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吹きこぼれと落ちこぼれ

吹きこぼれ


先日、お子様が学業で優秀すぎるために苦労をなされている方と、お話をする機会がありました。

中が好き


世の中には、子供の出来が悪いと嘆く親御さんは多いと思います。
逆に、出来過ぎると嘆く事は、嫌みの様に感じられてしまい、口に出しにくいのかもしれません。
 私たちは、当たり障りの無い平均的な中で、少しだけ良い結果、中の上くらいを欲しがります。
 これは、お料理やサービスなどで、松竹梅と差があると、大方の人が真ん中の竹のサービスをお願いする事と同じだと考えています。
 松だと贅沢、梅ではせっかくなのにさみしいから、じゃあ竹、みたいな感覚が日本人にはあり、どこか、目立つことを忌み嫌う事の中に、日本人として上手く生きていくための作法が、隠れているのかもしれません。

苦行


    ここからは優秀な経験が無い私の想像ですが、子供にとって、優秀過ぎるという事は、決して幸せな事ではないと思います。
 毎日行かなくてはいけない学校での授業は、当然退屈になります。
 子供の時代には、多くの時間を退屈な学校に合わせて生活します。
 多くの時間が退屈というのは、物事の訳がわからない子供にとっては、苦痛でしかないと思います。
 大人であれば、人生経験もありますし、時にわざと退屈な時間を生み出すような事もしますが、総てに初めての子供にとっては、修行ではなく単なる苦行にしかならないと思います。

 

大人も大変


  子供も大変ですが、それに合わせる大人も大変だと思います。
 学校が苦痛という事は、そのストレスは家庭に持ち込まれる可能性が高いです。
 学校生活が上手くいかない以上、いくら成績が良くても、学校からの届く連絡や報告も、良い報内容が届く可能性は低く、逆に注意を促す内容が多くを占めると思います。
 おまけに、学業ができる分、周囲の大人からの勝手な期待も大きくなり、苦労は絶えないと思います。
 私がお参りをさせていただくご家庭でも、お子様が優秀過ぎるがために、大変苦労したお話を聞いたことがあります。

吹きこぼれ


    この様に、優秀過ぎて学校や社会と馴染めない人達の事を、「吹きこぼれ」と呼ぶそうです。
 世に言う「落ちこぼれ」はお鍋にも入れてもらえない人、という事でしょう。
 吹きこぼれはお鍋には入れても、飛び出してしまう人、お鍋の中に居られない、抑えられない人だと思えば、上手に表現されていると思います。

過ぎたる

「過ぎたるはおよばざるが如し」という言葉があります。
 もし、社会というお鍋の中に入り、他人と歩調を合わせて生きられないと考えれば、状況は違っても、落ちこぼれも吹きこぼれのどちらも、鍋の外にある同じ存在です。

摂取不捨


    お念仏の教えを大切にする、浄土門の教えには、仏説観無量寿経に書かれている「摂取不捨」という、言葉をとても大切にしています。
この言葉は、「摂取した以上、捨てる事はない」と読みます。
 浄土門と呼ばれる阿弥陀の世界、存在の世界では、摂取不捨の世界が広がっています。
 しかし、聖道門と呼ばれる人の世界、都合の世界では、そうはいきません。

青色青光


    仏説阿弥陀経というお経には「青色青光」とあります。
文に前後があり、青い花は青く輝く事で大きく命の花を咲かせることができると読みます。
 阿弥陀の世界では、お鍋の中に居ようが居なかろうが、状況は関係無く、存在が大切だと教えてくれます。

浄土三部経


  教えとは逆に、私たちは存在を忘れて、状況ばかりに目が向かいます。
 これは仕方がない事だと思いますが、状況は存在があって、初めて成り立つ事ばかりなのです。
 つまり、いつの間にか、「大切な事を忘れていますよ」と、教えてくれるのが浄土三部経です。
 浄土三部経の中には何処にも、清らかさも、正しさも求める内容は書かれていません。
 ただ、自分らしく生きる事、その事だけに一生懸命になればよい、そんな事しか書かれていません。

持つから悩む


 人は、何かを持つ事で悩みを抱える様になります。
 何もなければ悩むことはありません。
 しかし、何もないのは寂しいです。
 とりあえずは居れば、本人も周囲の人も、今は大変でも、後から振り返った時には、たくさんの思い出という宝物が残ります。

自由に生きる


 落ちこぼれも、吹きこぼれも鍋の外に出られた存在であれば、仲間は少なく、少しさみしいかもしれませんが、そのぶん自由に、のびのびと自分らしく生きる事ができると思います。
 お釈迦様は当時の落ちこぼれであり、吹きこぼれだと思います。
 お釈迦様の様に、自分らしく生きる事に一生懸命になれば、落ちこぼれも、吹きこぼれも関係なく、素晴らしい人生が送れるのだと思います。

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