此岸の先へ、サッポロビールの瓶を片手に


私には二人の祖父がいる。

正しくは過去形だが。

父方の祖父は、私が小学校二年生の冬に亡くなった。

母方の祖父は、私の母が結婚するより前に亡くなった。

だから父方の祖父については記憶が薄れてきているし、母方の祖父については思い出せる記憶がまるでない。

それでも書き留めておこうと思う。

私の、二人の祖父について。



500円玉とサッポロビール



父方の祖父は、開拓二世だ。

徳川幕府が倒れ、江戸時代が終わって明治になってから。国は北方の土地を開拓しようと意気込んだ。職をなくした武士、夢見た若者、一般家庭の食い扶持減らし、さまざまな動機を持った人々が海を渡り、北海道へやってきた。

祖父はその二代目だ。

初代、つまり私の曾祖父が北海道に入植したのが大正時代と聞いている。入植者の大体が明治時代にやってきていることを思えば、少し遅めだ。

ちなみにこの祖父は豪放磊落というか、天衣無縫というか、ひらたくいえば遊び人というかそんな感じの人で、困った親族から「もうお前北海道に土地買ってやるから北海道行け」と言われてやってきたらしい。

おい、ひいじいちゃん。

そして北海道にやってきてからも馬車で隣町まで飲みに行って数日帰らないとかはザラだったらしい。今よりずっと冬の厳しい大正時代の北海道、いつどこからヒグマがやってきてもおかしくない開墾地。家を守ったのは曾祖母だ。

おい、おいひいじいちゃん。ひいばあちゃんに謝れ。単純にダメンズやないかい。

そんな曾祖父と連れ添った曾祖母の話はまたいつか書くとして、そんな男を父に持った祖父は、それはもう優しい人だった。

いま、もし生きていたらおそらく百歳近い祖父は、私が記憶しているかぎり、一度も声を荒げたことがない。いつもニコニコとしていて、茶色い瓶のサッポロビールを小さなコップに注いでちびちびと晩酌をしていた。私はその横で、これまた瓶のオレンジジュースをちみちみと飲みながら、祖父のおつまみである柿の種からピーナッツをこっそり拝借していた。

おい、昔の私。

八人いた孫のうち、四人目にして初の女の子だった私を、祖父は可愛がってくれた。それゆえの蛮行かもしれない。おじいちゃん、孫娘を怒ってもよかったのよ。一度くらいは怒られておきたかったよ。今となっては無理な話だけど。

父方の祖父は、私が小学校二年生の時に亡くなった。ガンだった。

とはいえその頃の私は、治らない病気だとか、そんなことはよくわかっていなかった。聞かされてもいなかった。

ただ、一度だけお見舞いに行ったとき、あんなにニコニコと優しかった祖父が弱りきった姿で、昼間なのに薄暗いような病室のベッドで横たわっているのを見たときに、怖いと思った。

それは私が初めて肌で感じた死の気配だった。

今ならちゃんと顔を見て、声を聞いて、手をつないでおきなさいと思う。それがもう最後だから、と。でもその時の私は、小学校二年生の私は少しでも早く病室から去りたかった。目の前にある、私の周りに充満する、何かとても恐ろしいものからとにかく逃げたかった。母の手を握って、ひたすらに固まっていた。

それが、生きている祖父を見た最後だ。

祖父の葬儀の記憶はあまりない。唯一覚えているのは骨を焼いた後、骨を収めるときに見つかった、焼けた500円玉。私のすぐ上のいとこが入院中の祖父に渡したものだった。

500円玉。

それについて、ずっと悔やんでいることがある。

小学校に上がるまで、祖父からのお年玉はお菓子の詰め合わせだった。小学校一年生になって、初めてお金のお年玉をもらった。500円玉が一枚。

私はあれを、何に使ったのだったか。

もし、それがおじいちゃんからもらった最初で最後のお年玉だと分かっていたなら、きっとすごく大切にして、一生使わずに手元に残していただろうに。

あのとき、私はちゃんとおじいちゃんに「ありがとう」を言っただろうか。思い出せない。親戚付き合いにおいてはこと引っ込み思案だった私のことだ、言っていないかもしれない。

つらつらと、後悔ばかりが浮かぶ。

そんな私は、諸般の事情でもう十年以上、祖父の仏壇に手を合わせられていない。

かわりに、お彼岸やお盆にはお寺さんの納骨堂で手を合わせる。

母と兄と三人で、祖父が好きだったビールは常に上がっているので、それ以外の、なにかお酒のつまみになりそうなものを。

この前はじゃがりこを上げた。

じゃかりこがお酒のつまみになるのかは、飲まない私にはよくわからない。塩っけがあるからたぶんいけると思う。

十数年。ずっと遺影を見ていないので、祖父の顔はもうおぼろげにしか思い出せない。たしか、能で使う翁面のような顔だった気がする。ほっそりとしていて、なのに福福しい笑い顔。そしてハゲ。

父方はハゲの家系なので、隔世遺伝の可能性を鑑みると兄は危うい。今のところは母方の遺伝子が勝っているので超密度の毛量だ。

どっちの遺伝子が勝つか。実はちょっと楽しみだったりする。

結果は、いつか私が祖父に会いに行くときまでには判明するに違いない。


二葉の写真



母方の祖父もまた、ガンで亡くなった。まだ四十代だった。

母はまだ高校生、末っ子の四女に至っては小学生だった。

四姉妹を抱えた祖母はその後、ホテルの皿洗いをして娘四人を育て上げた。

私が生まれたのは祖父が亡くなってから十年近くが経過した後だ。

そんな環境だったので、私はずっと、おじいちゃんは一人しかいないものだと思っていた。

母が名前で呼び、私も「○○さん」と名前で呼んでいたひとが、実はもう一人の祖父だった。

その情報はもっと早くにくれ親族一同。

それまで、私にとって祖父を感じるものは居間に飾ってある祖父の制帽だけだった。彼は旧国鉄の機関士だった。おばあちゃんの家の和室に飾ってある遺影の、むすっとした顔の人がおじいちゃんだと知ってから、幾度となくその顔を眺めた。

おばあちゃんの家に行ったらまず仏壇に直行して手を合わせる。ちなみに泊まりの場合、私たち家族が眠るのも仏間だ。寝相の悪い私は仏壇から一番遠い場所に布団を敷かれる。万が一仏間の前のテーブルみたいなあれを蹴飛ばしてお菓子やらお鈴やらをぶちまけてはいけないので、賢明な判断だと思う。

夜も更けて、豆電球をつけて。眠りに落ちるまでの間、ふっとおじいちゃんの遺影と目が合う。

おじいちゃんの遺影は、怖いとは思わない。

最初からその形でしかなかったからだと思う。

私にとって母方の祖父は死んだひとで、かつてこの世界にいたひとだ。それがデフォルトだから、マイナスなイメージを抱きようがなかった。ニコニコとしていたひとが鼻に管を入れられて横たわっている姿へと変貌をとげるような変化は、彼の身をすでに通りすぎてしまっていた。

むすっとした顔の、ちょっと怖そうなひと。

それが私の中で固定化された、おじいちゃんのイメージだった。

その固定観念がくずされたのは、中学校に入学する少し前のことだ。

おばあちゃんの家の今には大きな木製の食器棚がある。食器棚、とはいっても上段のガラス戸のところにきれいなお皿が飾ってあって、下段の引き出しには日用品が詰まっていて、下段はめったなことでは開けられることがなくなっていた。

暇を持て余した私は、ふと気になってその引き出しを開けてみた。

そこに、満面の笑みの祖父がいた。

「これ、○○さん?」

数枚の写真を取り出して母に見せた。母は嬉しそうに笑って肯定した。

もう一度、写真をよく見た。片手にビールの入ったコップをもって、真っ赤な顔で、にこにこしながら、もう片方の手でおばあちゃんの肩を抱いて引き寄せて、ほっぺたにちゅーをしていた。

想像の五百億倍フレンドリーでアメリカンなおじいちゃんがそこにいた。

ぽつり、と。無意識に言葉が漏れた。

「おじいちゃん、こんなふうに笑うひとだったんだねぇ」

そうだよ、と母は言った。一回も怒ったところを見たところがないと。

そっかぁ、と私は言った。私も笑っていた。なんだか幸せな気分だった。そしてやっぱり寂しくなった。こんなにおばあちゃんのことが大好きだったなら、お母さんの結婚式も、孫の誕生も、それはそれは喜んでくれただろうにと、寂しくなった。せっかちなひとだなぁ、と。

でも、そうか。そうだったのか。

私の祖父は二人とも、とても優しいひとだったのか。





二人の祖父に、私は多分これから先も、ずいぶんと長いこと会えない。

やっぱりほんの少しくらいは寂しいけれど、でも、胸を張って生きていこうと思う。

広い大地を汽車に乗り駆けたひとの血と、広い大地に鍬を下ろし土を耕したひとの血を受け継いだ私は、今日も彼らの生きた日々の未来を生きていく。

そしていつか、私が此岸の先へ渡る時には、サッポロビールの瓶を携えていこうと思う。

二人ともお酒好きみたいだから。

孫娘が晩酌をしに現れるその日まで、二人にはもうしばらく待っていてもらおう。

具体的には、おじいちゃんになった兄の頭がどっち寄りになったか判明するまで、あと五十年くらい。


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