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中山みき研究ノート

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立教150年(1987年)、八島先生の名前で立風書房から刊行された「中山みき研究ノート」の全文を、順次公開していきます。
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中山みき研究ノート 目次

中山みき研究ノート 目次

立教150年(1987年)、八島先生の名前で立風書房から刊行された「中山みき研究ノート」の全文を、これから順次公開していきます。以下は目次です。

中山みき研究ノート第1章 万人のひながた

・はじめに
・唯一のひながた
・神の社

第2章 道あけ

・生い立ち
・五重相伝
・転輪王
・立教の時と所と人
・いつでも、どこでも、誰でも
・元の神・実の神
・貧に落ち切れ
・神名流し
・をびやほうそ

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中山みき研究ノートをご覧の皆様へ

『中山みき研究ノート』は立教149年(1986)教祖100年祭の年の連続講座の講義録で、翌年出版されました。それから10数年を経た頃、本が入手できない、再版を希望する声が多く出たのです。しかし、八島先生は再版はしないと言っていました。今もっと検討した顕正教祖伝を行なっているので、こちらを読んで知ってほしいと常に言われていました。過去に発表したものよりも、もっと正確な、そして、素晴らしい教祖中山みき

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中山みき研究ノート 1-1 はじめに

中山みき研究ノート 1-1 はじめに

第1章 万人のひながたはじめに

この書は、天理教の教祖と慕われている中山みきの生涯の言行を、虚構を排し、真実を以って綴ろうとするものです。 みきの心を我が心として、陽気づくめの世界実現のために働こうとする人の心の中に、生涯をかけても悔いのない、生き生きとした教祖像を描きもって頂くためのたすけになればという大望を抱いての刊行であります。

中山みきは天保9(1838)年以来、人間の生き物としての歴

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中山みき研究ノート 1-2 唯一のひながた

中山みき研究ノート 1-2 唯一のひながた

唯一のひながた

教祖の伝記では、教祖が示されたひながただけに的を絞って、他の人の言葉や行ないを混ぜないようにしなければなりません。私達が手本とするのは間違いなく教祖一人のひながたでなければなりま せん。教祖のひながたは、万人のひながたです。 教祖に習って、誰もが教祖と同じように通れるという事を教えて下さった手本なのです。おさしづには、

というお言葉があります。 教祖が示された手本・ひながた通り

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中山みき研究ノート 1-3 神の社

中山みき研究ノート 1-3 神の社

神の社このように神の社になる方法を教えてくれたのが教祖、と捉えると、教祖のひながたという意味がはっきりしてきます。教祖は万人の手本であり、その手本に習って教祖と同じように通ろうというのが信仰の目的なのですから、教祖がどのようにして神の社になり、生き甲斐を持って暮らしたかということをはっきりと理解し、その通り行なえるようにしなかったなら、ひながたを学ぶ価値がありません。

教祖は神の社になったとき、

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中山みき研究ノート2-1 生いたち

中山みき研究ノート2-1 生いたち

第2章 道あけ生いたち

『稿本教祖伝』では、第一章が「月日の社」となっていますが、 立教の場面を理解するには、それ以前の状況を掌握して置く必要があるので、ここでは中山みきの誕生の場面から考えてみましょう。

昔は、お百姓さんはあまり記録を付けませんでした。お百姓さんは春には種蒔き、秋には穫り入れということで、サイクルが一年単位で長いから、その必要がなかったのです。林業では、一度苗を植えると親子三

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中山みき研究ノート2-2 五重相伝

中山みき研究ノート2-2 五重相伝

五重相伝

16歳で両親が、安心して所帯を任せたということですが、これは大変な誉め言葉です。 16歳で関東で言う財布持ちになったのです。これは一つには姑が叔母であるという事もあるでしょうが、人柄の良さを示す事柄であると思われます。

五重相伝が大きく扱われていますが、当時は五重相伝自体が全く形式化しており、信仰の熱心さとは関係なく、ある程度の経済力があれば一つの身分上のアクセサリーとして受けられた

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中山みき研究ノート2-3 転輪王

中山みき研究ノート2-3 転輪王

転輪王

足達照之丞のことについて願を掛けたとされる稗田の大師、武蔵の大師は、真言宗の参り場所です。 中山家の宗派は浄土宗でしたが、浄土宗では「阿弥陀仏に助けたまえと手をあわせ、口に念仏する素直な心」を深心と言い、信者としての大切な条件になっているのです。他の神仏に願うなら、もはや浄土宗の信者ではありません。 ひたすら阿弥陀仏に帰依するのです。

教祖はこの時期から後、41歳でこの道を始められる頃

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中山みき研究ノート2-4 立教の時と所と人

中山みき研究ノート2-4 立教の時と所と人

立教の時と所と人

この矛盾が一時に噴き出したのが天保9年10月23日の夜です。

みきは腰の痛み、秀司は足の痛み、善兵衛も目の煩いというように伝わっていますが、家族が病気になって中山家の動きは全く停止してしまったことでしょう。

おさしづでは「夜に出て昼におさまりた理」(明治29年2月29日)といわれています。「昼におさまった」というのは、明治20年陰暦正月26日午後2時ごろ御身を隠されたことを

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中山みき研究ノート2-5 いつでも、どこでも、誰でも

中山みき研究ノート2-5 いつでも、どこでも、誰でも

いつでも、どこでも、誰でも

もう一度整理してみましょう。まず「人」については、おふでさきに、

と記されていますが、「みないりこむで」とは誰にでも、ということです。 また、「めいめいのやしろ」あるいは「やしろとなるをふたりとも」と、複数である事がはっきり示されています。

また、「場所」についても、みかぐらうたの九下り目では、

と、神の心に生まれ変わるのが本当のおつとめであって、たとえ最初にお

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中山みき研究ノート2-6 元の神・実の神

中山みき研究ノート2-6 元の神・実の神

元の神・実の神

神の社となった後、教祖は、たすけて下さいと願うのではなく、自分がたすける神の心になって生きなければ世直しは出来ないのだという思いを、まず、善兵衛に言い、広く宣言しましたが、それを聞いた人が理解してこの心になってくれないことには、世の中は変わってはいきません。立教以後の教祖は、いかに分かりやすく皆にこれを伝えるか、という思案に明け暮れた毎日を送りました。

今までの人が気が付かなか

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中山みき研究ノート2-7 貧に落ちきれ

中山みき研究ノート2-7 貧に落ちきれ

貧に落ちきれこういったことから『稿本教祖伝』第三章、「みちすがら」を検討し直してみましょう。 最初に出てくるのは、

ということですが、「貧に落ち切れ」とは、みかぐらうたにもおふでさきにも書いていないし、本席の膨大なおさしづにも出ていません。教祖が言われたとはとても思えません。

また、嫁入りの時の荷物を始め、いろんな物を施したというのですが、教祖が嫁入りの時に持ってきた蒲団は、おはるが櫟本の梶

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中山みき研究ノート2-8 神名流し

中山みき研究ノート2-8 神名流し

神名流しこかんの大阪布教については、大きな問題があり、当時の中山家の情勢を知るのには最も適した事柄だと思います。 それで、実際の姿と『稿本教祖伝』に書いてあることの違いを、こかんを軸に考えてみましょう。

とありますが、これは明治31年になってから、書き加えられたものであります。天理王命、という神名が初めて出てきたのは明治18年なのです。まして、天理王命、または天理大神というのは、天皇家の先祖を十

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中山みき研究ノート2-9 をびやほふそ

中山みき研究ノート2-9 をびやほふそ

をびやほふそ文字で残っている最初の資料は、慶応3年に教祖が自ら作られたみかぐらうたであり、これ以前の教理を最も良くまとめたものであります。従って、まず、これに基づいて教理の理解を進めてみましょう。

嘉永7年、三女おはるがお産をする頃から、をびやゆるしが出されています。今までにないたすけ場所であることを、しっかりと理解させるために、をびやゆるしとほふそゆるし、ということを教え始めたのです。昔の先生

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