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~第210回~「古代つれづれ」

古代、大宮一帯は「足立」と呼ばれた地域でした。
武蔵一宮氷川神社には、ヤマトタケルノミコトが東国征討の際、当地に足をとめて祈願されたと伝わっています。
ヤマトタケルの足の負傷が治り、立てるようになった伝説から「足立」という地名が付いたと伝わっています(※諸説あり)。

古代の氷川神社の様子を具体的に物語る資料はほとんど残っていませんが、「延喜式神名帳」(10世紀成立)では官弊社の社格を持つ神社として記載されていることから、当時には武蔵国一円の信仰を集めていたことがわかります。
信仰が拡がった要因の一つに、武蔵足立郡司の一族・丈部直不破麻呂(ハセツカベアタイフワマロ)が、奈良時代の政変「藤原仲麻呂の乱」(764年)で功績を挙げ、中央政府内で力を持ったことがあります。
その結果、不破麻呂の氏神である氷川神社も発展したと推測されています。

不破麻呂は藤原仲麻呂の乱の功績を賞され外従五位下に叙せられたほか、丈部直から武蔵宿禰に改姓し武蔵国造となり、称徳天皇の御代の神護景雲3年(769)には内位の従五位上に至りました。
律令制における「貴族」とは五位以上の者を指し、これには昇殿などの特権が与えられましたので、いかに高く評価されていたかがうかがえます。
また、不破麻呂の娘(西角井文書による)とされる武蔵家刀自も称徳天皇崩御後の光仁天皇の朝廷で勢力を伸ばし、延暦5年(786年)に従四位下まで至っています。
中央政権下でこの位まで上り詰めた地方豪族出身の女性は他にいません。

奈良時代、武蔵一宮氷川神社に縁ある方々が中央政権に影響を及ぼしていた…日本史の授業では取り上げることはないかもしれませんが、確かに古代に存在した事実です。

〔 Word : Keiko Yamasaki Photo : Hiroyuki Kudoh 〕

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