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中山みき研究ノート2-4 立教の時と所と人

立教の時と所と人

この矛盾が一時に噴き出したのが天保9年10月23日の夜です。

みきは腰の痛み、秀司は足の痛み、善兵衛も目の煩いというように伝わっていますが、家族が病気になって中山家の動きは全く停止してしまったことでしょう。

おさしづでは「夜に出て昼におさまりた理」(明治29年2月29日)といわれています。「昼におさまった」というのは、明治20年陰暦正月26日午後2時ごろ御身を隠されたことを指しています。

「夜に出て」というのは、たすけ一条の道を通ることを夫の前で宣言して、この道が始まったということですが、その前に、それを談じ合って説得するという手続きを取っています。 みきは、この手続きを26日から遡って何日間か行なったのです。そして、26日にたすけ一条の宣言をしたのですが、その発端が夜であったということです。

多くの人々に、神懸りでお道は始まったと思われていますが、神懸りの儀式が行なわれたのは24日の朝です。「夜に出て」というならばそれは23日の夜のはずです。そのとき家庭内で話し合いが行なわれたことを以って、この道の始まりである、というのがおさしづに語られている事であります。 神の口説きが始まったのです。

教祖は善兵衛に、「このような身分差別があり、上の人が言うことには服従しなければならないといった矛盾に苦しみながらも、私は勤めて来ました。けれども、その在り方や方針というものが正しくなければ、どんなに努力しても行き詰まるのは当然です。また、何百年、どれだけ阿弥陀仏にすがり、転輪王にご利益を願っても、少しもよくなっていません。これを打開するには、先ず私が転輪王のようになって、難渋をたすけ陽気づくめの世を創るという心で生きます。それ以外に活路を開く道 はありません。旦那様もそうなって下さい」と方針の転換を諄々と説得しましたが、それは「南無転輪王」の思想に基づいたものでした。

仏教の世界では「南無」を「帰命する」と訳すのですが、この帰命にも二つの意味があります。

帰命頂礼というのは、ひたすら仏に自分の生業や生き方を帰する、即ち、おまかせし、従いますと、その足に頭を擦り付けて(頂礼)お願いすることです。

もう一つは、帰投身命という事です。これは、自分の体や自分の生き方というものをこの考え方に投じ、帰して生きるのだ、という意味ですが、この帰投身命の最初と最後の字を採った「帰命」を南無と考えてもいるのです。

この帰投身命という考え方は、ひたすら阿弥陀仏や転輪王にたすけて下さいと願うのではなく、私の身も生き方も全て、転輪王や阿弥陀仏のように三千世界をたすけたいという心になって生きます、という意味になります。これが、帰投身命転輪王であり、南無転輪王ということです。

即身成仏とは、身はそのままで仏になって生きるということですが、この場合は、法界、俗界の両方を兼ねた救世主である転輪王の心を心として生きるというのですから、これは即身成転輪王という言葉に当てはまる考え方であります。

後に教えられたおつとめは、あしき心遣いを払い、転輪王の名を唱え、心をしっかりと招き入れて、その心になって生きますということです。これはそのまま、神の社となって生きるという心定めであります。あなたもそのように生きて下さい、というおさづけとして現在でも教えられているものであります。

おそらく、教祖は転輪王の社となって生きます、と宣言されたと思われます。 善兵衛としては、みきはどんな神に取り憑かれたのだろうか、と心配にもなったのでしょう。何しろ、転輪王という言葉が飛び交ったのだろうと思います。

そうなると、時々長滝村に行って、真言密教の奥義を極めたという市兵衛の所で説教を聞いたり、御籠りをしたりしているのですから、あの人に、みきに取り憑いた神を追い払う祈祷をお願いしよう、ということになるのは当然のことです。それを、理に基づき、神の心を心として神の社となり、難渋をたすけ世直しをする、と宣言したみきと、何かの神が取り憑いたのだから、それを退散し調伏しようという真言密教の修験者との対決、というように善兵衛は受け取ってしまったのではないでしょうか。

翌24日の朝から、真言密教の修験者による退散・調伏の祈祷が行なわれました。 しかし、いくら御幣で叩いても、数珠で押し揉んでも、南蛮いぶしや狸いぶし、狐いぶし、 松葉いぶしなどといわれているもので責め立てても、また、水をかけたり、踏み付けたりということをいくらやっても、憑き物が落ちる様子はありません。

みきは肉体的には完全に疲労して行ったのですが、神が取り憑いているわけではないので、退散などということはありません。また、こんなことで神の心を捨てるわけにはまいりません、と言ったことが「退く神ではない」というように伝えられているのでしょう。

肉体的には攻撃側に立っている修験者が、自分の修法の限りを尽くしても、頑として微動だにしないみきを前にしては、気力が消耗し、祈祷をしている市兵衛の方が精神的には疲れてしまいます。 結局、祈祷は一人相撲で終わってしまい、「到底及ぶところではございません」と市兵衛は引き上げてしまいました。

万策つきた善兵衛は、遂にみきが神の社になることを承知しました。

天保9年10月26日、中山みきが、大和のぢば、中山家の敷地の中で、神の社に成るという宣言をしました。唯一の出来事です。

ここで問題になるのは、教祖のひながたということです。立教の場面は時、所、人がきっちりと定まっている唯一の出来事です。そして、唯一の出来事であるがゆえに、万人の手本、ひながたとなることができるのです。

世界中の人々に、この時、この場所で示した唯一の出来事を手本として、一人々々が自分の住んでいる所で、思い立ったその時に、持てるもの全てを使って難渋をたすけ、生き甲斐のある人生を送ろうとする神の社に生まれ変わってくれ、というのが、教祖の急き込みであったのだろうと思います。 おつとめは、この生まれ変わる方法をみごとな歌に現わし、手振りにも現わし、音の調和もある総合芸術とも言えるような効果に纏めて、教えられたものであります。

教祖のこの唯一の出来事を学んで、このおつとめにより、私達一人々々が生きながら心を入れ替え、神の社に生まれ変わることがこの道の中心であり、最も大切なことなのです。

これまで、『天理教教典』や『稿本教祖伝』が編纂されていますが、その中で行なわれている教祖のひながたの捉え方は、おふでさきやみかぐらうたの調子からは大きく外れています。そこでは唯一の出来事ということを強調するあまり、神の社となることができるのは魂の因縁ある中山みきでなければならないとし、神の社になる場所はこの大和の庄屋敷村の中山家の屋敷内でなければならず、さ らには旬刻限の理として、 天保9年10月26日でなければならないと記してあります。 つまり、神の社は唯一人であるとする「神の社唯一説」を唱え、この人を尊びこの人におすがりしてたすけて頂きなさい、と教えているのです。 ここが、最も教祖の教えに外れているところです。

立教の場面の中には修験道、仏教、神道の要素を見出すことができます(注=『復元』30号33~46頁。櫟112)。 それぞれの教説がどのような経緯で、お道の話の中に入って来たのかを辿ってみましょう。

当時の人々の信仰の実体となっていたものは、修験道であったということができます。 この世の森羅万象全てに霊の存在を認め、人間生活の中に表われる幸、不幸はことごとく、この霊の所業とされていたのです。その中で、この霊から特別のご加護を引き出すものが、修験道の祈祷であると考えられていました。

このような精神的風土の中では、神の社となって生きるという、みきの立教の宣言も、周囲の人々から見れば「狐憑き・狸憑き」と理解されることもあったことでしょう。

また、立教の場面にかかわった人物が修験道の行者であったことから、その後、修験道的拝み祈祷で利益を上げ、営業していた天輪王明神の人々は、みきは拝み祈祷を教えた偉大なる祈祷師であるというような話を作り上げ、みきの宣言も「寄せ加持」という修験道的に脚色された舞台で行なわれたことにしてしまいました。 この中では修験道でいう「無言加持の次第」(注= 宮家準『修験道儀礼の研究』 <春秋社> 1985年刊351頁。 櫟108)の形がそのまま語られています。

これを最初にまとめたのは、初代真柱の『稿本教祖様御伝』(明治31年)ですが、その元になったのは辻忠作の語る話であったと思われます。

辻忠作の入信の動機は、彼の妹くらの気の間違いからであったと伝えられています。当時は精神的な不調も含めて、病気は全て霊の障りであると考えられていたので、その治療は修験者の祈祷に頼っていました。忠作も妹のために寄せ加持を行なったものと思われます。その時の記憶が鮮明に残っていたために、みきの場合も「垂れ紙は散々に破れ、御幣を持つ手は血にまみれ」とリアルに表現することができたのでしょう。

明治13年から15年まで、お屋敷は転輪王講社という仏教系の拝み祈祷を教える場に変えられていました。ここでは徳を積み因縁を切るという話が行なわれて、現在にまで引き継がれています。 これは仏教でいう因果応報(輪廻)の思想による教えです。

そこでは、みきが神懸りになった原因も、この世の元初まりのときのイザナミノミコトの御魂をもった人だから、と説明しました。イザナミノミコトの生まれ変わりだというのです。これが「教祖魂の因縁」と説かれています。

また、56億7千万年後に再びこの世に生まれ出て、人々を救うとされる弥勒思想を承けて、 九億九万九千九百九十九という子数の年限が経った時に神の社になったとする「旬刻限の理」が説かれ、その場所はここであるとする「屋敷の因縁」と共に、 立教の三大因縁が作り出されたのです。さらに、死後の霊魂がそれにふさわしい肉体と環境を得て再び生まれてくるという宿業論が説かれ、前生の行ないによって六道に輪廻し、牛馬に落ちるといった因縁話も説かれるようになってしまいました。

明治18年には神道本局に部属して神道天理教会が作られています。 神道の目的は忠義・孝行の教育にあったのですが、本当の目標は、高天原の神の子孫が世界を統一支配する八紘一宇を教えること にありました。明治天皇制国家の中で出世をして結構を見たいと思った人々は、明治14年に警察に 提出した文書の中に早くも、「10月26日の夜、我はクニトコタチノミコト、我はヲモタリノミコトと、次々に天皇家の尊い神々がみき様の体に天降られて、神の社になりました」と、天津神が天降って尊い教祖になったことを強調しています(注=『復元』4号7~10頁。櫟22)。

ここでは、人がどのような環境に生まれ出て、どのように生きるかは運命によって定まっているという運命論が説かれました。

このように、その時々の人々が自分に都合のよい教説を取り入れ、自分に都合のよい教祖伝を作って行ったということが「応法の理」というものの実体であります。

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