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出会い       ワコのあるきかた 1

 

 ーーワコをたすけてくれたひとーー

                             桜乃いちよう

ワコは昨日、家族と別れたばかりだった。
 夜はいつの間にか明けていた。

 夜というのはなぜこんなに寂しくなるものなんだろう。
 二十畳ほどの和室、まわりの、布団で眠っている子たちの寝息はほとんど気にならなかった。20人ぐらい、布団がぎっしりひいてあったけれど。

昼間にあんなに気になっていた独特の臭いも、今は慣れてしまった。それよりも、昨日まで暮らしていた「いえ」に帰りたかった。
 
 たくさんの寝息の中で、世界でたった一人のような気がした。

 なぜ、こんな、おとうさんやおかあさんの住んでいる「いえ」よりも、とても遠いところに来なくてはならなかったのだろう。

 もし、ずっと泣いてばかりいたら。
 誰かがかわいそうだと思っておかあさんに電話してくれるかしら。

 そんなことはないな。

 ワコの心のどこかで、そう誰かが言った気がした。

 そんなに簡単に解決することだったら、そもそもワコは「ホーム」に入ることはなかった。
 「いえ」の近くの小学校に、車いすに乗って通えたらいい話だったのだから。
 通えない理由があったから、車椅子でも学校に通えるように、「ホーム」で暮らすことになったのだ。
 
 あんなに泣いていたはずなのに、ワコはぐっすり眠ったらしい。
 さびしさの中でも、簡単に眠ってしまった。

 明るくなった部屋を出て、顔を洗いに洗面所に這っていった。
 まだパジャマのままだった。
 体の小さなワコは、洗面台のふちにつかまり立ちをして、水道の水に顔をつっこんで、洗顔したふりを決め込もうと思っていた。
 共同の洗面台は、まるで学校に設置されてあるもののように、幾つも蛇口がついている。こどももおとなも、みんなが使うところだ。
 ワコが、水道から出る水にどうにか顔をつけようとしているところへ、車いすをこぐ音がちかづいてきた。
 その音はワコのそばで止まった。
 と、信じられないことが起こった。


 ワコは、パンツの中に手を入れられたのだ。

 何が起こっているのかわからないワコは、瞬間泣くところだった。
 そのとき、頭の中でこえが聞こえた。

「男の子に言いなさい。泣かないで言いなさい」

 なに?
 と思うまもなく、頭の中の声は言った。

「『おにいさん、パンツにの中に入れた手を離してね』」

 ワコが言おうとすると、すかさず頭の中の声は言った。

「ワコ、大きな声で言いなさい! 何度も何度も言いなさい!」

「おにいさん、パンツのなかにいれた てを はなしてね!!」


 何度も、言う必要はなかった。
 男の子は、ワコの声にびっくりしてすぐ手を離したから。

ワコよりも、だいぶ年上に見えた。体が大きかった。

 職員室も近かったので、声を聞きつけた職員さんがとんでくるのも早かった。
 男の子は、ちょっと怒られていたようだった。

 ワコは自分の声がとても大きかったことにびっくりして、べそをかき始めた。
「なにやっているの。こんなところにぼうっといるから……」
 ワコの方に来てくれた職員さんはそんなようなことをワコに言っていた。
 だがワコにはよく聞こえなかった。頭の中で聞こえた声の方が職員さんの言葉よりも大きく響いていたから。

「泣かないでよく言えたね。えらいよ、ワコ」

 頭の中でしていたと思っていた声の主が、うっすら、職員さんの前に見えたような気がした。
 母に似ていた。

 姿が見えたのは、一瞬だけだった。幻かも知れなかった。

「早く着替えないと、もうすぐ朝ご飯だよ」
 職員さんはワコの着替えを手伝ってくれた。でもささっとやり終えると、忙しそうに別の部屋へ行ってしまった。

さっき起きたことは、なかったことのように、誰からも何も言われなかった。

 たくさんの布団がたたまれたあと、ワコの寝た部屋は、ただっ広い畳敷きの部屋に戻っていた。
「おかあさん」
 ワコは小さく呼んでみた。

 すると、耳元でささやきが聞こえた。

「ひだりての小指を見つめてごらん」

 ワコは、声のするままに、自分の左手の小指を見つめてみた。
 すると、指先がだんだんと、母のような顔立ちに見えてきた。

 小指の顔は、ワコを見ると、言った。
「なんて目をしているの」
 ワコは、気がゆるんだのか、泣きそうになった。

そのときいいタイミングで、小指の顔はワコをさとすようにしゃべった。

「もうすぐ朝ご飯なんだから。難しいかも知れないけれど、泣きたい気持ちは抑えるんだ」


 ワコはもともと泣き虫だったから、そして気持ちを抑えることができないこどもだったから、その注文はとてもやっかいだった。
「ちょっと頑張って、ごはんを食べるんだ」

 朝ご飯を、ワコは黙々と食べた。『こゆびのかお』がずっとしゃべっていたから。

「ほんとに、ワコはよく頑張ったよ。」
「大きな声ではっきり言ったのが、とてもよかったよ」
「泣かなかったのもよかったし」
 あまり何度も同じことを言うので、ちょっとうるさいなあ、と思いながら、ごはんを食べ続けた。


他の人には、この大きな声が、聞こえないのだろうか。

ワコはちょっと気にしてみたけれど、まわりはスプーンやかねの皿の音、噛む音やあちこちの声で賑やかだったので、気にしなくてもよかった。

 ワコと『こゆびのかお』がちゃんと話すことができたのは、夜、消灯の時間が過ぎてからだった。


「おかあさんなの?」
 ワコはいきなり『こゆびのかお』に話しかけた。薄暗い光の中で、指にうつる顔は、少し眠そうにみえた。
「ワコがそう見えるなら、そう呼べばいいよ。でもワコの本当のおかあさんは、今頃「いえ」で台所をきれいにしていると思うよ 」
「じゃあ、あなたはだれ?」
「ええと、ワコを助けに来た人」
「じゃあ、おかあさんだよ」
 『こゆびのかお』は、何も言わずにただ笑った。


「いつでもあえるの?」
「ワコが会いたいと思ったときなら、いつでも会えるよ」
「ほんとうに?」
「真剣にイメージすれば、すぐに会えるよ」
 ワコは、嬉しそうに笑った。

「ねえ、ワコ」
『こゆびのかお』は、真剣な声でワコに話した。
「今日の朝会ったあのおにいさん、また会うと思うよ。また同じことしてきたら、ワコはちゃんと今日みたいに言えるかな」
「うーん、わからない」

「ワコ、そこは頑張らなくてはいけないよ」
『こゆびのかお』は少しも声の様子を変えなかった。


「ここは「ホーム」だから、ここで暮らしている人の中に怖い人がいても、会わないようにはできない。でも、かくれなければ、いつでも職員の人はいて、おとなの目はとどく。こどもも声を聞いている。だから、ひみつにしないで、はっきり大きな声で言えば、ワコは自分を守れるかも知れない」
「じぶんをまもる?」
「そうだよ。自分をまもるんだ。ここにはおとうさんもおかあさんもいない。じぶんで自分を守ることが必要なんだ」
「ふうん」
「ごはんやお風呂や、そういうことは職員さんが面倒見てくれるけれど、人との関係や、心の整理は、自分の力でやっていく必要があるんだよ」
「こころのせいり?」
「そうだよ」

なんだか、ワコには、むずかしい。

わかったのかわからないのか、ワコの様子にかまわず、『こゆびのかお』は言い続けた。

「いい、ワコ。がんばって。お願いだから」

『こゆびのかお』の真剣な声を聴きながら、ワコは深く眠った。

 その男の子とまた会ったのは、数日後だった。
「ホーム」の廊下で、たまたま誰もいないときに、ワコの後ろから近づいてきたのだ。
 よく見ると、中学生ぐらいの、おにいさんだった。車椅子を漕ぐ腕が、ながく見えた。
 ワコのひだりての『こゆびのかお』が、絶妙なタイミングで、ワコに合図を出した。

「今よ、大きな声で言うのよ!!」

「おにいさん、このまえのように、パンツのなかさわらないでね!!」

「お前、いやな奴だな」
 そういって、お兄さんは、ワコの横をすうっと通り過ぎていった。

「こゆびのかお」のほっとしたような大きなため息が、ワコに届いた。

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