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医療コミュニケーションとデザイン思考 患者への自己開示は何をどこまで?

医学書院の「医学界新聞」に、患者に対する自己開示に関する面白い記事が載っていた。

国立精神・神経医療研究センターの認知行動療法センター臨床技術開発室長、中島俊氏による「こころが動く医療コミュニケーション」という連載記事で、どこまで患者への自己開示(「個人の属性や考え,経験などに関する情報の提示」すること)を行うべきかを考えるもの。

自己開示すべき? すべきでない?

記事に引用されている、米国で1265人の患者を対象に行われた研究では、プライマリ・ケア医による診断の約15%で医療者の自己開示が行われ、その目的は「患者さんに安心感を与えたり,相談に乗って行動を促したり,信頼関係を構築したりする」ためだったとのこと。

その一方で、「医療者が行う自己開示の85%は臨床的な意味がなく、時には害となるもの」という研究もある。

では、ちゃんとした臨床的な意味を持ち、害を与えないような形で自己開示を行うために何が必要なのか?

医療者の自己開示の3つのタイプ

医療者の自己開示には3つの種類がある。

① 患者がすぐに調べられる種類の情報の開示
② 医療者自身が意図的に行うパーソナルな情報の開示
会話の流れの中で生じた医療者自身の感情の開示。

大事なのは、②と③のタイプの自己開示。

「年末年始はどうされます?」と尋ねられて、「家族と実家に帰る予定でしたが、コロナ禍を考えて自宅で過ごします」と答えるのは、意図的な自己開示にあたる。

会話をスムースに流し、親近感をおぼえてもらう意図でこうした自己開示を行ったとしても、場合によっては独居の患者の寂しさをつのらせるかもしれない。

会話の流れで、「独り暮らしなので年末年始は、とくに寂しく感じます」とつぶやいた患者に、「私もAさんに会えなくて寂しいですよ」と、医療者自身の感情を開示したとする。

会話に温かみを加えようとしての言葉であったとしても、場合によっては、恋愛感情を生じさせるかもしれない。

社会情勢についても、個人的な意見を述べたほうがいい場合もあれば、控えたほうがいい場合もあって、医療者の自己開示は何をどれくらい? という問題は、なかなか一筋縄ではいかない。

ガイドラインではなく、姿勢が大事

そういうわけで、この記事は、医療者にとっての自己開示の問題をこんなふうに語っている。

自己開示による不利益を考えると、開示を制限する方向になりがちかもしれません。しかし自己開示を過剰に制限すると、“一人の人間” として患者さんに接する観点が抜け落ちてしまいます。

この話題は、「これまであまり語られることのなかった」ことなので、何をどうすべきかについて明確な答えはない。大事なことは、「自己開示をするかしないかではなく、どこまでであれば適切な開示なのかの線引きを医療者が検討し続ける姿勢」なのだと結ばれている。

語られてこなかった<ワザ>

面白いと思ったのは、この話が「これまであまり語られることがなかった」ということ。

何かを伝えるか・伝えないかに関する標準化されたルールがない状態で、会話の流れの中で「ケース・バイ・ケース」としか言いようのない判断を行い、”一人の人間” として相手と向き合いつつ、しかし言っちゃいけないことは口にしないように気をつける。

これ、医療者という専門的な職業にかぎった話ではなく、ふだんの生活や、医療以外の多くの仕事の中で、誰しもが行ったことがあるはず。

「それとなく聞いてくれ」とか、「それとなく伝えておいて」とか言われたときの会話のカン所は、まさしくこうした「どこまでであれば適切な開示なのかの線引き」を行うことだし、顧客からのクレーム対応なんか、そのあたりの「芸」が成否を分けることになる。

だとすれば、医療者にとっての、そうした「芸」あるいは「ワザ」のようなものが、なぜこれまであまり語られてこなかったのか?

専門的知識と経験・カン

ドナルド・ショーンは、現場での仕事の取り組みの中で生み出される「経験とカン」の本質について考察した「省察的実践とは何か」の中で、専門的な職業の人が持つ知識には4つの特徴があると語っている。

専門的職業の人びとが身につけている体系的な知の基礎は、以下の四つの本質的な特性をもつと考えられている。 専門分化していること、境界がはっきりしていること、科学的であること、そして標準化されていることの四つである。

この4つの特質に照らせば、「”一人の人間” として相手と向き合いつつ、しかし言っちゃいけないことは口にしないように気をつける」<ワザ>として身につける知識やスキルは、ぜんぜん「専門的」なものではないということになる。

エドガー・シャインを引用してショーンが指摘する専門的知識の3つの階層では、こうした<ワザ>、あるいは身のこなしのような、実践的な技能や態度は、専門的知識の中でもレベルの低いものとして扱われてきた。

1「基礎となる学問」や「基礎科学」の要素 — 実践の土台となり、実践を発展させる。
2 「応用科学」や「工学」の要素 — 日々の診断的手続きや問題解決の多くが、ここから導かれる。
3 「技能や態度」の要素 — 基礎となる学問や応用知識を用いて、 実際にクライアントへのサービスをおこなう。

そういうわけで、実践におけるこうした技能や態度の部分は、これまであまり「専門的知識」としては語られることがなかった。

経験・カンが大事になってきた背景

では、なぜいまになって、そうした実践的な知が大事だと考えられるようになってきたのか?

医療・保健・福祉分野では、疾病や傷害の治癒・回復をめざした、これまでの「医療モデル」から、疾病や障がいがあっても、その人らしく、地域で自立して暮らし、生活の質を高めていくことをめざした「生活モデル」への転換が提唱されている。

医療モデルから生活モデルへの転換が意味していることは、医療サービスにおいて、専門分化し、科学的に標準化された知識やスキルから、患者がその人らしく地域で自立して暮らすことを支援するための技能や態度の比重が高まってきているということ。

患者との対話は、その人が抱く生活の質についての実感を探り、これを高める方法を考えるにあたっての重要な手段となる。

もちろんそこには、「自己開示をするかしないか」という標準化されたルールは存在しないから、対話のまっただ中で、何をすべきかを「検討し続ける姿勢」を維持し、実践するための知が重要な役割を果たすことになる。

経験・カンが生まれるプロセス

では、患者に対して何をどこまで自己開示すべきかについて会話の中で検討しつづけながら、“一人の人間” として患者と向き合うコミュニケーションを行っているとき、具体的にどんなことをやっているのか?

じっさいにそこでやっていることは、スタンフォード大学 d.school が提唱するデザイン思考の5つのステップと、それほど違わないのではないかと思う。

デザイン思考の5つのステップ
□ (インタビュー・行動観察を通じて)相手に共感する
□ 相手が何を望んでいるのかを考える
□ 相手の問題やニーズを解決するために何が必要かを考える
□ アイデアを具体的な形にする
□ フィードバックをもとに改善を重ねる

対話の中の言語・非言語メッセージをもとに、いま相手が何を望んでいて、これに対してどのような言葉をかければいいのかを考え、言葉を発した後に、それが適切だったのかどうかを判断する。

何か違ったなと思ったら、さらに対話・観察をつづけ、本当のところ、何が必要なのかをさらも考え、実践してみた後に、フィードバックで検証する。

もちろん、「行動観察」や「プロトタイピング」なんて大げさなことはやっていないし、その多くは、とくに意識しないまま、瞬発的な身のこなしとして行われていると思う。

でも、たえずゆれ動くコミュニケーションの流れの中で、こうしたステップに近い実践が繰り返されている(かも)という視点で考えてみることは、「どこまでであれば適切な開示なのかの線引きを医療者が検討し続ける姿勢」において、何がどのように行われているのかを見きわめるための大きなヒントになると思う。

デザイン思考は「特別な」思考・ステップではない!?

患者と向き合うコミュニケーションのプロセス。それは、最終的に患者の生活の質を高めることを目標に、(自己開示に関する職業的な制約のもとで)“一人の人間” として患者と向き合うこと。それはつまり、患者のユーザー体験を高めるコミュニケーションを実践するということだ。

また、医療コミュニケーションにおける自己開示の問題が、ふだんの生活や医療以外の仕事にも共通する身のこなしにつながっている(かもしれない)ということは、「デザイン思考」という、何か専門的で特別なやり方だと考えられがちなプロセスが、いろんなところで当たり前にやっていることにつながりあっている可能性を示唆しているようにも思える。

デザイン思考の視点から医療コミュニケーションを考えることは、これまで語られてこなかった経験やカンを言語化することに役立つだけではなく、仕事や生活のさまざまな場面に共通するプロセスとしてデザイン思考を考えることで、デザイン思考の適用範囲を広げることにもつながるような気がする。


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