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働き方改革~時短=幸せじゃないという理由


「生きるために働いている」のであって、「仕事するために生きているわけじゃないわこらぁ」とか、世界の隅っこで叫びたくなる日もあったりなかったり。

体壊してまで働くとか、熱のでたへろへろの体で出社するとかありえない!と思う。
それをまた「スバラシイ」とほめる上層部・経営者は、幼稚園からやり直していただきたい。

とはいっても。
「定時定時といっても、ある一時期は残業でもなんでもやっていかないと、実力が身につかない」
という、誰もが認める出来る方のご意見というのもまた一理あり。

そしてまた、筋金入りの残業撲滅派の私からしても、昨今の「時短、早帰り、定時で上がれ」は違う。
「働き方改革=自由時間を増やす」という発想が、そもそも違うんじゃなかろうかと感じているので、整理・分析してみました。

■「働き方改革」=「時短」の前提がそもそもおかしい

確かに「時短」になれば、身体的負担は減るし、自由時間が増えるでしょう。
でも、それを幸せと言ってしまうと、

「自由時間が増えることが幸せ」=「仕事している時間は不幸」
ということ。

つまり「仕事をすることが不幸」という大前提の上に、「目指せ時短!」が成り立っていしまっているわけですよ、

「仕事をすることが不幸」という前提が、そもそもおかしい。
そんな前提で、子どもたちが「働いているお父さんお母さん、かっこいい」なんて思ってくれるのかどうか。
私だったら「大人になんかなりたくない」と思ってしまいますが。

■働き方においての「幸せ」とは

・好きなことを仕事にする

・自分の力で、誰かの役に立てることが実感できる(している)

・得意なことを、仕事にする


上記3つが、幸せを感じることができる働き方の代表的な要素と思います。
そしてこの3つを達成するのに、「時短」は必要ではありません。

「好きなこと、得意なこと、誰かの役に立てていること」なら、頼まれなくても時間をたっぷりかけて取り組むという人も少なくないでしょう。
むしろ「時短だからやめろ」と言われたりしたら、大迷惑です。
身に着けていく学んでいくには、時間がかかるし、時間をかけていくことを避けて通れはしないのですから。

このように「時短」は、必ずしも必要とは限らないわけです。

■「仕事時間」=「不幸」の前提をまず変える

好きなゲーム、好きな旅行、好きなアイドルのコンサートなら、徹夜もするし睡眠時間も削るし、お金かけても惜しくはないでしょう。
そして、多少寝不足でも食費が削られることになっても、それは「不幸」ではなく本人的には大満足なわけです。

仕事で幸せになりたい、満足を感じたいというなら

「時短なんかじゃないけれど、
時間たっぷりかかるし、手間も根性も気力も削られるけれど、
それでも、満足!我が一日に悔いなし!」

と、思える仕事なり職場なりにつくことが重要。

国がやれることとすれば、そうした仕事や職場、会社に対して支援を行い、パワハラやブラックが生存できない社会環境を、法律なり規制なり作って縛っていくことが先じゃないのかしら。

そのための途中経過としての、「体を壊すレベルの過重労働を減らすため、育休有休をとりやすくするための時短」であれば大賛成。
ただ、それを最終目的にしては中途半端。


「仕事時間」=「不幸」の前提を、まずなくす。
「仕事時間」=「幸福」まではいかなくても、「納得して働ける」「満足して働ける」レベルにあげていく


これが、私が思うところの理想です。

仕事している時間が、不幸であってはならない。
かつて不本意な残業で胃腸炎やらかした身としては切に願うとともに、
「時短じゃないけれど、幸せ・満足・納得」
な働き方を目指していく所存です。



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