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中山みき研究ノート2-5 いつでも、どこでも、誰でも

いつでも、どこでも、誰でも

もう一度整理してみましょう。まず「人」については、おふでさきに、

たん/\とよふぼくにてハこのよふを
はじめたをやがみな入こむで

十五  60

と記されていますが、「みないりこむで」とは誰にでも、ということです。 また、「めいめいのやしろ」あるいは「やしろとなるをふたりとも」と、複数である事がはっきり示されています。

また、「場所」についても、みかぐらうたの九下り目では、

八ッ やまのなかでもあちこちと
   てんりんわうのつとめする

九ッ こゝでつとめをしてゐれど
   むねのわかりたものハない

九下り目

と、神の心に生まれ変わるのが本当のおつとめであって、たとえ最初にお道が始まったこの場所で行なわれたとしても、誤った心構えのおつとめではいかん、と言われております。

そして、山の中であろうとも、転輪王の心で神の社に生まれ変わるおつとめは何処ででも行なう事が出来ると教えておられます。

遠州山名郡の諸井国三郎の講社では、明治17年から22年まで、かぐらづとめがつとめられていた(一度だけ、引佐いなさ郡に出張)という事が記録に残っております(注= 山名大教会『天理教山名大教会史』43~48頁、1932年刊。櫟98)。神の社が誕生するこのおつとめは、大和のぢばの中山氏の屋敷内に限られるものではない、という事が歴史上、はっきりしているのです。

また、「時」についても、ぢば定めが行なわれたのはずっと後の明治8年です。また、

いまゝでも今がこのよのはじまりと
ゆうてあれどもなんの事やら

七  35

と教えられていますが、これは、人間が神の社に生まれ変わるのは、それぞれの人間が教えを理解して心定めした瞬間だという意味です。

教祖の尊さは、たすけ一条の神の心を心として通り、世直しをして生き甲斐のある人生を送ります、というこの心定めにあります。もしこれがなかったら教祖は「ほん何でもない百姓家の」女で終わってしまったのです。事実、心定めの瞬間まで、何でもない女性だったのです(注=おさしづ 明治21<1888>年1月8日)。

また、大和のぢばも場所としては、布留川の扇状地で庄屋敷村の陽田やけたといわれ、大和の寒村というにふさわしいところです。 地味豊かでどんな収穫もある、というような良い場所でもなければ、学問の根拠地でもなく、気候が温暖で体にも良いというような場所でもなかったのです。なんの変哲もない、どちらかというと貧しい田舎でありました。そんな場所ですが、ここでたすけ一条が始まり、ここが互いたすけ合いの世界の始まりだと教えられたこの事実によって尊くなったのです。尊い場所だから、たすけ一条の宣言が出来たのではありません。

そして、天保9年10月26日という日は、天候不順で飢饉が続いた天保年間であったという事を考えると、決してバラ色の世界が始まるにふさわしい、陽気ぐらしを予想させるような時ではなかったのです。けれども、悲惨な飢饉に苦しみ、「餓莩がひょう 路に満つ」と記録される時(注=高野友治『御存命の頃(上)』〈道友社〉1971年刊。69頁)であっても、その中で教祖が世界たすけの心をもって、難渋をたすけ、ろっく(平ら、平等)の地に踏み均すのだ、という心を定めて宣言をし、通り始めたいうこの事実があるからこそ、世界たすけの新紀元として、尊い時になったのです。これが時と所と人のひながたなのです。

世界中、どんな民族が住んでいる所でも、痩せこけた土地であろうとも、たすけ一条の心になり、難渋をたすけ皆の喜ぶ世界にするように働き出す、と心を定めたら、その場所、その時が尊くなるのであり、生き甲斐ある人生に生まれ変わることが出来るのです。

たすけ一条の心を定めて、自分の周りに陽気づくめ世界の建設を押し広めていく事が、私達の信仰というものではないか、と思います。

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