見出し画像

好奇心

「私は何も知らない」
この言葉は、ソクラテスが遺された、とても有名な言葉の一つでです。
ソクラテスは、1対1の向き合った会話の中から答えを探し出して行く、問答法という手法を大切になされていたそうです。
私が子供の頃には「一休さん」というアニメがありました。
今も、放送されているかもしれません。
このアニメでは一休さんが、お師匠様や先輩の僧侶、将軍様、桔梗屋さん等、大人の難解な問題に、頓智で対抗するアニメでした。
改めて大人になって思い直すと、生意気な子供に大人がお付き合いをしてくれている程度のモノでしかないかも知れませんが、子供の頃には楽しく見ていました。
一休さんでは「そもさん」「せっぱ」で問答は始まります。
当時は意味も分からず使っていましたが「そもさん」には「さあどうだ」という今から始めるよという言葉であり、「せっぱ」は説破と書き、負けません受けて立つ、という言葉だそうです。
ソクラテスも禅問答も共に、お互いが向き合い、やり取りの中でお互いの答えを探し出していく、そんな世界観を大切にしている様に思います。
正信偈には「都見諸仏浄土因」という句があります。
この句はお釈迦様の生き様を表しているものだと思います。
お釈迦様は分からない事は、どこまでも訊いて回った、お尋ねになる事を大切になされた、という事だと思います。
確かに、「四門出遊」ではその門毎に出会った人達の事や、その様子をお尋ねになっております。
もしかしたら若い頃には、他の所でも常に周りに質問をしていたのかもしれません。
お釈迦様も「私は知っている」という世界に身があれば、そんな事はせず、人生に何の疑いを持たずに、のんびり王様の生活を満喫なされたのかもしれません。
ただ、ソクラテスと同じく「私は何も知らない」という無知を大切にする世界に身を置いてしまったがために、自分の世界の狭さに気が付き、修行者としての人生を選び、その引き換えに、地位やお金など、総て廃棄処分しております。
無知を大切にする世界に身を置き生きるという事は、余程の覚悟が要る生き方なのかもしれません。
因みに、親鸞聖人は法然上人のお話を聴くためだけに、比叡山でのお勤めが終わってから毎日、京都の街まで走ったそうです。
これもまた覚悟の表れだと思います。
「訊くは一時の恥、訊かぬは一生の恥」という言葉があります。
私達は訊く事を無知の自分がいる、と思われるところに恥ずかしさを持ちます。
しかし、訊く事で事が迅速に済むことも多々あります。
訊くことは大切であり、素晴らしい事だと思います。
沢山の事を訊き、沢山の事を聴き、沢山聞こえる人生は、豊かなものだと思います。
ただ、私の口癖には「わかっている」という言葉があります。
豊かに生きる最大の敵は自分なのだと思います。
合掌

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?