「近づけそうで近づけない」「超おもしろくなりそうで、まだ乗れない」というか、「〇〇できそうで、できない」というちょっともどかしい感じを受ける作家さんだな、という印象です。
でも、その中で『エスカルゴ兄弟』は本当に面白かった。料理のレシピもたくさん出てきて、チーズと油揚げを使った「チーズきつね」なんかすごくうまそう。やってみたいと思いました。
益岡 『エスカルゴ兄弟』は讃岐うどん屋の息子と伊勢うどん屋の娘さんのコメディ版「ロミオとジュリエット」とでもいうべきお話ですよね。讃岐うどん屋の息子が、ひょんなことから渦巻というか、ぐるぐるが大好きな写真家に雇われてエスカルゴ料理専門店のシェフをやることになるという……
ますく堂 エスカルゴ、食べたくなるよね。アフリカマイマイではない、本格的なエスカルゴを養殖している「エスカルゴ牧場」みたいなところから仕入れて店に出すという話なんだけど、このエスカルゴが食べてみたいよね。
益岡 サイゼリヤのエスカルゴではなくね。いや、サイゼリヤのエスカルゴも立派なおつまみだと思うけど(笑)
ますく堂 何冊か読んでみて、本当に幅が広い作家さんだな、という印象を持ちましたね。『ヒッキーヒッキーシェイク』は駄々さんがいうようにパソコン用語とか、耳慣れない単語が多く出てくるにもかかわらず、気になることなく、さくさくと先に進んでいける不思議な読みやすさがあって気持ちよかった。
私はまだ、ものすごくのめりこむところにはいっていないけれど、この作家のファンのひとたちは楽しいだろうな、と思いました。次にどんな作品が来るのか、まったく予想がつかない。その楽しさというのが、ファンとしてはあるのだろうと思う。ある程度名前が売れると、イメージが固まってきてしまって、割と同じような展開やカラーの作品が続いていく作家というのが多いと思うんですね。それが悪いわけじゃないけれど、津原さんはそういう感じじゃなくて、バリエーションのある書き手だと思います。いろんな禁じ手とか、実験も辞さないというか。
駄々猫 そういうのが好きなひとというイメージはあります。先駆的な手法とか、そういうものをどんどん取り入れていく感じ。
ますく堂 作品を支えている知識もすごい。『ブラバン』とか、音楽が好きな人だったら本当にはまれると思う。私では気づかないようなところにもいろいろと面白いところがありそう。なにもわからない私でも楽しく一気に読めたけど、実際にブラスバンド部に入っていたひととか、楽器のことがわかればきっともっと楽しめるんだと思う。
広い読者層にも受け入れられる面白さの中に、マニアにとってはより楽しめるコアな部分が含まれている、そういう強みがある作品だと思います。
ぽて 私は、津原歴は短いんですけれど、もともとは浜野佐知さんという映画監督が尾崎翠をテーマにした映画を撮っていて、そこから興味を持って、尾崎翠関係の本を読んでいったんですね。その流れで津原さんが書いた『琉璃玉の耳輪』という長編小説に出会った。
益岡 『琉璃玉の耳輪』は尾崎翠が映画化を前提にして書いた梗概というか、映画の設計図のような原稿をもとに津原さんが探偵長編小説に仕立てた作品です。尾崎翠の原案からはかなり大胆な発展を遂げていますが、大変な傑作だと思います。
ぽて この作品で名前を知り、ツイッターなどで名前を拝見するようになって、徐々に注目するようになりました。
津原さん単独名義の作品として最初に読んだのは『絢爛たる絢爛』(新潮文庫/〈クロニクル・アラウンド・ザ・クロック〉シリーズの一冊目。のちに、河出書房新社より合本版の大長編『クロニクル・アラウンド・ザ・クロック』として刊行)なんですが、これに大変感心しまして、なんだか、津原さんの世界観は「中央線沿線」っぽいんですよね。吉祥寺や国分寺の雰囲気がとてもよく出ていて、とてもいとおしいんですね。
『ヒッキーヒッキーシェイク』も、中央線沿線感のある作品です。この作品はいつの時代のどこの話かということが全体としてははっきりと書かれているわけではないんだと思うんですが、時代と場所がきっちり特定できる箇所があって、文庫版の三三二頁に「アジアゾウのハナコ」の描写が出てきます。ここでもちろん、井の頭恩賜公園のハナコの檻の前だということがわかるんですが、このハナコが二〇一六年五月二十六日に死んでいますので、物語の時間としても、この死の前にあたることが特定されることになります。
全体としては時と場所を緩やかに描写しているこの作品が生前の「ハナコ」を象徴的に登場させなければならなかったことにも理由があります。竺原がここでパセリと会うのは、彼女が『源氏物語』の末摘花になぞらえられているからなんですね。鼻に特徴があり、醜い女性として描かれているとされる末摘花の容姿が実際にどんなものであったのか、という議論がこの小説の中では交わされているのですが、そこで末摘花はゾウと結び付けられていく。
パセリが抱える容姿へのコンプレックスとそれとは裏腹の西洋人の血がもたらす美貌というのが末摘花につながり、その特徴的な鼻から「ゾウ」に繋がる。だから、パセリにとって重要なこのシーンがゾウのハナコの檻の前で展開されることには大きな意味がある。さらにこの「ゾウ」は先ほどからも話題に出ている「ユーファント」に繋がっていきます。そのデザインのもとになったのは、パセリのスケッチです。パセリの存在から始まり「ゾウ」に至る、このイメージの連なりは、小説全体に強いインパクトを与えていると思います。
この「ゾウ」をはじめとして、キーワードというか、印象的なモチーフとしての「生物」が、この作品を彩っている点も目を引きました。アゲハ、タマムシ、榊、ブルドック、……パセリ、セージ、タイム、ローズマリーはもちろんだし、竺原の彼女であるマルメロ、ジェリーフィッシュ、亀、明石のタコ、猿飛峡……生物のイメージにあふれているなあ、という印象を受けますが、その理由はちょっとわからない。コンピュータやハッキングに関する題材にある無機質なイメージを、あえて生物的な言葉を使ってなじみやすいものにしようとしたのではないかというような印象も持ちますが、皆さんがどう読まれたのか気になります。
三十五頁に渋谷の道玄坂のケンタッキーが出てきます。竺原とローズマリーが回線上で接触する場面ですが、実際に行ってきました。……電波、弱かったです(笑)
一同 (笑)
ぽて ファンなら可部線にこそ、乗りにいかなければならないんでしょうが……さすがに遠すぎて(笑)
益岡 竺原がタイムと一緒に猿飛峡へ行くときに乗る鉄道ですね。これはかなりリアルな描写なのかな。一度途切れて、河渡駅までは歩かなきゃいけない、というようなところは?
ぽて ネットなどで読んだ限りでは、かなり詳細な描写であるという印象を受けました。
駄々猫 今日、鉄道マニアがいないことが悔やまれますね。
益岡 ここに萬澄十三がいればね、彼は大変なマニアですから、きっとぱっと答えてくれたと思うんだけど(笑)
ぽて この小説のテーマはなにか、と聞かれたときに、あえて、教科書的に、優等生的に答えるとするならば、竺原とその弟や引きこもりたちの人間関係をめぐる「家族や人間関係の再生の物語」といえるのかもしれないとは思います。ただ、「そんなところに落とし込むのはつまらないね」とも思う。
益岡 たしかに(笑)ただ、「家族」というのは津原作品にとってかなり大きなテーマといえるのではないかとは思っています。かなり実験的なことや込み入ったお話を書く作者である一方で、その核にあるのは、とても素朴な家族のかたちや、それをめぐる思いの物語であったりする。その核に触れたときに胸をつかまれる感触というのは、ファンとしてはたまらないんですよね。
ぽて 幸せな家族の中で育った方という印象があります。
益岡 それはよく言われますね。『11』がツイッター文学賞を受賞した際のトークイベントに参加したのですが、「五色の舟」を取り上げながら書評家の豊﨑由美さんがまさに、その指摘をされていたんです。この作品の大きなテーマのひとつが、家族であり、そこに流れる強い愛情なのではないか、と。津原さんもその点は肯定されていたように思います。
僕は、ツイッターなどで津原さんが時々つぶやかれるお母さんについてのお話がすごく好きなんです。「表現者として三十歳までに芽が出なかったらどうしよう」と悩む津原さんに「四十まで頑張るんだろうね」と、「四十までダメだったら……」「そりゃ、五十まで頑張るんよね」と。その先は聞かなかった、っていうあの話、とってもおかしくて、それでいて、すごくじーんとくる。
津原さんはかなり猟奇的な小説も書いているし、グロテスクなもの、恐ろしいものたくさんあるわけだけれど、そんな中でも不意に顔を出すとてもプリミティブな家族への思いというのがあって、そのギャップにすごく惹かれるんです。そういうところが嫌だというひともいると思うんですよ。「なんでここで説教みたいなこと言われなきゃいけないんだ、ずっと、変な世界に浸り続けていたいのに!」というひともいると思うし、それはそれでいいと思うんだけど、僕は、たとえば『バレエ・メカニック』なんかが典型だと思うんだけれど、ものすごく大風呂敷をひろげてね、際限なく、どこまでも巨大に膨れ上がったようにみえる物語世界が、実はただ、とてもささやかな家族の心のふれあいを描くためにあったというような展開に触れると、なんというか、すごくやられちゃう(笑)
僕はどちらかというと、「家族の大切さ」とか「人間関係の重要性」とかをすごい火力で押し出してくるような小説は苦手なんですよね。斜に構えてしまうんです。
駄々猫 露骨だと嫌だってこと?
益岡 そうですね。「ああ、うん、わかってます、家族ですよね、大事ですよね……すみません、今日のところは、こんなところでご勘弁いただけると」っていう感じで、ちょっと拒絶感が出てしまう。でも、津原さんの作品は全然、押しつけがましいところがないんですよ。ちょっと不意打ちみたいにして、家族の大切さとか、人間としての尊厳とか、そういうピュアなメッセージが胸を打ち抜いてくる。『ヒッキーヒッキーシェイク』でも、お母さんがタイムにベースを買ってくれるシーンがあるじゃないですか。母子家庭で苦しいから、ローンを組むのも大変なのに、それがわかっているのにタイムはどうしても「本物の音が欲しい」と望む。それにお母さんはちゃんと答えてくれるんですよね。そのくだりが、本当に無駄のない言葉で、読みようによってはかなりドライに、それでいて、暖かさが伝わるような筆致で届けられる。こういうところを読むとね、僕は本当に「ああ、津原泰水が好きだな」って思えるんです。
だって、こんな話じゃないところ、たくさんあるじゃん。宇宙空間でゾウとセイウチがお話したりしちゃうじゃん。なんかすごいハッカーとか出てきてなんか大変なことが起こってるじゃん。でも、さらっと、こういうこともしちゃうじゃん。なんだよ、なんだよ!っていう……
一同 (笑)
益岡 この小説のね、タイムが本当に、純粋にお母さんが好きだと表明できるところがとてもいとおしい。人間って、いいものなのかもしれない……と、思いたくなってしまう(笑)
ぽてさん、ほかに気になったところはありますか?
ぽて みなさん、ビリケン老人はなんだと思います?
一同 あー。
ぽて わたし、ちょっとよくわからない。
益岡 たしかにね、創作論的に、この小説における「ビリケン老人」というパーツの機能を考えると、この要素がまるまる「いらない」と判断する見方もあると思うんですよね。
タイムが、彼にしか見えないビリケン老人と一緒に焼きとんを食べるというシーンなんか、とても楽しいシーンだとは思うし、ユーファントの啼き声はこの老人の声からタイムが想起するわけだから重要な役割を持ってはいるんだけど……たとえばさっき、ぽてさんが指摘した「ゾウのハナコ」のようなイメージの連なりは、このビリケン老人にはないような気がするんですね。盲腸線のような、个部駅のような要素だと感じる。もちろん、理屈をつけていけばいろいろとつながってくるとは思うんだけれど、これはどこにもつながらない、本当のことは、唯一、その姿を知覚できるタイムにすらわからない、そういう存在としてこの小説に「在る」という……そういう要素であるということに面白みを感じて読んでいました。
でも、「そういうところがよくわからなくて乗れない」という判断をする読者もいるかもしれないし、いてもおかしくはないような気がする。そういう危険をおかすくらいなら、この要素はカットしようという、そういう創作者側のロジックも成り立ってしまう部分ではあるように思う。
ぽて メンバーそれぞれにこういう「回収されない物語」がぶらさがっているような構図も見て取れるように思います。パセリにとっては砂ちゃん、セージにとっては人間の「あげは」かな……メインのラインに沿うわけではないけれど、物語のラインを豊かにする、そんな要素のひとつとして整理していいのかな……
益岡 タイムを取り巻く「家族しかいない世界」を象徴するアイテムなのかな、とも思いました。お母さんに関連するアイテムですよね、ビリケン人形というのは。この物語の中で、タイムの世界観の中心にあるのはやっぱり家族なんですよね。それが、竺原に導かれるプロジェクトや、それに関連して得ることになったバンド仲間を通して広がっていく予感もあるのだけれど、やっぱり「家族」という閉じた世界が、タイムにとっては大きい。ビリケン老人の姿はそういう環境の象徴としても読めるのかな、と。
ティーヌ お母さんよりは、むしろお父さんなんじゃないの?
みずき わたしもお父さんかと思いました。二八四頁で、タイムのお母さんと竺原の会話の中でタイムがお父さんと顔を合わせても認識できないというくだりが出てくるんです。このビリケン人形は、その部分に関連しているのかな、と思いました。
ティーヌ お父さんをまったく知覚できないわけではなくて、時折、ビリケン人形として認識していくようなイメージだよね。実際に父親がその場にいるわけではないけど、どこかで「父」というものを認識したときにビリケン人形が出てくるというようなメカニズムがあるんじゃないかな。
益岡 お父さんと久しぶりに会ったことで、そのメカニズムが発生したのかもしれないね。
今の話と関連したところで、タイムが脳の病気だとわかるくだりがあるじゃないですか。僕はこの部分で選ばれる言葉のすばらしさに、ここを読み返すたびに泣きそうになるんです。マルメロが、お母さんに「治るんですか」と訊かれるじゃない。それに対して「特別なお子さんだとご認識ください」と返すんだよね。
この一言にマルメロという登場人物の誠実な人柄とそこまでの苦悩が象徴されているような気がするんですよ。こういう風に、重い症状を本人や家族に告げるためにはどうしたらよいのか。それを考えて考え抜いて生きてきたんだろうな、と。そういう説得力のあるセリフです。
駄々猫 肯定的に捉えてくれる感じがね。
益岡 うん。治るとか治らないとかじゃなくてね。「特別な子を授かった。これはギフトなんだ」という……きれいごとといえばきれいごとだとは思うんですよ、正直ね。でも、だからといって、無力というわけでもない。
どんな言い方をしても、そこにあるものは変わらないのかもしれない。そこに存在する事態は、深刻で難しい状況はなにも変わらないのかもしれない。でも、やっぱりそれをどう捉えて生きていくのかというのは重要なことだと思うんですね。捉え方だけでまったく違うものになるわけじゃなくても、そんなものすごい力はなくてもね、それでも、ほんの少し、その現実を変えられるというか。言葉には、そのくらいの力はあるんだと言われているような……これは、津原さんのまなざしでもあるんだと僕は思うんですよね。津原泰水の社会へのまなざしというのは、時に過激に見えることもあるんだけれど、こういう描写に触れるとね、やはり素敵なものだし、大事な視点だな、と思います。
ティーヌ ティーヌといいます。セクシュアルマイノリティが登場する小説を読む読書会「読書サロン」を主催しています。
今日は、益岡さんの「津原泰水愛」を聞くために来た、という感じです(笑)
益岡 (笑)
ティーヌ 「読書サロン」でも以前、津原さんの『バレエ・メカニック』を取り上げたのですが、かなり難解な小説で、益岡さんの解説がなければ、読めなかった(笑)
益岡 いや、本当にそういう小説かはわからないんですよ。ただ、その場の雰囲気が「わからない、わからない」っていう感じだったから、「いや、これは難解に見えるけど、実は家族の物語で!」とか、「この部分は大きくとらえれば、とってもピュアなラブストーリなんだ!」とか。「摩訶不思議な事態が起こってなんか変な世界になっちゃったようだけれども、重要なことは、だれもがそのメカニズムを正確には理解していないにも関わらずインフラ化して、それがないと生活が立ち行かないような社会にしてしまったことにあるんだ。そういう事態って、でも、僕らの世界にもいくらでもあるじゃん。ほら、なにも特殊なことは書かれていないでしょ。実は至極、あたりまえのことが、ものすごく魅力的に書かれているだけなんだよ、これは!」とか、そういう暑苦しい意見を、力説した覚えがあります(笑)
ティーヌ そのときに、津原泰水という「理のちがう作家」がいるぞ、ということを認識したんですけど、それ以降、作品を手に取る機会はなくて、やはり今回の騒動で再会したという感じです。
私は出版関係の仕事をしているんですが、出版の世界に身を置く者としては、やはりこの事態は見過ごすことができないと思いましたし、『ヒッキーヒッキーシェイク』はぜひ、読まなければならないと思いました。
ただ、調べていくうちに、実は今、「津原やすみ」名義の作品の方に興味が出てきまして……〈ルピナス探偵団〉はすぐに買おうと思います。
益岡 ぜひ買ってください。名作です。
ティーヌ 『ヒッキーヒッキーシェイク』の感想ですが、ここで描かれているプロジェクトは、まさに、家族というか、社会との結びつきをつくる活動だな、と思いました。私はラストシーンがすごく好きなんですね。新しいプロジェクトを与えられるところ。それは、とても深刻な社会の問題、悲惨な状況をなんとかせよ、というプロジェクトです。
竺原が何の目的でこんなことをしているんだろうというのは読みながらずっと疑問に思っていたところなんです。もちろん、個人的な感情という面もある。弟の気を引きたいとか、弟が社会で生きていくためにどうにかしたいとか、ゆがんだ形でもコミュニケーションを維持したいとか、そういう気持ちはあるんだと思うけれど、それを引きこもりの人間を集めて達成しようとするのには、やはり、社会への強い怒りというか、感情があったんだろうと思うんですね。一見するとそうは見えないけれど、竺原は決して、社会の問題や痛みに対して、冷静に客観視している人間ではないなと感じたんです。
冷静に見るとか、客観的にみるという言葉は、たいていは肯定的に使われるわけですけど、私は一概にそうも言えないと思っている。最近は特に、冷静に、客観的に、といっているあいだにどんどんおかしな方向へ引っ張られて行ってしまって、「静観した」ということがその変化を肯定したことにされてしまうような風潮がある。
そういうことを良しとしないひとだと思うんですね、竺原も、津原さんも。私はそういう人間的なひとが好きなので、まさに「人が書かれている小説」だな、と思いました。
実は修士論文のテーマの一つが「引きこもり」で、支援団体にインタビューにも行きました。そういう点でも、この小説はとても興味深かった。
あとは、「家族」というテーマですが……この小説を読んで思い出したのが、中学の時にあった「仲良しクラス」という養護学級に弟が入っていた友人のことなんです。その子の弟は重度の知的障害者で、トラブルを起こすことも多かったんですね。でも、それに対して、お姉さんである私の友人は、とても明るく受け止めていて、家族みんながとっても仲が良い。少なくとも、はたから見る限り、弟の障害を恥だと受け止めている感じはないし、なにか問題が起こっても「またかあ」という感じで助けにいく。今も、SNS等で確認できる限りにおいてはとても仲が良い幸せそうな家族で……実は、ずっとうらやましいと思ってきました。
また、それとは別の話になるかもしれませんが、地方から東京に出て来て思うのは、障害や引きこもり、精神的な病気もそうですが、そうしたものへの耐性というか、苦悩の軽重というのは、「環境」という要素にかなり左右されるということです。
都会では、もちろん、大変なことはあるわけですけれど、命を落とす、自殺するという決断にまでは至らずに済むケースが多いと感じています。未来が見えるんですよ、まだ、都会では。足がないひとや、うまく発話ができないひとがなんらかの方法でその不自由を補いながらも生きていける未来が見える。対して、田舎は、未来が見えないんです。不自由を抱えながら生き続けることができる未来が、田舎では見えない。幸せそうな友人の家族は例外で、障碍者や引きこもりはかなり厳しい状況に置かれてしまう。その残酷さを、最近、特に考えるんです。
だから、そういう現実を踏まえたときに、『ヒッキーヒッキーシェイク』はすごく優しい物語だと感じました。現実を見ていないわけではないけれど、それでも、未来を肯定する、肯定したい、その思いがあのラストシーンには込められている気がして……まさに「人間賛歌」が描かれていると感じました。
あとは、デジタル面での部分。アゲハをつくるあたりは、現在のVチューバーを想起しました。複雑なギミックはないんだけど、「おかえり」と言ってもらってやすらぎを得る、というようなあたりとか。そういうやすらぎがデジタル技術によって提供されるという発想が、現代を先取りしているような印象を受けました。
益岡 このデジタル面については、僕は初読時、相当、流行を意識したというか、当時の風俗を取り入れた小説であるという印象を受けていたんですね。『バレエ・メカニック』のようなサイバーパンクとしてのデジタル世界ではない、日常におけるネット上でのコミュニケーションや、デジタルツールの一般化が描かれていてとてもわかりやすい小説になっていると感じる一方で、逆に考えれば、これは、非常に古びやすい小説なんじゃないだろうかと危惧していた。
でも、今回、読み返してみて、技術的には本当に一、二年で大きく変わってしまう分野じゃないかと思うんだけど、その割には古びていないというか、ティーヌさんの言うように、むしろ先取りしているような印象すら受けた。固有名詞が出てこないからかな。ツイッターとか、そういう単語、出てこないですよね。
ぽて SNSはあったと思うけど、これは一般名詞ですよね。
益岡 そうですよね。まあ、SNS全般がなくなってしまえば、古びたという印象になるんでしょうけど……あとは、やっぱり、津原さんは要所要所でアナログなものに置き換えて表現するようなところがある。「言い換え」がすごくうまい作家なんですよね。
これは、デジタル関係の用語とか事象に限らないんですが、印象に残ったところでは、ユーファントが飛び越えようとしてあきらめる猿飛岩の描写がある。二三〇頁の最初の描写では、その裂け目の様子を竺原の目で「スリットが見える」と表現するんです。「一繋がりじゃないんですね」とタイムに問われて「小さな舟がぎりぎり通れるくらいの隙間が空いていて、そこからこっち側に水が流れてくる」と説明する。その後、完成した動画に映った同じ岩をセージの目で表現するところが出てくる。そこでは、比喩として「厚揚げ」を使ってくるんですね。二四八頁で「包丁を入れたおでんの厚揚げのように見える奇岩」と描写する。
前者の方がわかりやすいひともいると思うんだけど、僕は二度目の「厚揚げ」でより腑に落ちた、というか、ビジョンが明確になったんです。これは特に「わからなかったひとのために言い方を変えてもう一度説明しました」というような意図があるわけではないと思うし、そういうひとだけのために必然性のない、無駄な繰り返しをするような作家では津原さんはないんだけれど、ただ、そういう配慮についてもさりげなく、示すことができる作家ではあると思うんですね。その配慮の先に、重層的なストーリーが、それを感じさせる余白が生まれていく。
デジタルに関する表現でいえば「不気味の谷」という概念を説明するくだり。これは当然、CGにおける違和感というか、現実に近づけるうえでの障壁について示している単語ということで登場してくる。いわば「新しい技術に対してのみ使われる単語」としてまずは、この小説に現れてくるわけです。その説明を経て、「不気味の谷を越えよう」というのを第一のミッションとして物語が転がり始めるわけですが、しばらくして、この「不気味の谷」という概念が、最新のデジタル技術にかかわるものとは限らず、「物語」をつくる際にも生じるものなのではないかということにパセリが思い至る。それによって「不気味の谷」という概念が、それこそ、人類がはじまったときから存在し得た概念だということが示されるわけです。
「CGで本物みたいな人間を創る」というミッションの大きさにピンとこなかったひとも、「物語」が抱え続けてきた課題、「物語」を人々が受け入れるにあたって横たわっている課題と同じものが、最新技術をつかったフィクションにも同じように存在していると示されることで、その困難さやそれに立ち向かうことの価値に気付ける、腑に落ちるというような効果が、この概念の語り直しには望めると思うんです。
もちろん、その仕掛けを生かせるかどうかは読者一人一人にかかっているわけですが、少なくとも、津原泰水は、そうした環境をつくりあげるための「多角的な描写による説明力」がものすごく高い作家であるといえると思います。
駄々猫 益岡さんの話してくれた「説明し直し」のような部分をわざとらしく感じられていたら、私は相当いらいらすると思うんですね。「わからなかったかもしれないから、大事なことだから二度言った」みたいな描写があからさまに出てきたら、絶対いらいらしたし、気づいたと思う。でも、そんな風に感じる箇所は一か所もない。それでいて、たしかに、言い換えがされている箇所はある。そう考えると、津原さんという作家は本当にうまい人なんだな、とあらためて思いました。
益岡 ただの繰り返しじゃないんだよね。その風景を描写する人の目を変えれば、それは当然、別の見方、解釈の仕方が現れるわけで、そういう風に捉えなおされるのは必然なんですよ。猿飛岩だって、直接目にしている竺原やタイムとセージでは見え方が違うのが当り前なんです。逆に言えば、そういう必然性が担保できない描写は、津原泰水は決してしない。
ティーヌ 描写のうまさということでいえば、私が印象に残っているのが、竺原とセージが一緒にいることを他のメンバーには悟らせないように嘘をついている場面。結局、ローズマリーにはばれてしまうんだけど、その過程の描き方がすごくうまい。私があまりエンターテイメント小説を読まないからかもしれないけれど、小説の登場人物が嘘をつく姿がうまく描写されているのにはあまり出会ったことがなくて、そのドタバタ感だとか、ごまかし方だとか、その適切さ加減がすごいな、好きだな、と思いました。さらっとやっているようだけど、大変な技術だと思います。

※続きが気になる方は、是非、本誌をご用命ください。https://ichizan1.booth.pm/items/1693849

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