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氷川風土記

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写真と文章で綴る氷川神社の風土記
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記事一覧

~第217回~「自然への畏怖とスサノオノミコト」

武蔵一宮氷川神社の主祭神・スサノオノミコトは全国に広く民間信仰を集める神様としても知られ…

~第216回~「武蔵の国大宮の駅、氷川神社をもって、当国の鎮守となす」

明治元年、京都を発し江戸城に入城した明治天皇は、氷川神社を武蔵国の鎮守、勅祭の社と定めて…

~第215回~「雅楽とスサノオノミコト」

雅楽は日本が生んだ総合芸術です。 ①日本古来の儀式音楽や舞踊など ②飛鳥時代から平安時代初…

第214回 氷川風土記「石碑と渋沢栄一」

日本各地の神社に共通して存在するものに「石碑」があります。 神社名を石柱などに刻んで建て…

第213回 氷川風土記「鷹匠と鷹と大宮」

6月8~9日に行われた「氷川神ほたる鑑賞会」では、境内で鷹匠が鷹と触れ合える機会を提供して…

~第212回~「蛍の伝説」

6月8日と9日、氷川ほたるの会主催の「氷川神ほたる鑑賞会」が開催され、多くの方々が蛍を通し…

~第211回~「大宮宿の富士」

江戸時代後期に活躍した浮世絵師の渓斎英泉は、美人画や風景画を得意とし、歌川広重と合作した「木曽街道六十九次」が有名です。 その英泉が木曽街道六十九次で担当した風景画の中に大宮宿が登場します。 まず「日本橋雪之曙」で日の出とともに賑わう橋上の雑踏、第2図は牧歌的な「板橋之駅」、そして戸田川を渡る渡し舟を描いた「蕨之駅」、続く「浦和宿」で浅間山を遠望し、いよいよ「大宮宿」。 大宮宿では遠景の富士山に別れを告げる構図を取っています。 日本橋から始まり、川を越え、浅間・富士の二つの

~第210回~「古代つれづれ」

古代、大宮一帯は「足立」と呼ばれた地域でした。 武蔵一宮氷川神社には、ヤマトタケルノミコ…

~第209回~「祭礼つれづれ」

5月は9日の「御鎮座祭」に続き、21日に「道饗祭(みちあえのまつり)」を行いました。 御鎮座…

~第208回~ 氷川風土記 「蛍」

武蔵一宮氷川神社の隣にある「大宮公園」は、明治6年の太政官布達を受け、明治18年に「氷川公…

~第207回~「楠と船」

須佐之男命(スサノオノミコト)は樹木神としての姿もあり、それは「日本書紀」巻第一の第八段…

~第206回~「氷川暦」

武蔵一宮氷川神社では干支絵馬や破魔矢など、さまざまな時期ものの授与品があり、その中に「氷…

~第205回~『氷川信仰と「ええじゃないか」』

江戸時代末期、大政奉還前後の慶応3年(1867年)8月から12月にかけて、日本各地で空から御札が…

~第204回~「大正の広重と大宮」

コロナ禍があけ、日本には大勢のインバウンド客が訪れ、大観光ブームを迎えています。 観光ブームは今に始まったことではなく、鉄道が発達してきた大正から昭和初期にも起きました。 その中、日本内外の旅行パンフレットに鳥瞰図を取り入れた画家がいます。 「大正の広重」と称された吉田初三郎です。 吉田初三郎は明治17年(1884)京都生まれの鳥瞰図絵師です。 幼い頃から絵が好きだったそうで、友禅の図案工などを経て、洋画家を志して関西美術院長の鹿子木孟郎に入門します。 契機は大正2年(19