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中山みき研究ノート2-3 転輪王

転輪王

足達照之丞のことについて願を掛けたとされる稗田の大師、武蔵の大師は、真言宗の参り場所です。 中山家の宗派は浄土宗でしたが、浄土宗では「阿弥陀仏に助けたまえと手をあわせ、口に念仏する素直な心」を深心と言い、信者としての大切な条件になっているのです。他の神仏に願うなら、もはや浄土宗の信者ではありません。 ひたすら阿弥陀仏に帰依するのです。

教祖はこの時期から後、41歳でこの道を始められる頃まで、俗名市兵衛、法名は阿闍梨・権大僧都・理性院聖誉明賢という立派な名前を持った人を先生としておられます。 仏教でも、修験の道を修めた人で、これは基本的に真言宗です。

石上神宮の境内地に神宮寺として971石の寺領を誇っていた内山永久寺(鎌倉時代の永久年 間に建立されたことによる)は、立派な堂塔伽藍が並び、西の日光とまで呼ばれていた寺です。ここは、真言宗というよりは修験寺として、この地域を代表するような寺でもありました。理性院聖誉明賢はこの内山永久寺を代表する行者であり、当時の真言宗の修験道の中では十二先達の一人に数えられていた阿闍梨でした。阿闍梨は自宅のある長滝村で道場を開き、人々に仏教を教えていました。教祖はそこで仏法を学び、祈祷もしてもらっていたのです。もう、阿弥陀一仏に対する信仰は消えていて、浄土宗の熱心な信者がそのまま延長して教祖になったという感じではありません。

真言宗の教理を教祖は市兵衛の所で学んでいます。本部の資料にも、市兵衛方に49日も御籠りをしたというような事が書いてあります(注=『復元』30号17頁。櫟24)から、相当頻繁に通って、学んだことと思われます。

釈迦が説いた仏教の教理、というよりは日本の仏教の風習によれば、人が亡くなって初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、それに七七しちしち・四十九日までを、中陰といって、魂の休憩所のようなところで、七日目ごとにいろんな王が出て死者の裁判をするのです。有名なのは、五七日目の閻魔王です。 百カ日は都市王、一年は平等王による裁きが続き、十番目の三回忌の時には五道転輪王が出てきます。五道とは、六道輪廻のうち、修羅道を人間界に数えて五道といっているのですが、五道転輪王は三回忌を司って、何処に生まれ変わったか、それが妥当であるかを最終審査することになっています。

七日目ごとの裁判ではそれぞれの王が死者を裁くのですが、その都度、いろんな如来や、仏がそれを救うことになっています。三回忌では、審査官は転輪王ですが、救ってくれるのは阿弥陀仏なのです。これは十王信仰ですが十三仏信仰と重なって、三回忌は転輪王が裁き阿弥陀仏が救うことになっていたので、当時の人々は、南無阿弥陀仏と南無転輪王とを同じように感じていたと思われます。「転輪聖王修行経」というお経がありますが、その中で、転輪王は「全ての力、全ての物を使って難渋をたすけ、皆の喜ぶ世界にした。争っている時には人間の平均寿命は十歳にまで縮んでしまったけ れども、たすけ合って理想的に暮らすようになったら寿命が延びて八万歳にまでなった」と言われています。

また、よこしまな心を打ち破る真理・教理の象徴として輪宝ということが説かれています。 これは、元々武器でした。 車輪に剣を植え込んだような形で、敵中に投げ込むと、一度に大勢を倒すというものです。伝説の中では、転輪王は天から与えられた、精神的な邪を砕く輪宝(砕邪輪)を、乱麻を断つ快刀のごとく至るところで回転させ、人々の心から邪なものをなくしていったといわれています。日本神話の八紘一宇では、まつろわぬ者は平らげる、つまり殺してしまうことを表わしていますが、転輪聖王の場合には敵を殺すのではなく、邪な心だけを砕いてしまうので、その結果、武力で刃向かう者はなくなります。 武器や力によらずに国を治めた王は、皆に大いに信頼されたということです。 それで、この輪宝が転輪王の象徴になっているのです。

転輪王は、転という字を取って、輪王とも呼ばれています。 大和では、後醍醐天皇が吉野に都を移して南朝を立てた時、 出家して自分の御所を「金輪王寺」と名付けていました。 輪宝には金輪、銀輪、鉄輪があるとされていたことから、ここでは最高の金という字を当てたのです。これを、徳川家康の時代に天海僧正が関東に移して、日光と上野に輪王寺が作られました。大和では金輪王と書いて 「こんりんお」とも呼ばれており、人々に大変に馴染みが深く、また、非常にありがたいものという感じも抱かれていたのです。

内山永久寺では真言密教に基づく祈祷が行なわれていました。このときにいろんな曼荼羅を掲げますが、最も霊験あらたかとされていたのは一字金輪像と呼ばれているものです。この像が実は転輪王 なのです。仏伝では、釈迦は母親の脇の下から生まれて、三歩あるき「唯我独尊」と言ったとされています。その時に聖者達は、「この人は非常に優れた人だ。出家したら仏陀となるお方である。俗人に留まれば転輪王となってこの世を救うでしょう」と讃えたと伝えられています。

法界 (真理の世界) の救世主が仏陀であり、真理を説いて精神界を救うものなのです。ところが、転輪王は俗界の王ですから、国家の王としての権力も官僚も国民も、貴重なる家畜も軍隊までも全て備えております。そして、仏陀の精神を理解したら、精神界も俗界も兼ねた救世主になるというのが転輪王であります。こういう考えがあったから、精神的に悟って立派になろうという時には仏陀を拝み、俗界のご利益までもらいたい時には転輪王にお願いするという信仰になって当然であります。

転輪王を表わすには、仏教界の約束事では、この宇宙の教主であり、仏教界でも最高の仏である大日如来の姿を借りて表わすことになっています。また、天上界から地獄界までを含むこの世界の本地仏は釈迦如来であることから、その姿を借りて表わすこともあります。

輪宝は転輪王を表わす象徴なので、大日如来の周りに輪宝が飾られたり、釈迦如来の周りに輪宝が荘厳されると、大日金輪とか釈迦金輪とか一字金輪と呼ばれたりしますが、これは転輪王を表わしているのです。こういう密教の常識はお道の中ではあまり知られていませんが、仏教界では当たり前のことであり、奈良では壺坂寺の一字金輪曼荼羅が特に有名です。

後に、秀司が星曼荼羅を祀ったりしましたが、その星曼荼羅は転輪王を中尊としているものなのです。

いよいよ教祖も41歳に近づいてきます。40歳という時は、人間の考え方が完成に近づく時期です。 リンカーンは、40になったら自分の顔に責任を持たなくてはならないと言いました。子供の時は、尖った顔であっても穏やかな顔であっても親の責任です。ところが、40すぎたら造作はどうであっても、その人の人柄が表情に出てくるものです。40歳というのは、自分の考えで物事が見えてくる時期です。

教祖は、じっと世の中を見つめ、幸せな家庭はどうして作ったらいいのか、と一生懸命考え、努力されてきたことでしょう。

この天保年間は、日本中に飢饉が重なり、お道が始まる前年の天保8年には大塩平八郎の乱が起こりました。「世直し大明神」と後に呼ばれた大塩は、米を作っている者さえが少しの凶作でバタバタと倒れていくのに、人を働かせてそれを取り上げている武士に対して、「こんな世の中ではいかん、 世直しをしなければいかん」といって、自分も幕府の役人という身でありながら、陽明学者としての理論から弟子達と共に決起したのです。

取り上げて暮らすたった一割の人達。 取り上げられているのは九割。ここで力を以って決起すれば世直しをすることが出来るのではないか、という思いだったのが、たった一日で鎮圧されてしまいました。その結果、かえって締め付けが強まり、世直しには遠い社会状況になってしまいました。そして、飢饉の度毎に、村々に逃散は続き、関東では我が子をたべてしまった村もある、という話までが伝わってきました。

こういう悲惨な状況の中で、教祖は何とかならないものか、どうにか出来ないものか、と思い悩む日が多かったと古い人達は伝えています。

総てを救ってくれるという阿弥陀一仏に「なまんだぶ、なまんだぶ」とほとんど全村の人が、あるいは近在の村々でもその助けを願って必死になって拝んでいました。 しかし、何百年もの間、ひたすら願い続けていながら、全く良くなっていないという現実も味わっているのです。

また、徳川幕府の中の身分制では「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」と教えることによって、君と臣下との関係が保たれ、民はひたすら働いて上に捧げるものだ、と考えられておりました。また 一般の家庭でもこの考え方をそのままに持ち込み、戸主と、それに服従する妻や子供という構造を作っていました。

教祖は人一倍働かれたと言われていますが、働かなければ当時は妻としてきちんと勤めたとはいえなかったのでした。それでいながら、全ての権限は戸主に握られ、妻は絶対服従の労働力としてしか考えられなかったのです。こうして社会の矛盾がそのまま家庭の矛盾となり、全てが行き詰まってきたのがこの時代だったということが出来ると思います。

2-2 五重相伝 
第2章 道あけ
 2-4 立教の時と所と人


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