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私のコアにある「つくること」を人生と共に振り返ってみた①

つくることが好きな私の、つくってきた記憶を辿ってみます。

(ただただ、思い出す限りを書きなぐった記録です。
長いですので、お時間が許す方は読んでくださるとうれしいです)

純粋に描くことを楽しんでいた幼少期

私の最初の記憶。
幼稚園くらいだったかな、まだとても小さかった頃。

近所の川辺で「消防車を描こう」みたいなイベントがあり、そこで母と一緒に消防車を描きました。
それが賞をもらい、とても嬉しかった記憶が最初のつくる記憶です。

小学校にあがった頃、世間ではセーラームーンやレイアースが流行っていました。
六年生で絵が上手な先輩がいて、休憩時間にみんなで教室へ行き、ノートに描いてもらうのが好きでした。

三年生になった頃、従妹のお姉ちゃんが「漫画家になりたい」と言ったのを聞いて、私も漫画家になりたい!と言い出しました。
そして、クラスの友だちと学習ノートへ漫画を描きだしました。

レイアースのようなファンタジーもの。
実際の学校生活をリアルに描いた学園もの。
あと、もうひとつ何だったか。3つくらい連載漫画として描いていました。

クラスの友だちに読んでもらうのも楽しかったですし、一緒に描いている友だちの熱が冷めても、私だけは描き続けていました。

ちなみに、図画は好きだったけど図工は苦手でした。
不器用な私には物を組み立てていくことは難しかったんです。
夏休みの図画工作の提出物として、牛乳パックを使って赤い貯金箱をつくったのですが、あれはほとんど母がつくりました。

道具や人や、漫画を描くことを通していろいろなものを得た中学時代

中学校にあがって、クラスメイトから同人活動の存在を教えてもらいました。
イベントに行って、レターセットや本を買い、チラシをたくさん持ち帰っては好きなアニメや漫画の話で盛り上がりました。

授業中も、ノートを書くふりをして友だちへの手紙を描いていました。
イラストに文字を添える手紙です。
友だちはすごく絵が上手で、手紙をもらうのが楽しみでした。

絵を描いたルーズリーフをハートの形に折って、その手紙を廊下ですれ違う時にお互いにやり取りするのが楽しかったです。
今でもおそらく、実家にある私の机の引き出しに眠っていると思います。
今度、見返してみよう。

中学校二年生の時、初めて雑誌へ投稿をしました。
リボンだったか、なかよしだったか。
少女漫画の雑誌です。

内容は、学園での恋愛もの。
もちろん、構図も絵も話の内容も、今思い返しても面白みのひとつもなかったので、一番下の判定で返ってきました。
でも、担当者さんのコメントが入っていて嬉しかったです。

始めて原稿用紙にきちんとペンやトーンで漫画を描いて、大変だったけどいい経験になりました。
地元の画材屋さんにはないトーンが欲しくて、父に頼んで広島市の東急ハンズまでわざわざトーンを買いに行ったのもいい思い出です。
そんな風に、なんでもやってみる私の気質も、今の私から見てとても良いところだと思います。

ワクワクした日々と挑戦した日々を過ごした高校時代

高校にあがったら、自分でも同人活動をしたい!と思い友だちを誘ったのですが、彼女は見る専門だったようで、一緒にするのはお断りされてしまいます。
それでも、したい気持ちが抑えられなかったので、一人で始めることにしました。

友だちが欲しかったので、イベントでもらったチラシの中で気になる人に手紙を出してみました。
友だちになってください!みたいな感じです。
その頃は、同人活動をする人たちは文通を通してやり取りするのが普通でした(ガラケーが出たばかりの時代でしたからね)
中学時代と同様に、手紙にイラストを添えて、友だちとのやり取りが始まりました。

最初に友だちになった彼女とは、同人活動を辞めるまでずーっと仲良くしてもらいました。
絵もとっても上手で、仲間もたくさんいて、気さくで可愛らしい子でした。
余談ですが。
夫の親友の妹がまさかのこの同人友だちで、結婚する時に久々に再会しました。
三児の母となっていた彼女でしたが、変わらず気さくで可愛らしい子でした。

同人活動を通して、たくさんの友だちが増えました。
同じ漫画が好き、アニメが好き!という話で、年齢問わず盛り上がれました。
イベントでは必ず好きな作家さんのところへ行って、差し入れを渡し、イラストを描いてもらい、新作の本やグッズを買いました。

他の高校の同級生はみんな、おしゃれな服やカフェ、恋愛にお金や時間をかけていました。
けれど私は、アルバイトで稼いだお金をほぼすべて、同人活動につぎ込んでいました。
へたくそだけれども、印刷所できちんと製本された本が届いた時にはとても嬉しかったです。

そういえばこの頃、父のパソコンでホームページを作っていました。
WEB黎明期のホームページは、何か良く分からないものが上から降っていたり、マウスにイラストがついてきたり、訪問者の数をカウントする機能をつけていて「キリ番」と呼ばれるキリのいい番号(1000とか)を踏むとプレゼントがもらえたり。
そんな、目的はよくわからないけど楽しいホームページがたくさんでした。

私もそんな中で「ようこそ!マイホームページへ」的なサイトを立ち上げ、イラストを描いてはアップしていました。
スタイルシートやCGIなんかも自分で調べて、夜通しホームページをつくっていました。
よく父のデスクに突っ伏したまま、そしてネットにつないだまま寝てしまっていたので、その頃ダイアルアップで繋いでいた我が家では電話代が恐ろしい額になって怒られていました。

話は戻り、高校三年生になり、いよいよ進路を決めなければ、というタイミングで、いったん同人活動を休止しました。
地元の大学の経済学部にでも行こうかな、とふんわり深くも考えずに思っていたのですが、漫画を描くなら美術を勉強していた方がいいよね、という安易な考えで、美術科はどうか、と思い始めました。
そして、三年生になって初めて、美術部へ入部しました(それまでは帰宅部でバイト三昧でした)

この美術部の先生が、「絶対尾道大学へ行った方がいい」と強く推してくれて、少し遠いけど広島市の美術系予備校も勧めてくれました。
同じ美術科を目指す友人三人で、週1回土曜日だけ、電車にガタンゴトンと揺られながらデッサンの勉強に通い始めました。

正直デッサンは苦手です。
今でも苦手だと思います。
そもそも絵を描くのは好きだけど、得意ではなかったんですよね。

でも、石膏像に向き合う時間は好きでした。
全然関係ないですが、好きな石膏像はジョルジョです。
好きすぎて、金沢美術工芸大学で初めて全身像を見た時、声が出ていたのではないかと思います。惚れてました。

3年生からデッサンを始めるなんて今思えば遅すぎましたが、デッサンというものが学べて良かったと今では思っています。
しかし、現実はそんなに甘いものではなく、見事に受験に失敗しました。

正解を求めて苦しんだ浪人時代

そんな私ですが、高校三年生の時に「絵のまち尾道四季展」に美術部の一員として応募をし、まさかの「尾道賞」を受賞します。

始めての油絵で、先生に手直しなどもしてもらっていたので、正直私一人で描き上げたものではなかったのですが…。
それでも純粋に嬉しかったです。

副賞でフランス旅行に受賞者全員で行ったのですが、美術(絵画)というものに興味をもってこなかった私には、正直ちんぷんかんぷんでした。

尾道市の姉妹都市であるオンフルール市で、みんなで好きにスケッチしていい時間が設けられ、各々好きな絵を描いていましたが、デッサンしかしてこなかった私はスケッチの仕方が分からず。
その日の夕飯の時にみんなで披露しあう雰囲気になったのですが、自分の描いたものに一ミリも自信のなかった私は本当に恥ずかしくて見せることができませんでした。

フランスから帰り、さてどうするかとなった時。
私は滑り止めで受かっていた美術系短大に行きたくないと言い出しました。

尾道大学に行くんだ!と頑なに主張し、広島市の予備校に1年間通わせて欲しいと親に頼みました。
正直、尾道大学に行きたい理由はなかったんです。
ただ、悔しかった。それだけだったと思います。

浪人時代はとにかく絵を描く1年でした。
最初のうちは、デッサンばかりではなく、動物園や水族館に同じ画塾生の友だちと一緒にスケッチに行く授業があったりして。

そこでもやっぱり、絵画やデザインというものに触れてこなかった私には、どうすれば正解なのか分からなかったです。
今思えば、正直、正解なんてないんですけどね。
絵なんだから、好きに描けば良かったんです。

美術を勉強しようと正解を求めだした頃から、つくることに少し苦しさを感じるようになりました。

受験が近づくと、さらに苦しさは増します。
前の年に、受験番号が後ろすぎて番号を探す時間が苦痛だったので、一桁の受験番号を取るべく、すぐに応募しました。
そうすれば、ダメだったとき一目で分かると思ったからです。

現役生の上達の速度が速くなってくる冬からは、苦しさの連続でした。
評論の場でも、先生にけちょんけちょんにされました。
もう、全否定です。

最終的に、受験の3日前に画塾に行かなくなりました。
結果的には、この休息は私にとっては良い効果をもたらしました。
前日に画塾に行き、先生に渡された一枚の紙きれは今でも大切に実家にとっています。

「ひらきなおーる
【開き直る】
急に態度を改めて、正面切った物腰になる」

ここまでやってきて、ここまでの力しかないんだから。
もうこれでやるしかない。
いい意味であきらめをもつこと。

一番信頼していて、この先生がいるからこの画塾へ通いました。
そして、一番怖くて、一番私を傷つけた先生でした。
でも、今も私にとって大切な言葉をこの時くれました。

無事合格し、晴れて大学生になったわけですが、高校三年生から浪人生となった2年間、美術というものに触れ、漫画ではなく美術が楽しいと思えるようになっていました。
だから、同人活動は再会しませんでした。


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