私が世の中で一番嫌いなこと

私が世の中で一番嫌いなこと、それは「お金を払うこと」である。

何故嫌いかとりあえず思いつく理由をあげるとすればお金をうまく使えたという実感をあまり持ったことがないからだろうか。だからお金を払うときの私はいつも「ああ100円、ああ500円、ああ英世」と心の中で呟いているのである。

私の実感上、お金を払ってもよいと思うときは基本的にそれ相応の価値があることが分かっているものを買うときである。衣・食・住・税金・ネット回線などは払ってないと生活すらままならない(ライフラインにはそれ相応の価値を感じることができている)。しかしそれ以外についてはびた一文出したくないというのが本当のところである。

 ラーメン屋に行こうという奴がいる。しかし私はこう考える。「どんなに絶品のラーメンでも食えばなくなってしまうではないか。所詮美味しいだけのものである」と。外食をするときは店の人に笑顔を絶やさぬように心がけているが心の中で刹那的な快楽への監視官が鬼の形相をしている。舌に味を記憶させにいくのなら分からなくはない。それを任意のタイミングで取り出すことができればいつでもどこでも美味しさを楽しめるので。

 服がボロボロであるとみっともないという規範があるので服を買いに行く。どう考えても同じものを長く使った方がお金を使わずに済むのに、世代に合った服装というのがどうしてもあるから買いに行かざるをえない。服なんか「服に興味ない人用の長持ちだけを考えた服飾一式」(人民服的な?)を売ってくれればいいのにと思う。私は人目を気にする者なので人から見える場所の衣服はしっかりしたものを着るよう心がけているが下着なんて穴のあいたものの方が多い。そういうことである。

 カードゲーム(遊戯王)という趣味があったが紙に金を払わなければならないのがアホらしくなりやめた。カード1枚1枚の価値が分からなくなった。その価値は「名前」とその「記述」にしかないと私は考えている。しかしカードゲーマーは「公式が作った本物である」ことに価値を見出して名前と記述の束を求めて大金を払う。新品なら5枚150円、高いときは1枚1000円以上出して買うのだ。趣味だから好きに金を使えばいいのだが、私はそのアホらしさに気付いたとたんやめてしまった。(遊戯王というゲーム自体は好きです♥)

 我々はサラリーをもらうとき、それを一定期間の労働の対価としてもらう。逆にサラリーを払うという行為は雇用主が我々の労働にそれだけの価値を感じてする行為(?)といえるだろう。そうだとすれば我々も「払う」というのは価値を感じてする行為でなくてはならない。しかし現実はそうではない。価値を感じるかどうか分からないが金を払って買ってみるしかない。(もちろん例外はあるが)さきほどのラーメンの場合でいえば、食ってみてこちらがこれに700円の価値はないぞ・・・と思っても払わなくてはいけない。服だってそうである。試着があるだけましだが、それに対する周囲の評価を得てから買うことはできない。靴だってそうだ。「歩き回ってみて下さい」なんて言われるがそれだけで靴の何が分かるんだ。とにかく我々はいつもその価値を安定して感じられないまま金を払うしかない。

 ・・・雇用主はどうだ?給料先払いの会社なんてあるだろうか?あなたの価値に合う金払うからそれに見合った労働してね!なんていう会社があるだろうか。(知らんけど)大抵月のどこかで〆て月末か翌月払いだろう。先に渡しておくなんて聞いたことがない。まあ「月給ウン万円だよ」とは伝えられるが、労働の中身が伴わない(雇用主が価値を感じない)と解雇されてしまう。

 雇用主を批判しているのではない。当然である。金を先に払って労働者に逃げられ、金に見合った価値を得られないのはバカである。しかし我々は何か価値を得る前に(価値を見込んで)金を払う。買ってみたのにその価値がなかったなんてザラに起きる。運気が上がるツボは買ってみなければその価値を試せないのだ(例が極端かな)。消費者はバカでなければいけないのか?まことに不条理である。

 そうか!分かった。私はお金を払うのが嫌いなわけではなかったのだ。お金を先に払うことでその価値に逃げられるのが嫌だったのだ。逃げられると書いたが価値は逃げるものではない。我々が価値を感じるか、感じないかである。私はライフライン以上のものに価値を感じることが人並みにできない。よってお金を払うだけの価値を得られないことに金を払ってしまって払い損になるのを恐れているのだ。そう考えると最初に思いついたお金を払うのが嫌いな理由「お金をうまく使えたという実感を持ったことがないから」というのも合点がいくのだ。

 先ほど人並みにライフライン以上のものに価値を感じないから、払い損になることを恐れてお金を払うのが嫌いと言った。しかし価値とは相対的なものであるはずなので「価値を感じない」とは「何かあるものの価値と比べて価値を感じない」と実際には言うべきであると気付いた。私は「何の価値」と「ライフライン以上のものの価値」を比べているのか。

 たぶん、「お金を失う恐怖を押さえつける役割としてのお金の価値」と「ライフライン以上のものの価値」比べている。私はお金が手元からなくなるのが怖いのだ。私は元来臆病であり、恐怖心に突き動かされて行動することはままあることだがお金に関しても恐怖との連動を免れえないのかもしれない。さすればお金を失う恐怖を「好き嫌い」という別次元の言葉に置き換えてひた隠しにしていたともいえてしまう・・・。

 実際私はお金を払うのが嫌いといいつつ、1兆円もらえたらお金を払うのを好きになると思う。根本的にお金を払うのが嫌いなわけではないのだ。つまり1兆円をもらった段階でお金を失う恐怖が膨大な量のお金によって書き消され、「恐怖を押さえつける役割としてのお金の価値」より「ライフライン以上のものの価値」を高く感じられるようになることによるだろう。

 お金を払うのが嫌いと散々わめいてきたが、お金を払うのが嫌いな状態も嫌い(実生活に支障が出る)なので実は自分の中でこの問題について収拾がつかなくなってきている。今回は世の中で一番嫌いなことを「お金を払うこと」として進めてきたがどうやらその本丸らしい「恐怖」と「恐怖を嫌うこと」について次回は取り扱おうかと思う。

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